持っていく
持って行くの追記
定型の揺らし
音楽の演奏形態による揺らし
舞曲が本来持っている揺らし
レントラーの形式
MazurkaやPolonaise等の曲
Variation形式のテンポ設定
またまた芦塚先生の文章に戻って
練習番号について
芦塚メトードの練習番号付け
音楽を勉強する人達が、(それも多くの演奏家を含めて、日本人だけではなく、世界の演奏家達を含めて)音楽を歌う事(所謂、揺らす事)は感情のおもむくままに演奏することであると思っている人が大半であろう。
確かに20世紀の始め頃の名演奏家達の中にもそういった主張をする人達は数多く見受けられた。
そういった演奏スタイルは感情表出主義[1]と言われ、アルフレッド・コルトーやエドウィン・フィッシャー、サンソン・フランソア等のピアニスト達やティボー等のヴァイオリニスト、或いはフルト・ウェングラー等の指揮者の演奏等で耳にすることが出来る。
しかし、一般の音楽愛好家達が勘違いをするのは、そう言った感情過多の演奏のスタイルが、19世紀から20世紀の前半の演奏家達の演奏スタイルの特徴であると勘違いである。
本当の所は、それは同時期に存在した演奏スタイルの一つにしか過ぎなかった。その全く同じ時期に、譜面に忠実であることをモットーとして、一切感情を込めないで演奏する演奏家達も数多く存在したのである。
しかし、感情の趣くままに演奏するというスタイルは、20世紀の前半になってからは、演奏家にとって致命的な演奏上の欠点をさらけ出すこととなった。
それは、音楽が演奏会場で演奏されるだけではなく、録音され、レコードとして一般大衆に聞かれるようになったということに拠るものである。
勿論、この録音上の技術的な問題も現代の録音技術を持ってすれば、そういった演奏スタイルをとる演奏家達にとっても何の問題もない。
しかし、それは、今日の録音の技術の進歩があっての話で、20世紀に入った当初は、まず最初の録音媒体は蝋管によってなされた。
本当に古いレコーディングである。
その次の録音媒体は、所謂、SP盤と呼ばれるもので、私の幼年時代にも、まだ使用されていて、横のハンドルを回しながら、シャリアピンのムソルグスキーの蚤の歌や、シューベルトの未完成交響曲を聴いた記憶がある。落語の名人の独演などと一緒に・・・。
SP盤は1枚の演奏時間が最大でも3分程度である。
私が伯母から貰い受けたBeethovenの第5交響曲は暑さ20センチ程度の豪華な箱に30枚程度の分厚いレコードが入った、非常に重いレコードである。
また、この当時のレコードは、1枚ごとにオーケストラのpitchやテンポが変わってしまうことが当たり前だった。
極端な時には演奏上のnuanceさえ変わってしまうことだってしょっちゅうあるのだ。
それがレコードとして当たり前の事だったからだ。
クライスラー等のように超売れっ子でカリスマ的な当代随一の演奏家といえども、この3分の壁は当時の録音技術の限界として捕らえていた。
そこで、マニアックな演奏家になると(recordingに対してお金に糸目をつけないので)何台もの録音機器を駆使して、一括録音をする。録音のタイミングを少しずつ、ずらして演奏の切れ目をなくしていくのであるが、当時の機器は相当高額であったし、高度な技術も必要であったので、名演奏家と言えど、そうそう出来るような録音方法ではなかった。
当然、「同じ演奏が2度と出来るか!」「3分おきに、同じ感情が保っていられるか!」と言う演奏家達も多く、レコーディング自体を拒絶する演奏家も多かった。
名演奏家達の一期一会の考え方であり、「そのときの演奏はそのときの感情の産物であり、2度と同じ演奏は出来ない。」 と言う主張である。
私が中学生になった頃にはロングプレイのレコードというものが開発された。
所謂、LPレコードである。
中学生の頃、お昼の食事代として貰っていたお金を貯めてレコードを買った。
今、そのレコードをよく見てみると、レコードのナンバーが一桁なんだよね。(0007番という具合に・・)
1月半ぐらい昼食を抜くと、何とか1枚のレコードが買えた。
当然、レコードプレイヤー何て贅沢な物は持っていなかったので、どうしてもレコードプレイヤーがほしくって、(勿論、片親だったので、親には言えないよね。)半年ほどお昼抜きで頑張っていたら、母が見るに見かねて会社のローン(当時は月賦といったが)で、買ってくれた。
それこそ、月給の何か月分かだと思うよ。
またまた話が横道にそれたので、本題に戻すと、録音の時代は結構蝋管からSPレコードの時代が長かったのだよね。そういった録音媒体は長時間続けて録音することは出来なかった。だから、一度で、曲の最初から最後までを演奏しなければならない、(二度と同じ情緒表現が出来ない・・)そういった感情表出主義のスタイルでは演奏家としては生き残ることが出来なかった。
アルフレッド・コルトーやエドウィン・フィッシャー、ヴァイオリンのティボー等も、彼らの寿命がSPの時代だけで尽きていれば、今日の名声を得る事は出来なかったであろう。(もし出来たとしても、それは伝説上の人物としての話である。)
彼らの活躍はちょっと前のLPの時代まで続いていたので、私達は不自然でもなく、そういった往年の感情表出のスタイルの演奏を聞くことが出来るし、彼らの演奏を正しく理解できる。
その演奏は、生徒の模範演奏としてでなければ、私達が音楽の教育という立場を離れて、一人寂しくワインを傾けながら聴くには実に良い演奏である。
但し、基本的ではないので、(あくまでコルトー=Chopinであって、Chopinではないのだから・・・)勿論、生徒にはそのようには弾かせないけれどね。
先生のコピーとしてや、CDの物真似ではなく、小学校の4,5年生の子供達に正しい揺らしの演奏を指導するのは至難の業である。
腕を鍵盤から上げることを指導しているときでも、最初は「ペンギンかい?!」と思うほどぎこちない。
しかし、それが半年もすると、柔軟に優雅に腕を動かせるように成るのだから、子供の上達は恐ろしい。
これが、音大生に教えるときには、幾ら表現の仕方を説明しても、彼女達のプライドが邪魔をして、なかなか私の言う通りに弾いてはくれない。機械のようにつまらなく演奏する。(一昔前だったら、「コンピューターのように」とか、「ロボットのように」とか言ったのだろうが、今のコンピューターやロボットの方が音大生の演奏よりもはるかに情緒的に演奏することが出来る。
当然、揺らしなどもお手のものだ!
ちまちまとした演奏に、いつも「舞台では、恥も外聞もないんだよ!!」とか、「ホールの大きさに合わせて表現を大きくしないと、感情は伝達できないのだよ!」と言って、怒り捲くっているのだが、子供に指導するときには、そういった問題はない。大人としての驕りがないので、素直に私の注文に応じて表現してくれる。子供を一流に育てるのは楽なものだ。
しかし、子供も高校生ぐらいになって、色気が出てくると、照れや周りの風評の影響でだんだん先生の言う事を聞かなくなってくる。そうなると、一般の音大生と変わらなくなってしまう。芦塚メトードもそこまでだなや!!
