楽器特有の繊細で美しい響きよりも、一人でもより多くの人達にappealするために、より強い音量が求めらた・・・という事なので、それを持って、楽器や弓の改良(・・・とは言わないのだよね!!より強い音と引き換えに、繊細で美しい響きや音を失ったのだから・・・!!)
より強い音を求めるために、弓は張力を極端に強くするために、逆反りにして、弓の自然な重量に任せて出していたviolinの音を、3点支持に持ち変える事により、より強い音を出すようになった。
という改良??改悪をする事で、violinやPianoの音量は、極端に強くなったのだが、その結果、美しい響きや繊細な音は失われてしまった。
人生の法則と同様に、「一つを選択すると、一つを失う」というセオリーなのだよ。
しかしながら、指導者が、そういった、楽器の歴史的な観点にのっとった上で、或いは、その理由をよく理解した上で、現代の奏法を指導するのであれば、間違えた奏法が間違えられたまま、指導、伝達される事はないのだが、日本人特有の家元制度の延長線上の、猿真似だけの教育法の歴史では、その理由や理論を知ろうとする事もなく、型だけを真似をして来たのだよ。
世阿彌を引き合いに出さなくても、私も型から入って指導する事はよくある。
型から入って、心に抜けて行けば良いのだからね。
最初は何も分からない、単なるモノマネで猿真似であったとしても、それが魂の表現につながって行けば良いのだよ。
しかし、それは指導する側が、猿真似と本物の区別がつく場合だけなのだよ。
猿真似が猿真似を出て猿真似に至っても、所詮は猿真似にしかならないのだよね。
一つ一つの動作、所作に意味を込めて、魂を表現して初めて猿真似から脱する事が出来るのだよ。
道に至るは易(ヤス)く、道より出(イズ)ル、は難(ガタ)シ・・・だもんね・・・!!
それは、今の超人気の学習塾のように、いたづらに計算問題や練習問題を無限に反復練習するという、機械のような、非人間的な学習法が人気である理由は、最初から何も無いものは、悩む事も、考える事も無いから、なのだよ。
つまり、人がやっているから正しいという事は、自分の判断を人に委ねている、子供は親や学校に自分の将来を委ね、母親は父親に教育を委ね、父親は会社に委ね、会社は社会にその判断を委ねる。
しかし、最終的には、誰がその個人の責任を取るのかね??
いや〜あ、それがかったるいから、他人に自分を委ねるのでしょう??
それなら、個人はいないのだよね。
居ないのなら、最初から生きては居ないのだよね。
という事で、何処に居ても、人は孤独なのだよね。
アハッ!
猿真似の話に戻って、・・・だから、violinの初期指導に於ける、あの耐え難い悲劇的な、破壊的な音の指導が、臆面もなく、今だになされている。
ヨーロッパで、意味を知る事もなく、その方法論だけを真似して、日本の音楽教育に持ち込んだのだからね!!
今度は逆輸出とかで、ヨーロッパの人達が、その猿真似奏法を持て囃している。
これじゃあ、人類の未来はないね???
「赤信号、皆で渡れば怖くない!!」とか、「ドングリの背比べ!」とか、「出る釘は打たれる」、とか・・・人間は、常に人と同じ事をやっていれば、安心なのだよ!
人がそれを信じているから、その努力の結果、成功した人が一人も居なくても、それよりも皆がやっているから、それを信じるとか・・・・兎角、日本人は不思議な国民だ。
猿真似国民の猿真似の話を、音楽以外の話に喩えて、もう少ししよう。
日本人の人口が増え続けていた30年、40年前の昔は、国民年金は、希望者だけが国に申し込んで、加入していたのだよ。
だから、私達の年代の人間は、あくまでも希望者が、国民年金に申し込んで加入していたのだよ。
だから、希望しない人達は、入らなくても良い。その方が払いが少なくて助かる・・・という(???)スタンスだったのだよ。
区役所から、国民年金に入るように、言われた時に、窓口で、「国民年金は、日本人の人口が限りなく増え続ける事を前提とした年金だよね。でも、日本の人口のキャパシティは何人か分かりますか??1億2千万で、マックスになると、急激に人口が減少するパンデミックが起こるはずだよね。その時に誰が年金を払うの??」と私が質問したら、区役所の窓口の人が、呆れ返って「そんな事を考えた人はこれまで一人もいませんよ!」「そんな事を言った人は初めてだ!!年金を払う人が減って行くなんて事は有り得ないでしょう!」と言っていた。
その話を聞いた教室の父兄の人が「芦塚先生はお国がやる事を信じないで、一体何だったら信じるんだろうね??」と驚いていたそうな。
でも、お国を信じるか否かは、原発を初めて日本に作る時も、私は原爆の被災者という立場から、原発に猛烈に反対していたのだが、「もしも原発が事故を起こしたら、どうするのですか?」という問いに対して、「絶対に起こらないものに対して、起こったら・・・という想定の、質問には答えられない」というのが政府の見解だった。
その話を、テレビで信念を持って公表していた政治家や大学の教授達がいたのだが、その絶対に起こらないはずのカタストロフィーが現実に起こったのだが、不思議な事に、その「絶対に有り得ない!!!」と言っていた人達の名前すら、今は公表されないよ。
だって、私達の質問に対して、「有り得ない仮定に対しての返答は出来ない」と言っていたのだから、それが「有り得た」・・のだったら、その人達は、自分の言った事に対しての、責任はどうすんのよ!! ヽ(`Д´)ノ
弓だって、baroquebowを使用して、日本流の技法で演奏をすると、一瞬で、弓が折れてしまうよ。
traditionalな楽器で演奏出来ない奏法が、伝統に則った正しい奏法である分けがないでしょう??
