1.摩訶不思議な日本の教育

推敲するために、print outをした古い原稿が見つかりました。
しかし、ちゃんと推敲した原稿とは、似ても似つかぬ文章なのですが、目下はこの古い初稿に近い叩き台の原稿しか見つかりません。
「摩訶不思議な日本の教育」の論文は、一番古い論文に属しているので、ワープロ時代からの第3,4稿迄のversionがあります。
しかし、どういう分けか、全くその原稿が出て来ません。
取り敢えずは、この古い叩き台の反故で、recoveryしておきます。
(2019年1月30日 江古田ハイツの寓居にて)

(追記:)
print outされた原稿は、fontが非常に小さく、OCRを試みたのですが、全く読み取る事が出来ませんでした。
今日、色々なパソコンのdataを探したり、fileを弄ったりして行く過程で、随分昔にdown loadしたOCRのsoftを見つけました。
物は試し・・という事で、Scanningしてみたら、何とかOCRが出来たのですよ。
と言う事で、今日の午後から、半日掛かりで古い原稿のOCRをして、この文章のrecoveryをしました。
今日(1月30日)はindex迄で、明日のlessonに備えなければならないので、誤変換等の修正は後日になります。
19年の2月4日にscanningの不具合を修正しました。取り敢えずなのですが、一応、文章としては読める様になりました。


 index
文章が超大なので、読みやすさを考慮して、indexとcaption(小見出し)を付ける事にしました。
次のボタンでindexのPageに戻ります。

index


1.摩訶不思議な日本の教育

学校と塾
 

塾が儲かる仕組み 

儒教的な考え方 

芦塚メトードと塾教育のせめぎ合い

主婦と労働の考え方 

不思議な日本人の家庭 

日本の音楽教育社会の中央集権的な構造 

2.芦塚メトードの教育概念

1.幼年期から小学校の3年生ぐらいまでの時期  

①習慣と罪悪感

②時間の躾

練習の躾をつけるには

③お子様と一緒に

④適正な教育


2.小学校の上級生(5.6年生ぐらい)~中学生

①要注意のギャング・エイジ

②この時期の理想的な親の姿勢

③先生と親の違い(信用と信頼)

④思春期の女の子の教育


3.高校生以上

3.年齢によらない教育論 

子供が質問するということ

子供に対する尊敬語の教育について

兄弟で同じ楽器を習うことの問題点

SNBP負の転換点

日本の音楽教育

曲を弾いて指導する先生

日本流の日本でしか通用しないメトード

夢をかなえるには



夢までの正しい道

音楽大学と高校受験

留学したいのなら音楽大学に進学するのは無駄!

あとがきに代えて(愚痴タイム・・・・・)



   
   2011年の8月の大村湾



1.摩訶不思議な日本の教育

学校と塾


「子供のうちは伸び伸びと遊ばせて・・」の教育の誤り

「子供がまだ幼い頃にはうんと遊ばせてあげて、年齢が上がって小学校の上級生位になったら学校の勉強や塾に専念させて・・・。」と言う話をよく聞きます。

親の心情から思い見ると、子供のことをよく考えていて、とても微笑ましいし、それなりに一理あるとは思うような気もするのですが、・・・子供を大学を卒業するまで、伸び伸びと子供の自由に育てるのなら、そういう教育もありなのですが、現実的には、小学校で上級生になった途端に、或いは、中学生になったら、「塾だ!」「受験だ!」と、踵を返して、教育ママゴンになる予定なら、実は子育ての事から考えると、本当には、子供の体や心の発達と、その考え方とは全く一致しないのです。

子供が、健康に無理なく健やかに育つためには、子供の精神の発達と、体の機能的な発達とは整合性を持たせて、育てなければなりません。
私は、よく父兄に、
「音楽家に育てる事だけを考えている」と、勘違いされているのですが、全くそういうことはありません。

私がadviceするとして、先ほどの、
小学校に入学するまでは、うんと伸び伸びと遊ばせて、という教育も、中、高生になった将来も、のびのびと子供自身の将来を、子供に任せるのなら、それはとても良い教育だと思います。

子供に対しての余程の信頼があるのか?それとも、全くの子供への無関心か?そのどちらかなのでしょうが、そういう風に、全く
無干渉で育てられた、私としては、当世風な過保護で過干渉な教育で崩壊寸前になった子供達や、家庭崩壊寸前の家族を見る度に、私の教育に対して、全く無関心であった母親に対して、(皮肉ではなく、本当に真面目に)感謝しています。

過保護で過干渉な教育は、社会性の欠如した現代の若者を生み出してしまいます。
ニートや引き籠もりや、親の頭に金属バットを振り回すようなSNBP(負の転換点)の一線を超えてしまった子供達は、教育の歪みから来るのですが、佐世保の事件でも、その他の事件でも、必ず言われる事は
「あんなに、良い子がどうして・・・??」と、世間の人達や、世の教育者達を不思議がらせます。
しかし、それは誤った教育による、必然の結果なのです。
私のこの論文を読み進める上では、そこのところを、よくご理解しておいて欲しいのです。


子供期の体の発達を考えると、特に幼児期から思春期にかけて等、男の子と女の子では、心身の発育のメカニズムと段階と過程が、性差によって大きな違いがありますので、現在の学校教育ように、「年齢という括り」で男女を一緒に教育すると言う事は、本当は少し無理があります。
『男女7歳にして、席を同じうせず』という江戸時代の教育も(本来は、女性は女性らしく、男性は男性らしく・・・という考え方という意味での性差であって、年齢と言う事だけについて言うなれば)、それは、あながち古めかしい間違えた考え方と言う事ばかりではありません。

但し、このお話の中で、私が取り上げているお話は、「男女の性差」といっても、そういった男性と女性という意味での性差ではなく、あくまで、男の子と女の子の「心や体の成長の速度」の差のお話です。
小学の1年生ぐらいからその落差が始まって、女の子は、男の子よりも、体も心も(一言で言うと、所謂、心身の発達という意味ですが・・・)高校生の1年、2年生になるぐらいまでは、早く成長をするので、色々と一緒に教育するのは、無理があるというお話なのです。
私のホームページ上の「碎啄同期」のお話にも、その事が詳しく書いてありますが、教育とはタイミングです。
それを受け入れる受け皿を育てる事が、教育の基本なのです。

幾ら、年齢が上がったからといって、
「*年生になったから、これ、自分で出来るでしょう?」という考え方は有り得ないのですよ。
一つ、一つ、ちゃんと、子供の受け皿を作り上げてから、技術や勉強の指導をしないと、幾ら先生が一生懸命に子供のために心血を注いで、指導しても何の成果も上げることは出来ません。

成績だけを上げるだけなら、何とかなるかもしれませんが、それでは、
「**校門を出ず」の諺通りに、教わった事が、本当にその子供の身に付く事はありません。

心身の発達と年齢の男の子と女の子の成長の速度の差は、周知の事実なのですからね。

又、学習しなければならない内容には、その内容如何で、明らかに段階(step)を踏まなければならないものもあるのです。
教育内容のcurriculum、若しくは、protocolとでもいうのでしょうか??
どの年齢でどのような教育をするべきか、といったことは、内容が専門的(子供自身の将来の目標で、育て方が変わってしまいますので)で細かくなってしまいますので、「啐啄の話」等のほかの論文にゆだねる事にします。

つまり、『この段階の課題をマスター出来なければ、次のレベルの学習は無理』と言う事が結構たくさんあるのです。
また、日本人は
「マスターをする」という意味を、もう達成出来たのだから、その勉強は二度とやる必要はない、と思い込む傾向があります。
これも大変な勘違いです。
マスターした技術は、次の過程でそのまま応用して行かなければならないので、その技術の勉強は永遠に続けなければならない、その技術の上に新しい技術を作り上げて行かなければならない・・という事を、知っておかなければなりません。


現実的に、教室の生徒でも、小さな子供の間は音楽に熱中していたとしても、小学校の5,6年生の時から塾に行って、学業に専念していた生徒達が、
「無事に高校に入学出来たから・・」と、再び音楽の勉強を始めたりした時や、或いは、高校生になって、「どうしても音楽大学に進学したい。」との夢を持ったとして、・・・・
(このお話もよくするのですが、子供が自分で将来の夢を現実として、見れるようになる年齢は、女の子の場合には、高校の1年生の夏休み頃から、2年生の夏に掛けての時期なのです。それ以前は、寧ろ、現実の事から夢を見るのではなく、夢の中の夢に過ぎません。高校生になって、やっと、大人として、「将来」という未来の自分の生活として、見る事が出来るような年齢に成長出来た・・という事なのです。)

・・・勿論、自分の夢を再発見する事は、喜ぶべき事なのでしょうが、しかし、致命的な事が一つあります。

つまり、音楽の勉強は、athleteと同じで、毎日、一日も休まずに、その技術を積み上げて行かなければならないのです。
また、それ以上に、職業としての意識は、学生としての塾教育では学ぶ事が出来ないのです。
ですから、小学生の時に、幾ら、音楽に熱中して、習得した技術や意識を、お勉強型の塾の教育で、全く失ってしまうのです。

音楽を頓挫した生徒の場合には、全く楽器を演奏しない時期があったとしても、他の先生に学ばない限り、その音楽技術が衰える事はありません。
確かに、常日頃の日常の訓練が必要な「指の動き」等は、鈍いかもしれませんが、それは練習を再開するとほんの一瞬で戻りますからね。

では、塾の場合には、どうして、折角身に付いた技術が失われてしまうのでしょうか?
それは、塾の指導方針にその原因があるのです。
要するに、問題の解き方を指導するだけで、本当にそれを理解させ、納得させる教育ではないから、子供達もその教育に慣れると、内容よりもその場の回答力を身に着けようとしてしまうからです。

そのために、子供達は「積み上げ」という最も大切な教育の意味を失ってしまいます。

私達が音楽の初歩で教えた基礎的な技術を、
「初歩の技術だから」、・・と言って、馬鹿にして、勉強し直そうとはしません。

他の所の先生に師事した生徒の場合に於いても、その先生のメトードを(有るのか、無いのか、知りませんが・・)覚えるためには、子供時代に習ってきた古い知識と技術は捨てなければなりません。
だから、折角、教室で身に付いた基礎力を失ってしまうのです。


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 「落ちこぼれの教育と落ちこぼしの教育について」

学校などの集団教育の場合によくある問題は、一人の子供が何らかの理由で、その段階で立ち遅れてしまった場合に、学校としてはグループ全体のカリキュラムを一人の生徒のために遅らせる事は出来ないので、その子供を見捨てて、次の段階へカリキュラムを優先にして、進めてしまう・・・という問題があります。

その為に小学校の上級生ぐらいになると、多くの子供達が、学業に追いつかなくなってしまい、その学科だけではなく、勉強そのものや、学校自体が嫌いになって、自らを子供の集団社会の中からスポイルしてしまうということが頻繁に起こってしまいます。
その落ちこぼれの教育が、子供のアウトロー化の主な原因の一つになっています。

勿論、何らかの理由というのは必ずしもその子供の外的な要因(自宅学習を全くしない等の、勉強不足)ばかりではなく、ただ単に私のように、
「スローな性格である。」などの要因で勉強のカリキュラムの速度に間に合わなかった、というような子供の性格と、学校のcurriculumの進度が噛み合わない事に起因することも起こりえます。
「進度が噛み合わない・・」と言ったのは、逆に子供がのみ込みが早すぎて、他の生徒とシンクロしない場合にも、同様の問題が起こりうるからです。
戦前の学校教育や、ドイツの学校のように、飛び級を認めている場合や、アメリカのように、そういった優秀な生徒だけを、集めて教育するような学校を持っている国もあります。
日本では基本的には飛び級の制度は未だ認められてはいません。(現在はある程度は、飛び級を認めているようですが)

じっくり型(のんびり型)の子供は学校教育には、適合しにくい傾向にあり、落ちこぼれとされた子供でもスローペースでじっくり勉強させると、素晴らしい成績を上げる子供も多いのです。

実は、この私も、超スロータイプな性格(日常の行動がスローだ、という意味ではありません。物事を自分に取り込むのに時間が掛かるのです。 日常の行動自体は、寧ろ同世代の人達よりも速いかもしれません。)で、小学生の時には、授業の時間内でこなさなければならない勉強は、何時もついて行かなくって、学力不足、勉強不足と思われていました。

事実、全く勉強はしていなかったのですがね。
宿題もやっていった事は、自慢じゃないけれど、小学校の時から高校を卒業するまで、たったの一度もありません。
学校嫌いの原因を作ったのは、小学校の時代のそういった短時間の中で、与えられた課題を果たさなければならないという学校教育のcurriculumに対するトラウマだと思います。
その鈍くさい性格は、小、中、高校生の時だけでなく、大学生になっても、その不器用な性格に悩まされていました。

音楽の場合には、音楽大学は一応、職業の訓練なので、鈍臭さは致命的になります。
音大生に鈍臭い学生は一人もいないのですよ。 Σ(゚д゚lll)

職業訓練のcurriculumには、指先の器用さを調べる検査もありますが、音楽大学時代に図書館の作業を手伝っていた時に、たくさんの音大生達の中で私がやっている作業だけが異常に遅く、周りとの連携がうまく行かず、先輩の女性が、
「芦塚さんって、器用だ、と思っていたのだけど、本当は、不器用なのね??!」と率直に、驚いていました。
但し、音楽力、勉強力については、私は1年生の時から、先生の代わりに授業を代講したりしていたし、図書館でも特別待遇で、資料とかも、特別に閲覧出来ていたので、先輩からも、
「鈍臭い!!」と馬鹿にされる事は、ありませんでした。そこは、助かったかもね???

