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ブログ風のお話
ハードルの高さを決めるのは

アドバイスについて

愚痴は愚痴でも本当に困った愚痴もある
失われた論文です。元原を探している所です。

論文のネタ集
[記憶力だけを評価する日本独自の教育制度⇒[記憶力について][日本型の父親][儒教的な依存の構造のエンドレス]⇒

[仮面日本型父親][儒教型の父親が日本に多いもう一つの理由=女性の甘えの構造][学校教育の問題に戻って]

[正しい学習指導とは]⇒[加齢による記憶力の減退]⇒[体力が]⇒[仕事の能率や完成度を維持するために]⇒

[経営者としての可能性]
レガートシモ奏法と探り弾き[演奏家に不向きな性格の人][芦塚メトードの第二の欠点]

[副科のlevelが低かったとしても、]⇒[今の子供達の口癖]⇒[勉強のstep]⇒[芦塚メトードと無駄を省く]⇒

[良い意味でのアマチュアイズム]⇒[教室のホームページ関係memo(音符の等分割と不等分割)]⇒[怠け者の仕事術]⇒

[「後で、時間がある時にやっておきます。」と言う人に][モンスター・ペアレンツ]⇒[芦塚メトード]

2013年4月25日up分の芦塚陽二のブログ(論文のネタ集)です。
仕事の仕方(捉え方)のlecture

[仕事の効率]⇒[長期作業と短期作業]⇒[作業の冷凍保存とfiling]⇒[今、何をしなければならないのか?]

[定型のprojectと雑用][雑用(所謂、「から迄」の作業)の下準備][から迄の迄の話]

[何気ない日常のmemoを取るという事]⇒[本当にあったプリント用紙がなくなって仕事を2週間、3週間に渡って遅らせた悪例]

[人を使うという事と人を育てるという事][上記のお話の繰り返しになるのだが]

2013年2月28日からの論文のネタ集です。

2013年5月6日欝日記より抜粋 夢を叶えるには

日頃の愚痴などの、無駄話です。未だ、未処理の文章です。


2013年7月16日(火)10:09論文のネタ集 

2013年7月18日(木曜日)1:42分時間と水準2



以降の文章は、ぶっ飛んで欠落しています。折に触れて、欠落した文章を探して復刻に努めてみます。

2014年10月12日の千葉地区秋の発表会への愚痴(別のサイトからのお引越し)

2014年12月クリスマス会から新年に向けて


ブログ風のお話


2013年4月25日
文章(ページ)が長くなって来たので、新たにindexを加えました。
通常はblogというと、日時が新しいものが上に来るように作られるようですね。
そうすると、常に新しいPageから、読む事が出来るので、便利です。
しかし、この「blog風のお話」は、時間軸が逆になって、Pageの最後に新しいblogを付け加える形になっています。
「どうしてそんなメンドくさい・・・」と、思われるかもしれません。
その弁解です。

私の場合には、ホームページ上に直接blogを書いている訳ではありません。
通常のFacebookやblogの場合には、それまでの経緯を読んでいるから、常に新しいmessageが上に来ます。
この「blog風のお話」では、文章を読む人がこれまでの経緯を読んで、新しいmessageにたどり着くように構成されています。

あくまで、mailで、人との会話を一つの時間軸に纏めて、それから最終的にblog風の論文に統一して纏めて行きます。
しかし、折に触れて、文章を推敲して行くので、未だ、何もなされていないmailのやり取りは、ただのchatにでしかありません。
それでも、構わずupしています。
私の仕事の大半は、教育なのですが、教育に関する一番の問題は、同じ話を何度も繰り返さなければならない・・・というdilemmaです。

世代が違い、人が違うのなら仕方ありませんが、実は、同じ話をするのは、常に同じ人へ・・・なのです。
普通なら、私達も
「それはその人の考え方だから・・・」と済ませてしまいます。
だって、相手も大人なのだから、その人がその意見が飲み込めなければ、それはその人の考え方であり、行き方だから・・・で、済ませられます。

しかし、事は教育の問題でその子供の将来に関わって来るのです。
しかも、その夢が叶わない時には、自分達が私達の言う事を一つも聞かなかった事は、忘れてしまって、子供の夢が叶わなかった事を私達のせいにしてしまいます。
つまり、
自分達は、常に正しかった分けで、夢が叶わなかったのは先生の指導力のせいなのですよ!!!

それでは、たまったものではないし、教室が生徒に対して無責任であったかのように、教室に被害が及ぶ分けなので、ソコの所は決して譲れないのです。

という事で、父兄にadviceをしたお話は、mailそのままに、保存しています。
何年後になっても、あの時、ちゃんとadviceをしたのだけど、・・・と必要最小限の弁解は出来るようにしています。
でも、それだけでは、あくまでも特定の父兄のお話に始終しますので、それを一般論に平均化して論文にして行きます。

一般の人達にとっても、子供の将来の目標と、教育の条件は常に整合させなければならない問題だからです。
ボーイフレンドを作って、ディズニーランドで遊びまくっていて、東大や京大等の超一流の大学に進学出来る事はありません。当たり前の事です。

しかし、親は自分の子供の事になると、特別になってしまいます。
勉強よりも家族旅行が優先するのなら、それ相応の高校や大学で我慢しなければなりません。

人生で、何を選択するかは、全部本人に任せてあるのです。
しかし、その条件を、認めたくないという家族も多いのです。
そこに、分かり切ったadviceを何度も何度もしなければならなくなって来ます。
条件と結果が一致しないからです。
という事で、人との経緯が理解出来るように、時間軸を、古いものから新しいものへ・・と流してupしています。
outlookでは、mailを集合させる時に時間軸を逆さまに出来る機能もあるのですが、いづれにしても、mailを纏めているので、時間(日にち)があちこちへ飛んでしまうのは、致し方ありません。