中学生のヴァイオリンを習っている女の子のお父さんが、子供をどうしてもコンクールに出したいと言ってきた。
私としては、「もし、お子さんを将来音楽家にしたいのなら、コンクールには出さないほうがよいですよ。」と意見をしたのだが、「素人なので、子供のlevelがわからないので、ぜひコンクールに出してみたいのですよ。」 との、分かったような、分からない話で、なんとなく生徒をコンクールに出すことになってしまった。
そこで、初めてその女の子のヴァイオリンのレッスンしてみると、これが酷い!全く機械的に無味乾燥に楽譜通りに演奏する。
勿論、技術も何も(へったくれも)あったものではない。
技術はともかくとしても、幾ら指導しても、音楽の感情表現が全く出来ないのだ。
「これではコンクールにはとても無理だ。」ということで、曲の持つ感情表現や情緒表現を指導する事をやめて、すべての情緒表現を技術としてlectureすることにした。
所謂、「揺らし」の機械的なlectureである。
勿論、私はヴァイオリンを弾けるわけではないので、私がヴァイオリンを演奏して、コピーをさせるというわけにはいかない。通常のレッスンは、先生が生徒に自分の真似をさせて、レッスンするのかもしれないが、コンクールではそうは行かない。
それが出来る(可能である)というケースは、その先生の演奏がコンクールの全国大会に入賞するlevelよりも優れた演奏が出来る場合に限られる。
小学部門でも、高学年の、しかも全国大会で入賞を競うlevelになると、そこいらの音大出のヴァイオリンの先生では、とても太刀打ちできないだろう。
小学生ですら、全国大会のlevelともなると、非常に高度なテクニックを要求されるのだから、それにも増して、中学部門の全国大会のlevelでは、先生が弾いて生徒に指導していくのは、プロのプレイヤー・クラスでないと難しい。
何せ、奴等は半年間、死に物狂いで練習してくるからね!
だからといって、どこかの音楽教室のように、有名演奏家のCDでも真似ようものなら、全国大会の審査員クラスになると、それこそ「お笑い」で、嘲笑の的になってしまう。地方予選、地区予選なら兎も角も、全国levelの審査員ともなると、それぐらいは普通に分かるからね!
ということで、楽譜上で正確にインタープリテーション(解釈)をして、それをメトロノーム等の機械を駆使して、あたかもパソコンに手入力するように、正確にダイナミックや揺らしを設定して、半年間(勿論、週1で・・!!)みっちり指導した。
追加レッスンなんて真っ平ごめんだからね。
勿論、コンクールの全国大会で無事入賞する事が出来たよ。
審査員の評価は「感情が勝ちすぎるので、自分の感情をもっと抑えて演奏するように!」だそうな!!
私が日本に帰国して間もない頃の話だが、私のミュンヒェン時代の友人でオルガニスト(女性なので、本当はオルガニスティンと言うが・・)が、目白のカテドラルで音楽大学の卒業生が歌うシューベルトのかの有名なアベマリアの伴奏をすることになった。シューベルトのアベマリアには、あたかもカデンツのようなメリスマのpassageが出てくるのだが、そこの所のタイミングが伴奏となかなか合わない。
歌手の人が怒って「そこの所は私の歌をよく聴いて、私にちゃんとあわせて弾いてください。」と言って来た。
私の友人のオルガニスティンは「パイプオルガンは、私がキーを押さえてから音が出るまでに0.5秒かかるのですよ。だから私はあなたの歌の0.5秒前を演奏しているのですよ。だから、もし、あなたが『こういう風に歌いたい。』と、言ってくれるのなら、そのように揺らしたり、待ったりして伴奏しますから。」と、説明したのだが、彼女は「だって、どういう風に揺らすかは、実際に歌ってみて、その場になってみないと、分からないから!」と、全く納得しなかった。
「演奏会がどうなったか?」って?
そんなの知るかよ・・・・!!
私も、リュウマチで指が動かなくなる前の、40代の頃までは、まだ少しはピアノが弾けたのだよ。
伴奏者として、舞台で金を稼いでいた事もあった。
今の私の生徒じゃなくても、今では、自分自身でも信じられないのだがね・・・。私に、指が回る頃があったということが・・・・。
さて、愚痴は兎も角も、昔々のお話、・・・ということで、若いピアニストへの、演奏会(本番)前のlectureで、(若いピアニスト??・・・とは言っても30は越していたのかな?)模範演奏をしなければならなくなって、ベートーヴェンの32のvariationを演奏していたとき、finaleへの導入での美しいmelodieをたっぷり聴かせるpassageに差し掛かった時、聞いていた演奏家の人が「まるで演歌のようだ!」と、私の演奏を聞いて怒っていた。私としては、彼女が、何でベートーヴェンをそんなにつまらなく弾くのか、そちらの方がよっぽど不思議なのだが・・・。
いやぁ~、見解の相違かな??
「揺らし」には、大きく分けて、作曲家の指示したものと、舞曲や民族音楽のように定型の形式的な揺らしを伴うものの二つに大きく分類される。また、楽譜上には指定され記載されていなくとも、そのまま演奏すると、とても不自然に成ってしまうので、揺らしをしなければならないものも数多く見受けられる。
またそういった揺らしが曲の1phraseに対してではなく、形式そのものに成っているものもある。
そういった揺らしを伴う楽曲の例をいくつか例を挙げて説明しよう。
[baroque時代やrococo時代の慣習的な揺らし]
baroque時代やrococoの時代の曲には、表情記号やテンポの設定の記号が書かれていることはまれである。
ましてや、同じサラバンドやフォリアのテンポは時代時代によってずいぶんと異なるのだが、それを間違えて(時代考証を無視して)乱暴にも「サラバンドやフォリア (クリックするとla foliaの解説のPageにlinkします。)は荘重で遅い曲である」と指導している人が少なくない。
la foliaにしても、sarabandeにしても、その曲が生まれた当時は非常に粗野で煽情的で何度も禁止された事のある曲である。
それが宮廷に入り、洗練されてrhythmの特性だけを残して、荘重な優雅な曲に変わって行った、という流れがある。だから、Vivaldiのtriosonateのla
folia等も結構速く激しい曲である。
参考:(芦塚音楽研究所の先生方による)Fiori musicali baroque ensemble演奏で
表情記号やテンポ記号は当時は慣習的なものであり、楽譜上には書かれていなくとも、必然的にそのpassageはそういう風に弾かなければならないという、ルールがあったのだが、それを完全に無視して無味乾燥に機械的に演奏させる指導者が多くて困る。
その極端な例では、Baroque時代やrococo時代の曲では、phraseの終わりのpassageにrit.を入れないと、メリスマの為に、そのphraseの中の拍に収まらない曲が数多く見受けられる。
当時はまだ表情記号やテンポの設定が書かれる事自体がまれであった(と言うよりは、ほとんどなかった)ので、当然、書かれてなかったとしても、慣習上accelerandoやritardandoを入れて演奏しなければならない。
譜例: Couperin 修道尼モニカ
Cembalo等の楽器は、現代のピアノのように強弱で細やかなnuanceを表現することが出来なかったので、tempoの揺らしは、揺らしそのものよりもむしろ強弱を表す意味でも必然で重要であったのだ。
私がいつも生徒に指導している、強拍を表すモルデントと弱拍を表すモルデントや、sforzandoをあらわすダブル・プラルトリラー等も装飾音であると同時に、微妙なテンポの揺れを伴って奏されているのだ。
(詳しくは ホームページ: Couperin 修道尼モニカ 参照)
私のレッスンは、子供に言葉を教えるところから始まる。表現が正しく伝達されるためには、その演奏表現を伝達するための正確な言葉が必要なのだ。
音楽を演奏する為の楽語や楽典で使用される音楽用語はヨーロッパで使用される用語のほんの一部でしかない。日本語に置き換えてみようとするのだが、適切な音楽用語が見あたらない事の方が多い。だから、ジュリアードの先生が連発する単語は英語のままで、ドイツの音楽用語はドイツ語のままで、それにもまして、フランスの言葉はそのままフランス語で使用している。最初から「妙チクリンな日本語訳を考えるよりはましか?!」と言う話である。
しかも、音楽表現や技術に関して、存在しない単語も数多くある。