ですから、このホームページにも掲載している、「時短のメトード」は、その「鈍臭」コンプレックスの克服のために、この時代・・・つまり、大学生の時から、音楽教室を立ち上げた後までも、20年、30年どころではなく、それこそ40年以上も、延々と工夫を続けているのですよ。

一度、原稿を立ち上げると(今風に言うとprojectを立ち上げるとなるのでしょうが・・・・)、ゲーテやダ・ヴィンチのように、生涯を通じて、何度となく、延々と、咀嚼していくのですよ。
行き詰ったら、1年間、2年間放置して、・・気が向いたら、また原稿を引っ張り出して・・・・、またまた、書き始めるのです。

実は、この論文も、10年以上も放ったらかされているのですが、だからと言っても、それで、御終いにしている分けではないのです。

パソコン時代の前も、原稿は背広の仕立て屋で大量に買って来た、背広を入れる箱に、原稿は勿論、資料や鉛筆、定規に至る迄、一緒くたに入れて、freezeさせます。
冷凍保存です。
保存場所は、冷暗所の押入れの中です。
文房具の箱を使わないのは、大きさが規格サイズで、ギチギチで、雑多な資料が入らないからです。
勿論、箱にはindexカードが入っているので、求める原稿と資料を、パッと一瞬で取り出せて、すぐに書き始められます。

パソコンに移行してからは、原稿をしまうのはもっと楽になりました。
外付けのハードディスクと、back・upのCDに入れておくので、一瞬で探し出すことが出来るからです。
そこも一工夫なのですよ。

しかし、学校は、国民皆教育制度の方針から、全国民の子供達に指導教育をします。
子供達の学校に対する目的はそれぞれです。
そのために、どうしても一般的な教育に偏る事になってしまいます。
それは、広く、浅く、という結果を生み出します。
それに、学校教育にはあくまで時間のノルマがありますので一人一人の子供のペースに合わせることは出来ないのが現状です。
そこで、どうしても学校教育について行けなくなる子供が出てきます。

本来ならば、高いお金を払って行く、私立の学校がそういった専門的な教育をすれば良いのですが、実際には、文部省の縛りがあって、指導内容はある程度は自由なのですが、教育内容(所謂、curriculum)に関しては、かなり厳しい縛りがあって、そういった専門的な教育は出来ない事になっています。(それは、教育に於ける誤った平等の考え方から来ています。親のえこ贔屓の勘違いと同じ種類の勘違いです。)
それが、現代では、諸外国との教育のlevel差を作る原因ともなっているので、政府も慌てて改善を試みている所ですが立ち遅れは如何ともし難いようです。


話は少し、外れてしまいますが、学校教育で困った問題は、一つの課題を終わると、次の課題になって、前に勉強した事が、そのまま使われる事はありません。

子供達は、その単元が終わって、次の単元に入った途端に、今まで習った事を忘れてしまうのです。
それ以上の、中学生や高校生の時に、私が疑問に感じたのは、例えば数学等の授業で勉強している内容が、どこで使用されるのかを、先生に質問しても答えて貰えなかった事です。

つまり、指導している先生でも、虚数を何処でどのように使用するのか、生徒の質問にパッと答える事が出来る先生はいなかったのですよ。

ましてや、私が生徒を指導する上での基本としている、絡め合わせの指導法は、学校教育ではなされる事はありません。

丁度、SNSのお友達の関係のように、ある一人の人が、お友達を100人持っていたとして、そのお友達が更に100人のお友達を持っているとすると、それだけで、100×100で1万人になるのですよ。
それがSNSの恐ろしさでもあるのですが、逆に学校の勉強等に応用すると、学力を極めつけに上げる事が出来るのです。
ところが、この勉強法の難しさは、この勉強法では一瞬でgenre(分野)を越してしまいます。
指導する先生の専門の領域を一瞬で越してしまうのです。

私が何時も提唱している、ヨージーの法則の二兎の法則です。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」は周知の諺ですが、「一兎を追う者は、三兎も四兎も得る事が出来る」という理論です。
私の理論は、富士山の裾野の考え方なのですが、学校教育では、
「広く浅く・・」が基本です。
だから、「何故、その公式を使うのか?」とか、その公式がどういうgenreのどういう所に応用されているのか・・という説明や、紹介はありません。
つまり、知識として知る事、そのものが目的なので、その理由や成り立ちを知ること迄は追求する事はありません。
広く、浅くの方針とは違うからです。
でも、
「あまり深く子供達に指導、追求すると、子供の理解の範囲を越すのでは?」という、意見もありますが、それは日本の「子供だから理解出来る分けはない。」、所謂、「子供だから・・・、出来ないのが当たり前」という、子供の理解力を否定する所にその教育の前提を見出す事が出来ます。

しかし、世界の教育を見ると、その思い込みは誤りであることはすぐに分かります。
ユネスコで教育のlevelが高いと認められた国の教育は全て、子供は適正な指導と指導者の力量さえあれば、出来て当たり前・・・という前提の元に、そういった総合教育がなされているからです。
それは指導者を育てる側の日本の教育界の質の問題もありますし、政治の問題もあります。
その話は、多方面に渡るので、別の機会にお話しましょう。

そこで親は、対応策として子供が学校の勉強に落ちこぼれないように、より良い学校に進学できるように、校区の学校の教育内容よりもlevelの高い、有名塾に子供達を通わせる事にします。
不思議な事ですが、あれほど学校に対しては、えこひいきや差別を、反対していた親達が、塾になると、成績別のクラス分けや、よりレベルの高い塾に入塾する事に対して、極めて熱心になります。
いずれにしても、塾に行って、学校の成績が少しでも上がると親はそれで満足します。

しかし、その塾が次の問題を生んでしまうのです。

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塾が儲かる仕組み

よく親が勘違いをしているところですが、塾は学校ではありません。
ましてや子供の心を育てるための教育機関でもないのです。

それに、学校との大きな違いは、塾は企業なのだから、当然、落ちこぼしを作る(する)事が公認されている事です。

そういう学校もありますが、基本的には、学校では落ちこぼしは認められていません。
塾の場合には、落ちこぼしの生徒を作れば作る程、その塾は
「凄い!」という評価になって、有名塾の看板がより評価される事になります。

教える側も勉強をする生徒、飲み込みの良い生徒が残って行くので、指導はより楽になります。
これを私達は『落ちこぼれ』(という受動的な言葉)では無く『落ちこぼし』(という、より積極的な、能動的な意味で)と、言っています。

塾は経営のサイドの考え方で物を考えますから、ノルマとして取り敢えず学校の成績を上げることが売りの商品になります。だから、成績を上げる事を塾の指導の最優先の課題にします。
一般の商売の『売り上げ』と同じ考えです。
売り上げるものが『成績』に代わっただけなのです。
その為には、なまじ子供に物事を理解させ、判断出来るようにするとなると、その指導は殆どマンツーマンになってしまいますので、膨大な人件費と時間がかかってしまい、経営的には割が合いません。それでは、塾としての経営は成り立ちませんので、当然それより、
「こういう問題はこう答えればよい。」と言う風に、子供達が条件反射的に問題を解けるようにします。
それなら少ない時間内に、一度に大量の生徒を指導する事が可能となります。

ですから、仮に子供達が問題を正しく解いたとしても、私達がその後で、子供に「で、どうしてそうなるの?」と質問すると、殆どの子供は何故その答えで良いのかということは答えることが出来ません。
本当は、何も分かってはいないのですから。
ただ問題を、速く、条件反射的に解いただけなのです。

しかし、「塾に行かせたからには早く結果を出したい。」
「次の日からでも成績に変化が現れて欲しい。」
と思うのも、親心なのです。
そこの所の親の期待と大量生産型的な塾の考え方が、うまく噛み合ってしまうのです。

ですから塾に行きだした子供は、勉強に全く関係のない、私達が指導している音楽のレッスンに関しても、極端に記憶力や判断力が低下し、暗譜なども苦手になり、演奏の仕方や練習の仕方をいくら説明しても、自分で物事を考えようとはせずに先生の言う通りに丸のまま覚えようとしますので、逆に勉強の能率が非常に悪くなって、音楽の進歩が極端に落ちて行きます。
演奏自体も出来ていた技術や表現が出来なくなったり、緻密な表現、どころではなく、音の粒つぶを聞き取るとか言った、基本中の基本的な事も出来なくなって、伸びなくなるのなら、まだしも、折角身に付いたはずの技術も、どんどん衰えて行ってしまいます。
初めて、Pianoを学び始めた頃の基本的なtechnicすら、出来なくなってしまうのです。
音大生がよく勘違いをしているような、
「初歩の技術は、高度なlevelの教育を受けている我々には必要ない。」という致命的な思い違いと、奢り(うぬぼれ)をしてくるのです。

こう言うことを書いたとしても、勿論、私達が塾その物を否定している分けではありません。
基礎をしっかり指導して、勉強の本当の意味を指導する良い塾も、数は少ないのですがあるにはあるのです。
先生の知識力やなぜ子供が理解できないのかを判断する、教師力が必要になるので、そこいらの学習塾の先生ではとても勤まりませんので、そういった学習塾はとても絶対数が少ないのです。

東京の郊外に女性の方がやっている小さな50名程度の塾があります。
そこの塾長である女の先生は、本当は、小、中高校の落ちこぼれの生徒を基礎から教えるつもりで、その(基礎塾とでも言ったらよいのか・・・)の塾を作りました。
ところが1年も経たないうちに、その塾は麻布の生徒や都立西の非常に優秀な生徒で占められるようになってしまいました。
「基礎を理解する事の大切さが、ただ単に成績を上げる事よりも重要だ。」と言う事が分かる連中は、結局のところ、それぐらい優秀な連中だけだ・・・と言う事ですかね。
まっ、そんなモンですか!?

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儒教的な考え方

どのような時代や社会においても、為政者は自分の体制を孫子の代まで維持するために苦労します。そのための、最も効果的な方法が思想統一であります。そのなかでも最も成功した一例が徳川家康の例です。家康が世襲制度を敷こうと思ったときに、思想統一のために採用した思想が中国の孔子を中心にした儒教の考え方です。家康は儒学者を優遇し、全国の武士達の子供達に儒学者による教育を要求しました。それは全国の外様大名を含んだ全ての城主の子供でも例外ではありませんでした。そこで江戸時代は、文字を読むためには「し(師)、のたまわく(曰はく)・・・」の言葉を復唱する声があちらこちらから聞こえてきた(それが勉強であった)というわけです。

私自身は団塊の世代の、もう一つ上の世代で、所謂夕日ヶ丘(昭和20年代から30年代にかけて幼年期、少年期を過ごした)の世代であります。ですから、むしろ日本古来の貞淑な女性像に憧れを持つ世代でもありますし、ましてや友達夫婦などというものは、全く理解できない世代でもあります。
ですから逆に言うと、儒教的な社会の持つメリットも非常によく理解出来るのです。

封建制は何も変わらないし、変化しない社会では、或いは、大家族の共同生活の上ではすこぶる都合がよく出来ています。それからさらに何も変わらないことへの安心感(安堵感)。
それは人間の一つの理想的な生活でもあるのですから。

例えそのうちのたった一つでも、誰かが何かを変えようとすると、この儒教的な構造社会では大きな抵抗にあってしまいます。

それだけ安定性がしっかりしているという事でもあるのです。

 

いずれにしても封建社会では、上からの命令を絶対的なものとし、ひたすら忠実に守り従って聞くだけで、疑問を持つことは勿論の事、(それ以上に)質問することすら、絶対的に許されなかったのです。

これは江戸時代の話ではなく、日本を敗戦に導いた旧日本軍の軍隊の話でもなくって、さらにはお城が企業に代わったままの終身雇用制を継承する大企業と言われる日本の会社組織の話だけではなく、しかも学校教育の現場などの公的な機関によるものでもなく、極々普通に、日本型の父親などに現されるように、一般家庭に今でも何の疑問もなくそのままに残っているのです。勿論、あなたの家庭にも・・・。

例えば、日本型の父親の夕食にはビールと一品多いおかずです。
「だって、お父さんは外で大変な思いをして金を稼いでくるから・・。」
そういった日本型の父親は妻に必ずこういいます。
「だってお前は一日中子育てと家事だけで、何の仕事もしていないではないか。」
主婦が家事労働の合間に仮に、パートなどの仕事で家計を支えていたとしても、
「お前の稼いでくる、金額は子供の教育費にもならないじゃないか?!」と。
不思議な事に多くの日本女性はそれでなんとなく納得してしまい、先ほどの一品多い夕飯に親子共々何の疑問も感じなくなってしまいます。

まあ、家庭の考え方はそれぞれなので、それで幸せなのなら、それを否定する気は全くありませんが、これも儒教的な教育の結果であり、今の若い人達の結婚へのネックとなって、コンビニ等で、男性でも生活をする事が、困難ではなくなって来ていて、しかも、人とcommunicationが下手な世代では、異性と同居する事を、面倒臭いとかかったるい、とか感じてしまって、寧ろ、バーチャル世代なので、SNS等を通じてnetで人とcommunication出来るので、特別に、「子供が欲しい。」という願望がない限り、若い人達は、結婚に対しての必要性を感じない若者たちが増えてきて、それも、少子化問題に拍車を掛けてしまっています。
女性も、今までのように、
「働きたくないから、結婚をする」・・とかいう態度では、世の男性にとって、女性との共同生活を続ける必要は感じないかもしれないし、若者達には、結婚を前提としない、sexfriendと言った考え方が、主流になりつつなって来ているようですが、この考え方の落差は、お互いに、理解出来ない考え方なのかもしれませんよ。
・・で、あなたはどちらのタイプ???