という事で、このPageに関しても、時間があちらこちらへ飛んで話の内容が分り難くなるのを防ぐという意味で、時間軸よりも、話の内容を中心にmailをまとめ直し、経緯が分かるように、内容を古い方から新しい方へと順序を逆さまにしていますので悪しからず。

2012年3月7日
ここの所、毎日欝が酷いので、昨日はClmentiのsonatineの7番のPageを新設して、今日は、topPageの一番下の「芦塚陽二先生所有のbaroque楽器」のPageを少しだけ、弄って写真を追加したりしました。
何もしなければ良いのに、結局また仕事をしてしまって、おかげで、ますます、鬱が酷くなりました。

体調不良の時に仕事をしたがるのは、貧乏性のなせる技なのかもしれません。
じっつとしている事が出来ないのが貧乏性らしいです。


2012年2月16日作成

「友、遠方より来る。」 では、ありませんが、イタリアのミラノの友人(勿論、イタリア人です。)が、10年以前に教室の生徒の留学の事で、お世話になったまま、私が病気入院を続けてしまって、音信不通になっていたのですが、ついでに、彼女も私の手紙を無くして住所が分からなくなってしまった、という不幸が重なって、そのまま10年間音信不通のままだったのですが、彼女の日本人の生徒がネットで私のサイトを探してくれた・・・・という事で、突然、昨日、手紙が届きました。

今更、ネットというのは凄いものですね。



そのイタリア人の友人がスカラ座で歌っていた頃のプロマイド写真です。
というか、年をとった今現在の彼女は私は知りません。
学生時代はとても美しいイタリアの女の子でしたがね。
スカラで一度日本に来た時に、江古田の教室に来てもらって、私の歌の生徒を見てもらった事があります。

だから、彼女は江古田の教室は来た事があるのです。
え〜っ??不思議だ〜!!

ヨージーの法則
自分を追求するか、人から認められるのか?の二者択一




ハードルの高さを決めるのは

「芦塚先生の押し付けの考え方」とよく勘違いされる「一般論」

この話は教育に関しての一般論ではありません。
あくまでも、保護者の方達が、自分の子供を
「音楽家にしたい。」とか、「音楽大学に進学させたい。」と、芦塚先生に、お願いする事で、教室での音楽の勉強の目的を、音楽を専門にしたい・・と、限定している人達のお話になります。

そういった将来の目的を、
「音楽で生活が出来るようにさせたい。」とか、「音大に進学させたい。」とかいう事を芦塚先生に、お願いしている父兄であるにも関わらず、中学受験や高校受験、果ては学校の成績の事で、塾に行かせたい等々とか、学校教育との両立や、部活等との絡みで、練習の量、時間、Niveauの低さ等々、「音楽に対する意識の甘さ」という事を、芦塚先生に厳しく注意をされて、その時点で、芦塚先生が、生徒や親に対して要求している「意識のNiveau」を、芦塚先生の個人的な見解として捉えて、挙句の果てには「芦塚先生は、根性主義の古いタイプの人だから・・・・」 という風に、芦塚先生の言われている事を、芦塚先生の個人的な見解であるかのように、誤解をしている親や子供達をよく見受ける。
もっと大きな勘違いになると、江古田詣のお話を、全く勘違いしてしまっていて、
「この教室は古いタイプの教室なので、教えた分だけ働いて返さない・・・といけない教室だ!」と言っている父兄も居たりして、芦塚先生や他の先生達を唖然とさせて、憤慨させている場合もある。

勿論、音楽との関わりが、その生徒や親達がどの程度の関わりを望むのかで、音楽の勉強のstyleが変わって来る!!
生徒の目的が
音大進学ならば、江古田詣は必要ないし、教室の通常のlessonの中で充分である。
音大を卒業して、一般の音楽教室に就職して演奏活動をある程度する事が望みならば、江古田詣等や古いtypeの職人型の指導法等は必要はないのだよ。
ましてや、
結婚して、家庭でに音楽教室を作って・・・なんて、言ったら、そりゃあ、何も要らないだろうよ!!
音楽大学を卒業するだけで充分だろうよ。

じゃあ、なんで、そういった風に芦塚先生や教室が勘違いをされるのか??
それは、生徒や親が、
音楽を職業として、生きて行きたい・・という希望を出すからなのだよ。

職業としての音楽を学ぶのなら、話は全く別のものなのだよな。

学校教育で(音楽大学の勉強の中で)・・・生徒に音楽社会で生きて行く為の、技術を勉強として学ぶのは不可能なのだよ。
音楽大学で勉強出来るものは、はっきり言って何もない。

音楽大学を卒業する学生の99.99%が、学校の教員や音楽教室の先生、或いは最悪自宅で生徒を指導するようになるのだが、音楽大学では、子供達や生徒を指導するmanualを指導する事はない。
Pianoの生徒なら、先生にPianoのlessonを普通に受けるだけなのだよ!!
こんにち、音楽界では楽譜を浄書するパソコンソフトである、finaleというソフトの重要性が語られるようになった。
という事で、遅ればせながら、音楽大学でも、finaleの使用法のlectureを取り入れた学校が増えて来た。
・・・・ということで、音楽大学でも、パソコンの授業として、finaleの授業を積極的にするようになった。
しかし、音楽大学で勉強出来る程度では、音楽の社会の中で生きて行くために必要なlevelのfinaleの技術の習得は、所詮は無理なのだよ。

実際の社会で必要なlevelのパソコンの技術は、音楽大学で学ぶ程度のそんな初歩的なものではないのだよ。
しかし、そう言っっても、finaleを使いこなすための技術は、パソコン教室に通っって、学べるものではない・・・という事は、周知の事実であるよな??えっ?!知らんかった???