それを説明するときには一般的には「それは、こう弾くのよ!!」とか言って、何度も何度も弾いて聞かせるのだろうが、私はそんな事はめんどくさいので、言葉を造ってしまう。
そうすれば、曲が変わるごとに弾いて聞かせることはないもんね。
「そこはfeint(フェイント)で弾くんだよ!」とか、「そこはお尻のtouchだよ!」 で、説明は済んでしまうからね。
しかし、この変な 「溜め(タメ)」と言う言葉は、私の造語ではない。
音楽業界というか、オーケストラの奏者達や演奏家達が共通して使用する比較的に一般的な言葉である。
ここで、こういう事を敢えて話題にするのは、実は「タメ」と言う言葉は、本来クラシックの世界の言葉ではないからだ。
だから、クラシックの世界でこの言葉を知っている人は少ない。
むしろ、演歌やポピュラー、或いは民謡などの世界の言葉である。
しかし、日本のオーケストラ奏者達が好んでこの言葉を使用するのは、音楽の演奏表現を伝えるときに、これほど便利な言葉はないからである。
「タメ」と言う言葉はphraseの入りのauftaktの音符に対して一番多く使用される。言い換えると、全てのauftaktは「タメ」を伴うと言っても過言ではないであろう。
しかし、この言葉は、音楽大学などの、学生達、音楽を勉強中の人達にとっては一番嫌がられる言葉であろう。
音楽大学の先生達は「タメ」の演奏を極端に嫌う。音大の先生達はMetronomを使用する事を極端に「機械的である!」とか、「非音楽的である!」とか言って、軽蔑するのに、「タメ」を入れようものなら、「楽譜に書かれたrhythm通りでない!」とか言って、怒り出す。
私達は学生の時には、「auftaktは正確なrhythmで演奏するように!」と音楽大学の先生達から厳しく指導された。
8分音符のauftaktをほんの少しでも長めに弾こうものなら、烈火のごとく先生の雷が炸裂したものである。
しかし、現場に出ると、今度は逆に「auftaktは次の音に対しての「タメ」がなければならない。」 と、先輩達から指導される。
そこが、現場の音楽とアカデミズムの音楽の違いでもある。
「タメ」はauftaktの音と次の音のinterval(音程)で「タメ」の長さが決まる。
auftaktの「タメ」を、私が生徒に指導するときには「垂直跳びのジャンプ」に喩えて説明する。
高く飛ぼうと思えば思う程、人は低く腰を屈める。
その分、「タメ」の時間は長くなるのである。
それをエルガーの「朝の挨拶」のmelodieで説明しよう。
譜例:エルガー 「朝の挨拶」
此処に①から③の三つの「タメ」がある。それぞれは同じEの音の「タメ」を持つ。①のauftaktのEの音の「タメ」は通常の「タメ」である。②のEは比較的にあっさりと奏く。③の「タメ」は頂点だから思いっきり溜めてクライマックスのCisの音に向かう。それぞれのEの音の表現がintervalによって、重量感が変わるのである。
「タメ」をよく「glissando」と勘違いをしている奏者がいるが、「タメ」と「glissando」では演奏法が根本的に違う。
「タメ」は、寧ろ「legatissimo奏法」の延長線上の一つであり、「glissandoの演奏法」とは明確に区別して演奏しなければならない。
A: legatoとglissandoの演奏の違いは器楽の先生達よりも、声楽の先生達の方が、より厳密に指導している。
それは歌詞の歌い方から来るから、である。
「am Abend und am Morgen (朝なゆふなに・・)」という言葉があったとする。
勿論、弦楽器のデタッシェの奏法に相当する「am/Abend und am Morgen」として、シラブルを切る場合は別にして、legatissimoの歌い方になると、「am(a)/Abend und・・」と後ろの単語を前の音符に引っ掛けて歌う方法と、「am/(m)Abend・・・」のように、前の語尾を次の音符に引っ掛けて歌う方法の2っ種類がある。
通常のlegatissimoの歌い方は前者の例の次のシラブルの単語を前の音符に引っ掛けて歌う方法となる。
B: glissandoで音がと切れないまま次の音符へ繫がって行く事は、寧ろ特殊な例である。
オペラで女性歌手がよくやる手法であるが、器楽的には原則として使用しない。
電車が、駅を出発する時のように、最初はゆっくりと、だんだん速くして、次の瞬間に次の目的の音に飛んで打弦する。
C: 極めて例外として、次の音に入る直前に、少し下の音から入ってglissandoで上げて目的の音に入る方法がある。ジプシー音楽の独特の手法であり、サラサーテやモンティ等のジプシー風の曲によく見受けられる。
譜例: Sarasate Zigeunerweisen 中間部のglissando
Pianotrioで音大出のピアニストとあわせているときに、弦がいつものようにエルガー的な「タメ」で演奏をした時に、ピアニストが「そこでテンポをずらされると、合わせられない!」と怒り出した。
そこで、私が間に入って「タメ」の必要性を説明して、納得してもらったのだが、今度は「『タメ』の長さが毎回違う!」とか、「『タメ』の後のテンポが変わる!」とか言って怒り出した。「それでは合わせられない!」「練習が出来ない!」と宣ふ(のたまう)のである。
「rubato」や「タメ」は、陸上のジャンプと同じなのだから、どれだけ「タメ」をするかで、次のテンポが決まる。それぞれの「タメ」の長さで次のtempo設定が自動的に決まるのだし、「タメ」の長さは「タメ」の前のbreathの深さや早さで決まるのから、それを感じれば次の速度は判るはずなのだ。幾ら個人プレイのピアノであったとしても、同じ「タメ」はそれこそ、ChopinのMazurkaなどで嫌というほど、勉強させられるはずである。「それが出来ない」、「感じられない」という事は、生きた音楽、・・・呼吸をした音楽を演奏した事がない、という事を露呈している事になる。
これこそはMetronomでは練習は無理なのだよね。
そういった音楽上のtempo設定を練習するためにMetronomの練習をするのだけれどね。
上記の「タメ」を、個人一人の伴奏でなく、オーケストラや室内楽の伴奏などで、複数の人達が伴奏に回る場合には、soloを受け持つ奏者がmelodieのauftaktで幾ら「タメ」をやりたくとも、伴奏に回る演奏者が「待ってくれない」 と言うことが間々ある。
勿論、上記のようなauftaktで、伴奏のpartが休みで、次の入りで入ればよい場合等は、どんなヘボ・プロでもちゃんと待つことは出来る。
あらかじめのお約束として伴奏の人達が 「待てる場所」と、音楽の解釈上(演奏の都合上)「待てないpassage」があるという意味である。
伴奏に刻みがあり、揺らしを持ってしても(そこでrit.を入れたとしても)不自然になってしまう、と言う場合等の例である。
その場合には、melodie(solo)を受け持つ人は 「タメ」の長さ分、定められた実際に入ってく音符よりも前に、「タメ」の長さの分だけ、少し早めに弾き始める事がある。
素人目には、分かりにくいのだが、そういった場合とよく似た、実際のtaktよりも早く弾き始めるもう一つのケースでは、「タイスの瞑想曲」や、所謂 「G線上のアリア」として名高いBachの有名なアリア等の例で、「いつ演奏者が弾き始めたのか分からないように、気がついたらいつの間にか弾き始めていた。」 という風に、誰にも気づかれないように、静かに入ってくる、という奏法がある。
演奏自体は曲の弾き始めの実際のtaktよりも早めに、聴衆には聞こえない音から、弓を徐々に動かし始め、taktの頭でやっと聞こえるようにする奏法もある。
それほどの神経戦ではなくとも、通常、「入り」の音符の「タメ」のauftaktの奏法は、ほとんどの場合には「膨らまし」を伴って入ってくる。
しかし、弦楽器や歌では当たり前のそういった定石の「入り」でも、ピアノではpianissimoから徐々に音量を上げて入ってくるという演奏は、ピアノの構造上、絶対に出来ない芸当である。
そのためにピアニストにはそういった奏法の「タメ」の感覚はあまり理解出来ない。
その感覚が理解出来ないと言う事は、当然auftaktの「入り」の感覚も理解出来ないということである。
作曲家の意図を正しく認識するにはピアニストと言えど、ある程度は色々な楽器の奏法に熟知していなければならない。
ヨーロッパの一流の演奏家達は色々な楽器に堪能である。ヴァイオリンのグルミヨーはMozartのviolinsonateを自分の伴奏で演奏したCDを出している。
(エッ~??!)
