この文章は、もともとはインストラクターのための「インストマニュアル」に書かれたもので、「間違いにはどのような種類があるか。」「生徒の間違いにどう対処すればよいか。」などを論じたものでしたが、内容的に「これは是非一般のご父兄の方々にも読んでいただきたい。」と思えることが多く含まれていましたので、一般公開をすることに致しました。
間違えちゃいけないの!!? ⇒消しゴムにNO!⇒ノンミスよりも内容の理解を
正しい間違いへの対処 ⇒プロの間違え方
間違いの種類
良い間違え方
伴奏のlesson
追記
楽典などのレッスンをしていて、最近の子供の傾向として気づくことは、自分の間違いを認めようとしない子供が多くなったように思われるということです。例えば、子供と答え合わせをしているときに、間違いがあると手で覆いかくし、見られないようにしてさっさと書き直してしまい、自分で○をつける。とにかく自分の解答用紙に1つでも×があるといけないと思っている、といった態度です。「どうして?」と子供に尋ねると、「お母さんが、後でテスト用紙を見て、間違えている所(×)があると怒るから。」と言います。
確かに成績だけに目を向けていれば、間違いは間違いにすぎません。しかし本当の教育は、「間違わない」ことよりも「間違いの原因」を突き止めることが一番大切なことなのです。
ですから、学校のテストなどでお子さんの解答用紙に×があった時は、叱るのではなく、お子さんと一緒に、ただのケアレスミスなのか、基本的なことが分かっていないために犯した間違いなのか、或いはどこまでが分かっていて、どこからが分かっていないのか、などを考えてみましょう。すると、子供は大人が思いも寄らないような発想をしていたり、別の所に新しい発見があったり、「どうしてだろう?」と親御さんの方が興味を持ち始めたり・・・・・という風に、お子さんの為だけでなく、大人にとっても頭の刺激になり、老化防止にもなります。「子供に分かるように説明する」ということが、実に難しくおもしろく有意義であることに気づかされるはずです。芦塚メトードでは、1つのことに対して幾つもの教え方や言い方や教材などを準備し、生徒が色々な角度から物事の根本を理解できるようにしています。
消しゴムにNo!
私達の教室では、ヨーロッパの学校と同じように、レッスン中に消しゴムを使わせません。間違えた場合はそれを消さずに残し、どのような原因の間違いなのかを先生が判断し、子供に理解させます。そして、青のペンなどで、正しい答えを間違いの横に書き込みます。そうすることで、何が原因のどういう間違いをしたのかもわかるのです。子供自身も後々で復習する時に、自分は何を理解していなかったかを(後日も)判断することが出来るのです。そうしたことを繰り返すことによって、子供は無駄な間違いをしなくなり、正しい考え方の方向性を身に付けることが出来ます。
また、音楽は一度音を出してしまったら、後で、消しゴムで消すことのできない芸術です。「間違いは消しゴムで消せばよい。」今日の子供達はそう言った考えが身についてしまっているように思えます。それはとても危険な考え方です。交通事故でもそうですが、いったん人を傷つけてしまったらそれは二度と取り返しのつかない事なのです。間違いの中には決して犯していけない間違いすらあるのです。コンピューターの中で生き物を飼う。しかし、現実の世界では、いったん死んでしまったらリセットすることはできません。しかし「死んじゃったらしょうがないわね、新しいのを買いに行こうかね!?」では子供は育ちません。このところ毎日のように家庭内の事件がTVなどで放送されます。コメンテイターは「どうして、こんな事が起こるのだろう。」といいますが、芦塚先生はそのようなニュースを見てこう言います。「こんな教育で育てばそうなるのは必然じゃん!!」「当たり前じゃん!!」
間違いを消さないで残すという事は、不思議なことに日本ではそうする学校や教室は本当に少ないようですが、世界では(私達のように)消しゴムを使わせない方が普通なのです。アメリカやヨーロッパでは、小学校の上級生になると鉛筆すら使わせません。黒のボールペンか黒の万年筆だけです。何故黒かと言うと、全ての官公庁の文書が黒のボールペンか万年筆以外は認めていないからです。訂正箇所がはっきりと分かるようにするためにです。
ノンミスより内容の理解を
また、日本では解答が合っているか否かが、とても重要にされますが、それでも解答の数字などが合っているか否かが問われるのは高校までなのです。塾等では、小、中学校の成績を上げるために、「○○式」とか「△△計算」とか、計算の速度を上げるための競争をしていますね。確かに、小学校、中学校ではそれで成績は上がるかもしれません。しかし、数学でもっとも大切な事は計算の速度ではなくて(勿論コンピューターでは計算の速度が命ですが。)如何に理論的に分析して考えるかと言う事なのです。そこで始めて、数学的論理的思考や正しいひらめきなども身についていきます。