・・・では、何処なら学べるのか??

そういった、専門の知識は、・・・その専門の職場、・・・・・つまり、先程のfinaleを例に取ると、finaleの技術は、(出版業界等)でしか学べないのだよ。
同様に、発表会のprojectの組み方や、演奏会のprogramや企画の仕方も、現場でしか学べないのだな??

教室で進行表の作リ方を学んだ学生達が、高校や、大学に就職して、その年に、ベテラン先生達を押し退けて、その技術を生かした役職を貰えた話は、芦塚メトードのお話に載せているし、何度もお話をしている。

そのお話は、音楽の話ではなく、一般の学校や会社の話なのだよ。
しかし、芦塚先生がお話をすると、周りからは、音楽社会の話をしていると思われてしまう。
困った事だ!!

教室の勉強は、職業訓練の勉強なのだからね。
職業という考え方は一つしかないのだけどね。

サラリーマンの意味する職業のお話ではないのだよ。
此処で言う職業とは、手に職の、職業の事なのだよ。


だから、音楽に進学する子供達でなくても、子供達に教室のお手伝いをさせるのだよ。

教室の仕事をお手伝いする事によって、社会人としての仕事の技術と水準を学ぶということなのだ。
話が難しくなりそうだから、大人になるための意識を学んでいると言えば分かり易いかな??

そこの所の考え方は「江古田詣」に詳しく書かれているのだが、相変わらず、生徒も、父兄も意味が分かっていなくって、
教室のお手伝いをしている・・としか思っていなくって、仕事に対しての意識をタダで教えて貰っている事に対しての感謝の念がないのだな??

芦塚先生自身が書いたの論文の「Niveauについて」のところでも説明してあるように、芦塚先生のお話は単なる音楽大学に進学を目指す学生や親達の一般論にしかすぎないし、生徒自身や父兄達が意識しなければならない音楽に対してのNiveauは、その子供の将来の目標で、自動的に、そのハードルや日常の生活設計が決まって行くのは当たり前の事である。

例えば、仮に子供が音楽に幾ら熱中していたとしても、その生徒の将来的に音楽は全くの趣味であって、あくまで一般大学の受験と一般の職業が人生の目標であり、音楽はそのための息抜きに過ぎない生徒の場合には、中学や高校で塾に熱中しようと、部活に燃えようと、それはかまわない。
音楽はそういった生徒達の息抜きには非常に優れた効果をもたらすからだ。

しかし、学校や教室で幾ら技術的に優れたものを持っていたとしても、そういった意識のままで、プロを目指す生徒と同等の音楽の価値観を語る事は許されない。

芦塚先生がよく生徒に質問する事がある。
「非常に上手なアマチュアと下手なプロがいたとして、その人の演奏会に、お金を払って行くとすれば、人はどちらの演奏会に行くであろうか??」という質問である。
生徒達は、
「上手なアマチュア!」と言うかもしれないが、実際には、結果は明白、「下手でもproはpro」なのだよ。

アマチュアはアマチュアであって、プロの意識や考え方とは別の世界であるからである。
(勿論、それには例外もある。ヨーロッパでは、「アングルのヴァイオリン」と呼ばれる演奏会である。アングルは非常に優れた絵画の世界の大家であり、歴史に名を残す偉大な画家である。だから、プロのなんたるかはよく知っている。プロの演奏する趣味の手慰みはそれもプロの意識を伴うからである。だから、proの趣味はamateurではなく、やはりproの域なのだよ!!)


しかし、父兄の中には、教室で学んでいる同じ生徒だから、音楽を専門とする生徒と、音楽が趣味にしか過ぎない生徒を、同等に扱うように要求する父兄も結構いる。

それは平等という意味を履き違えているに過ぎない。

親が要求しているのは
「プロを目指す生徒も、自分の子供と同じ、趣味の低い水準の意識で指導しろ!」と言っているのに過ぎない。
プロを目指す生徒と同じ努力を一般の生徒に要求すれば、その厳しさに耐えられないで、ひと月も持たないで、音楽をやめてしまうだろう。
或いは、もっと手軽で、簡単で易しく教えてくれる先生の元に教室を変わるかもしれない。
自分の子供に対して低いNiveauを求めて、それで、その生徒の将来が、絶たれたとしても、その親にとっては、
「それは子供を直接指導した先生のせいであり、その先生を選んだ自分のせいではない」 からである。

しかも、同じ音楽を目指す生徒達としても、
「音楽大学に入学出来ればそれで良い!!充分である。」と、いう考えの人もいるし、同じ音楽大学の生徒でも、教育科と楽器の専科の生徒のlevelの差は勿論だが、それ以上に音楽に対しての意識は全く違う。
価値観が全く違うのだよ。

ましてや音楽大学が最終の目的ではなく、それから先、将来的に留学を希望する生徒では、音楽大学に入学して、音楽大学の中の、levelに満足しているようなlevelでは、とても留学は無理である。


また、音楽に対する夢が、音大や留学ではなく、それ以上に、
「出来る事なら将来プロになって、演奏活動をしたい!」、という人もいるだろう。
 
しかし、くれぐれも言っておくが、留学をしたからといって、proになれる訳ではないのだからね。
それを一般論では、
「音大を卒業しても、コンクールに入賞しても、留学から帰って来ても、それでproになれる人は、その中のほんの一握りの才能に溢れた人だけである」・・・という言い方をする。

私にとっては、実に馬鹿馬鹿しい話である。
音楽大学進学、コンクール、海外留学のcurriculumの延長線上にproという設定がないだけなのだよ。

音楽大学でも、コンクールでも、果ては海外留学でも、proとして勉強しなければならない基本の訓練や、学習が・・・・、否、それ以前に意識が、何一つ学べていないのだよ!!

proとしての勉強を、何も学んでいなくて、proになれる分けはなかろう。
それを自明の理という。


チョッと、脱線してしまった。
そこまでの水準の話ではなかったかな!!


