「ミスタッチへのお話」の前に・・・・・・・・
子供が何故ミスタッチをするかにはいくつかの原因があります。当たり前のことですが、その原因にはステージがあり、また原因によっては練習を積み重ねても、改善されないものもあります。頭痛のときにおなかの薬を飲むようなものです。ある一つの薬が全ての病気に効くわけではないように、病気それぞれに対応した薬を処方しなければなりません。練習も同じことで、ミスタッチの原因を分析し、それにあった練習をしなければなりません。
芦塚先生は「間違い」や「ミスタッチ」の原因を、三つの要因に纏めました。そしてそれによってどういった練習がそのことに対してもっと効率的で無駄のない練習かを指導者や子供自身が自分自身で的確に自信を持って判断出来るようにしました。その「間違いの要因の三原則」を判断できるためには、それよりもう一つ前のステージがあります。それは「子供自身が自分の間違いを、自分で指摘できるか。」ということに掛かっています。子供自身が自分で間違いを指摘できるようにするためにも、いくつかのステップがあります。(詳しくは指導マニュアルに掲載しています。)以下に記載している「水たまりのお話」は、その前に子供が自分の間違いを理解出来てなければなりません。(仮にそれが子供自身でなく先生の指摘によるものであったとしても)
何度も「ここは音が違うでしょう。」といってもまた同じ間違いをするとします。一般的に指導者は、それを生徒の怠慢だとしか捕らえませんが、本当は間違いにもステージがあるのです。
@間違いを先生から指摘されれば、それが理解できる。
A「今まちがえたでしょう。」「どこを間違えたの?」と聞かれたら自分で指摘でき る。(テープなどを使えば自分で間違いを見つけられる。)
B「ここら辺をまちがえた」という「辺」までの指摘は自分でできる。
C曲の一部分を弾いた後に「ここをまちがえた」という「点」の指摘を自分でできる。
D曲の一部分を弾いた後に「ここをこのようにまちがえた」と自分で指摘できる。
E一曲の完全な演奏をした後に、何カ所まちがえたか、何を何の音にどのようにまちがえたかを指摘できる。「6箇所まちがえて、1個目の間違いは○小節目の○の音を○の音で弾いちゃった。2個目の間違いは・・・・」という風に。
間違いを本人が理解できたら、それに呼応した的確な練習法を組み立てなければなりません。指導者になるには、ただミスをみつけるだけでなく、そういうことを勉強する必要があります。「ミスタッチへのお話」は、ある子供達には有益な話です。しかしながら、同じような間違いでもその原因が違っていた場合は、このお話は無意味になってしまいます。
より詳しい説明は内容が専門的になってしまいますので、ここでは簡単な説明にとどめます。(指導マニュアルより一部抜粋)
ミスタッチの種類には大きく分けて2通りあります。1つはミスに対する意織(価値観)が足りない為に起こる場所の定まっていないミス、もう一つは、いつも同じ所を聞違えるその場所に対する注意力が足りない為に起こるミスです。前者に対しては、子供の年齢と理解力によって次のようなことをよくお話しします。
ミスタッチへのお話 その1
中学生以上向け
●アラブの王様
例えば君の目の前にアラブの王様が来て、「明日演奏会を行う。お前が音を一つでも間違えたらお前の首をはねるゾ。」と言ったらどうなると思う?君はきっとミスタッチを1つもしないで完璧に弾けるんじゃない?