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  芦塚メトードと塾教育のせめぎ合い
           (己を知り、敵を知れば、百戦危うからず)


この弁解の文章も、もうすっかり定形になってしまいましたが、「私が学校教育や塾の教育を批判するのは、あくまでその生徒の将来の目標が音楽にある場合だけ」の条件の上でのお話です。
ですから、以下のお話をする対象の人達は、将来音楽の方面に進みたい人達だけに対してのお話ですから、悪しからず。
一般の職業に従事したい人達は、このPageを飛ばして、お読みください。


このお話も色々なPageで折に触れてお話している事ではあるのですが、日本人は人や物の価値を判断するのに、肩書きやbrandで判断します。
日本人は、あるがままのその人やその物自体の価値を認めるのを非常に苦手とします。

長年、官公庁や大手企業の有力者をしていて、その人に頼っていた人達が、その人が、自分の後ろ盾を退職した、その次の日から、誰一人として訪れて来る人もいなくなって、頼って来る人もなくなってしまう、という事がよくあります。

つまり、その人の個人の人格に寄り添って集まって来るのではなく、その立場、地位に庇護を求めているだけの事なのです。

それが、一般企業の場合、一般社会の場合ならば、無理からぬ事なのかもしれませんが、私達のような、個人個人の技術や知識、能力や意識等々の実力で評価され、認められる芸術の世界や職人の世界でも、芸大の教授や、海外留学にその価値を認めようとするのは、あまりにもlacherlichに過ぎません。
東大にしても、芸大にしても、世界の基準で推し量ると、それを知っている人すらあまり居ないのですからね。
東大の世界の順位は知っていますか??
総合のランキングでは、東大は38位、京大は59位か、60位ぐらいに過ぎません。勿論、特別な、教科では、世界ランク13位というのもあるようですが。
芸大は、論外です。
ヨーロッパの人達や、アメリカの人達で芸大に留学したい、と思う人は居ないでしょう?
日本の音楽の水準なんて、そんなものなのですよ。
井の中の蛙大海を知らず

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主婦と労働の考え方

 一般の人の中には、働き手が直接お金を稼ぐ仕事に携わっていないと、労働としての価値が見えてこない人も多いように思われます。
一般の仕事では、実際にいくらのものをいくら売った、誰がいくらの売上を出した・・などの具体的な金額が明確なため、対価が分かりやすいといえます。
しかし、企画や事務方、研究等の仕事は、具体的な対価が出るものではないので、その仕事の価値が分かりにくい・・という分けです。    

特に日本や中国のように、ソフトという物に対して価値を持たないソフト後進国では、どんなにすばらしいアドバイスを受けたとしても、目に見えないものに対して、金銭の対価として支払う事はありません。
日本では、ソフトや発明、研究などの報酬に対しての裁判が、いまだに数多<行われているのが現状です。

先進国での笑話には、こんなお話があります。
弁護士とその友人が飲みながら奥さんの悪口なんかを言い合っています。
弁護士は話の途中で友人に向かって、「ここからは有料になるけどどうする‥‥・?」

しかし、実際の企業や会社では、全く金銭に携わらない部署で働いている人の方が、より専門職であったり、責任のある高い地位であったりすることの方が多いのです。

一般のサラリーマンの方達も、実際にお金を稼いでくる外回りの仕事がだんだん認められて来ると、今度はデスクワークが中心の課長に昇進して、それから部長になって、と実際にお金を稼ぐ現場とはだんだん遠くなって行きますよね。

どんな会社でもその会社を支える企画とか事務とか、経理とか、直接的にはお金を稼がない部署が必要なのです。

それはそれで、大切な仕事ですよね。つまり社会で一般的に『金を稼ぐ』と言う言葉の意味は、『具体的に(直接的に)金を稼ぐ』と言う意味ではないのです。
言い方を変えれば、主婦の家事も立派な仕事なのです。
ましてや、共稼ぎともなると、子育てや家事も男女が共同してやるのが、普通のように思えるのですが如何でしょうか?

日本でもやっと、女性の家事がちゃんとした労働であるということが認められて、ご主人の稼ぎの半分が奥さんの取り分であると言う事が、【なっ、なっ、なんと、今年から!】社会的に認められました。


しかしそれはあくまで表向きの話ですよね。今でも日本社会はdouble standard(二重基準)の世界なのです。


double standardは、一般的な日本人にとっては、日本古来の封建制度の名残ということをわからないままに、子供のころからの慣習としてご<当たり前のことだと受け取っていたとしても、globaI Standardの世界の先進諸国からは、日本が世界の先進国の仲間入りするためには、残していってはいけない社会慣習として、再三再四、注意を受けています。

 先ほどの、共稼ぎの家庭の例でも、例え夫と妻の収入が同じ金額であったとしても、やはり家に帰ってからは食事を作ったり、掃除洗濯、子育てなどは、結局の所、女である妻に任されています。
女なんだからそれが当たり前だろう!」ってね??

男の言い分は昔からちっとも変わりません。
結局の所、仕事を自分のi dentityと考えている女性で(、しかも、経済的に自立出来る女性)は、離婚を考えざるを得なくなるのです。
日本政府としても熟年離婚は何とか避けたいことなのでしょうが、政府自体は(女性が増えたとはいえ、考え方自体は)やはり男性集団で「女性は生む機械で子育てだけやっていれば良いのだ」としか考えない日本型の男達の集まりですから、女性の離婚の理由がいまだに全く理解できないのです。
「女性にidentityなんかあるわけが無い。」それが、「女人之体、幼則従父母少則従夫、老則従子」女人たるもの、幼<しては父母に従い‥‥」まあ、平た<言えば、「常に男に従え。」という言葉になります。
それならそれで、昔のように、女性の参政権や、女学校を廃止すればよいのにね。
明治時代の頃から、先進的な女性達が後輩のために必死になって勝ち取ってきた女性の権利だけど、勿論、貴女が、外で仕事をすることを考えた事もなく、夫唱婦随で子育てだけが夢であるという女性なら、自分のidentityなんて、そんなかったるいものは必要ないでしょうがね。
世界の女性と日本の女性の一番の違いは、実はそこの所にあります。
日本では、「結婚したら、家庭に入って専業主婦になりたい」という女性のパーセンテージが、世界中で異常に多いのですよ。
流石は、儒教の国民ですよね。


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 不思議な日本人の家庭(double standardの話)

日本型の父親は、家事や子育ては「女の仕事」として区別していて・・・自分では、一切興味を示さないし、ましてや、家事手伝いを率先して手伝うという意識(価値)は全く無く、又、自分の子供が一生懸命に勉強しているお稽古事の発表会等を一回でも見に来た事が無い・・というのが日本型の父親タイプの特徴です。
しかし、子供が、ひとたび、中学受験や高校受験の時期になったり、大学受験を目指す年齢になったり、将来の目標を決めたりした時には、それまでの子供達や母親の努力を認める事もなく、「赤提灯で仕入れた知識を社会の一般常識として、自分の望むように子供の教育の方針を変更するのです。
子供が将来の目標や、社会での仕事の話になると(・・・前提が長かったけれど、要するに人生の節目、節目にと言う意味ですが・・)自分の方が、大人としての社会人としての経験が長いから、社会の常識や情報を沢山持っている・・・とぱかりに、似非知識をひけらかして、母親や子供の話を聞こうとはせずに、一方的に、父親としての強権を発動して、子供の将来の教育の方針などを、決定しようとします。


つい先程も同じような事がありました。その父親にadviceをした人が、会社の上司だったので、そのadviceを断る事が出来ず、教室の先生達の意見も、絶対に耳を貸そうとはしません。
会社の上司なので、まあ、父親からすれば、当たり前の話かも知れませんが、10年以上、努力を続けて来た子供や母親にとっては、それまでの10年間が否定されるのだから、溜まったものではありません。

つまり、日本型の父親の場合には、赤提灯で仕入れてきたばかりの一般的な知識をひけらかし、『一般はこうなのだから』と言って、子供や母親が、子供が幼い頃から今の今まで努力して勉強して一生懸命学んできた事を、絶対に認めようとはしないのですよ。

たまには、子供や母親の言う事を聞く振りをする、父親もいます。
しかし、何処まで分かったのか(理解出来たのかを質問すると)やはり、ブチ切れてしまいます。
「せっか<、無理をして、自分を押し殺して、良い父親の振りをしているのに・‥!」と。
これを仮面型のヨーロッパ型の父親タイプと呼んでいます。

「何故、父親は子供達の話を聞かないの?」という質問をよ<受けますが、それは当たり前のことです。
儒教社会では、目下の者の意見を認めれば、自分が無知であるという事を認める事になってしまうからね。

最初から子供や母親の意見を聞くことが無ければ、或いは逆に、母親や子供が父親に質問することが許されないという環境を作っていれば、父親の知識不足、勉強不足が奥さんや子供にぱれる事は絶対無いし、家庭での権威の失墜などと言う事も絶対に無いからです。(本当は父親の無知なんていうのは、とっくに子供達には、ぱれぱれなのに、それを認めようとしないのです。)

封建社会においては、指導者がどんなに無知蒙昧で馬鹿そのものであったとしても、中央集権的な制度の中では、下からの意見は絶対的に上には届かないので、「自分自身が如何に無能でどうしようもない人間であるか」という『ボロ』が出る事はまれなのです。(中央集権的な構造は、上から下へは、すごく正確にすぱやく為政者の情報が伝達されるのですが、下からの情報が上に上がるには全く不向きに出来ています。)それはツリー構造の持つ、本来的な欠点です。

「ハインリッヒの事故の法則」はそういったツリー構造が持っている構造上の問題によって引き起こされる、事故の確率をいっているに過ぎません。
構造上では、誰かが一つのミスを犯したとしても、その状況の報告が、絶対に上層部には届かないようになっていて(途中の段階でもみ消されてしまいます。)幾つもの同様のミスが重なっても(上層部に話が行かないので、)その現場ですら、問題意識や危機に対しての恐怖心や意識が働きません。

ミスから何かを学ぶ事はなく(ツリー構造では同じランクのところに情報が伝わるためには、一度トップまで情報が伝わってから、トップダウンとして始めて一番下の階層に情報が伝わってきます。)それではあまりにも事故の対処(対応)が遅すぎてしまい、決定的な重大な事故が起こって社会的に騒がれるようになって始めて、上層部のみならず、下層部までもが、事の重大さを察知(理解)する事になるのです。

これは、瀕死の状態にある日本の大企業が良い見本です。
その制度の中で、制度を維持していく上では、ゆるぎないものがあるのですが、競争社会である外国などの対外的なものに向かっては非常にもろいのです。
しかしこの文章は経営学の勉強ではないし、封建社会の中央集権的な構造のもろさを指摘しているのではないので、この話は此処いらで終わりにします。


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        日本の音楽教育社会の中央主権的な構造

     封建的な中央集権的構造と言えば、日本の音楽教育は正にそのものずばりであります。

なぜなら日本の音楽教育の世界は、江戸時代からの家元制に根ざしているからです。
家元制の頂点になる人は、必ずしも、技術的に優れている必要はないのです。
何故なら、その技術を革新していくことではな<、踏襲する事が一義であるからです。
一子相伝の世界であるからです。

だから音楽大学の先生が日本の音楽社会でその道の第一人者である必要は全く無いのです。
大学の先生として有名であればそれで良いのです。
大学の先生に対して疑問を持つことはおろか、何一つ質問する事すら許されていないのです。だから生徒も指導される事に、何の疑問も持たないばかりか、何-つ質問すら出来ません。