計算の速度を競うのなら、電卓でじゅうぶんです。余談ですが、以前、芦塚先生が指導している小学生が熱心にそろばん塾に通っていました。その頃はまだ家庭にはパソコンはなかった頃の時代です。ちょうどその頃、テレビでそろばんを10年間学んできた人と、電卓(やっとその頃、電卓が一般の人達にも手軽に買える様になってきた頃の話です。)をはじめて持った人が、スーパーのレジで競争して、そろばんの方が速かった!というニュースをやっていました。そろばんを毎週通って習ってもその程度か?と思ったそうです。(勿論コンピューターでは計算の速度が命ですが。)芦塚先生は父親に、「音楽大学に進学するつもりなら、そろばんの塾を止めるように。」と進めました。親は「もし音大進学に挫折した時に、せめて公務員のほうに進ませたい。その時に、そろばんの資格が役に立つから。」と言って来ました。芦塚先生が**ちゃんが大学を卒業する頃には、そろばんの資格はなくなっていますよ。」どうしても公務員試験に対応して勉強したいのなら、そろばんよりも、パソコンなどの資格を取っていた方が数倍いいですよ。」とお話したのですが、分かってはもらえませんでした。まあ、パソコン教室も殆どない時代だったから、無理はありませんがね。
その生徒は音大を卒業した後も、仕事でそろばんを使用する事は全くありません。いまどきソロバンでもないからね。当然、昔は出来ていた計算も、暗算も今は出来ません。仕事で暗算をする事はないから、大学を卒業して一度も暗算をしていないからです。ですから、スーパーの買い物の暗算も出来なくなってしまいました。
勿論、小、中学生の時にも、アナログ中心でしたから、今も全くパソコンは出来ません。
機械系は全て苦手のままです。
東大などの数学の入学試験などは、解答の数字(計算)が合っているかどうかは然して問題ではないし、電算機の持込や辞書の持ち込みは今の大学の入試では普通でしょう!?
計算のお話だけではなく、小学校から高校までの試験の90%以上が記憶の問題ですが、実際の社会の中では、重要な事を決定するのに記憶に頼る事は一切ありません。
いつも言う事ですが、人間の記憶程アテにならないものはありません。
社会にアピールするための原稿を書いたり、論文を作ったりするためにはいちいち参考文献でその事象が正しいか否かを確認しなければなりません。
特に年号等の数字に関しては記憶に拠らないで、参考文献と照合する事が基本ですし、その他の計算値は計算機器との照合が大切です。
誤字脱字よりも、数字が最も間違いやすいので・・!
物事は、考え方さえ合っていれば、計算が合っているかどうかは、大した問題ではないのです。
だって計算はコンピューターなどの機械がするもので、人間がするものではないからです。
税務署だって、こんなグローバルな時代に対応するには、ソロバンなんて、原始的な道具を使っていては、仕事になりません。
人間が複雑な高等数学の計算などをすれば計算間違いだらけでたいして役には立たないばかりか、その人の一生をかけても、ひょっとしたら計算が終わらないかもしれません。
それでは今話題の計算間違いだらけの何処かのマンションやビルですら何年かかっても建てることは、出来なくなってしまうでしょう。
ましてや、有人ロケットを火星に飛ばすなんて、人の手で計算なんかやっていた日には怖くって、怖くって仕方ありませんよね。
とどのつまり、人間の役割は計算を間違いなくすることではなく、理論的な筋道を立てることなのですから・・。
ところが困った事に、日本では計算力を上げる事が子供の頭を良くすることのように錯覚している人が多いようです。それは日本の学校が記憶の評価で成績を決めていることに起因します。
しかし、実は記憶力とか計算力とは考える力や推察力(洞察力)ではなくただの反応にしか過ぎません。
結局は、人間の頭脳を破壊して馬鹿にしてしまうコンピューターゲームと何等変わらないものなのです。
いじめの問題でもよく言われている、感情の欠如した無機質なロボットのような人間を作り上げる事になってしまいます。子供を殺したり、両親を捨てたりする、愛情の欠乏した人間も、そういった教育から産み出されて来るのです。ですから、計算などをやる暇があったら、名作の小説でも何冊か読んでくれたほうがよほど人間性を養うのに良い結果を生み出します。
間違いの問題に戻って、親や先生は、子供が間違いを犯しても叱っては、絶対にいけません。間違い自体は何等恥ずべき事でも、無意味な事でもないのですから。
しかし、その間違いが子供を育ててくれる糧になるか否かは、その間違いを先生や親がどう捉えるかにかかっています。子供の犯す間違いの多くは子供を育て育む上で有意義な意味を持つものが沢山あります。
本当に優れた発明や発見は殆んどその間違いから生まれてきたのですから。
今度はいつか、間違いによって生み出された大発明のお話しをしましょう。間違いが如何に大切かを理解するために・・・・・!