「えっー?!やだー そんなの 絶対無理ですよ!」
まあ、実際の日常で本当に命を懸けるなんてことは怖くてできないよね。まさか僕がレッスンの時に君の首に包丁を当てて音を一個間違える度に首を切ってたってしょうがないしねえ。
「こ、怖すぎる、そんなのー!」
だけどね、命を掛けて何かを一生懸命やるっていうことでは、分かりやすいお話がある。
●ロッククライミング
僕が高校生の時に友達が山岳部に入ったんだ。山登りの練習している所の写真を見せてくれたり、色々な山登りの話を僕にしてくれたんだよ。彼はしょっちゅう登山に出掛けて、2日も3日もかけてザイル(縄)一本でアルプスを登ったりしていたんだ。その間は一日中ず−っと岩にへばりついて、寝るときも袋に入ったままみの虫のように岩からぶら下がって寝るんだよ。彼が山岳部の練習の時の写真を見せてくれたんだけど、それがすごい迫力のある写真でね、練習だから本当の山ではなくて、30メートル位の高さの小さな岩山に登っているところなんだ。バランスを崩して今にも落ちそうに宙釣りになっているところで、隣に写っている人はその写真を撮った直後におっこちて死んでしまったんだって
(実際の写真)
「えーっ、本当に死んじゃったの?」
そう。で、その彼もその後10メートル位下まで落ちたんだって。だけど運良く茂みにひっかかって助かったんだって。落ちる時はほんの2、3秒くらいだけど、その間に自分が生きてきた一生のことを全部思い出して、そして「ああ、僕はこれで死ぬのか。あっけないなあ。」って思ったそうだ。
「そんなこと考えている余裕なんてあるんですか?」
う−ん、余裕というより、人間の脳のすごさだよね。人間はね、自分が死にそうな状況に直面すると、ほんの一瞬の間にすっごい沢山のことを考えたり思い出したりするんだよ。だから、落ちている3秒くらいがとてつもなく長く3時間くらいの時間に感じたりするそうだよ。そういう風に、山岳部はよく死者が出る。1年生のときいっぱいいた部員が2年先生では半分に・・・4年生ではほとんどいなくなって・・・・。皆何度もそういう怖い思いをするんだ。で、あるとき僕はその友達にきいてみたんだ。「そんな怖い思いをしてまでどうして登るんだ?項上にたどりついた時の達成感とか爽快感の為に?それとも頂上に立つと世界を征服したような気分になるとか?(笑)」ってね。ところがその友達の返事は全然違うものだったんだよ。彼はこう言ったんだ。「ロッククライミングっていうのはね、一瞬でも気を抜くと転落して死んでしまうだろ?だから、一歩進むことが命がけなんだよ。そのうちに岩にへばりつくことだけに集中して自分が岩の一部になっているようにさえ感じてくるんだ。そういうふうに自分が無心になっている時間が僕にはとてもとても貴重な時間に思えるんだ。」
僕はその言葉に感激してしまってね、命をかけて精神を磨くということをその友達から教わったと思ったもんだよ。
まあ、ロッククライミングとは違ってピアノを弾くことは命懸けになるなんてことはありえないよね。音を間違えても実際に死ぬわけじゃあないし、自分が恥をかけばいいだけだ。でもね、その恥をかくということを「死ぬことよりも嫌だ」と思う人もいるんだよ。たった1個の小さな小さなミスでも、その人にとってはもう死んでしまいたいくらいの大事件なんだ。そうかと思うと恥をかくのが全然平気な人もいるんだよね。
「それって、もしかして私のことですか?」
わっははははは。ミスをすることが心から恥ずかしいと思えれば、誰もミスをしなくなるんだよ。
「先生、でも発表会なんかで間違えると、恥ずかしくて、それから悲しくて・・・」
でもね、何日かしたらすっかり忘れてしまっているよね。発表会で失敗して泣いたときの気持ちを持ち続けることが出来たら二度と同じ間違いはしなくなるとは思わないかい?
「恥ずかしいと思った」けど次の日にはその時の感情をすっかり忘れてしまった。それは「ミスをすることを恥ずかしいと思った。」という事になるのかな?