例を挙げればそれはきりがない話である。
しかし、ヨーロッパではすこぶる当たり前のこういった事が、日本の音楽界では認めて貰えないのだ。と言うよりも、知らないと言った方が良いのかな??
日本人の音楽家は頑迷に色々な楽器を勉強する事を「アマチュアだ!」といって、毛嫌いする。
ヨーロッパのプロの音楽家は、特に歴史に名を残すような作曲家は原則として、極限られた例外的な作曲家を除いては、複数の楽器に対して堪能である。
それは同時に作曲家の音楽の作曲上の表現力にも繋がっていく。
勿論、演奏家の演奏の表現力にもね。
「タメ」を初めて指導する時には、なかなか充分に「待つ」と言う事が出来ない。「これぐらい待つのだよ!」と、具体的に何度教えても、待つ事が出来なくて飛び出してしまう。つまり「タメ」には強靭な精神力が必要なのである。つまり、こらえ性が無ければ当然「タメ」の演奏は出来ない。心の表現力の強さが必要なのだ。
それを、テンポのタイミングで覚えて、演奏しようとすると、それは素人目にもとてもlacherlich(レッヒャーリッヒ・お笑い)になってしまう。つまり、格好だけの気の伴わない、力の抜け切った演奏になるのだよ。
subitoは強弱等につけられることが多いのだが、テンポが突然変化する場合にも、よく使用される。
しかし、困ったことに作曲家は慣習上subitoでテンポが変わる場合には、楽譜上にsubitoという記号を記載しないことが多い。
つまり、作曲の技法上の慣習では、楽曲のmelodieが完結しないままに突然別のmelodieに変わる時には、必ず、subitoで最初のmelodieのテンポから、次のmelodieのテンポへと、突然テンポを変化させる場合が多いのだ。
作曲家達は、曲が完結しないままに次のpassageに進む場合には、一般的には「melodieを切断する」という言い方をする。
通常は「切断」には、feintが伴う。
いきなりテンポを変化させるのは不自然だからである。
瞬間的にタイミングをずらすことによって、「切断」を意識させ、次のテンポへ自然に移行することが出来る。
強弱にしても、テンポの変化にしても、subitoには必ずfeintを伴うと言って良い。
[staccatissimoからlegatissimoまで]
staccatissimoからlegatissimoまでにはいくつの段階があるのであろうか?
まず基本的なだんかいではstaccatissimoから始まったとして、staccato、mezzostaccato、legato、legatissimoなどであろうか?
しかし、話はそんなに単純ではない。
staccatoとmezzostaccatoの間にはleggieroもあるし、mezzostaccatoとlegatoの間にはnon legatoもある。
こう言った奏き分けは演奏法の話なので、そこまでは、「直接揺らしとは関係がない」と思われても致し方ないが、これにtenutoやsostenuto、ritenuto等の記号が入ってくると、これはもう、直接テンポに関係してくる。
と言うか、ピアノの生徒達は、mezzostaccatoとtenutostaccato、或いはsostenutostaccato、ritenutostaccato等の演奏上の微妙な違いを弾き分ける事が出来るのだろうか?
オケや室内楽では、一見するとAlberti-bassなどの、単純な動きしか演奏していないように思われている低弦のチェロであるが、オーケストラで常にbasso continuo(通奏低音)を弾かなければならないチェロの生徒達は、例えばVivaldiのconcertoの通奏低音の部分とsoloの部分の演奏の違いを弾き分けなければならない。同様に、tenutoやsostenutoの奏き分け、mezzostaccatoの奏き分け、或いは弦楽器にはベーブングと呼ばれる独特の非常に高度なlegatissimoの奏法もあるのだが、そういった奏法の持つ細かいnuanceを弾き分けねばならない。また、当然のことながら、そういった奏法はそれぞれが曲の持つテンポ感を微妙に狂わせ、変化させることになる。
傍から見ると単純な同じAlberti-bassの音を演奏しているように見えるチェロの動きですら、色々なnuanceの奏法をして音そのものを引き分けているのである。
色々な時代のオケや室内楽の曲を勉強していれば、結果として、当然こういったstaccatoからlegatissimoまで奏法の奏き分けや、表現の奏き分けなどが出来たとしても、それは音楽を学ぶものとして、弾けて当然のことである。
[揺らしを表す音楽用語]
揺らしを表す音楽用語としては、テンポに関する用語は全て入ることになる。
rit.やaccelerando、或いは等の音楽用語に代表される一連の音楽用語である。
ということで、この項は、すこぶる当たり前の話なので省略しよう!
しかし、このテンポの変化にかかわる単語を調べるときに気をつけなければならないのは、
A群:だんだんゆっくりとなるもの、⇔ だんだん早くなるもの
B群:だんだん弱くなるもの、⇔ だんだん強くなるもの
このA群とB群の組み合わせがあるということなのだ。
つまり、だんだん弱くしながら遅くなるもの、逆にだんだん強くしながら遅くなるもの等がある。
その反対にaccelerandoの仲間で、だんだん速くしながら強くなるもの、だんだん速くしながら弱くなるもの、等もある。
それを分類して書き出すとよい。
その記号が出てきたところだけが、速度が変化するものがある。
その記号の色々も、楽典の本を参照してください。省略します。
sostenuto(ソステヌート)とtenuto(テヌート)の違いがある。
tenutoは所謂、日本語訳の「保持して」とか「充分に」とかでよい。
しかし、sostenutoはそれよりも少し、思わせぶりな「保持」の仕方をしなければならない。
もっと、より「保持してでなければならないのだ。
日本人の音楽家の先生達が勘違いしている単語にはrit.所謂、ritardandoとritenutoは全く別物であると言う事である。
rallentandoと言う音楽用語もある。それも、ritardandoやritenutoとは根本的に違う。
又、それに近い単語でよく混同される音楽用語にはsostenutoも入ってくる。
この音楽用語達の違いは、だんだん遅くなるものと、そこでいきなり遅くするものがあるということだ。
さて、この「だんだん遅くする」と言う音楽用語をひとつ例に取ってみよう。
Slentandoゆったりとのんびりとしていく
Calando 速度と音量に掛かり落としていく
Morendo morireは「死ぬ」と言う意味です。死に逝くように・・とか言う意味合いを含みます。(死ぬ人は決して、力強くはないでしょう?息が絶えていくわけだから・・静かに・・・静かに・・・ ・・・ ・
Smorzando Morendoよりももっと穏やかな死を意味します。もっと・・・
Perdendosi 生きる気力がなくなった!(ちょうど、欝状態の私のように・・・)
これらの単語は通常私達が一番目にする、一般的に使用される音楽用語のほんの一部にしか過ぎません。音楽用語はお約束の用語なのです。だから、同じ意味を表す用語は基本的にはないのです。同じ意味を表すのなら、一つの用語で充分だからです。つまり、これだけの「ゆっくりとする」と言う意味の音楽用語があるという事は、それだけの「ゆっくりとする」 というnuanceがあるということなのです。
そのほかには、一般的な単語ではないので、此処には出てきませんが、(基本的に音楽用語はイタリア語なので)私はレッスンではドイツ語のBreit(ブライト・幅広く)という単語をよく使います。
それもイタリア語の音楽用語とは微妙に意味が違っていて、sostenutoとAllargando、Grandiose(グランディオーソ)の中間と言うところかな??