先日TVに世界一の科学者が出演して科学実験の成功の秘訣などを語っていました。その科学者が言っていたのは、「失敗を楽しむことが成功の秘訣だ。」ということでした。日本では常にミスなくということが重要視され、自分はそのように教育を受けてきましたが、オックスフォードに留学してある教授に就いたところ、その教授はまるで子供がおもちゃで遊んでいるように「あれも試そうこれもやってみよう。」となんでもやってみる人で、またそれ自体を心から楽しんでいる、そのことにとても驚いた、と言うのです。間違えても失敗してもそこから何かを学びつかむことができれば決して無駄なことではないのです。
プロの間違え方
私達は音楽教室の先生ですから、音楽に関係のあるお話をしなければなりませんね。後述のお話しは、芦塚先生から、音大在学当時の体験を語っていただいた、プロの演奏家のお話しです。
当時は(・・・当時とは今から40年ぐらい前のAlwaysの時代でした。)まだ唯一のコンサートホールだった上野の大ホールでのお話しですが、その一つは歴史的銘ピアニストであるルービンシュテインがモーツァルトのピアノコンチェルトを岩城さん指揮のN響と共演しました。そのコンサート中でおこったほんの一瞬の出来事です。オーケストラをバックにソロのピアノがコロコロとスケールで下降してくるパセージで、ルービンシュテインが突然何処でスケールが終わるのかを忘れてしまったのです!!文字にして書くと長くなってしまいますが、実際にはほんの一瞬に起こった出来事なのですが、ルービンシュテインは岩城さんに目でヘルプを求めました。岩城さんは目で一瞬頷くと、片手でオケを指揮しながら反対の手ですくい上げるようにしてルービンシュテインにアインザッツを出しました。ルービンシュテインも岩木さんの指揮の手の振りに合わせながら両手を鍵盤からファ〜っと浮かせて取りました。何と見事なタイミングでしょう。芦塚先生にとっては、その演奏会で一番印象的な出来事でした。が、勿論その出来事に気がついた人は誰もいません。マイスター・ワークですからね(????)でも、これくらいのことは演奏会に行けばショッチュウあります。数え上げれば限がありませんが、誰かに気がつかれることも殆どありません。芦塚先生のように殆どの曲を覚えていれば別ですが・・。
その当時は結構大家と呼ばれる人達が日本に演奏旅行に来るようになった頃でした。オイストラフだったかミルシュテインだったかもうすっかり忘れてしまいましたが、同級生のヴァイオリン科の可愛い女の子(昭和30年代当時は)が、小学生の時から大フアンだったヴァイオリニストが来日するということですこぶる興奮していました。演奏会の楽譜を準備して、演奏会場の最前列を取って・・・・。ヴァイオリニストは最前列で楽譜と筆記具を手に控えている我々を一瞥すると、何事もなく演奏会を滞りなく進行していきました。彼女は熱心にヴァイオリニストのフィンガリングとボーイングを楽譜に書きとめながら演奏を聴いていました。最後のアンコールになって奏者はなぜかその日のプログラムの最初に演奏した「ホラ・スタッカート」を再び弾き始めたのです。しかし、な、な、なんと全く違うボーイングとフィンガリングで・・・。ヴァイオリンの女の子は口をあんぐり空けたままで呆然としていました。早速、演奏の終わったヴァイオリンニストの楽屋を尋ねて質問しました。「何故、一回目と二回目のボーイングやフィンガリングが違ったのですか?」演奏家はこたえました。「君達が、僕のフィンガリングやボーイングを書き取っていたのを見て、これはチョットまずいな。と思ったんだよ。何故なら、僕らは会場の雰囲気や指のコンディション、或いはその日の天候(湿度)などに合わせて、その場で最上の演奏が出来るように、指使いやボーイングなども幾つも準備しているんだよ。君達が書き取ったフィンガリングなどはその中の一つにしか過ぎないんだ。そういうことを君たちに教えてあげたかったんだよ。」・・・・・・・・・・・・・
勿論、一般のお客さんにとってはこの大家がアンコールにプログラムの中の曲を演奏した事しか理解できないでしょう。「何だ!?同じ曲を弾くのか?」この演奏会で貴重なレッスンを受けた事などはその大家と私達だけの秘密の出来事なのです。
日本人はそれがベスト(唯一)であると言う事だけを認めたがる傾向があります。しかし、プロというものはいついかなる条件でも水準を保たなければならないのです。そのためにありとあらゆる条件に対応できるようにあらかじめ準備しておくことが要なのです。そのために何時のパセージに「沢山のフィンガリング(4種類5種類の)」を学ぶことが大切です。