「う〜ん!?ならないのかな・・・・」
命を懸けてなにかをやるということは、つまりそういうことなんだよ。一生懸命になっているつもりと、一生懸命になるということは雲泥の差があるんだよ。「一生懸命練習しました。」と言う人がいるけど、「なんとなく一生懸命やったけどできなかったから途中でやめた。」とか、「塾が忙しくてorお友達とメールしててorお父さんと旅行してて・・・etc.などでとっても忙しかったのに、ちゃんと練習したから一生懸命やったんです。」っていうのは本当に一生懸命って言えるかなあ?
「・・・・!?」
まあ、一生懸命になるにはね、別にそこで本当に死ななくても「死ぬほど嫌だ」と思う気持ちをもつことが大切なんだよ。僕がドイツに留学しているときには、世界で一番の音楽大学に行っていたから、来る人も先生も世界一級の人達だった。そうするとね、みんな自分が嫌な音を出した時にものすごい嫌な顔をする。ほんの一つでも汚い音が出てしまっただけで、まるでゴキブリかなにかが口の中に入ってきたみたいな「うえっっ、なんだこの音は!!!」という顔をするんだ。それを見た時に「ああ。これがプロだな。」と思ったよ。それはね、間違えたりミスタッチをしたりというのではなくて、汚い音を出してしまったときの話しなんだよ。プロはミスなく弾くのは当たりまえだからね。君も早くミスタッチをなくして、全ての音が本物のピアノの音、美しい音になることを目標にできるようになってほしいね。
小学生以下向け
●衣装のシミ
君が、きったないポロポロの洋服を看ていたとするよ。その服にしょうゆを一滴二滴こぼしてしまったとする。そのときはそのシミは気になるかな?
「ついててもわかんない」
そうだよね。どうせボロボロなんだから全然気にしないね。だけど、すごく素敵な真っ白なドレスを買ってもらって、発表会の日に着ていたとするでしょ。そこにしょうゆがポタッとおちてしみが一つ二つついてしまったとする。それはどう?気になる?
「うん、そんなのいやだ」
そうだよね。音楽も同じでね、君が上手になればなる程音楽が真っ白なドレスのように素敵な演奏になってくる。そうすると、たった一個の小さなミスとか、ほんの少しでも汚い音だとかがものすごく気になるようになるんだよ。ミスタッチをしても全然平気っていうことはね、ボロボロの服を着て舞台に立っていることとと同じなんだよ。
ミスタッチへのお話 その2
最初に説明したように、ミスタッチの種類には、大きく分けて2通りあります。これまでにお話ししてきた「アラブの王様」「ロッククライミング」「衣装のシミ」などは、いずれも場所の定まっていないケアレスミスに対する「意識づけ」をする為のお話しです。これらに対し、いつも同じ所を間違う「場所の定まったミス」というものがあります。間違うには必ず原因があります。芦塚メトードではこの間違う原因を3つに絞りこむことで効率的に指導をしていますが、その原因を取り除いても尚かつ直らないこともあります。その場合は生徒の間違いに対する意識の仕方に問題があるのです。この種のミスに対しては次のようなお話をしています。
(ある小学3年生の女の子のレッスンにて)
●水たまり
Aちゃんという人がいました。ある日Aちゃんは学校にいこうと思い、玄関を開けて元気良く外に出ました。そこには昨日の雨のせいで大きな水たまりがありました。Aちゃんはその水たまりに落ちてしまいました。ドッポーン!次の日になりました。Aちゃんはまた学校に行こうと玄関のドアを開け、元気よく外に出ました。ところがそこにはまた水たまりがありました。ドッポーン。次の日になりました。Aちゃんはまた学校に行こうと思い玄関から外に出ました。またまたそこには水たまりがありました。またAちゃんは同じ水たまりに落ちてしまいました。そしてまた次の日も‥‥。このAちゃんに対して一言何か言うとしたらなんて言いたい?
「ばっかじゃなーい?なんで同じこと何回もやってんの?超まぬけー!!」
そうだよね。やっぱりそう言いたくなるね。ところで、さっき君が間違えたところだけど、これは先週もそのまた前の週もまたまたその前の週も同じ所を聞違えて同じように先生に注意されていたけど、それに対してはなんて言おうか?「ばっかじゃなーい?なんで同じこと何回もやってんの?超まぬけー!!」でいいかな?