音楽大学の先生で、演奏する事に自信がある先生は、当然、生徒に楽器を自分で弾いて指導します。
その場合言えることは、(これは私の弟子が、音楽大学め先生について言っていた言葉なのですが)その先生が自分の思う(感じている)事と先生のの演奏が一致して表現されていれば問題は無いのですが、一生懸命説明しながらその通り出来ない(弾けない)先生や、もっと悲惨なのは、その先生が言っている事と、実際に弾いている事が全<矛盾しているケースがあるという事です。

しかも、最後の例が一番多いそうな。

と言う事で、先生の弾いている様に、真似をして弾けば弾くほど、先生が烈火のように怒り出して「違う、違う、もっと私の弾いているのをよ<聞いて!」と怒り出してしまうのです。

勿論私達もよく弾いて教えます。
表現を伝えるためには先生がちゃんとその通りに弾ける事も必要な事なのです。
しかし、基本的には演奏を伝達するのではなく、なるべく言葉で教えるようにしています。
その代わりといっては何ですが、自分の下手な演奏の代わりに、世紀の名演奏家達の良い演奏のCDを何枚も聞かせます。
特にBachなどの、生涯勉強しなければならない曲に関しては、CDだけでなく、譜面も出版されているだけ買わせるようにしています。
版によって、指使いは勿論、フレーズや(ひどいときには)音さえも違うことが多いからです。

音楽を生業(なりわい)とする人は、楽譜に盲従する人が多いようです。
作曲者に対しての尊敬があればある程、(私がそれを否定する理由は全く無いのですが)、出版された版をそのまま信じる事には参ってしまいます。

音楽大学の先生が、古い100年も前の間違えた解釈のまま出版されている楽譜を猛進している事は、勉強不足だけでは済まされない根本的な問題だと思われます。

しかも、私は作曲者が犯している間違いを見つけるのが趣味でもあります。
バッハだってショパンだってよくあるんですよ。
モーツァルトにいたっては繰り返しの部分(再現部)は『45小節省略』なんて直筆楽譜に書いているもんだから、転調楽節の部分の#やbが判断できかねるような楽譜も多々あります。そういった記譜上で起こる問題は出版社泣かせで、いろいろな解釈の起こる元ともなります。

又、校訂者が勉強不足で、作曲者が正しく書いているのに、間違えた解釈をしてしまい、わざわざ訂正してしまっている楽譜すらあるのです。
ショパンのバラードだって、校訂者が勝手にショパンの楽譜にいっぱいに和音を書き足して出版していて、それが世界の定版になっているのです。

20世紀になってポーランド政府が校訂者の勝手な変更はショパンに対しての許されざる冒涜行為だということで、新しくショパンの原譜に忠実に印刷された版を出版しました(その版は前半がファクシミリになっていて、後半はそれを忠実に再現した楽譜です。政府による発行なので、ファクシミリにしては非常に廉価に値段が設定されています。)が、そういった話すら、日本の大学の先生方はご存じないし、ましてやその版を使って指導している日本人の大学教授はいるのかなあ?

まあ、その版でコンクールなんかに出て、演奏をしたら、「なんて変な演奏をするのか!」と烈火のごとく怒られて、失格になるのが落ちだろうね。

ヘンレ版や(まさかペーター版?)に、全ての権威を感じて疑わない先生は多いですモンね。

ピアノの場合にはまだ良い方で、弦楽器のヴァイオリンやチェロなどの楽譜にはボウスラーなどが書かれているので、もっとややこしくなっているけれど、ボウスラーなんかを書いていた作曲者は殆どいないんだよね。
もっと言うと、モーツァルトなんかは強弱すらあまり書いていないのに、出版されている楽譜には実に細かく書いてあって、不思議な事に別の版でもそれが殆ど同じなんだよね。
どうなってるのかな?

モーツァルトの直筆楽譜にはそんな事は書いていないのに‥・。

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 2.芦塚メトードの教育概念
芦塚メトードでは、年齢やレベルに応じて教育を行います。
  最初に年齢別の教育概念について説明します。


         1.幼年期から小学校の3年生ぐらいまでの時期
           躾としての教育期‥‥体に染み付くと言う事

この時期は勿論年齢が低いので理論的に理解するのは困難ですが、その反面、より直感的なセンスが優れている時期なのです。コピー・エージと言われるようにコピーをする感性が非常に優れている時期でもあり、又単純な機械的な練習に対しても集中することが容易に出来る時期でもあります。
機械的なトレーニングの持久力を育てたり、集中する時間を伸ばしたりすることが出来る貴重な時期でもあります。
勉強で言えば単純な作業である計算問題などを嫌がらないで、淡々と出来るように育てる事の出来る時期でもあります。

その時期を最大に有効に活用する為には、まず「芦塚メトード」の教育法の中で、子供にマスターさせなければならない基本的な技術は、「時間の躾」です。


①習慣と罪悪感
NHKの「試して合点!」と言う番組で、分別のゴミ捨ての話をしていました。
一般の主婦に「分別しないでゴミを捨ててください。」と言うと、「えっ、分別しちゃだめなの?」と主婦達がうろたえていました。

つまり、いったん分別する事がその人の癖(慣習)になってしまうと、逆に分別しないというその人に対して罪悪感を生み出してしまうのです。不思議ですよね。

毎日、お風呂に入って、或いは朝髪を洗う癖のある人は、それが出来ない環境にいると、そこで暮らす事が耐えられない事になります。
しかし、毎日風呂に入ったり、髪を洗ったりと言う慣習は、戦後になって日本社会が高度成長で豊かになった結果、そういった贅沢が出来るようになったのです。
でも今の日本の人達はそれが贅沢とは思わないのですよね。



②時間の躾

勤勉性を身につけるには・‥

練習や勉強の習慣が身に付いたからと言って、それで直ぐに勤勉性が身に付く(勤勉な性格になる)わけではありません。
勤勉性を身につけるには「時間の躾」が最も大切な要素です。
それは、体内時計を身につけるということで、「この時間にこれをしなければ気持ちが悪い。」と思うくらいに、子供の体に染みついた「時間の習慣」です。

私達は父兄の皆さんに、「お金は使ってしまえば無くなりますが、勤勉性は、親が与える事が出来る、一度身についたら一生失う事のない、究極の財産です。」と言う事をお話します。
時間の躾は幼児期から小学校の低学年までにはごく自然に身につきますが、絶対音感と同じ時期で、(それ以降も勤勉さは身に付くことはありますが、「自然に、ごく当たり前に‥・」という意味では)幼児期に身に付いた時間の躾にはかないません。

勤勉性‥・これはどんな親でも与えることが出来る、かけがえのない財産であり、子供にたいしての貴重なプレゼントなのです。

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練習の躾をつけるには‥‥

子供を育てる事(勉強の躾、練習の躾等を子供に身に付けさせる事)に不安を感じているお母さん方に、私はよく逆にこう質問をします。

「でも、歯磨きの癖は子供さんに付けたのですよね?」「それじゃ、トイレのしつけは?」「じゃあ、躾を子供に付けさせる事は出来る筈ですよね。」
難し<考えないで、こう考えてみてください。

歯磨きを子供に教えるときに、歯磨きは別にいつでもよかったわけではないですよね。
では何時したらよかったのですか?
じゃあ、トイレは?‥どのタイミングで?

でも練習や勉強をさせようとして、子供にその躾が身に付かないとしたら、それは子供との条件の出し方に問題があるんですよね。例えば練習を自分でやるように躾をしたいとして、それが身に付かないということは、子供のベストな練習の時間は何時なのかを見出せないだけでしょう?

それにはいくつかの条件がありますよね。

まず、親にとっていつが練習にとって都合が良いかではなくって、子供にとって練習をするための、ペストな時間を見つける事です。
親が食事の用意や家事等の雑用をこなして、落ち着いて子供と一緒に練習を見てあげようと思ったとき、もう8時になっていました。子供はもうすっかり眠たくなってしまったので、練習が苦痛でしかありません。
ですから親がせっかく子供の大切なスキンシップの時間だと思って一緒に勉強しようと思ったのに、親の期待に反して、練習=眠たいと言う条件反射が出来てしまいました。

同様に、「学校から帰X(直ぐに練習させようとしましたが、子供が全<集中出来ません。)という話がありました。
私が子供によく話を聞いてみたら「学校から家に帰ったら、直ぐに皆で遊びに行く約束をしていて、自分のピアノの練習が終わるのを、皆が公園で待っているので、自分を置いたままでお友達皆でどこかに遊びに行ってしまうのではないか、と息って、練習していても気が気ではなかった。」なのだそうです。
そりゃそうだろうね!お友達を待たせていてはね~ぇ??


練習の躾というよりも集中力の持続時間がまだ出来ていないのに親と練習の時間を30分と決めてしまって、親と約束した30分の練習時間を集中できなくって、時間をもてあましている子供もいました。
練習の躾が出来ていないのに、いきなり30分の練習では、それは集中が出来るわけがありません。
ですから先生と、お母さんと、子供とで話し合って「何分なら集中出来るかな?」と子供に聞<と、その子が「10分は絶対に大丈夫。」と子供が言いました。
お母さんが「でも、毎日30分は練習をするって約束したじやないの?」と言うので、私が「じゃあ、お母さんと一日30分と約束したのだから、10分ずつ一日3回に分けて練習しようか?朝起きて10分、学校から帰って10分、後は何処に入れる?」と切り出すと、お母さんが、「えっ!練習を分けてしても良いのですか?」と、驚いていました。

大切なのは、集中力が持続している間だけ勉強すれば良いのです。
逆にだらだらと集中しないままに、時間で切っていく勉強の仕方は、子供の能力を落としていくことになるので、絶対に止めてください。」

「但し、大切な注意は、一日3回とか5回とか、回数は何回でも良いのですが、開始時間は必ず決められた時間に始めるようにしてください。」
「でも体調が悪かったりで、10分間の集中力が持続出来ない時には、絶対に無理をして『10分の約束だから』とか言って、だらだら決められた時間までやらせることはしないでください。

則、切り上げるようにして、お母さんとお茶菓子タイムにでもして、集中の出来ない原因は、疲れているからか、或いは学校で何かあったのかなど親子で会話をして、子供の状況をつかむようにしてください。

練習=集中と言う図式が出来上がると、完成なのです。

いったん時間が子供の身に付いてくると、練習をしないことが、歯を磨かないことと同じように気持ち悪<なってしまうのです。
先ほどのNHKのお話のように、いったんゴミを分別する癖が付いてしまうと、ゴミを分別しないと言う事ですら、罪悪感がついて気持ちの悪いものですからね。
先ほどのお母様にも、そういう話をしました。母親が子供と練習にベストの時間を探し出して、10分ずつの練習を一日3回やるようになってから、子供が30分の通し練習が出来るようになるまでには、半年もかかりませんでし
た。
これは典型的な「急がぱ回れ!」と言う事かな?

③お子様と一緒に


幼いお子様を持たれるお母様にとって、「子供をどう育てればよいのか」という事は、常に大問題であります。
幼い子供がお稽古事を始めるときに、親と子供が一緒に練習をするという時間を取れると言う事は、教育的にも大変理想的で親にとっても子供にとっても望ましいことだと言えます。
それで頑張って、時間のしつけをしようとしたけれど、今度は内容的に自信をなくされる方が多いのです。
「子供がいつまで経っても、ちっとも行ったとおりに出来ない。」「出来ないだけじゃなくって、だんだん反抗的になる」などなど‥・。

この段階では子供の教育に熱心であればある程、逆に『自分に自信を持てない。』と私達におっしゃられる方も多いようです。

この話は「碎啄同期の話」でも書いていますので、あまり詳しくはしませんが、私達のアドバイスとしては、「頑張って」、とか「一生懸命」とか「教育する」と言う言葉はちょっと捨てておいて、それどころではなくって「親子で一緒に練習をする(楽しむ)」と言う言い方もちょっと捨てて、「親子で同じ時間を共有して楽しむ。」と言う考え方に徹する方が良いように思います。

「親子で楽しい時間を共有する」、その材料に練習を使うと良いのです。

④適正な教育

親が教育に熱心であればあるほど、子供の能力を超えて高望みをして、子供をつぶしてしまう傾向があります。
思い道理に子供が言う事を聞いてくれないので、ヒステリックになってしまい、症状的には今よく社会問題的になっているネグレクトと全く同じ状態になったります。勿論、その結果は子供の反応自体もネグレクトの場合と同じような心身症の症状を惹き起こしてしまいます。

状態の現れ方とその結果が同じであるということから、一般の心理学では十把―絡げに払ってしまうので困ります。
なぜなら問題を解決するための、親に対しての対処は全く異なるからであります。ネグレクトの場合には、ほとんどの場合が幼児体験などに基づく親の側の心身的な問題であり、親の心療内科などでの病院での治療が必要であるからです。
それに対して、親が厳しすぎる場合には、年齢に応じての教育(意思の交換)、碎啄同期のテクニックなどの教有のテクニックを学べば良いだけであるからです。