もっともっと、低いレベルのお話で、一般の学校教育と専科の教育のlevel差のお話だったよ。

今私が例えで上げてみた「3つの例」 は困った事に、そのNiveau(水準)や意識が全く違うのだ。
水準が違えば、学校との兼ね合いや日常生活も全く変わって来るのは当たり前の話である。

間違えてもらっては困るのは、このお話は教室としてのお話ではなく、あくまで音楽を専門に勉強したい人達の一般的な話である。

音楽大学に進学したいと思う(決める)最終学年は、小学校の中学年からである。
それで音楽の勉強に専念しなければならない。

一般の音楽大学の先生達は、生徒が中学受験や高校受験のために塾に通い始めると、音楽大学の進学を諦めたのもとみなす。
「高校になってから、音楽に進むか否かを決められるような世界ではない」という事は、どんなに世間知らずの人間であったとしても、常識的にも当たり前の話である。

ましてや、音楽大学に進学しようとする者が、中学や高校で音楽の部活を取ることは許されない。

何故なら、趣味の子供達がいくら熱心に勉強したとしても、指導する先生も音楽の専門家ではないし、プロでもないわけなので、そういったものが、音楽大学に通用するわけはないからである。

当然、アマチュアイズムなので、音楽に対する意識も全く違う。
という事で、教室から中学、高校に進学した生徒で、音楽専科の生徒で学校の部活で音楽を選んだ生徒は一人もいない。

何故なら、どんなに厳しいレッスンを受けていたとしても、学校の部活は趣味のアマチュアの領域であるし、指導する先生も所詮はアマチュアに過ぎないからである。

本当のプロが意識する音楽の世界とアマチュアが憧れるプロの世界は全く無関係の虚像に過ぎないからである。
それが、意識とNiveauの考え方であるからなのである。

塾についても、部活動についても、これは一般論であり、芦塚先生が特別に主義主張している話ではない。
そういう事を、芦塚先生が言うから、
「芦塚先生は古いtypeの人間で、昔の職人のように滅私奉公しないといけないのだよ。」と言われてしまう。

しかし、このお話は少しも、極論ではないのだな!!
もし、音楽大学の先生に師事したとしたら、他の先生達も皆同じ事を言うはずだよ。(もっともその先生がproの生徒を育てるだけの能力がある先生ならばね。)

教室が少子化の影響を受ける前には、orchestraや室内楽は、趣味の生徒と、専科生は、その生徒の技量レベルに関わらず、その生徒の将来の目標によって、区別されて指導された。
それをlevel差によるえこひいき(依怙贔屓)と捉える父兄も結構いた。
しかし、生徒の目標で指導する内容を変えるのは当たり前で、proを目指す生徒が、音楽をamateurとしてしか捉えない生徒よりも、遥かに進度が早いのは当たり前であるよ。
だって、目的のゴールが果てしなく遠い分けだから、途中でモタモタしてもしょうがないだろう???

芦塚先生のlessonは、傍で見ていると優しそうで簡単そうなのだが、実際には、求めているNiveauは決して優しいものではないのだよ。
芦塚先生の、プロを目指す生徒へのlessonは、当たりは兎も角としても、内容的には、結構厳しいものなので、いくら技術があったとしても、意識が伴わなければ、結構そのlessonについて行くのは、辛いものがあるのだよ。
しかし、その分は確実に伸びる。
その違いは専科組と趣味組の落差は明白である。

という事で、、親や子供が
「どうしても、専科のorchestraや室内楽に入って、勉強したい。」と希望するものがいて、当時の先生達を悩ませていた。
勿論、参加してもそのlevelやlessonのNiveauに着いて行く分けはない。練習の量さえままならないのだから。
という事で、親が、専科のlevelを下げるように要求するという、理解不能な無茶を言い出すのですよ。
子供を楽にする事が、親の思いやりと勘違いをして、願望だけは、理想を現実にそぐわせるように、無茶な要求をする。
で、最初の愚痴に戻るのだよ!!

少子化と指導者が減るというdoublepunchで、orchestraや室内楽を勉強する人数が減ってしまって、同じ目標を持つもの同士がorchestraや室内楽を組めなくなった時に、芦塚先生は、「orchestraや室内楽の存続は無理!」という事を宣言していたのだが、教室の独自性やNiveauを維持するために、意識ではなく、希望者を集めて、グループを作って、orchestraを存続させる事を、何とか、芦塚先生にお願いした。

orchestraや室内楽を存続する事が、conceptになってしまったので、その結果、
音楽に対する意識の話は、なおざりにされてしまった。

その段階で、本来は芦塚先生が指導するべきではないのだが、現実的には、「orchestraを指導出来る人が居ない」という事で、仕方なく芦塚先生が指導をする事になってしまって、今現在の、趣味のgroupとproのgroupの混乱が起きてしまっている。


芦塚先生にとっては、
「音楽の技術のlevelは、その本人や保護者の意識であって、上手下手のlevelやましてや、年齢等ではない。」という考え方である。

つまり、芦塚先生にとっては、
「音楽に対する意識があれば、どんな初心者でも構わない」・・というのが基本の考え方であり、先生の指導の方針でもある。

だから、もしも、幾ら音楽の演奏に対する技術を持っていたとしても、音楽に対する意識のない音大生を指導する事は、芦塚先生は嫌なのだよ。

音楽勉強とは一般大学受験のように、短期に集中して勉強すれば何とかなるという物ではない。
そこの所は、小さな子供の内から、体を作らなければならないathleteや、balletのprimaの方が近い。
技術職であり、職人の世界でもある。
その技術が身に着くまでには、1日も休まないたゆまぬ努力が必要なのだ。
それだけではなく、起きて寝る迄の、一日全てを音楽に捧げる心構えが必要なのだよ。
それこそ、机の前だけ、その事に、集中しさえすれば、何とかなるという、一般の勉強とは、チョッと違うのだよな。
そこは、一般の受験生とは全く違う。
人の上に立つ事はそれなりに難しいのだよ。