後は、その記号上で音楽が停止する( フェルマータ)fermata等がある。
fermataの場合には、演奏者はfermataの場所をあらかじめ知っていて、その前からfermataに向かって、「行くぞ!行くぞ!行くぞ!」と畳み掛けて、その頂点で、「行った!!!!」と爆発する。間逆に落ち着いて行って、fermataに入る場合も同じである。
それに対して演奏者は全然気が付かないで、突然目の前に断崖絶壁が現れた!と言うような表現がある。所謂、「Abschneidung(切断)」である。
音楽用語ではないのだが、ウィーンフィルの名誉指揮者であったカール・ベームおじさんの口癖であった、stehen bleiben(立ち止まる、立ったままで居る) というドイツ語がある。これは少し意味は違うのだが、「その場で為す術もなく立ち止まる」、という意味で遣われる。音楽が流れてきて、ふと気づくと後は、為す術もなく立ち止まらざるをえない、日本語では「立ち往生する」という感じであろうか!?
カール・ベーム先生がウィーンフィルのメンバーを前にして、「私はここでは可哀相なホルンにeinzatzを出さなければいけないのです。私が皆さん達に送れるeinsatzはもうありません。皆さんの責任に於いて、ちゃんと私の指示通りに入ってきてください。」
世界に誇るウィーンフィルのメンバーが真っ青になる一瞬である。
残念ながら、このstehen bleiben(立ち止まる)やabschneiden(切断する)という言葉に対応する音楽用語はない。
演奏家が指導するときも、「こう弾くのよ!」と口移しで教えなければならない。
困った事である。
ところで、指示を出す(einsatzアインザッツ)、という単語は「指示を出す」と言う意味で、ドイツ語の辞書を引いても出てこない。「指示を出す」と言う単語は全く別の単語しか出て来ないし、指揮をするという単語もdirigiernやLeitungという単語になって、どこにもeinsatzeという単語は出てこない。
これも困ったものである。
誰が使い始めたのだろうか?einsatzeは、本来は軍隊用語で、音楽家は慣習的にその単語を使っている。
音楽記号とは関係がないのだが、曲のタイミングをずらす記号には、譜面上にも音楽記号の代わりによく書かれている記号でブレスの記号(ⅴ)やフェイント(feint)を表す記号(‘)がある。
ほとんどの奏者がテンポの「揺らし」というとrubato(ルバ-ト)の事を指すと、勘違いをしている。
しかし、rubatoの権化のようなChopinを含めて、作曲家達は、accelerandoやritardando等の記号を組み合わせて書いた「揺らし」と、「rubato」を明確に区別している。
Chopinはrubatoの演奏法に関して、手紙でかなり緻密な説明をしている。
それは、「rubato奏法」は、1~4小節ぐらいの間で、「早くしたら次は遅く」、或いは「だんだん遅くしていったら、次には早く」 と、大きく小節のつじつまを合わせなければならないからである。
最初の1小節が早くなったら、次の1小節は必ず落ち着いてテンポを収めなければならない。それがrubatoである。
rubatoという単語は盗むという意味を持っている。盗んだものは返さないといけない。beatがずれたとしても、大きな拍単位、或いは小節単位、もっと大きくphrase単位ではテンポのつじつまがあってなければならない。だから、早くしたら、遅くするテンポも自動的に決まる。少し早くしたら、少し落ち着けばよい。しかし、非常に早くaccelerandoしたら、急激にゆっくりしなければならない。そして全体の拍が合えばよいのだ。
それを、日本の先生達はad.lib.のように弾く。Rubatoは自由な揺らしではないのだが、そこのところが基本的に分かっていない。
但し、これも音楽用語の辞典では、「テンポを自由に弾く」としか、書いていない。
それが、誤解のもとである。
accelerandoやritardandoのように、早くしたり、遅くした分を次の小節で返す必要がないときには、Chopinはrubatoとは書かない。
あくまでaccelerandoであり、ritardandoなのである。
crescendoがあるなしにかかわらず、音楽的にそのpassageを(steigerung)高揚させていく場合には、私達は「持って行く」という表現をする事がままある。この言葉も私の勝手な創造ではなく、結構音楽家仲間では一般的な言葉である。それに対してして気分を解放してリラックスさせる事を「収める」(「緩める」)と言う表現をする。
[「持って行く」の追記]
rubatoであろうとなかろうと、それが2部形式、3部形式の唱歌形式であろうと、西洋の音楽は基本的に「質問」と「答え」と言う構造で出来ている。
それを表す言葉は、非常に多くまたしかも、微妙に意味が異なる。
あるときにはanacroseとdesinenceであったり、フーガなどではFührer(Dux)とかGefährte(Comes)のような言葉で、その言葉の対立を表す。
その言葉は殆どきりがないと言っていいほどである。
そこで、私達が子供達を指導する上で、普段、どの生徒にも理解出来て、しかもピンと来る簡単な言葉は「質問」と「答え」であろう。それが一番具体的でしっくりきてよい。
勿論、曲の大半は前のphraseが質問であり、次のpassageが答えとなっている。
但し、意地悪な曲の中には質問の次に、又質問が来て、その後で、あたらめて答えがやって来たり、一つの質問に対して、答えが2回も3度もダメ押しで来る場合もある。しかし、常に質問に対して、答えという図式は変わらない。
当然質問は畳み掛けであり、steigen(高揚)であり、ダメ押しで押してくる。それに対して、答えは相手の質問を「収める」のだが、まだ収めてはいけないところでは(緊張を)「緩める」となる。
「緩める」と言うのはきつく縛られた縄を、少し緩めると言う感じであろうか?幾分ほっとさせると言う感じかな?先の「収める」とは、「緩める」は又、ずいぶんnuanceが違ってくる。
ChopinのMazurkaでもrubatoして緊張させたtempoを、収める時に、ちゃんと収めることよりも、steigerngさせた緊張感を、思いっきりしっかりと収めるのではなく、きつい縄目の束縛をほんのちょっと緩めるだけと言うpassageが多い。
これはChopinのMazurkaがあくまでショート・ピースであるから、曲の長さ的に緊張を完全に収めてしまうと、次のphraseの立ち上がりが上手く行かなくなるからである。
「緩める」と「収める」の使い分けが出来る様になるだけで、演奏の深みはずいぶん増す事ができるだろう。
先ほど出てきた「切断」も必ずfeintを伴うので、[定型の揺らし]と呼ぶことが出来る。
しかし、[定型の揺らし]はそんなに特別なものではない。
極々一般的な「揺らし」の原型は、音型が上行し、且つ音楽が高揚する場合には、音楽的には必然的に気分的に早くなるし、音型が下降し、音楽が落ち着きを取り戻したときには、テンポは収めとして、少し落とし気味のテンポとなる。
baroqueやrococoの曲は、アカデミズムの世界では、機会的に味気ない無味乾燥なテンポで演奏されることが多いのだが、melodieの強弱が出来ない(歌うことが困難なCembaloという楽器の音楽であるからこそ、CouperinやRameauのCembalo曲には、そういった歌うための「揺らし」が必要となるのだよ。(別にフランスの作曲家だから、感情的に・・・・という意味は、私にはないのだけれどね。)
「揺らし」というものは、決して感情的なものではなく、緻密な計算に基づいたものなのですよ。
それが芸術の持つ普遍性であり、作曲家の意図なのですよ。
[舞曲が本来持っている「揺らし」]
「揺らし」が曲の一部分にかかるものではなく、曲全体の構造にかかって来るものが数多く見受けられる。そういった形式の大半は舞曲である。
数多くある舞曲はそれ自体がそれぞれの部分部分で独自のrhythmを持つ。
そういった揺らしの形式の典型的なものは、レントラーやMazurkaなどの舞曲やハンガリー・ラプソディーの形式であろう。