子供が何か一つが出来るようになるためには、学ぱねぱならないずいぶんたくさんの数多くの段階があることを親が知って、理解出来る様になれば、子供に対してのヒステリックな接し方は自然に治ります。
'
しかし、碎啄同期の難しさは、受け手と送り手が同じ段階(レベル)のものを交換(communicate)しなければなりません。
レベルが違ってしまえばタイミングが合っても、何にもならないのです。

必要な時期に必要なことを必要なだけ行う。
これがあせらない自然体の教育です。(ホームページ上の参考文献:「碎啄同期の話」・「親の過剰期待」・「過保護と過疎護」のページ参照)

又、子供を自然に褒めることが出来るようになって、子育てを子供自信と一緒に味あい、ひととき、ひとときを、楽しんでともに勉強するという姿勢を持つことが出来れば、正しい適生な教育が出来ていると言えます。

大学で書かれた教育論文はともかくとしても、音楽教室の父兄向けに配布するためにかかれた、20年以上も前のワープロで書かれた教育論文を、パソコンでOCRしてホームページの方に転載し始めました。

ワープロのフロッピーの文章はパソコンで読み取る事は出来ません。互換性がないのです。オアシスのワープロ文章をワードに直すソフトを試してみましたが、一文章ごとに大変な手間がかかることが分かりました。
というわけで、いろいろ試した挙句一番手っ取り早いものがOCRだったわけです。

但し私の論文は教育に関するものだけではないので、仕事の合間、合間に多種多様にわたる論文をコンピューターに写しながらなので、いったいいつ終わるのかよ<分かりませんが、暫時、OCR出来た論文からホームページ上でリンクを張っていきたいと思っております。


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          2.小学校の上級生(5,6年生ぐらい)~中学生

                「見守る」ということの大切さ

①要注意のギャング・エイジ

子供達の意識が友達や異性、社会などの外面に向かう5,6年生から中学生にかけての時期は、教育心理学的にはギャン・グェイジという言葉でも表される時期であります。
しかし、この時期は子供の巣立ち(自立)のためのトレーニングの時期であります。

何事も自分で勝手にやって、親の言う事を聞かないなと思ったら、突然、甘えてきて子供(赤ちゃん)に還ったり、とても払いにくい時期でもあります。

親も親で、「あなたは、大人なのだから自分で判断なさい。」と言ったかと思うと、「子供のくせに、親の言う事はちゃんと聞<ものよ。」と言ったり、大人になったのだから、と言って自分で子育てを一方的に卒業させてしまって、外に働きに行ったり・‥、と実に身勝手に子供と接したりします。。


父親も、子供が幼い時には、自分がどう子供と接していけば良いのか分からなかったので、全部を母親任せにしてきたのに、子供が自分の話が理解できるようになったから突然、父親として、(今までの子供の育ってきた道筋は無視したまま、)突然父権を主張しだしたりして、子供を困らせます。

大体この時期は、夫婦間もなんとな<疎遠になりやすい時期でもあります。つまり、夫婦の共通話題だったはずの子供の問題も、子供がある程度自立するようになると共通の話題にもならなくなって、子供の話題自体も家庭から消えてしまったりします。
親が子供のことをかまわなくなると、子供は直ぐに暴走を始めます。

親の言う事を聞かなくなったり、思春期症候群が起こったり、せっか<育てた練習の躾を、悪い友達なんかの影響で全<なくしてしまったり。特に女の子の場合には彼氏ができてsexの問題が絡んだりすると、勉強や夢の達成のための努力に二度と意識が戻ってくる事はありません。

逆にこの時期に親が何とか子供に自分達の夢を押し付けようとして、独立心の強い子供(例え長女であったとしても)に、勉強や練習に強引に介入するケースがままあります。これは望ましい状態とはいえません。

例外:

「例え長女・‥」と言5事については、これは特殊な例外の話なので本当はお話すべきかどうかは疑問なのですが、長女タイプの子供は母親と二人三脚で努力してい<子供が多いからなのです。長女タイプの子供は基本的には独立を望みません。

母親が子供を自立させようとすると逆に「見捨てられた。」と感じてしまうのです。

勿論、長女タイプの例で、仮に親と子供の関係がうまく行っていたとしても、親が介入してくる内容が、先生の指導内容といちぢるし<異なる時には、子供は混乱し、学習の伸びが止まってしまいます。それだけではなく、やがては音楽嫌いにもなって、音楽を学ぶことをやめてしまう結果を引き起こします。

タイプ別の子育て方は、あくまで参考にと言う事なので、この文章には載せていません。
全文を載せると大変なことになるので、タイプのある程度の分類だけを載せておきます。
A:兄弟がいるケース
 ⑥男の子だけの兄弟の中のO番目
 ⑧女の子だけの姉妹の中のO番目
 ⑥お姉さんが最年長での混合兄弟の中のO番目
 ⑩お兄さんが最年長での混合兄弟の中のO番目

B:一人っ子

 ⑥男の子
 ⑧女の子

これだけざっと書いただけでも、大変な分類になることはお分かりと思います。
基本的にはアドラーの心理学の中に兄弟別の分類はありますが、当時はまだ一人っ子という存在自体が、一般的ではなかったので、一人っ子についての問題提起はなされていません。
日本型の女性の自立で一番難しいのは、B-⑧の一人っ子の女の子のケースなのですがね??


②この時期の理想的な親の姿勢(全てにわたって矛盾した年齢)


子供たちは(例え親の介入を極端に嫌がる、自立心の強い子供であったとしても・・・)、親が自分のことを見なくなってしまうと、極端に不安になって、挫折を惹き起こす要因になってしまいます。
それは必ずしも、精神的な弱さから来るだけでなく、成長期の肉体のアンバランスからも来るものなのです。

ですから、それまで、年齢にしては・・とてもしっかりしていた子供でも、突然、幼<なって、甘えてきたりします。

勿論、この時期は自立の時期である事には変わりないのですから、子供は自分のやる事を、親からは口出しはして欲しくはないと言う事を望んでいる事には変わらないのですが、それでも、親が自分のことを見守って、見つめていてくれることを(しかも自分を信じてくれている事を)、いつも強<望んでいます。


この年齢の時期は、大人になるための準備の時期なのです。
本当は全てを一人でやりたい、そして出来る事を親に見せたいのだけれども、一人で未知の所に踏み出すには怖いのです。
失敗もします。
失敗したときにはもう一度子供に戻って親に甘えたい。
でも直ぐに立ち直ってもう一度自分でやりたいので、親や大人からの口出しはして欲しくない。
そういった矛盾に満ちた時期でもあります。

親と言う字を分解すると「木の上に立って見ている人」と書きますね。
曰く、「遠くから見守っている人」‥という意味なのです。
距離をおいて、自分の子供をとてもよく見守れる場所(木の上)から見守っている、それが親の理想的な姿です。

見守られていると言う安心感を子供が抱く事が出来れば、いじめや非行の問題は、最初から起こりません。


それなのに日本型の父親は、「自分が一生懸命に仕事さえしていれば、子供は自分の背中を見て育つ。」などと、本当に思っているから怖いですね。
本当の、「親の背中を見る」という意味は、父親が自分の背中を通して、子供を見つめている・・という事なんですがね。

昔の不器用な父親は、子供を直接見て育てる、という事が、恥ずかしくって出来なかったから、「自分の背中に目を作って」、背中にある目で、子供を見ていたのですよ。
くどいようですが、見ているのは親であって、子供ではないのですよ。
まず、そこが違いますよね。

そして子供は、親が親の背中を通して、自分をしっかりと見つめていることを肌で感じる。
そういった意味なのですがね。


同様に、「子供が自主的に練習をする」と言う事は、「子供に勝手に練習させる。」・・・あるいは「子供が勝手に練習する。」と言う事とは、全く違う!!ということなのです。

ちゃんと先生が(親が)自主的に練習している所を見守って、チェックしておいて、後で子供が行き詰ってアドバイスを求めてきたら。それとな<指導するから、いつのまにか自主的に出来るようになるのです。

自主性は年齢が来たからと言っても放っておいて、身に付<というものではありません。

ちゃんと教育しなければ、いくらその年齢に達しても、いきなり出来るものではありません。
いずれにせよ、子供が始めて「自立しよう」とする人生の中で一番、困難な不安定な思春期の時期に、子供を放ったらかしにしてしまい、子育てを失敗する親を、今まで何人、見て来た事か‥‥!!!

例えば、生まれたばかりの赤ちゃんが立とうとする時には、親は一生懸命、手を差し伸べます。
子供がずっと親と一緒だったのに、始めて一人で歩もうとするときに、「一番見守っていて欲しい年齢の時期」に、「子育ては終
わった。」なんて勘違いをしてしまって、子供を失ってしまう親が結構いるのですよ。

確かに親にとっては子育ては初めての経験ですから、なかなかそういったことがわからないのかもしれませんが、私たち教育のプロから見たら・・・、「またか‥!!」という事ばかりなのですがね!!

③先生と親の違い(信用と信頼)

教室の生徒の場合には、お母様の職業が、学校の先生やピアノの先生ということが思いのほか多いようです。

ですから、教育に熱心になるとついつい、自宅でも子供が練習していると、ついつい子供に対してピアノの先生になろうとしてしまう事があります。

医者でも同じですが、医者は基本的には身内は診ません。
どうしても感情的になってしまい、厳し<見なければならないところを見逃して、どうでもいいところを大騒ぎするからです。

あるときに、私の養父が母のレントゲン写真の重篤な影を見逃してしまい、養父の医者仲間の友人たちから吊るし上げをくっていました。
「お前、何でこんな影を見落としたんだよ。」養父も首をかしげて、「何故気がつかなかったんだろう。」と不思議がっていました。
でも、ちゃんと友人達に見せて、判断を仰ぐ・・・という事は、さすがだなと思いました。
‥と言う事で母も大事には至らなかったのですがね。


又、一般の父兄の方達の場合ですが、「子供が先生の言う事はよく聞いても、親の言う事は聞かないから。」と言って、先生に対してジェラシーを抱かれる父兄の方もいます。

私はそこでよくお話しします。

「先生と親は違うのですよ。」‥・・
(「教育者の両親が子供に対してよく犯す過ち」のページ参照)

とても子供好きなピアノの先生がいます。
でも、困ったことに、レッスンで、ついつい母親になってしまうのです。

先ほどの医者と同じで、困ったことに、客観的に子供を見てくれないのです。

お母様がピアノの先生で、小学校の4年生の女の子が教室に来ました.ピアノはとても上手なのですが、譜読みが全く出来ないのです。
お母様に「譜読みの練習のカリキュラムをやりましよう。」というと、「この子は譜読みは得意です。」という返事でした。
親が弾いたのを、耳で本当に一回か二回で覚えてしまうのです。
しかし、難しい曲はぱらぱら弾けても、パイエル程度の曲すら、譜読みが出来ないのです。

困ったことには、親がピアノの先生であるので、子供が譜読みが出来ていないという事を、認めようとしない、という事でした。

譜面が読めなければ読めないなりに指導は出来ます。

しかし、音楽の方に進むのなら、必ず何時かは譜読みで行き詰るのだから、早い時期に本当に直さなければならない所は、少しずつでも良いから、ちゃんと直していかなければなりません。
早ければ早いほど、被害は少なくてすみますし、直すのも簡単です。


上手になって、曲が難しくなれば、将来的に必ず譜読みで、行き話るのだから、早い時期に本当に直さなければならない所は、少しずつでも直していかなければなりません。
早ければ早いほど子供にとっても楽です。

しかし、お母様のピアノの先生の立場としては、「娘が譜読みが出来ない」という事は、先生としてのプライドとして、認めることができなかったのでしょう。

譜読みの問題点を指摘された‥」といわれた途端に、教室をやめてしまいました。

よく私が「音楽教室を経営している」と言うと、相手から「子供がお好きなのですね。」と言われる事があります。

しかし、本当は、子供を指導するピアノの先生であるためには、別に子供が好きである必要はないのです。

「音楽を」、あるいは「ピアノを」好きであれば、それで充分なのです。
「子供が好き」で「音楽が嫌いな先生」と、「子供が嫌い」で「音楽が好きな先生」だったら、どちらの方が「良い先生だ」と思いま
すか?

「ヤブ医者だけど、患者思いの医者」と、「名医だけれど、患者の事はあまり考えてくれない医者」だったら、あなたは、どちらに診て貰いますか?