世間一般が、音楽大学の受験の事を、大学受験という括りで、一般の大学受験と混同して考えてしまうから、音楽大学のconceptを理解出来なくなって、判断ミスをするようになってしまうのだよ。

そういったprofessionalな生き方は、学校教育以外での色々な分野の世界を見れば、その世界では、当たり前の生活であって、その生活が出来るか否かで、将来その世界で生きていけるかどうかが決まってしまう。

フィギュアスケートの真央ちゃんや新体操の・・、或いは、劇団東俳の子役達も、或いは、その他の手に職を身に付けたい・・・という世界の子供達にも、普通に見受けられるように、社会には、何かを身に付けたい・・・という子供達がいる。

そういった子供にとっては、子供のうちから体をつくっていかなければいけないし、たった1日休んだだけでも、それは周りに分かってしまう、といったような日常が普通であって、そういった生活が一般の日常なのだよ。。

仮に、本当にその生徒が練習を休んでいなくても、本人が同じ努力を続けたと主張しても、本人の気持ちが、異性に対しての恋や他の事に意識が行ってしまえば、それは指導する先生や、会場に来た聴衆には歴然と分かってしまう。

同じ、先生に師事していたとしても、その先生に疑問を感じたり、尊敬を感じなくなった瞬間に、生徒の実力は目に見えて衰えていきます。

これは、恐ろしい現実です。
プロに向かって勉強をする、努力をするという事は、それほど、微妙なものなのです。
という事で、このお話は、音楽の世界も全く同じように捉えなければならないのだよ。



しかし、まあ、そういった話は音楽を目指す専科生に対しての話であって、殆どの一般の生徒のように、音楽がその生徒の心の拠り所であり、息抜きである趣味の生徒の場合には、そういった厳しさは必要はないのは当たり前のお話だよ。

教室の発表会は、聴衆は演奏する生徒の父兄やお友達等の身内である。
音楽のNiveauが下がったとしても、それを好意的に見てくれる。
やれ、受験だから・・とか、家庭の事情だから・・である。
普通は、それで充分で、それでよいのだ。
ここまでが、一般の音楽教室のお話・・・。


しかし、対外出演は、そうはいかない。
音楽教室としての発表会と、対外出演では、企画上のconceptが全く違うからである。

それには、先ず、立場の違いを認識出来ていなければならない。
演奏をさせてくれる主催者側も、教室とは、無関係の立場である。
また、主催者側にとっては、出演するorchestraは、私達の教室である必要性は全くないのだよ。

Niveauに達していなかったら、或いは、聴衆の評価が悪かったら、別の団体を呼べば済む事でなのだからだよ。

いくら本人が、
「以前と全く同じように努力をした!」と主張しても、目的意識が下がってlevelが下がった、つまり、水準が下がってしまった事は、歴然と一般聴衆に分かってしまうし、その理由等を聞いて同情してくれる人はいない。
状況が変わって、意識が下がったり、演奏の水準が下がったのなら、演奏自体をやめれば良いだけなのだからである。
次の演奏会では、当然、彼女に変わって、真摯に音楽を勉強している他の人が、演奏するだけなのだからである。

世間一般は相手が子供であろうと、趣味であろうと、容赦はしない。
悪いものは悪い!」 という評価しか来ないのだよ。

そこが、一番発表会と対外出演との違いであり、子供が初めて体験する社会の風なのだよ。

人はともすれば情緒的に総てが自分に都合の良いように考えてしまう。
自分の子供ならば、
「子供が一生懸命にやった事だから、・・・」と思っても、それが、自分に無関係の子供ならば、「なんでその子が演奏するの???」としか思わない。
人間なんて、勝手なものなのだよ!!!

しかし、世の中は情緒や感情を挿し挟まないで、実に、sachlich(即物的、事務的)に批判し判断して行くのだよ。
人生なんて、普通、そんなもんさ!
アニーでミスったのが、3歳、4歳の子供であったとしても、誰も容赦はしないだろう??
所詮、スターとしてしか、見ていないからだよ。
3歳であったとしても、pro!4歳であったとしてもproなのだよ!!
それが音楽でも、立場は、同じなのだよ!




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                    adviceについて

アドバイスと言うのは、その人が出来ない事や間違えている事を指摘する事だから、当然、その人が一番言って欲しくない(聞きたくない)事を、あからさまに指摘する形になる。

と言う事で、作曲家という職業柄、常に演奏家にアドバイスする事が仕事のような私でも、誰彼かまわずアドバイスをしている分けではない。

一見すると温厚そうな演奏家でも、演奏上の誤りや不備を、指摘されると、烈火の如く怒り出す人の方が多いからだ。

昔、ずっとピアニストのオケ合わせの手伝いをしていた事がある。

仕事としてではなく、あくまで私個人の好意からである。

オーケストラの合わせの前に、何度か、私がオケのパートを弾いて、「此処はこう弾かなければならない」とか、「そこはこういう風に弾かないと・・」とか、アドバイスをするのだ。

勿論、相手はピアニストなので、Pianoのlessonとしてではなく、あくまでも、オーケストラの合わせという事で、作曲家の立場から、how-toをlectureするのだ。

そうして、演奏会が2,3年も続いて、演奏活動も順調に軌道に乗って来て、pianissimoのpassageでも美しい音でオーケストラの中から音が立ち上がってくるように、上達した頃になると、彼女の周りには取り巻きも出来て、そろそろ、ちょっと彼女のお鼻が高くなってきた。

と言う分けで、ある演奏会の後、楽屋で演奏の感想を求められたので、いつものように、きつ〜い感想を述べたら彼女、曰く「楽屋に訪ねてきてくれた人は誰も私の演奏をけなしてはいなかったわよ!」との賜わった!