ハンガリーの幻想曲と名づけられた一連の曲、フリュートの有名なドップラーのハンガリー田園幻想曲やリストのハンガリー狂詩曲、或いはヴァイオリンのサラサーテのチゴイネル・ワイゼン、ラベルのチガーヌに至るまで、基本の形式に従って作曲されているのだ。
私はこのハンガリーの形式を雅楽の形式になぞらえて、「序、破、急」の3部から成り立つ形式に中間部の歌謡形式の部分を加えたものと説明している。
「序」の部分は、混沌として無秩序なカオスの状態から徐々に音楽の片鱗を見せ始める部分である。テンポは断片的で一貫性がなく、混沌とした状態を繰り返す。
次は本来的には「破」の部分になるわけなのだが、長大な長さのハンガリー狂詩曲の場合には実際には4部構成をとることが多い。
だから「序」と「破」の間には中間部として、独立した・・息抜きの「歌う部分」が置かれていることが多い。ほとんどの曲が小さな歌謡形式をとっている。
有名なサラサーテの子守唄のpassageである。
だから当然「揺らし」も、優しい歌謡形式の定型の「質問」と「答え」の「揺らし」でなければならない。
それから、「破」のpartに入ると、ゆっくりしたテンポからだんだん速くなるpassageを何度も繰り返して、音楽を盛り上げていく。
最後の「急」のpassageはだんだん速くなるわけではなく、段階的にテンポをあげていく。そして最後のfinaleに差し掛かってから一気にテンポを出来る限り最大まで加速して終わる。
いずれにしても、或いはどの楽器に対しての作品でも、この基本的な形式は定型であり、演奏もその様式(演奏スタイル)に従ってinterpretationされ、演奏されなければならない。
大規模なレントラーの形式の作品は19世紀の後半のドイツやオーストリアの作曲家によって、数多く書かれた。
しかし、不思議な事にヴァイオリンの曲にはこのレントラーの形式で書かれた作品は数多くあるのに、オリジナルのピアノの曲の作品はまだ探せていない。
勿論、民族音楽のレントラ-をピアノにトランスポートした作品にはよくお目にかかるのだが、あくまでオリジナルの作品としては、いまだに探せていないのだ。
もう一つの面白いことは、殆どの舞曲が3拍子なのに対して、レントラーは2拍子の曲が非常に多いのである。それはアルプスのダンスのstepに特徴があるからだ。レントラーはロンド等と同様に輪舞であることが多い。ウインナワルツのように基本的には2人で踊るダンスよりは、カントリーダンス(学校のフォークダンス)に近いからだ。私達が高校生の頃、強制的に踊らされた、オクラホマ、何とか??とか言う曲も、2拍子の曲である。カントリーダンス(フォークダンス)は皆で簡単に踊れるように、大きな輪になって直進運動をする。集団で円になるときには、回転の少ない2拍子の方が踊るのに有利だからだ。
それに対して、3拍子のstepは足のstepが円の回転運動をするので、むしろ、ペアーの回転の動きが基本である。
その典型である、ウインナーワルツは2人だけのペアーで、小さな円回転運動をしながら、大きな集団の輪舞をする。足のstepの難しい非常に高度な踊りである。
Kochel村のländler
私が留学で初めてドイツに滞在していた村のダンスである。
この模範のダンスの後、私も(観光に来ていたお客さん達も)一緒に、手ほどきを受けながら、レントラーを踊ったのだが、100キロ近いおばあちゃんを両手で持ち上げる場になって、おばあちゃんが「無理だろうからいいよ!」と遠慮していたのを軽々と、持ち上げたので、見ていた人達が皆びっくりしていた。当時私は170㎝、55㎏のガリガリに痩せていたけれど、実は武闘派で体力や腕力には自信があったのだよね。
レントラーの最初の部分の入りは、非常にゆっくりと入って、ほんの1小節ぐらいでin tempoまで急速に早くする。phraseが2回、3回と繰り返されるときには、「タメ」がそのつど少なくなる。(減っていく。)レントラーの2部の歌う部分は、少しゆっくりのテンポになるのだが、それはrondoの原則に従う。
最初のレントラー部が終わると、次の部はBären Tanz(熊さんの踊り)と言う部分になる。非常に重々しい2小節ぐらいのpassageと非常に速い2小節の部分が繰り返されて、4小節の速いpassageが続く。それがまた繰り返されて、・・と何度か繰り返されて、それが終わると、またlandlerの部分の開始である。
つまりレントラーの構造式は、landlerA=小rondoで(a+b+a+c+a)、熊さんダンスB、landlerA、ゆっくりと歌う歌謡形式の部分C、landlerA、finale部分とCoda
つまりは、大きくA,B,A、C、A+finaleとCodaの大きなrondoを構成する。
landlerAは大きな曲では小ロンド(a+b+a+c+a)を形成することが多いのだが、小さな構造の場合には、landlerA=(a+b+a)の単純なシンメトリー形式になっているケースも多い。
その場合には、殆どの曲がlandlerA(a+b+a)、B、landlerA(a+b)+(a+Coda)の3部構成をとっている。
「なぜ?」って・・・??
それは音楽上の決まりではなくって、踊りの決まり(構成)だからだよ!
landlerを引き合いに出さなくっても、民族舞踊には慣習的に決められたstepを伴った枠組みがあるんだよね。stepというのは、その踊り方によって独自のrhythmを持っているのだ。
それが、Chopinのピアノの曲のように純粋にピアノのための作品で、踊りを前提とした音楽でないという曲になったとしても、その踊りのstepによるrhythmはきちんと定石として守らないとおかしいもの(lacherlich!)になってしまうのは当然でしょう?
それでは舞曲とは言えなくなるものね!
MazurkaもPolonaiseも同じだよ。
だって、それじゃぁ、Mazurkaとも、Polonaiseとも言えなくなってしまうからね。
彼は戦争で滅ぼされた自分の故郷を思って書いたのだよ。
それに対して「Mazurkaのテンポなんて、日本人には分かる分けはないわよ!」とか言ってしまって、舞曲のテンポやrhythmを無視して勝手に弾かれてもねぇ!?
そりゃChopinに失礼だわさ!!
私達がまだ音楽大学の学生であった頃、まじめに形式学の本とか買って、いろいろな音楽の形式を研究したもんだ。
そこには「舞曲は全て押しなべてABAの3部形式で作曲されている。」などと、乱暴な解説が書いてあった。
それをいまだに信じている音大生、或いは音大の教授達が多くて困ってしまう。舞曲の形式とはそんなに単純なものではないのだよね・・・・!
ChopinはとてもMazurkaを愛したとされる。それは、ChopinにとってのMazurkaは、俳句と同じで、大きな音楽が小さくミニマム(minimum)に凝縮された形だからなのだよ。
だから、テンポやrhythmがめまぐるしく変化する。
他の作曲家の作曲している大きな長いMazurkaと全く同じ形式を使用しているのだが、それを極端にミニマムに、8小節とか、16小節の音楽の楽曲構成上の最小の単位で表現している。
まさに、俳句や短歌の世界だよね。
だから当然起承転結が存在して、それぞれがそれぞれの舞曲のrhythmをとっている。
だから小節毎に、本当にめまぐるしく演奏表現を変えていかなければならないのだよ。
この曲は大きく(とは言っても実にコンパクトに)、A(12小節),A(12小節),B(8小節),A(12小節),C(8小節),A(12小節)と言う実にシンプルな構造で出来ている。
もし、繰り返しをそのまま入れるとしたら、A,A,B,A、B,A,C,A、C,Aとなるが、舞曲の基本的な形式である小rondo形式で書かれている事は、何処から見ても疑問を差し挟む余地がない。
(此処で、あえて「疑問を・・・云々」と書いたのは、私が高校生の時、大学生の時に、使用していた形式論の本には、「Chopinの舞曲は全て複合的な3部形式で作曲されている」 と書かれていた。しかも、40年以上経った今も、まだその楽典の本はしつこく出版されているのだよ。いったい誰が、複合3部形式と言ったのだ?)