冗談はさておき、「子供を見守れるように」親がなるためには、必要な大切な言葉があります。この話はそのまま、先ほどの、親と先生の愛情の与え方の違いにもなります。

それは『信用』と『信頼』と言う言葉であります。

この言葉の意味の違いを正しく理解することは、とても大切です。

『信用』と言う言葉は。「結果」を見てその結果についてのみで判断するということです。

『信頼』とは、その「結果」がどうあろうとその子供自身を信じるということです。

先ほどの話で、親が教育者である場合に犯す最も多い間違いの原因は取りも直さずこの言葉に由来します。

先生は子供と信用関係であった方がベストであり、親と子供は絶対に信用関係にあってはならないのです。

親は必ず子供を信頼しなければなりません。
それが親の愛であります。

先生の役割は子供がちゃんと育つように教育するとく事です。

親の愛情と、私達指導者との大きな違いは、『親は子供を信頼することが出来る。』と言う事です。
仮に社会の誰もが自分の子供の事を信じなかったとしても、親の貴女は子供を信じ認めてあげなければなりません。

例え、子供が、もしそれを望むのなら、それが今出来なかったとしても、必ずいつかは出来るようになると言う事を信じてやらなければならないのです。

「私の子供だから、出来るわけが無い。」なんて地球が逆さになっても、考えてはいけません。

「必ず出来る。」と信じてあげなければなりません。

それが木の上に立って、子供を見守るということなのです。

それに対して、先生は『子供が何処までは出来て、何処から出来なくなるか』を正しく判断出来なければなりません。
先生の愛情というのは、愛情は愛情ではあるかもしれませんが、常に冷静に、感情を交えずに、子供の成長を見て、何が足りないか、何を指導すべきかを判断して、教え導かなければならないのです。

 親が子供を『行動の結果』で愛するとしたら、子供は普段の日常生活の中で親を信じることが出来なくなってしまいます。
常に100%を要求されるとしたら、子供はどうなると思いますか?

日常生活の中で、子供は追い詰められて行き、逃げ場がなくなってしまうのです。そこである地点で爆発をしてしまう。
それをSNBP(負の転換点)と呼びます。(後述)


④思春期の女の子の教育

思春期の女の子の問題は、教育界と医学界、心理学の世界の狭間に合って、なかなか研究が進まなかった分野でもあり、芦塚音楽研究所では教室の創設時からその研究に取り組んでまいりました。
と言う事で父兄の研究会等でかなり早い時期からその対処の仕方を説明してまいりました。
(ホームページ思春期シンドローム参照)

思春期の問題はよく女の子の生理の問題と勘違いされる事があります。
生理の時期とは殆ど無関係に思春期シンドロームは起こります。
また、日常を普通に過ごしている女の子には思春期の問題はそんなに強くは起こりませんが、勉強や練習などを一生懸命やっている子供になればなるほど、現れ方は劇的になり、問題は深刻になります。
またその時期が中学受験の時期や遅い子供にとっては高校受験の時期に重なったりするので、問題をより大きくする事があります。
いずれにしても、このお話だけで大きな一冊の文章になってしまいますので、ホームページの文章を読んでください。


           3.高校生以上

本当の意味で、「音楽に進みたい。」とか、女の子が将来を決定して言ってくるのは、高校1年生の夏休みから2年生の夏休みにかけてです。
その年齢にならなければ本当の意味での社会の一員としての自分の未来が見えてこないのです。
その為に私達の教室では、せめてレッスンに通って来てくれていれば、その時期にもし音楽大学進学を子供が望んだとしても、何とか対処出来るように通常のレッスンの中で、ある程度の音楽大学の受験のためのカリキュラムがこなせるように指導をしています。
勿論、何とか‥・程度ではありますが。しかし、よその教室から、その時期に「音楽大学に進学したいので何とかして欲しい。」と頼み込まれても、それは不可能です。
それはそこまでの基礎の勉強が出来ていないからです。ピアノやヴァイオリンだけでな<音楽大学受験のためのいろいろな教科(ソルフェージュや聴音などの)に対する基礎の勉強が問題です。(以下ホームページ参照)


高校2年と言うのは男の子の成長にとっても重要な時期であります。

男の子と女の子を同じ年齢という枠で指導すると、必ず、女の子の方が先に成長します。
小中学生での男の子は女の子に比べて幼いのです。
しかし、高校の2年生頃にはやっとあらゆるところで女の子に追いつきます。
身長も女の子を抜いていきますし、肉体的なことばかりではなく、成績なども女の子に追いつきます。
やっと、この時期で、プチ・大人の仲間入りをします。
と同時に、今まで親や学校などに自分と言うものを押さえつけられていた子供達は思い切ったプロテストをしたりする事もあります。

これが家庭内暴力や学校の校内暴力となって現れます。また抑圧された感情が極端にゆがめられて表れる場合には殺人などの事件を起こす事もあります。
しかし、これらの親や学校の判断は、-応に「今までは、とても良い子だったのに、理解できない。」と言います。私達に言わせれば、「理解できないのではな<、自分のエゴで(子供を自分が望むように)見る以外には、子供を(ストレートに)理解しようとは思わなかったのでしょう。」としか思えません。
子供の心の叫びはいつも出ています。
本当に子供の心を聴こうとする人達には、子供の叫びは届いています。
しかし、学校や親達は、その忠告を聞こうとしないだけなのです。
親が強すぎて(子供が親に対して)反発できない場合や、子供の精神的な成長が未熟な時期(心が成長し切れていない時期)にsnbp(負の転換点)の時期を迎えると、ひきこもりやリストカット(自傷)になります。
それが進行して、もっと悪い状態になると。心身症から分裂症に、或いは直接的に自殺をすることになります。
これらの症状を引き起こしたときには、治療として子育てのやり直し、(simulation)をする事になります。そこで正しい愛情表現の模擬的な勉強をします。

なんともやりきれないことなのですが、それでも本当の親の愛情よりも勝っているのですからいたし方ありませ
ん。
親の価値観が狂ってしまっているわけなのですからね。


「通常の子育て」は普通は大学に進学させる所ぐらいで終わります。
通常の‥‥はね!


以上が、年齢に関する芦塚メトードの教育概念についてです。

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    3.年齢によらない教育論
 また、子供の年齢によるものとは直接関係はありませんが
芦塚先生のいろいろな教育論のお話を簡単にご紹介しておきます。



                 子供が質問するということ

芦塚音楽研究所の見学に来た音楽家達がまず驚くことは、子供達が先生に対してごく自然に質問をすることでしょうか。
(一般の学校教育社会では質問をされると自分を否定されたように勘違いして怒り出す先生が多いようです。それで、普通、一般的には、子供や親が先生に対して質問をする事はまずないのです。)

私達の教室では、先生達は子供達の質問に対して子供に分かるように易しく、楽し<説明しています。
語彙の少ない子供達に音楽上の色々な事を説明をするのは結構難しいのです。
例えば。ブルグミュラーの練習曲集の中に「優美」という曲がありますが、子供に「優美ってどんな意味か知っている?」と聞くと「知らない」というので、国語辞典を引いてみましたが、「雅やかな様子」などともっと難しい言葉で説明してあり、逆に子供はもっと「???????」が増えてしまいました。
芦塚メトードでは子供に言葉を教える事の重要性を常に説いています。


まずそれを、見学に来た先生達が驚嘆されます。
子供を教えた経験のある先生は子供に説明をすることが如何に難しいかはよ<理解できているわけですが、音楽大学等を卒業したての若い先生達には、自分等が実際に子供の質問に対して、どれだけ説明が出来るのであろうかということを理解させ自覚させるために、教室の先生の代わりに、子供の質問を受けさせてみました。
結果は惨憺たるものでありました。

子供の質問に対して、その回答を若い先生本人自身が知らないのです。
論外と、言わざるをえません。
ごくまれに回答を本人自身は分かっている先生がいたとしても、それを子供に伝達するだけの、子供との会話する上での語彙が無いのです。

ましてごく普通の先生は、自分が育ってきた過程で、音楽に対して疑問を持ったり、先生に質問をぶつけてみたりした経験を、(音楽の勉強だけではなく、)塾やはたまた学校でさえ、してきたことが無いからです。

それで、そのまま大人になって、先生として現場に立ったとしても、自分の過去の生き様の中にそういった経験がないということは、自分自身が勉強する上でもネックになってしまいます。
「何事に対しても疑問を持たない」と言う事は「成長をする」と言う事すら無いからです。
子供に何を質問されても「知らない。」「分からない。」と答えます。
困ったことです。

しかし、プロの世界では無知は恥となるのですがね。

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 子供に対する尊敬語の教育について

芦塚先生は、あまり小学生ぐらいの子供が尊敬語を使ってしゃぺってくるのを好きではありません。

親は「先生に対して、なんて口の聴き方をするの!」とかよく先生の前で子供を叱ったりします。芦塚先生は親に「とってつけた尊敬語は気持ちが悪いから。」と言うのですが、躾を考える親にとってはたまらなく、許せないようですね。
しかし芦塚先生が子供に敬語をあまり使わせない本当の理由は、子供の本音が聞けなくなるからなのです。

子供は敬語では、まだ自分を表現する技術は持っていないからです。
しかし、子供達が中学生以上になって尊敬語を使いこなせるようになったときには、芦塚先生に対して溜め口でしゃべっている生徒はー人もいません。
いつの間にか、不思議に尊敬語に代わっています。

教室では、生徒が上級生になるとインストラクターの勉強を始めて、それからいつの間にか先生になります。
外から雇われてくるのではないので、生徒から先生への移り変わりがよく分かりません。

ですから、最初は親も、生徒も「**ちゃん」と先生のことを読んでいます。
しかし、いつの間にか先生がベテランになって来ると、親も生徒も自然に「**先生」と呼ぶようになります。


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兄弟で同じ楽器を習う事の問題点

兄弟が同じ楽器を始める場合には、年下の子供は上の子供が先生に怒られたりするのを見ることで、学習してしまうので、よく親は、「下の子の方が、上の子供よりも才能があるのでは‥」などと勘違いをします。

しかし、それはあくまで上の子供のお稽古を観察して学んでいるからで、当然、上の子供がお稽古事を止めると、下の子供は学習する事が出来ないので、当然一人で勉強していた頃の上の子供と同じ状態になります。


これは次女、三女等もまったく同じで、長女タイプ、次女タイプ、でも子育ての仕方は基本的には違うのです。
長男、長女は常に新しい事を開拓しなければならないので、常に親の手助けが要ります。

それに対して、次女、三女は長女を見て学ぶので、長女7割、次女2割、三女1割の比率でかまっていけば、均等にかまった事と同じになるのです。
これを芦塚メトードのフ対3の理論といいます。(ホームページヘリング)

又、長男は同じ楽器をやっていると弟から一瞬で抜かれてしまいます。
音楽の場合、勉強の仕方はある程度共通でもやむをえませんが、不必要に長男にコンプレックスを与えないように、一般の教室ではお兄ちゃんよりも教材を先に進ませないようにするところが多いのですが、私達の教室では楽器を変えて、子供に不必要な競争をさせないようにしています。
楽器を変えれば、どちらがどれぐらい技術的に伸びたかは全く関係ありませんからね。

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           SNBP負の転換点

此処のところ、テレビなどで大きな事件を起こした子供の話を毎日のようにやっています。
小学生や中学生の子供が問題を起こすたぴに、テレビではどんな教育がなされたのであろうかという話になり追跡調査されます。

テレビではコメンテーターがいつも言います。「本当に親の言う事を聞いて、勉強も出来て、学校でもリーダー的な存在で、どうして、そんな子が何で親殺しとかするんだろう?」というお話です。

そしてそんなおとなしい、良い子供が何故、どうして‥・・?と言う話で終わります。

私に言わせれば、その子供は親の前で良い子になりすぎたのです。

そういった親の過剰期待は、子供の夢を伴いません。
いい学校に入って、いい大学に入ってそれからどうするのよ?
あなた自身が中学校や高校生のときにそれで悩んだはずでしょう?
それなのにどうして同じ悩みを子供に与えるの?

つまり、良い成績をとるとか、良い大学にいくためにより難しい塾に通わせると言う事が、子供自身の価値観と結びつかなかったのです。
それを学ぶ事が子供にとってのi dentityとなりえなかったのです。
塾で勉強をする、良い成績を取る、と言う事が、子供自身が抱いている夢とつながったときに、始めて価値を持ち意味を成すのです。

貴女が子供であったときに、良い大学に行<と言う事がどれだけの夢があったのでしょうか?成績を上げて良い高校に言って、良い大学に入って、それからどこに就職するのかな?それが子供の夢になるのかな?それは子供の夢ではなくって、貴方の夢ではないのですか?
子供の本当の夢は将来何になりたかったのかな?そういった子供の心を押しつぷして、お前は良い社会人になるのだから良い大学に行かなければ‥・!それは理屈でしょうかね?
良い大学を出ても就職する事すら出来ないで、引きこもりをしている、あるいはニードをしている、あるいはネットカフェで毎日プチホームレスをしている若者達‥・等等、が現在社会現象となって政治の世界にまで問題となってしまっています。
一言で教育の崩壊とは言い切れません。むしろ人格の崩壊になってしまっているのです。

ネットカフェやホームレス、などは大人になってからの話ですが、むしろ問題は子供達の生活にあります。大人になるまでも、耐え切れなかった子供達は「負の転換点」を渉ってしまいます。

張り詰めた風船が如何に脆いか?敢えて言うまでもありますまい?