ムカ!っと来たね!

わざわざ楽屋まで演奏をけなしに来る人がいるもんかよ!

人生が分かっていないね。

と言う事で、彼女に対しての、lectureとしての、セカンドピアノの合わせはそれっきりやめてしまった。

それ以来、彼女とは完全に疎遠になって、30年近くももう会ってはいない。

時折、彼女の演奏会のポスターも見かけるが、行こうとは思わない。

けなされるのが嫌なら、最初からアドバイスを求めるべきではない。

私はお追従は言わない。

そういう性格だから!

しかし本当に、「アドバイスをしてください。」と言いながら、こちらが、きついアドバイスをすると怒り出す人が多いのには困ったものだ。

私の箴言集のヨージーの法則には「人は自分の望む答えを言ってくれる相手にしか、アドバイスを求めない。」というのがあるが、それは当たり前である。

きついアドバイスをされるのが嫌なら、最初からアドバイスなど求めなければ良いのに!…というのが、私のアドバイスである。

 

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愚痴は愚痴でも本当に困った愚痴もある
失われた論文


 論文のネタ集

2012/06/11 (月) 15:32

[記憶力だけを評価する日本独自の教育制度]

日本の学校教育に関しては、小学校から高校のみならず、大学受験までの(実際には大学においても)殆どのカリキュラムが記憶を拠り所とする教育であった。

この理由は、記憶は先人の知識を覚えさせるだけで、一番安直な教育だからである。

大学院を受験する学生を指導したことが何度かあるが、大学院は本来研究機関であるべきである。

それなのに、その目的を持って、何かを研究するという方法論を学んで来た生徒は皆無であった。

という分けで、私が学校教育に対して、子供達が学ぶべき記憶力以外の、カリキュラムとしては、何を指導するべきか?・・・という事で資料となる論文を探していたのだが、運悪く何も探し出す事が出来なかった。

今回は、ネット上の検索が上手く行かなくって、唯一、ネットにupされている、人間の基本的な能力の詳しい分類は医師を対象にした論文だけであった。

という事で、参考文献は諦めて、話を進めて行く事にする。


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[記憶力について]

従来の日本の教育に於いては記憶力偏重な教育がなされている。

しかし、その記憶に関しては、メトードと呼べるものは何もない。2000年も前からの、儒教型の「繰り返し反復して覚える」という、最も非効率的な方法論を取っているに過ぎない。教育なんて2000年経っても変わらないのだから、私が今更何を言っても変わるわけはない。

私の30年の努力は無駄な意味の無い努力に過ぎない。

記憶についてのメカニズムは大きくアナログ型の記憶とデジタル型の記憶に分けられる。

アナログ型の記憶法のコツは反復練習であるが、その記憶は、更に、最初の数分間で忘れてしまう短期記憶、一晩寝た次の日にも覚えている中期記憶と、それ以上の日数を記憶出来る長期記憶のパターンに分類される。

また、記憶容量の問題もある。ビットの考え方である。当然、ビットの基本は7ビットであるが、それは、1ビットに含まれる文字数を上げることによって、拡大していくことが出来る。

I am a boyは4ビットであるが、Iam aboyと結合して記憶する事で、2ビットにする事が出来るし、更に、Iamaboyと一つのsyllableとして記憶すれば、1ビットに集約する事が出来る。

また人間は一日に体験する膨大な情報を無意識にselectして記憶する。

教室で音楽用語を幾ら、何度繰り返して指導しても、音楽用語に興味のない生徒は全く覚えない。が、自分が好きなアイドルの名前や詳しい情報を覚えるのは、舌を巻くほどである。要するに、記憶の基本は興味からである。

つまり、より自分にとって興味がある事柄は、それがどんなに込み入っていて複雑な事であっても、一瞬で覚えてしまう。

若い女の子が、彼氏の事になると、どんな些細な事でも、記憶してしまうのがその証である。しかし、女の子が女性になって、人生経験が豊かになっていくと、もう、異性の事などは記憶しない。

マンネリ化して興味の対象から外れて行くからである。

まあ、それはそれとして、記憶のメカニズムや記憶する媒体に対しての興味を喚起したりしてそういったメカニズムを上手く組み合わせる事によって、アナログ型ではあったとしても、より効率的な記憶法を組み立てる事は出来る。

しかし、如何様に上手に組み立てたとしても、アナログ型はアナログ型に過ぎず、所詮は非効率的である。

アナログ型の思考方法を取るものは、企画指導する側が、思い切った発想の転換や、閃きを忌み嫌うからである。

つまり、そういった改革的な発想は、アナログ型の形態そのものの否定であり、アナログ型のシステムを踏襲しないばかりか壊してしまうからである。

デジタル型の記憶法や、記憶を引き出す方法論は芦塚メトードによる記憶法のホームページにupしてあるので、ここでは省力する。

人間は幾ら膨大な記憶をしたとしても、その記憶を必要な時に情報として引き出す事が出来なければ、その記憶の意味すらない。

その記憶が何時、如何なる時に、どのように役立つのかを知らなければ、その記憶の意味はない。

ただのゴミである。16年掛かって、幼稚園から、院までを入れると、20年も掛かって頭の中に巨大なゴミ屋敷を作ったに過ぎない。

引き出す事の出来ない知識とは、単なるゴミにしか過ぎないのだ。

そういったゴミにしか過ぎない知識を人と比べて、自分が人よりも優っていると誤解してしまう。

料理教室でも、ある一つの固有の食べ物のつくり方のhow-toは、どの料理教室に行っても殆ど変わらない。

しかし、同じ料理教室で同じ先生の下で、全く同じように作った料理でも、本当に一人一人味が違う。

京都の市長さんの話であるが、(今は府庁さんかな??)京都にとても美味しい豆腐屋さんがあった。高齢で後を継ぐ人がいないので、市長さんがその豆腐屋さんに、「お弟子さんを取れば・・?」と言ったら、豆腐屋のおじいさんから、「豆腐を作る作業は誰でも見る事が出来ます。だから、見て盗めばいいのや!」と一蹴されたそうです。