最初のAの部分の演奏法というか、揺らし方であるが、譜例を見ながら、説明しよう。
譜例:冒頭の1小節目から3小節目まで
この曲は元気よくforteからfortissimo、そして頂点のsforzandoとトリルに至るまで、所謂、accelerandoする。
と言うよりも「揺らし」の用語では「持って行く!」 と言う言い方をする。そして、頂点のsforzando、(トリル)で音楽は突然停止する。
その後3小節目の2拍目から、sostenutoと言うか音符を保持しながら、(ritenutoしながら)diminuendoして、subitoで次の4小節目のscherzandoに入って、テンポアップする。
3小節目の2,3拍目のわづか2拍で前半部のtempoと後半部のscherzandoのtempoのつなぎをする。余程正確にrit.していかないと、scherzandoのtempoに入れない。
このpassageの左手のpartを注意してみると、最初の1小節目は3拍子のワルツ風の音型で書かれているが、2小節目、3小節目では、フェミオラのような、2拍子の伴奏になっている。
これは作曲家の常套手段で、3拍子の曲を2拍子で弾かせる事によって、音楽が急き込んだstrettoな感じを表すためである。
4小節目から12小節目までは、典型的なMazurkaで舞曲らしくscherzandoな楽しいpassageが続く。
全てが短くコンパクトに纏められているChopinのMazurkaにしては、導入部がわづか3小節しかないのにもかかわらず、9小節も続くと言うのは、作曲上は曲の構成上バランスを崩しやすいのだが、Chopinらしく結構な安定性を表現している。そのトリックは、4小節目から始まったscherzandoのpassageがわづか3小節で、次のMotiv、7,8小節を挟んで、次のscherzandoの2小節、収めの11小節から繋ぎの12小節とめまぐるしくその構造が変化しているからである。
纏めて見ると4小節目から、scherzando3小節、収め2小節、scherzando2小節、長目と繋ぎの2小節と実にめまぐるしい。これが3小節の導入部に対して、9小節という長いバランスの崩れた構造が、不自然に聞こえないと言う、Chopinの作曲技術上のトリックである。
前の項で述べたように、12小節目はAの前半部の終わりと、後半のA部へのつなぎのpassageである。
音楽は事実上、2拍目で終わる。当然3小節目と同じように、2拍目で停止して、sostenutoで丁寧にゆっくりと次のAに向かっていく。
私は2拍目の左手を短く切らせて、右手のB♭の音を単独で残すように演奏させる。
13小節目に入ると同時にAのテンポで弾き始めなければならない。
Bのpassageであるが、この部分はゆったりとした、優美なワルツ風のpassageである。
鋭いMazurkaのrhythmは影を潜めて、優雅に演奏されなければならない。
28小節目の3連音は、拍の中に入れるというよりも、3連音1個1個の音を丁寧にsostenuto気味に弾かなければならない。
なぜならば、Bの後半29小節目からはstrettoになって一気にテンポがアップするからである。
先程も指摘したように、このstrettoを表す時に、Chopinは右手が3拍子のmelodieであるのにもかかわらず、左手のrhythmは2拍子取りで書いている。それで、strettoな感じを表現しているのである。
此処のpassageもmelodieはpoco rall.の2拍目で終わる。
その後の2,3拍目の16分音符+3連音は繋ぎのpassageであり、演奏上留意しなければならない事は、2拍目の裏の16分音符から、3拍目にかけては、実際上は(これこそad.lib.であって)拍子はない。自由に、寧ろ、書かれているslurを意識して注意深く弾かなければならない。
Cの左手のpassageはバグパイプのような民族音楽特有のドローンを表しているので、拍子(rhythm)が出てはいけない。オルガンのように(それこそバグパイプのように)持続した音で弾かなければならない。
Chopinのpianissimoにsotto voceという指定はとても大切な指示である。なぜならば、このpassageも後半の49小節目からは、rubatoと言う指定があるからである。前半部のpianissimoとsotto voceと後半部のrubatoの指定があるstretto部がコントラストをしなければならないからである。
又、51小節目から52小節目の繋ぎは当然stretto部のrubatoの返しのtempo設定上のpoco rall.でなければならないのは勿論の事であるが、51小節目の3拍目のDes,C(↓注)は8分音符ではなく、付点8分音符と16分音符である事に注意しなければならない。
つまり、それまでの単調なrhythmがそこで、16分音符に変わることで、次に何かが起こることを暗示しているのだ。
そういったChopinの緻密な意図を汲み取って演奏に確実に反映させなければならない。
以下、実際にChopinに親しく接した友人や音楽家達はChopinの持つ民族性のrhythmについて数多くの質問をしているのだが、その一文章を参考までに掲載しておく。
参考文献:「弟子から見たChopin」 ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著 米谷治朗・中島弘二訳
音楽の友出版者 175ページより
ショパンの演奏の際立った特色は, リズムをまったく思いのままに扱う点にある。それがあまりに自然なものだから, わたしは長年の間, べつに驚きもしなかった。
あれは確か, 1845年か6年のことだったはずだ。
ある日わたしは恐る恐るシ
ョパンに聞いてみた。
「あなたがマズルカを演奏なさるとき, 小節の1拍目をわざと遅らせてお弾きになるので 4分の3拍子ではなく 4分の4 拍子のように聞こえますが?」 と。すると先生は大きくかぶりを振って、「それではひとつマズルカを弾いてみましよう。」とおっしゃるので、わたしは声を出して数えてみた。やはりきっかり4 拍子ではないか。
ショパンは笑みを浮かべて、「こんな特殊な奏法は、もともとこのダンスがポーランドの国民性を反映したものだからなのです。」と説明してくれた。
彼の演奏で最も注目すべきは、ほんとうは2拍子のリズムを聞いているのに、4分の3拍子のような気がしてくるところである。
もちろんマズルカすべてにというわけにはいかないが、これはほとんどの作品にあてはまる。
後になってよく考えてみると, あんなさしでがましい口をきいても、気を悪くしないで親切に答えてくれたショパンは、よほどわたしに好意的なのだということに気がついて、冷汗をかいてしまった。
マイヤベーアも同じようなことを尋ねたのだが、恐らく刺のある言い方だったのであろう。そのときは深刻な言い争いになってしまった。
ショパンはマイヤベーアをけっして許そうとしなかったと思う。
「ウィルフェルム フォン レンツ ロシア皇帝の国政参事官」
が、「多分、全く同じ時の話ではないか?」と思われるのだが、もう少し詳しくその時の状況を説明している。
ある日わたしがショパンの家でレッスンを受けているところへ、マイヤベーアが顔を出した。
もちろん勝手に部屋まで、つかつかとあがりこんで来たのである。彼は王様気取りだった。
わたしたちはそのとき,マズルカ作品 33(の3)ハ長調を弾いていた。
この曲は1ページのうちに100ページの内容が凝縮されているような作品である。
わたしはこれを、マズルカ全体の墓碑銘と呼んでいたが、この曲にはそれほど悲痛な喪の悲しみが漉っている。疲労困壊した鷲が、空を飛んでいくのだ。
マイヤベーアが椅子に腰かけたが、わたしはなおも続けた。
「4 分の2 拍子ですね」とマイヤベーア。
わたしはもう一度くり返さねばならなかった。ショパンは鉛筆を持って、ピアノの上で拍子を叩き、目をらんらんと輝かせている。
「4 分の 2 です」 と、マイヤベーアはすましたものだ。
ショパンの我を忘れるほどの激昂を目にしたのは、後にも先にもこのときだけだ。
怒りにふるえる顔も、驚くほど美しかった。青白い頬にはうっすらと赤みがさしているではないか。 「これは4分の3拍子なんです」と、彼は声を荒げた。
「じゃ、これをわたしのオペラのバレエのところに使いますよ。4分の2だってことを証明してあげますからね」とマイヤベーアが答えた (彼はその頃「アフリカの女」というオペラを極秘のうちに作曲していたのである )。
「4分の3だって言うのに!」
いつもはぼそぼそ噴くように話すこの人も、大声で怒鳴りかねない剣幕だ。
わたしを椅子からどかせると、自らピアノに向かった。
そして声を出して数え、足で拍子をとりながら、この曲を3度も弾いたのである。
彼はもう無我夢中だった!