張り詰めた子供の精神の風船が破れる瞬間の事を、心理学的には負の転換点(SNBP)と言います。

厳しい親の躾に耐えきらなくなったとても従順で素直で、心の優しい子供達に当然のごとく「負の転換点」は起こります。

違うんだよな~!

そういう子供だからこそ、そうなるんだよね。

それをSNBPって言うんだよ。


負の転換点は、その子供の心が弱く優しい場合には、その結果は、自分を痛めつける方向に起こります。そして、心身症という結果を生み出します。

比較的初期の状態では、風邪のような症状(発熱や頭痛など)虚食症や腹痛、慢性化してくると小児喘息などの症状が現れます。
引きこもりやリストカットなどの自傷などもこの段階で起こるのです。


さらに重症になってくると、緘黙児(引きこもりとは違います。)となり、さらに悪化すると、心神喪失や分裂症を引き起こします。
一度、分裂症になると、二度と直りません。
一生薬を飲み続けなければなりません。
子供は無意識に、本能的に(心身症や分裂症の)病気になるのを、逃げようとします。それで、周りの社会にhelpの信号を出します。それがリストカットや引きこもりなどです。いろいろなhelpを見逃さないで子供に救いの手を差し伸べる、それも先生の役目です。

特に分裂症を引き起こすケースとしては、父親が家族に対しての支配欲が強すぎて、、しかも父親自身が理想主義的で在り過ぎて、果たせず、子供たちに要求している言葉が現実とくい違いすぎるばあいであります。
親自身が自分が望んで果たせなかった夢を子供に託そうとして、よくこのケースになってしまうことがあります。
父母が与えている夢が親のものか、子供自身のものか、現実を正し<認識する事は子供を教育する上で最も大切な事なのです。

上記の例は父親が自分の夢を達成出来なくて、子供にそれを託そうとして犯す誤りですが、反対にある程度満足がい<コースを歩いている父親が犯しやすいケースがあります。

 父親(や母親)が自分の到達した学歴や、社会的地位を子供に自慢して。その上で子供に自分を乗り越えるように命令し要求する事です。
何故、それが子供をだめにする事になるのか?それは潜在意識的には、親が自分のすごさを子供に認めさせたいという理由であることが多いからなのです。
 私はこれを『潜在的命令』と呼んでいますが、これには子供に対して次のような潜在的命令が含まれています。

stepl.父親(母親)は、**大学の出身だから偉い。(学歴)
**会社の**だから偉い。(地位)

step2.私は父親なのだから、 子供は従順でなければならない。
step3.おまえは子供だから、 父親を越えてはいけない。
      (父親は絶対であり、乗り越えてはいけない存在。)

もし子供が、父親に対して「従順で良い子供であろう」とした場合、子供が(父親に対して)良い子であろうとすればするほど、父親の満足度と反比例して子供の苦痛が始まります。
このケースの場合、親が満足すればするほど、子供の苦しみが増すわけなので、これ程子供にとって不幸せで悲劇的な事はありません。
他人から見ると実に痛々しい事なのですが、当の家族はそれを気付いているケースは少ないのです。親の言う事を素直に聞くとても良い子供と、教育熱心な両親、傍から見ても、とても理想的な幸せな家族にしか見えません。
ねえ、どっかで聞いた怖~い話じゃ無いですか?
何でも親のゆうことを素直に聞く良い子、両親にとって自慢の子供は。しかし本当は「親にとって都合の良い子」でしかありません。子供自身は、破裂寸前の風船の状態なのです。

ここで父親はいよいよstep3.の潜在意識的な要求を発動します。
革新的な能率的な方法では子供が一瞬の間に自分を追い越してしまい、父親の権限が失墜してしまいます。
ですから、いくら努力しても伸びない旧態前とした儒教的な勉強法、又の名を、闇雲勉強法とも呼んでいますが、で勉強をさせます。
そうして父親と子戦が、ループする一番能率の上がらないやり方で無駄な努力を始めます。その結果、子供は父親の要求通り、-1懸命努力している(ポーズを)しますが、成績は上がりません。
父親は、失望しながら満足します。
「やっぱり」|分は子供より優れた親なのだ。
子供が自分を越える事はないのだ。」と。


こういった直接的な日本型の父親の話とは別に、私がずいぶん以前に書いた論文では、非常にクレバーに、妻や子供に対して接する「隠れ日本型」の父親の例を報告しました。
日常的、外面的にはヨーロッパ型の父親のように、妻や子供に対して上手に接する事が出来るのですが、本質的には隠れ日本型とでも言うのですか、独善的で支配的な性格を持っている人がいます。
建前と本音の使い分けが非常に上手く、妻や子供との話し合いや家族会議などで、言いたいだけ妻や子供に意見を言わせて、それを説伏していって、「私はお前達の意見は充分よく聞いてやったのだから‥。」とか言って自分の意見を最終的には全て認めさせてしまいます。
母親や子供は一応父親が自分達の話を聞いてくれたのですから、それで充分に満足をして、父親に対しての信頼は絶対的なものがあります。
しかし、それは、人を丸め込むための、ディベートのテクニックにしか過ぎないのです。その夕イプの父親はよ<子供に条件を出します。これが出来たらお前の言う事を認めてあげよう。
私もお前の言う事を聞いてあげるのだから、お前も私の条件をクリヤーしなさい。」

―見物分かりの良い父親のような話ですが、その条件はとてもかなえられそうではありません。
それでも、死に物狂いに頑張って、父親の条件をかなえたら、今度はもっと不可能な条件を出します。
そして等々条件をクリヤーできなくなったときに、父親は勝ち誇って言います。
「ほら見たことか。お前は何も出来ないのだ。俺の傍でおとなし<、私のいうことを聞いていればそれで良いのだ。」

結果的には、儒教的な絶対君主的な父親なのですが、それをわからないままに育っている子供も多いのです。
そのタイプの父親は子供の巣立ちを絶対に認めません。子供の恋愛などは、以ての外です。
子供の仕事から結婚までも自分が決めないと気がすまないのです。

多かれ少なかれ、親は子供が実現不可能な条件を子供に与えて、「それを出来たら、自分のやりたい事をやって良い。」という事を言います。
例えば、「音楽の勉強を続けたければ、塾のテストを平均で何点以上取らなければならない。それ以下だったら止めさせる。」とかです。
音楽の勉強も充分子供にとっては。厳しく辛い、たいへんな勉強なんだけれどね。先生がーつーつの技術に工夫を凝らして、楽し<教えているだけなのですよ。楽しく教えられるようになるためには、先生はとても大変なのですよ。
よその教室では、泣き喚いている子供を強引に引っ張って教室に連れて行く、なんていうのは当たり前なんでしよう?
それを芦塚メトードでは親の子供に対して与える「選択権のない条件」と呼んでいます。


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                    日本の音楽教育

 これによく似た有無を言わせない指導法の例は、一流演奏家のレッスンなどによく見られます。

生徒に指導するときに、「こう弾くのよ!」と言って、ただ猛然と弾きまくります。
生徒はその迫力に圧倒されて、「さすがは私の先生だ。」と感心して、何を指導されたかも全く分からないままに、それでレッスンを受けた気になって満足して帰ります。

そこに次のような、潜在的命令が存在していることに気付きません。

Stepl.私は一流の先生について勉強している。

Step2.一流の先生を乗り越えると、先生は一流でなくなる。

         (先生は乗り越えてはいけない存在である)

Step3,先生の教えはよく分からない。

Step4.でも一流だから(分からないから)素晴らしいに決まっている。

Slep5.分からないかg如来なくても当たり前

         (一流がそんな簡単に出来る分けが無い)

出来ないと言う事を前提に勉強していて、出来るようになる分けはないのですがね??


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    曲を弾いて指導する先生

曲を生徒に弾いて聴かせるという指導方法には、大きなリスクが付きまといます。
 何故ならば
1.雰囲気だけで、何となく真似をしたり。
2.悪い癖もいっしょについてしまって、逆に癖を取ることに時間がかかってしまったり
3.パールマンなど超一流の演奏家と呼ばれる人でも不得意の技術があって、他の演奏法(テクニック)で代用して弾いたりすることがあります。ましてやそこいらの・‥etc.です。
別のページにリンク(ホームページ:曲を弾いて教える先生)

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            日本流の日本でしか通用しないメトード

日本のバイオリンを学ぶ生徒達が、外国の一流演奏家達に公開講座を受ける度に、必ず注意される弾き方があります。一体どの先生が病原体なのか、**大学の生徒も****コンクールの生徒も、あまりにたくさんの生徒達が同じ様な弾き方をして、その都度日本に来るたぴにその奏法の誤りを指摘しているのにもかかわらず、20年経っても30年経っても治らないので、ベルリン・フイルのシュバルベ教授などは、とうとう瘤癩を起こされて、「BOWのAIDSだ。」と諦めがちにおっしやられていました。

アメリカの国民的バイオリンニストであるアーロン・ローザント氏に到っては「そんな弾き方をしていて、あなたは気持ち悪くないのですか。」と講座に出演している生徒にバイオリンを弾かせず、音を出す基礎のお話ばかりされていました。

「そういった弾き方は日本人だけの悪い癖だ。」と‥・・。

そういう話が出たからといって、シュパルベ先生やローザンド氏の公開レッスンを受講した人はレベルの低い普通の音楽大学生ではありません。有名音楽大学を一番で卒業したり、日本のコンクールで一位入賞した人達の集団であるから。問題は深刻なのです。

つまり、日本が音楽教育に望む事と、世界のトップの音楽家の人達が望むものとは、音楽に求めるものが違うのです。それを、日本人は明治時代の音楽事始の時代から今日まで、全<認めようとしないのです。

 しかし、不思議なことに、主催者側の*****協会の会報には、シュパルベ先生達がいつもおっしやられている、日本の教育の矛盾点、その事だけには少しも触れられていません。そして現在もなお、たくさんの音楽大学生が何の疑問も抱かずにそういった弾き方をしています。

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夢をかなえるには

話がちょっと横導にそれてしまいましたが、いろいろな意味で人間が常に潜在意識によって左右されていることは周知の事実でありましょう。

潜在意識に人簡が打ち勝つためには、自己を正しく見つめることが必要なのです。

 まして子供は愛を休に感じて成長してい<生き物なのです。

その大切な『愛』を、『信用』という言葉とすり替えてはいけません。
長い人生の中で。何度失敗しても良いではないですか?
小さな子供の内から100%失敗しないで大き<育ってきた大人は、逆に人間として恐ろしいと思いませんか?
挫折を知らない人に思いやりの心が育つわけはありませんよね。
偉大な発明や仕事は、みんな失敗から学んできたものなのです。失敗を如何に生かすかそれが大切です。(ホームページ参照)
ましてや、「自分の子供だから、そんな事が出来るようになるわけがない。」などと、自分の子供を否定してしまうような、情け無い‥・親失格の言葉は絶対に言ってはいけません。
あなたがそれを今出来ないのは、あなたの子供時代の成長期に、そういった環境が周りに無かったからだけなのですから。

「目的を達成する。」ということは、比較的簡単な事なのです。
つまり、条件さえ揃えばよいのです。
1.「夢」の正しい把握‥‥‥‥‥⇒より具体的に!
2.目的までの正しいシナリオを書<。・‥⇒無理のないように!
3.正しい方法で‥‥‥‥‥‥⇒回りに惑わされないように!
4.諦めないで‥‥‥‥‥⇒諦めたらただの挫折に成ってしまいます。
 それぞれのページにリンク
「目的を達成する。」ということは、上記の注意事項を正し<認識出来たか否かにあります。
 一番の「夢」の正しい把握と言うことは、殆どの人達が抱<夢は、「在りもしない事を目的にする。」と言うことが、よく在るからです。
 例えば、女の子の「将来なりたい職業」という調査をすると、必ずと言っていいほど。夢の中に入ってくるのが『花嫁さん』です。
こういう風に答えるのが、幼稚園児であるなら可愛らしくって問題はないのですが、なんと女子大生達の中でも、こう答える生徒がいますから問題です。「では主婦になりたいと言うことなのですか?」と聞き返すと、小学生から大学生まで一様に「主婦にはなりたくない。」という答えが返ってきます。
ちなみにアメリカやヨーロッパの子供たちに同じ質問をしても、『花嫁さん』と言う答えはあまり返ってきません。(主婦という答えはご
く稀に返って釆ますが。)

 同様にピアニストやバイオリンニストという職業や、作曲家という職業も誤解されて受け取られている事が多いようです。
 音楽を学ぶ人達にとって、「音楽での職業は何か?何になりたいのか?」と聞くと、殆どの音楽大学生が「ソリスト!」と答えます。しかし、ソリストで飯を食っている人は世界中でも10指に過ぎないでしょう。
日本人の中でソリストとして世界に認められている人と言えば、小海征爾さんだけでしょう。
自分でコンサートホールを借り切って、1年に1,2回の演奏会をしたからといって、ソリストに名を連ねられるわけではありません。
所詮はアマチュアに過ぎないのです。
このこともホームページに詳しくくどくどと書いていますので、そちらの方を読んでください。