私は「男子厨房に入るべからず」という時代に生きて来ました。

という事で、ご飯の炊き方や料理の仕方は全く親から習った事はありません。

しかし、それなのに中学生の頃から、一人暮らしを已むなくせざるをえませんでした。だらか、料理を覚える事は生きるための否応ない必然だったのです。

受験高であったがために、というか、当時の世相的に私の友人達も料理が出来る人はいませんでした。

今は昔の話ですから、当然、女の子の恋人も友達も居ません。

男女交際が出来るような、そういう時代ではなかったからね。

だから、当時始めて出来たばかりのインスタントラーメンのお世話になっていたのだよ。

3分間待つのだよ!

だから、私の料理は誰かに習ったものではなく、目で覚えたものです。

お店で美味しいものを見つけると、その味を家で再現しようと試みました。

だって、お店で料理の仕方を聞いてご覧??カンカンになって怒られるか、お店を追い出されるかだよ!

今のようにテレビ取材すら、ない時代だから、味は店の秘密で、弟子にも、肝心要の所は教えない。それが普通なのだよ。そこの所が今の人達には分からない。

それと昔は料理の本すら、あまりなかったのですよ。

あまり・・というのは、全く・・という意味ではありません。

だから、私は高校生の時には、江上トミさんの料理の本と、村上信夫さんの本で料理の基本を勉強しました。

高校生から大学生ぐらいまでの間ですがね。

それまでの時代までは、味付けの塩梅は感でした。

分量をグラムで表したのは、村上さんがNHKの料理番組で、限られた時間の中で一般の視聴者に説明しなければならなかったからです。

それが何時の間にか、今度は味付けの常識がすっかり逆になってしまって、味付けを教える時には、グラムでしか伝達出来なくなってしまったのです。

料理教室の料理の不味さや、不経済さは、そこから始まったのかもしれません。

私が高校生の時に買った、江上トミさんの料理の本の基本は、大根一本から幾つに切り分けられるか?・・で、その大根の切り分け方で、何種類の大根料理が作れるか?という事が自動的に決まって行くメトードです。

大根料理ではそれぞれの料理で大根の切り方が違います。

だから、大根の切り方が分かっていれば、当然、その料理も出来るのです。

日本の家庭料理は、江戸時代からそれぞれの地方で、それも一軒一軒の独自の家庭の味として伝承されてきました。

しかし、その伝承は第二次世界大戦で途切れてしまいます。

日常の物が全てなくなってしまった戦争の時代には、その家の味を嫁に教えるというような、悠長な事は出来なくなってしまったのです。

だから、日本の社会では、私達の母の世代から日本料理の伝統が切れてしまいます。

それを、江上トミさんが実際に、世代別に実験しているPageがありました。

私達の世代、(私達がまだ20歳になったばかりの時代です。)その次の私達の母の時代、それから、明治時代に生まれたお婆さんの時代に分けてちょうさをしました。

私達の時代の若い女性達は7種類ぐらいの切り分けしか出来ませんでした。

私達の母親の世代では20種類の切り分けが出来ました。

所が、江戸時代から日本の家庭料理をちゃんと学んできたお婆ちゃん達は70種類の切り分けをしたのですよ。

これは呆れた!!

失われた伝統、伝承は、今更大きかったのですよね。

家庭料理がとても優れている所は、その味を直接知る事が出来るという事に尽きます。

料理を学ぶ人がまず一番に覚えなければならない事は、「美味しい」という感覚です。

美味しいと感じることが出来れば、その料理を再現出来るようになります。

美味しい味付けが出来るようになるのです。

料理で、まづ一番最初に覚えなければならない事は、味だよ。

「美味しい!」と思ったその味を覚えない限り、料理は始まらない。

幾ら、料理教室で、レシピを覚えても、味を覚えない限り、その料理は張子の虎です。

音楽大学のように、拙い技術だけをアナログ式に勉強していっても、巷の料理教室の料理のような空虚な物真似の音楽が出来上がるだけで、そんな努力を幾ら死に物狂いになって何年も続けたとしても、その先にプロの世界はないし、それで人を感動させる事は出来ません。

勿論、感心させる事は出来るでしょうけれど、それは感動とは程遠いものなのでね。

人を感動させる事が出来る人だけを、プロと呼ぶ事が出来るのだからね。

勿論、マスコミの世界では、プロの定義は少し違っています。

一発屋的なものでも、世間の関心を引く事が出来れば、人寄せパンダになれば、プロと言って持て囃したりします。

コンクールに入ったから・・・、美人だから・・・、色っぽいから・・・等々の、人々の関心を呼び起こす事が出来る人の事をプロと呼ぶようですし、また、そういう風にプロとして祭り上げたりします。