間違いの種類
演奏の間違いにはやってはいけない間違いと別に気にしなくてよい間違いがあります。
決まった場所で間違う間違いは、必ず理由がありますので、それを解析してそれに対する正しい練習(処方)をすれば、同じ間違いをすることはなくなります。
原因のあるmiss
それに対して場所が特定されないミスがあります。一見ケアレスミスに捕らえられがちなミスなのですが、実は指のタッチの形、姿勢、不自然なボーイング、指使い、手の型、フォーメーションなどが不安定なために起こるミスがあります。こういったケースは、場所が特定されていなくても、ポカミスやうっかりミスにはなりません。場所が特定されなかったとしても、理由のある(原因のある)ミスなのです。
意識によるmiss
また、そういった技術的原因によらないミスをケアレスミスといって、一般的には「仕方のないミス」と把握されます。しかしながら、それが演奏するときの常であるとしたら、ちゃんとした別の原因がそこにあります。
そういったミスは、同じ場所ではないのですが、何度繰り返しても必ず(10回に2〜3回は)犯してしまいます。難しいパセージを引き終えた後に「ふっと」犯してしまうケアレスミスや、曲を弾き通して最後の最後の後2,3小節という所でで「ふっと」間違える「間違い」のように、精神的脆さを表す典型的症状のミスです。
これは緊張感を持続できない事によって引き起こすミステイクです。その対応には時代劇のTVドラマの例が一番です。
よく時代劇でバッサバッサと悪人どもを切りまくり、最後に刀を鞘に収めて手を離したところで「ふ〜!」と息を吐いて緊張を解くシーンがあります。これを武道では「残気」といいます。刀が手から離れて初めて緊張を解く・・・。
音がホールに消えていって、それに合わせてピアノの鍵盤から手が離れて、ホーム・ポジションで手が止まる。それから始めて気を抜くのです。・・・・、これは大切な事ですね。それを身に付けさせるために教室では普段のレッスンでも、弾き終わったら一度膝の上に両手を置かせています。そして息を吐く、そして緊張を解く訓練をします。これが残気の訓練です。
精神的もろさが原因のミスには、緊張が途中で切れてしまうというミスの他に「自信のなさ」によるものもあります。技術的にはちゃんと練習出来ていて十分なのに、自信が持てないために自ら引き起こすミスです。音楽を演奏するうえで「かっこよく思われたい。」ということに意識がいって、肝心な音楽そのものに対して意識が散漫になっている事によって引き起こされます。もし演奏する上での目的意識が「その音楽(曲)を人に伝達する」ということに集中していれば精神的な脆さによるミスはおこりません。そのようなミスは、レッスンのあり方そのものや、練習の目的(方向性)が、「音楽を伝達する」ことから外れていく事によって引き起こされます。
よく見かける例をあげるとすれば、演奏する人が指が回ると言う事を自慢するために、必要以上に早く指先だけで曲を弾き捲くるとか、音の濁りを無視してpedalを踏みっぱなしにして、兎に角人を圧倒させようとするとか、ピアノの先生でも良くそういった演奏をする人が見受けられます。そういった表面を取り繕ったような見せ掛けだけの演奏は演奏中に必ず破綻をきたします。音楽が本来持つべき表現をするための演奏や、そういった基本に基づいた指導や練習が正しく表現する事にその目的があるのなら、そういった「自信のなさ」によるミスは起こりません。
芦塚メトードである程度技術のついた生徒(それが初級の生徒であったとしても)は、正しく間違いを把握する能力も身につけています。発表会で(確かメンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトだったと思います。)15分近い曲の演奏を終え、退場してきた生徒が芦塚先生にこう言いました。「4ヶ所もまちがえちゃった!!○小節目のラの音をシに弾いちゃって、○小節目のファの音は音程が外れて、○小節目の3拍目は忘れて1拍ぬけちゃって、・・・・・」自分のミスを事細かに先生に報告するのです。きちんとした教育を受ければ必ずこのように自分のミスを正確に把握することができるようになります。