それでは、世界中の皆が「それが正しい」と言ったとしても、論理的に誤りなのだよ。
でも、世間は、「皆が渡るから、正しい!」・・・のよね!!
二次大戦の前には、世界中が、その誤った熱病に侵されて、戦争になってしまったのだけど、今は大丈夫なのかな??
ちゃんと、正しく、世の中を見てる???
それとも、今流れているテレビのコマーシャルの中の一節のように「徴兵があるから、韓流のスターの男性達はキリリとしているのよね。」という若い女のキャスターの話に、私は「ぎょぇ??」となってしまったのだが、今の親達は賛同するのかな???
私達戦後の団塊の世代の人間は、多分、皆、徴兵のない日本の国を誇りに思って来たと思うけれどね????
それって、もう、時代遅れの考え方なのかな??
音楽が、1万人や5万、10万の大衆を対象にして演奏されるように、なった時には、もう名人芸によった職人技の楽器製作者による楽器では、その音量の限界を遥かに越えてしまい、膨大な数のスピーカーを通した電子楽器の時代に突入した。
美しい音よりも、耳を破壊するような大音量と、単調な原始的なrhythmで、人々をtrip状態におとし入れる。
超古代社会の呪術のように・・・・
そういった、有無を言わせない、洗脳の世界のように、意志を持たない、言われたままのlobotomyの人間を教育する事が教育の目的ではないと思うけれどね。
初歩の教材を如何にも初心者のように演奏する先生や、初歩の教材を小馬鹿にして、つまらなく演奏したり、指導したりさせる先生については、Seitzのstudentconcerto Op.15 D DurのPageにも詳しく書いているので、そちらも参考にしてください。
Seitz studentconcerto D Dur Op.15
また、Vivaldiのa mollについてのYou Tubeの演奏例もupしているのですが、それはこちらからもlinkを貼っておきます。
Vivaldi violinconcerto Op.3Nr.6 a moll
私の解釈とは全く違いますが、かなり柔らかいa mollです。baroque楽器による演奏ではありません。細かい音も色々と違っていて、興味深いのですが、You
Tubeなので、その出典は分かりません。
baroque時代のconcertoの最もオーソドックスな一般的な、典型的な型式であるritornello形式の説明を、このVivaldiのa
mollのT楽章を例にして、ホームページ上にupしたり、論文にも掲載していたのだが、度重なるパソコンの故障等や事務所の引越し等で、長年の間に、その研究論文自体が失われてしまった。
せめて、パンフにして配った冊子でも残っていれば、もう一度、入力しなおして・・・という事で、それでも良いのだが、その断片の反故のペーパーすら見つからないので、「人間、諦めが肝心」という事で、またまた、最初から書き直す事にした。
これで、論文を新しく書き直すのは、何回目であろうか??
つい、2,3週間前にも、Seitzの全楽章を手直しするのに、楽譜を探したら、未完成のscoreが無数に見つかっただけで、最終の完成稿は見つからなかった。ひと月近く事務所中のフロッピーやCDを探し回ったのだが、等々見つからなくって、諦めて古いversionをベースに、新規に入力し直したばかりなのだがね。
毎回毎回、そういう無駄な作業をやらされてしまう。
私の自宅で、そういった資料類を、自分自身で管理、保管出来ればよいのだが、自宅であるハイツには、別の資料が山のようにあるので、如何ともし難い!。。
本当に芦塚音楽研究所(事務所)はブラック・ホールだ。
日常のちょっとした楽譜やコート等の日常生活品から、研究論文に至る迄、あっという間に、行方不明になってしまう。
今度は、事務所のブラック・ホールに関する研究論文でも書いた方がより有意義で意味のある事であろうか???