「えー やだーぁ」あっははははは。他の人からそう言われない
ようにがんばんなくっちゃね。ここのいつも君が間違えてしまうところはね(楽譜を指さして)水たまりなんだよ。この水たまりのところにおもしろい判子を押してあげよう。
ニャンコが水たまりに落ちちゃった判子だよ。
「あははは。きったな−い。どろんこまみれー」
こんなにならないように、水たまりに落ちないようにね。
「うん。」
水たまりはね、水たまりの直前で「あっ水たまりだ」と気づいてしまうと、必ずおっこちてしまうんだよ。水たまりに落ちないようにするにはね、そこに水たまりがあるということをもっと前の方で思い出さなくちゃいけない。例えばここの水たまりに落ちないようにするには、何小節前で思い出せばいいのかな?そうだね、1、2・・・・・2小節と2拍前のところで思い出せれば十分間に合うだろう。じゃあ、この思い出すポイントのところで「ハイ、次注意」って声に出して言ってみようね。
「できるかなぁ・・・・・。でもおもしろそうー!!」
うん、じゃあやってみようね。
ま と め
「間違う」ということに対しては、ただ練習の回数を積めば直るというものではありません。「意識」が伴えば無駄な練習をしなくてもその場で直ってしまうミスもあるのです。勿論練習を積まなければできるようにならないこともありますが、私共のメトードではインストラクターがそれらの区別を的確にしなければなりません。意識的なことによる間違いなのか、技術が足りない為に弾けないのか、技術不足ならそれに対してどんな練習をするべきなのか、その年齢のそのレベルにあった練習方法は何か・・・・等の的確な判断が伴って初めて楽しく上達するレッスンが可能になるのです。芦塚メトードではやみくもに練習を重ねさせるようなレッスンは、指導側の技術のなさを証明していることに他なりません。ミスをしないで弾くということはプロにとっては当たり前のことです。プロの人、或いはプロをめざして勉強する人は、汚い音,聞き苦しい音、に対する嫌悪感が強くなければなりません。そういう価値観を常に持ちつづけていて欲しいものです。それを洋服に例えれば、とても素敵なデザインの舞台衣装なのに縫い目が不揃いだったり、どこか端の方が破れていたり、シミが付いていたり・・・・そんな衣装を身にまとったまま舞台に立つことを恥と思わなければいけません。汚い音を恥じる心を持たずにどうしてプロの演奏家になれるのでしょうか?ところが日本の音楽教育では「1つもミスをしないで弾きましょう。」ということはとても厳しく仕込まれるのに、「1つも汚い音を出さないようにしましょう。」ということは全く習わないのです。それどころか「どういう音がきれいな音か。」ということさえ全く教わらないというのが現状です。これまでに多くの音楽大学の卒業生やコンクール入賞者などを見てきましたが、「聴衆に聴かせられるようなちゃんとした音色」というものに対しての、価値感、センス、意識などがあまりにもなさすぎることに驚かされます。「ピアノは押せば音が出るのだから、弾き方だけで音色が変わるということはそんなにないのでは?」といった安易な考え方をする人もいますが、同じピアノでも弾く人によって全く別の楽器のように音色が変わってしまうということは、プロの世界ではあまりにも当たり前すぎることなのです。プロは美しい音色を常に追い求めているのですから。その子供がプロをめざすか否かに係わらず、教育者たるものは常に美しい音色に対する価値観、センス、意識を子供達に教えていかなければならないのです。
音色には、「遠音のきく音」と「そばなりの音」というものがあります。芦塚メトードではそういった音色に対しての教育を大切にします。ここでそのお話しを続けてしまうとまた膨大な論文になってしまいますので、そのお話しはまた別の紙面で詳しくお話ししたいと思います。