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                夢の正しい把握

作曲家という職業は、ポピュラーや流行歌の世界では、億万長者がいます。
日本の古賀正夫や外国のフランシス・レイや等々の作曲家の人達です。
しかしクラッシックの世界では、かの有名なストラビンスキーやメシアン、ジョリベという歴史に名を残す偉大なメージャーな作曲家ですら作品のみでは食べて行<事は出来ませんでした。

オーケストラを指揮をしたり、評論を書いたり、マスコミで働<か、大学に勤めるかで収入の大半を得なければなりません。

それはピアニストやバイオリンニストにとっても、大差無いところです。

普段は練習の合間に生徒を指導したり、(私も教室を作る前はよくやりましたが)地方の先生方の生徒を集めて、公開講座などを開いたりします。
どんなに有名な演奏家でも、地方回りでは、本当に小さな(個人の家みたいな)所で弾かされます。

いま『どんな有名な演奏家でも』・と言いましたが話は逆で、コンクールなどで少し有名になったような人達は、プライドが高くてそういう所では演奏することは絶対にしません。しかし、その内に、演奏する場所がなくなって来て、次第に人々から、忘れ去られていきます。
日本のピアニストの中でリーダー的な存在である、中村弘子さんや神谷育代さん、清水和音さんなど、地方のどんな小都市でも、(ピアノがアップライトしかなかったとしても)演奏したり、指導したりして回っています。
『有名になる』ということは、そういった地道な努力の結果であるということができます。

                  「コンクールpianist」
また地道な努力ということで、プロを目指している弟子達に、特にいつも繰り返し話していることがあります。
それは、コンクールなどで一端有名になった人達の話です。
実際に私達が長いこと音楽界に居座っていて、分かる事は、コンクールに入賞した人の大半が、そのまま忘れ去られて行くということです。
これは、日本のコンクールだけではなく、驚くことに、ショパン・コンクールやチャイコフスキー・コンクールなど世界一級と呼ばれるコンクールにおいてもしかりなのです。ショパン・コンクールやチャイコフスキー・コンクール等の合格者の名簿を見てみてください。
どれだけの大を知っていますか?殆どの大は知らないでしょう。

ピアニストやバイオリンニストの一人一人を見つめていると、面白い事に気付きます。
コンクールなどでスターになるには、「若い」という条件が必要です。
しかし、その人達が、その条件(若い)を満たさな<なった頃、(27~30才位の頃)から、別の人達が名前を出し始めます。
若<もな<、別に美しくもない?(こりゃ失礼!?)(要するに、そういう事とは無関係の実力派の人達という意味です。)
そういう人達は、テレビでキャスターの真似事などもしません。
所謂実力派なのです。
それを、私は「30歳の壁」と呼んでいます。
たくさんの人達を感動させる演奏が、たかが20歳ぐらいの小娘に出来るとは思いませんがね。
楽しそうな顔を見ると分かりますよ!!自分の事しか頭にはないのだから・・・

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                  夢までの正しい道

『二番目の目的までの正しいシナリオを書く。』と言う事は、現実を正しく見つめるという事から導き出されます。
誤った認識や、世間の言葉に惑わされていては『正しいシナリオ』は書けません。世間の一般的な常識ほど、誤った考えに基づいたものはありません。
そこのところを正しく認識できる事が本当の正しいシナリオを書けることになります。(ホームページヘリング)そこから、一般大学へ進むコース(音楽を趣味として)と、音楽大学などに進学するコースと、所謂演奏家になるコースが別れていきます。

ずっと以前、私がまだ一般の受験高校に在学していた頃の話を書いたことがありました。
学年主任の先生が「例え、音楽大学であったとしても、高校までの授業を真面目に受けたなら、ちゃんと合格するはずだ。
大学というところは、小学校から高校までのカリキュラム以外の問題は出題する事は出来ないのだから。」と非現実的な事をおっしゃられて、とても困ったことがありました。
音楽の先生と担任の先生方がいろいろと骨をおられて、ことなきを得たのですが‥・。
 この受験高校の学年主任の先生はきっと一度も文部省の指導要録を読まれたことがなかったのでしょう。
現在のカリキュラムは、小学四年生で和声学に対する理解:五~六年生で弦楽器を弾けるようになること:
中学では和楽器に堪能になること:
などなど書いてあります。


確かにその通り勉強出来れば音楽大学など問題ないでしょう。
でも音楽大学はあくまで専門学校なのです。
音楽は子供の時からの積み上げを要する専門職なのです

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              音楽大学と高校受験

親は子供に音楽を勉強させながら、「もしも子供が音楽の勉強で挫折したら、つぶしが利かないのではないか?」と考えて、リスクの対策として塾に通わせたりします。
しかし、通常音楽大学に幾人もの生徒を送り込む実力のある教授達は、生徒を音楽大学に進学させる条件として、生徒がいくら(ピアノやヴァイオリンなどの音楽上の技術が優れていたとしても》生徒の親が子供を塾に通わせたその時点で、その生徒の音楽大学への進学は無いもの(趣味)として扱います。
それが当たり前の話なのです。
音楽大学進学は親が考えているほど、(一般の勉強と平行できるほど)楽なものではありません。
通常(あくまで一般論としてですが)は東大を受験するよりも、芸大を受験する事の方が数倍難しいといわれています。
音楽大学受験のための教科も、一般の父兄の人が多分ご存じないようないろいろな科目があって、主科の他に、プライベートで先生について、何年もいろいろな教科の勉強しなければなりません。しかも、各音楽大学で、受験に必要な教科がそれぞれ違っているために、最初からある程度は進学する大学の傾向にあわせて勉強をしていかなければならないのです。(音楽大学進学についてホームページ:リンク:)

私達の教室も、生徒や親の希望で音楽大学受験が決まると、教室も受験体制でピアノ(実技)の他に理論やソルフェージュなどの勉強を指導します。その段階でその生徒が傾向としてはどの音楽大学に向いているのか、或いは技術レベルは充分に受験までに間に合うのか、と言った話を父兄や生徒さんと直接説明しますが、その段階で父親が担当の先生に相談に見えられるケースは少ないようです。
それどころか、素人の一般的な風評で「音楽大学を受けるのなら、大学の先生につかなければならない。」とか言う、所謂、赤提灯・レベルの話で、勝手に音楽大学の先生に先生を変更したりする人もいます。
今の今まで、子供の音楽に対する勉強を見守ってきたわけでもないのに、今までついていた先生に一言の相談もなく、受験と言う事だけで、先生を変えてしまう、と言う暴挙に出られる人もいます。それで。結果が出れば良いのですがね。

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        留学したいのなら音楽大学に進学するのは無駄!

私達の教室では、音楽大学に進学するか、留学したいのか、それともプロになりたいのかで、勉強の仕方が変わります。
音楽大学を受験したり、コンクールを受けたりするには、重箱の隅を突くような、そういった減点法の日本型の教育をしなければなりません。
重箱の隅を突っつく勉強法は、音楽大学の受験も、コンクールも、所詮は減点法なのだから、ミスが少なければ合格します。
コンクールに合格させるのは、超、簡単です。審査員の音楽の水準を図って、その水準に合わせてlectureすれば良いのですから・・!!

それに対して、海外に留学したい人には、私達の教室では、音楽大学には進学させません。
実力さえあれば、高校から直接、ヨーロッパの音楽大学に入学する事が可能だからです。どうせ、留学をしたら、日本で学んだ事はチャラにされるので、時間の無駄だからです。
日本の音楽大学の勉強とヨーロッパの勉強のスタイルは全く違うからです。

最初からヨーロッパのスタイルで勉強していなければ、ヨーロッパの音楽大学に入学する事は出来ないし、授業についていくことも出来ません。

proを目指すのならば、ヨーロッパに留学したからといっても、必ずしも、proになれる分けはありません。
proになるためには、先ず前提として、音楽が好きで音楽を愛していて、人に音楽の素晴らしさを伝える・・という姿勢や、学ぶと言う事に対しての、謙虚さが必要です。
レパートリーを作ったり、proになるための人を感動させる音楽の勉強は、音楽大学では教えてくれません。
(ホームページ:「プロになるには」参照)

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         あとがきに代えて(愚痴タイム‥‥!)

私がまだ若い頃、20代から30代頃までの話ですが、その頃は私はまだ大学の講師をしていました。
勿論その頃は小さな子供は教えていなかったし、私自身、生徒に「教える」と言う事自体があまり好きでなくって、自分からは積極的に生徒を指導する、という事はなかったのですが、それでも、(何処で私の事を聞いたのか)、受験生やプロを目指す学生達、音楽大学の生徒達などが、自分の音楽大学の教授の所から逃げ出して来て、私の友人達の紹介等を介して、私の元に習いに来ていました。
その生徒達を、音楽大学に進学させたり、直接、留学させたり、はたまたコンクールに入賞させたり、と色々としました。

ところが、不思議な事に30代の後半で、勤めていた大学を辞めて、音楽教室を作ったとたん、私のところで習っていた優秀な生徒達は、音楽大学の先生のところに逃げ出していきました。

勿論生徒達が、自ら逃げ出したわけではな<、生徒達の親が、有名音楽大学の教授の所に連れて行ったのですよ。
教え方は変わった分けではないのに、不思議な話だよね。

もっとも、私が音楽教室を立ち上げてからも、私の教室で育った生徒達の多くの人達が、留学をしたり、音楽大学に入学したりしましたので、proとして、ヨーロッパや日本の音楽界で活躍している音楽家の多くの優秀な生徒を育てる事に、だからといって、不自由した分けではありませんがね。

「巷の、なんでもない小さな古ぼけた音楽教室から、たくさんのproの音楽家が輩出される・‥」、それは有り得ない大変な出来事ですよね。

しかし、優秀な生徒と言っても、私が指導した生徒達は、最初からはそんな特別な生徒ではありませんでした。

千葉や江古田の、小さな古ぼけた教室に習いに来た生徒達なので、決して音楽を目指すような特殊な生徒ではなくて、極、普通の教室の近所の一般の子供達でした。

それでも、不思議な事に私が指導した殆どの生徒が、どういうわけか音楽の方に進んでいます。

しかし、もっと不思議な事は、その子供達の誰もが、「私に習ったから、proになったと思ってはいない!」という点です。

「自分にそれだけの才能があったか??」、それとも、もっと後で、「怒鳴られ叱咤された音楽大学の先生のおかげ」か、と思って
いるのですよ。

私が20代の後半から30代の半ばまで指導していた(有名教授達から逃げ出してきていた)生徒達の場合には、音楽大学への進学のために、日本の音楽教育にどっぷり浸かって、学んで来た分けなので、それなりに、私の事を高く(とは言わなくても、或る程度は)評価していたようですが、それもやはり、30代、40代を過ぎたあたりから、彼らの演奏会プログラムの音楽履歴からは、私の名前がだんだん消えていって、それまでは、書いていなかった、有名教授の名前がまたぞろ復活してきます。

私について習っているときには「神様、仏様、芦塚先生!」なのにね。


私の元を離れて、日本の音楽界に居を定めた途端に、人は自分の信念を変えてしまうのだから‥・、本当に日本人とは、oberflächlich(表面的)な、つまらない人種ですよね。
そんな音楽家達が幾ら、偉大な作曲家の曲を演奏したとしても、人を感動させる事は出来ないわさね??

まあ、こんな論文を幾ら書いたところで、世の中が何か変わるわけはないのにね。
私はなんと無駄な事をやっているのだろうか??

鬱々の状態の時に、こんな教育用の原稿を書いてしまうと、文章がついつい愚痴っぽくなってしまって、書かなくっていいことを書いてしまって、教室の周りの先生達に怒られてしまいます。

実際には、私が生徒を教え始めたときからの生徒も、それ以降の弟子も、今もちゃんと教室や、教室の周りにいて、後進の指導に当たっています。
但し、芦塚メトードで指導出来る先生は、もう殆どいません。
いつの間にか、日本流の音楽事始めからのメトードで指導し始めます。その大きな理由は、学校教育が日本流の儒教の教育その物だからです。

それに、日本のproオケ等に籍を置いて、日本の音楽界で仕事としていると(演奏活動を続けていると)、どうしてもプロフィールには有名人や大学の教授等の権威的な人を網羅して、プロフィールに列挙しないと、自分の権威のアピールにならないと思っているようです。

それが日本人の典型的な有名人嗜好と権威主義の風潮と言えます。
一般社会でも、有名大学、有名企業とか、ブランド志向とか、自分を持たない人達が殆どなのですからね??

・・事なかれ主義の権威主義は、歴史に名を成した昔の偉大な作曲家が一番嫌って戦った人種なのですが、家元制度を採るこの日本のClassicの音楽社会では、それも致し方のないことです。
少なくとも、偉大な作曲家の心に触れる事はない・・と思うのですがね??


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