さて、気を取り直して、本題に戻って、ritornelloの形式についてであるが、日本語では循環形式と訳されていた事がある。
循環形式とはA⇒B⇒A⇒C⇒A⇒D⇒A、と独立したAを基本としてB⇒C⇒Dと循環して行く形式を指す。
このthemaが繰り返されるという形だけの類似点から、rondo形式との類似性を述べる論文もあったりして、勘違いされる事もよくあるのだが、それが一般のamateurの人達が、そう言った類似性の話をするのなら、何の問題もないのだが、音楽大学の理論の先生が、ritornello形式を説明する時に、同じ誤りを犯して、生徒達に指導していた事は、許されるべき事ではない。
形上のAhnlichkeit(類似性)はあったとしても、基本的にはrondo形式は舞曲の形式であり、ritornello形式は器楽の形式であるし、tempoの設定等もrondo形式とritornello形式では全く違う。
大rondo形式はABACABAという、複合三部形式を取ることもあるし、その場合には、sonate形式とのAhnlichkeit(類似性)も取り沙汰される事もある。
しかし、rondo形式が複合三部形式であるかどうかは、兎も角としても、純粋な器楽の形式であるsonate形式とは、その類似性を論じる事は出来ない。
baroqueorchestraのconcertoの場合、Aの部分はtuttiで、演奏されるが、単純な繰り返しを防ぐために、省略形(abkurzung)や、逆に拡大形(vergrosserung)を伴って、反復される事が多い。
B以降のC、Dの部分はsoloとbasso continuoの部分である。
参考までに、Vivaldiのこの曲のtutti部分の構造的な比較を掲載しておく。
ちなみに、ここでのA、B、CからF迄はtutti部分である。
また、soloは、一括してsoloとして、特に識別はしなかった。
「tuttiA」 auftaktから11.5小節迄(11.5小節間)、「solo」auftaktを含むTakt13小節目から24小節目迄、(8.5小節間)、
「tuttiB」21小節目の3拍目から23小節目迄、(2.5小節間)、「solo」24小節目から35小節目迄、(11.5小節間)
「tuttiC」 e mol35小節3拍目から44小節目迄、(10.5小節間)、「solo」45小節目から57小節目迄、(13小節間)、
「tuttiD」58小節目から59小節目迄(2小節間)、「solo」60小節目から68小節目迄、(8.5小節間)、
「tuttiE」68小節目の3拍目から71小節目の頭迄、(2.5小節間)、「solo」71小節目の3拍目から74小節目迄、(3.5小節間)、
「tuttiF」75小節目から80小節目迄、(6小節間)
以上の譜例を比較対照表に表記したのが、下の表である。
この譜表は、3Pageに渡る楽譜であるが、本来なら、横一列のscroll表示をすると、もっと見やすくなってよいのだが、パソコンの画面上でscrollさせると、楽譜が小さくなり過ぎて音符が見えなくなってしまうので、パソコンの画面としての便宜上、3Pageに並べて表示する事にした。
最初の段の一番上の段(A) の音符は、この曲の最初のtuttiであり、12小節目の3拍目迄が、所謂、themaの提示部(A)となる。
その次のB の段は、soloの部分を飛ばして(割愛して)、次のtutti(B)のpassageである21小節目の2拍目の裏からであるが、僅か、2小節とauftaktだけが再現される。
同様に、35小節目の2拍目の裏からの(C)のpassageも、調がe mollに転調しているのを除けば、41小節目迄、全く同じ繰り返しである。
41小節目から42小節目の移り変わりは、baroque様式の作曲法では極めて珍しい、(という割にはよくbaroqueの作曲家達にも愛用されて使用されている)切断という手法である。
途中で、突然別の場面の途中へ飛んでしまう現代的な手法である。
現代作曲家のStravinskiyが好んで多用している。
(D) のtuttiも、僅か2小節の断片である。
最後のtuttiになる(E) は、前半6小節半が全く省略されて、いきなり後半の部分から突然始まる。
この楽譜の比較表を見ても分かるように、全くthemaが同じに繰り返される事はない。
baroque時代のritornello形式の場合には、寧ろ、同じ形で繰り返される場合の方が多いので、此処まで緻密に繰り返しの形を変化させるのは、例外的と言える。
音符の上の数字は小節数である。