マイヤベーアも頑として自説を曲げず、結局は物別れとなってしまった。
その場に居合わせたわたしも、なんともばつの悪い思いがした。
ショパンはわたしには挨拶もせずに、書斎に引きこもってしまった。
それにしても、やはりショパンが正しかったのだ。
3 拍目がふつうの価値を持たず、ここではテーマの流れの一部と化してはいるものの、けっして消え去ったわけではなく、確かに存在しているのである。
「モシェレス / ビューロー」
モシェレスの話によると、嫁いだ娘 ( エミリー・ロッシュ ) がショパンのレッスンを受けていて、彼(モシェレス)にショパンのマズルカの新曲を弾いてくれたこともあったそうだ。ルバートをつけて弾くので、この曲全体が 4分の3拍子ではなく4分の2 拍子に聞こえたと言う。
variationも大きな曲になると、Beethovenの32のvariationどころではなく、演奏時間が30分をゆうに越す作品も珍しくはない。
運良く、と言うか、作曲家が過保護でと言うか、或いは思慮の足らない校訂者の手によるものか、速度標語や音楽表現を指定する楽語が書かれていたりすれば、まだよいのだが、baroqueの作品のように、テンポが極端に遅くなったり、速くなったりするpassage以外では何も書かれていない楽譜が多くて、演奏者をいたずらに混乱させるようだ。
その一例が、VivaldiのTrio Sonateである。 「la folia」の初演の時にも、曲がどうしようもなく単調で、長くってまとまりがつかず演奏会としても良い出来ではなかった。
勿論、一つ一つのVariationは良い出来なのだが、通して演奏して見るとlangbeilig(退屈)なのだよ。
そういたった演奏不能な曲が、幾つも書庫に眠っていたねぇ。日の目を見ないまま!カワイそうに。
驚く事に芦塚先生の研究のしつこさは「ひとつの問題(課題)を10年以上も考えている事もまれではない。」という事なのだ。そういった疑問点は洋の東西を問わず、何等かの本に掲載されているわけはないし、ましてや、誰かが教えてくれるわけでもない。
だから、と言って数多くのその種の曲を演奏したところで、そこにヒントが見つかるわけではない。
芦塚先生にとって本は何が書いてあるのか?という事ではなく、何が今まで研究されてこなかったのか?という事を調べるために読むらしい。そうすると、その誰も調べた事のないところが芦塚先生の楽しい居場所なのだそうな?
そういった研究の狭間のthemaは探して見ると結構あるらしい。
で、この揺らしも、ちゃんと書かれた論文は無いのだそうな。
その後、variationの構成法についてとその演奏法について、10年近く考えあぐねていたのですが、Beethovenのvariationを研究していた時に、Beethovenが弟子に語った演奏法の言葉の中に、そのヒントがありました。
長い、variationには、必ずゆっくりになるvariationが何回か出てきます。そこで、そのvariationの一つ前のvariation迄を、徐々に盛り上げていけばよいのです。
Baroque時代のvariationの場合には必ずしも、全部のvariationを弾く事を想定して書かれているわけではありません。
寧ろ演奏者がその時の気分や演奏時間で適当にselectして弾く事が、常であったのです。
長い曲を大きく、4つぐらいのgroupに分けて、その中で構成をしていきます。
しかし、殆どの曲はそういった、再構成は必要なく、書かれているtempo設定を変更するだけでよかったのです。勿論、テンポの設定は後世の校訂者の書き加えたものであるので、原曲を傷つけた事にはなりません。
寧ろ、作曲者の意図に戻したと言えると自負しています。
と言うわけで、その校訂の変更後は、Vivaldiの「la folia」は、色々な会場で演奏する私達の演奏団体の常設曲になり、一般の聴衆の方からの好感を持って受け容れられています。
それ以降、演奏不能とされていた長大なvariation形式の曲を積極的に演奏活動に取り上げていったのですが、一般のオーディエンスからは、「Variationの形式はつまらない。」と言う評価はなくなったね。
大規模なvariation形式の曲だけでなく、Fugaのような、基本的に形式性が弱いものに対しても、演奏の持って行き方が、非常に楽になりました。
「揺らし」と「練習番号」は一見すると、関係ないように思われるのですが、「揺らし」を練習しようとすると「揺らし」から練習するのではなく、「揺らし」のかなり前の揺らす前のrhythm(tempo)から弾き始めなければなりません。そのために、「揺らし」の練習のときには、かなり正確な練習番号の位置気味が必要です。
しかし、一般の出版されている楽譜では、練習番号はそれぞれの楽器の担当者が、なんとなく練習がし易い所に、とても大雑把につけているケースが多いので、皆で集まってきて、実際に練習しようとする時には、役に立つ事はまれです。一人がその小節に入れても、別の二人がついてこれない・・・とか。
ですから、演奏家達は、事前にではなく、みんなで会って練習をする時に、自分達で新たに練習番号を決めて行くことが多いのです。練習番号は、練習していく上では、結構ネックになっています。楽譜によっては、最初から練習番号がついていないものすら多いのです。練習番号はあくまで、出版社のサービスなのですから、殆どの演奏家はgünstig(好都合)な練習番号は自分でつけているようです。しかし、それぞれの楽器の人が勝手に自分の弾きやすい所を主張するので、それこそ喧嘩になってしまいます。
と言うわけで、上手に練習番号をつける事は、練習を捗らせるもっとも重要なpointなのですが、感情的につけていては、それこそ喧嘩になってしまいます。一般ではコンサートマスター(ファースト・ヴァイオンのトップの人が担当する事に決まっています。)
教室では、オケの参加者が中級、上級になると、オーケストラの出演者が全員で、同じ曲の練習番号をつけます。芦塚メトードでは練習番号を付ける位置は、誰が付けても変わらないからです。
ですから、練習番号付けとして、芦塚メトードのカリキュラムの一環として、オケの練習に参加して比較的早い時期に、「練習番号付け」のレッスンとして子供達に指導します。
一般の練習番号と違って、芦塚メトードの練習番号は「通し番号」ではありません。
一番最初は、大きく4部分か、5つつの部分に分かれます。
それを、探す事は、オケに始めて参加した小学生の低学年の子供達にも分かります。
それを、大きなBuchstabe(文字)A,B,Cとかで、表します。小さな曲では三つ、とか四つ!大きな曲でも五つぐらいで、六つに分かれる事はまれです。
A,B,C,の部分はそれぞれに独立した部分から成り立っているので、Motivまで幾つに細分化できるか、を判断します。初歩の段階はそこの部分は先生が判断しますが、中級や上級生になると、その部分までも判断できるようになります。そういった手法で、練習番号を細かく付けていくと、誰が付けても位置は変わりません。これは音楽形式上で分析した分類なので、誰が練習番号を付けても変わらなくなってしまうのです。
この方法だと、全員が練習を始めるのに、すこぶる都合がよい。しっかりとした切れ目で入ってこれるからです。しっかりした、切れ目と言うのは、必ず、「揺らし」に入る前の大元のtempoです。
しかも、それ自体が音楽の構造分析の勉強になっている。・・・・まさに一石三鳥の話です。
2010年8月19日脱稿
東京 江古田の寓居
一静庵にて
一静庵庵主
芦塚陽二拝