そういった間違いの対処の他に、芦塚メトードでは「間違いの練習」と言うのがあります。これは、よく誤解されるのですが、この場合の「間違いの練習」とは、「間違えた練習」ではなく、『わざと間違えることによって、正確に正しく弾かれたものと間違えたものを区別出来るようにする』ために「間違えた練習」をする事なのです。
言い換えれば、正しく同じミスをする事です。
具体的に例を上げるとすると、例えば、ラ・カンパネラの2オクターブの跳躍などで音が外れる場合に、外れた音を意識して弾いたり、下に外れる場合には逆に上に外して練習したりします。間違えたインターバルを正しく把握できるようになると、正しく弾くということは、さほど難しくなくなります。
ピアノの例だけをあげてしまいましたが、ヴァイオリンのレッスンの場合も同様な練習をさせることがよくあります。
ヴァイオリンにとっては、力を抜いた状態で、絞り込んだしかも芯のある強い音を出す事は至難の業ですが、ヴァイオリンの生徒も上級になるとそういった音の出し方を学ばなければなりません。そのときに接弦位置をうんと駒傍に寄せて、弓を切った状態で演奏するのですが、その時に弓速が臨界速度を越すと音は(弓は)空滑りを始めます。その空滑りを始めるぎりぎりの「場所」と「弓速」が正しいpointになります。それを体感させるためにわざと弓を空すべりさせたり、接弦位置を駒の近くにより過ぎさせたりして、臨界の速度や位置の関係を教えたりします。
これもわざと変な音を出させて、そういう音が出る直前のギリギリの臨界状態を知るという、間違いの練習メトードであります。
間違いやミスタッチなどは、その原因を的確に把握し、その対処を適切にすれば、同様のミスを犯す事は二度と絶対にありません。その方法論の中にはわざと間違うと言う練習すら含まれてくるのです。
そういった練習を積み重ねる事によって同様のミスは絶対に犯す事はありません。これを芦塚先生は「間違いの練習」と呼んでいます。
芦塚先生は、生徒がまだ楽器を習い始めの初心者に対しても、「忘れたり、分からなくなったとしても、決して止まったり、弾き直ししたりしてはいけない。」とよく話をしていました。
ということで、発表会の時に、ヴァイオリンの小さな子供が何処を弾いているのか分からなくなって、迷走を始めてしまいました。
そのときに伴奏していたのは、小学3年生のピアノのお姉さんだったのですが、その子供に即興で伴奏をつけて、子供が正しいpassageに戻るまでの5分間ぐらいを、伴奏を途切れさせる事なく演奏していました。
しかし、そう言った事はピアノ伴奏という個人プレーだから出来た分けではなく、子供達のオーケストラでも同じ事が出来たのです。
子供が間違えて、2、3小節、曲を飛ばしてしまったら、間違えた音とほぼ同時に、もうオケ全体が移動していました。だから、お客さんは誰も気が付かないんだよね、これが困った事に・・・・!
(すごい事をやっているのに、誰にもわかってもらえない・・・)
こういった事が出来るのも、芦塚先生の「間違いの練習」の成果の一つなのです。
こういった事が出来るようになるためには、オケの生徒にしろ、伴奏の生徒にしろ、自分のパートだけではなく、ソロのパートもしっかり覚えていなければなりません。
専科オケの生徒達は自分のviolaのpartを弾きながら、口でソロの生徒のヴァイオリンのpartを歌う事が出来ます。
ピアノの生徒も年下のヴァイオリンの生徒が自分のpartを忘れてしまうと、伴奏をしながら口で歌ったり、左手はそのままで右手で子供のヴァイオリンのpartを弾いて教えてあげたりします。
間違えて飛んでしまった時には、瞬時に何処に行ってしまったのかを判断できなければなりません。
それはその伴奏をする生徒の暗譜の完璧さを意味します。
ですから、こういった咄嗟の対処が出来るようになった生徒は、暗譜でつまづいたり、曲を途中で忘れたりする事はなくなるのです。
いずれにしても、「間違い」には必ず理由があります。
「間違い」を解析していけば、必ず間違う原因をみつけることができます。
中には原因が分かっていてもそれを認められない人もいます。
それは「自分を良く見せたい。」「自分の悪いところは認めたくない。」という心の現れにしか過ぎません。
「間違い」を認められなければ、それを正していくことは決してできないのです。
ですから、「間違い」を一概に「悪いもの」として毛嫌いするのではなく、「間違い」から学べることをもう一度見直してみて下さい。
そうすれば、そこから得られるものをたくさん見つけることができるだけでなく、「間違い」をどんどん減らしていくこともできるようになりますよ。
原文/芦塚陽二