しかし、そういう人達は、私達の目から見ると単なる一発屋に過ぎません。

私達はそういった人達に対して音楽のプロ、芸術家とは呼ばないのですよ。

それは単なるアイドル的な、プロに過ぎないのです。

若く美しい色っぽい演奏家は、若さが売りなので、若さが失われた時には、自然にマスコミから消えていきます。

その時点で上手く学校に取り入って、先生として収まってしまう人もいます。

音楽大学にとっても、マスコミに人気の演奏家は「人寄せパンダ」として、学生を集めるためのステータスになるからです。

でも、それはマスコミで作られた虚像に過ぎないので、そういった有名なだけの音楽家に学んだ生徒はそれこそ悲惨です。

学ぶべき技術は何もないからです。

マスコミの世界の音楽には、イージー・リスニングというgenreがあります。

イージー・リスニングの音楽を演奏する人はそれこそ美人で色っぽい若い人の方が気持ちいいですからね。

その世界には実力は要らないのです。運と美貌があれば良いのです。

しかし、音楽に対して、心の支えや魂を満たす事を求める人達にとっては、そういう演奏家の奏でる音楽は飽き足らないし、心の支えにもなりはしませんよね。

幾ら美人でも当世風の空虚な空っぽの音楽では、音楽に真摯な心や感動を求める人達にとっては、無意味な音楽になってしまいます。

私達の教室の生徒達も、対外出演でpurcellのchaconneやPachelbelのchaconneを演奏したのですが、練習の時には、「何よ!この曲は・・・!!」「かったるいし、重たいし、演奏していても疲れる!」と,避難轟轟であったのだが、子供達も中学生になって、音楽の表現技術も上がってくると、「purcellやPachelbelのchaconneが弾きたいなぁ〜!」と言い出して、先生達を驚かせています。「ふ〜ん??変われば、変わるものだ!!」

しかし、音楽大学で、音楽を学んでいる当世の若者達にとっては、歳をとっても、そういった真摯な音楽は、重すぎて、かったるいように感じるようです。

暖かくも寒くもない、何もないそよ風が、自分の頬をなでて、過ぎ去って行く。

それが、きょうびの若者達の理想の音楽でしょう。

それこそ、イージーリスニングの世界です。

それ以上は、もう、心に重たいのですよ。

「心に負担が掛かる事を極端に毛嫌いする」、・・それが当世風の若者の姿なのだよね。

心に負担をかけないで、技術や知識にだけ走る、それが、今の頭でっかちの人間性のない空虚な当世風の若者であるのだな。

Beethovenが言った言葉、「心に至らん事を!」という心を育てる、という教育はこんにちの学校教育の中にはありません。

知識が教育の全てであり、成績の善し悪しで、その人の人間性までも評価されてしまうのです。

限られた社会空間である学校という生活環境の中では、成績が良いとう事で、先生や親、或いは周りの友人達から認められたとしても、一旦、社会に出てしまうと、そういった成績はもう何の役にも立たなくなってしまいます。

こんにちの学校教育の中では、学校教育の中で学習した知識を、如何に自分の実生活の中に活かしていけば良いのか、という技術は教えません。

折角、苦労して得たその知識を、自分のために活かして、その知識から色々な事を引き出すという、技術や能力がなければ、或いは、その知識を展開して、自分独自の発想の展開を示す事が出来ない限り、幾ら、苦労をして、膨大な人生を費やして得たとしても、その知識は何の役にも立たない、単なるゴミに過ぎないという事を、改めて認識させられてしまう事になるでしょう。

そうして、自分が頑張って勉強して来た過去数十年の人間に取って最も大切な自分の青春時代の人生そのものを、一瞬で社会から否定されてしまう。

それ程、悲惨な事はない。

Aha、miserable!なのでやんすよ!

では、何故、そういった記憶に依る教育がなされて来たのか?

答えは簡単である。

まずは、記憶をさせるという事は、生徒に準備した資料を提供し、覚えさせるだけなので、指導者にとっては、これほど楽な教育はないからである。

音楽でもレコードをまる覚えさせて真似をさせるだけの指導法や、数学の塾でも数字を羅列して、単純に計算させて、訓練で計算力をupさせる事をメトードと呼んでいる、安直なメトードで有名になっている塾もある。聞くだけで英語が喋れるようになると宣伝している英会話のsystemすらある。

教室を有名にして、日本を、或いは世界を席巻するためには、多くの子飼いの指導者が必要になる。しかし、苦労をして何十年もかけて、そのsystemを学んでくれるような、愛弟子はどんな職人でも、一生の内に何人かの人材に過ぎないのだよ。

だから、systemを日本に・・或いは世界に広げようとすると、systemが簡単で、安直な事が最も大切な条件になるのだよ。

メトードを広げていくためには、指導者の教育が楽である事が、必須の条件である。

どんなに優れたメトードでも、それを指導者が習得する事が難しければ、その教室は指導者を集め、教育する事が困難だからである。

当然、指導者が集まらなければ、その教室は広がって行く事はない。

分かりきった事だよ。

指導する先生達が安直に習得出来るメトードである事が、教室経営の根幹であり、基本を成すものである。

また、日本の学校教育も同じように、回答力を求めるだけで、何故?どうして?という、疑問に先生が答える事はないのだから、先生が「何故、その答えになったのか?」「どうしてその計算式がひつようだったか?」等の質問に答える必要はない。だから、日本の音楽大学では、生徒が先生に質問をすると、先生は烈火の如く怒り出す!「黙って、私の言う通りにすればよいのよ。ちゃんと出来るようになったら分かるわよ!」と宣ふ!!

生徒からの質問がなければ、・・或いは、その問題の意味を解き明かす必要がなければ、カリキュラムは、大人の書いたスケジュール通りに、授業が進んで行くのだから、それは楽である。与えられた問題を解くだけなので、子供の教育に何の技術も要しないし、哲学も心理学も必要はない。

(昨日《2013年2月17日》のオケ練習で、小、中学生の子供達に、「授業中や、休み時間に先生に質問をしても怒らない先生は・・?」と聞いたら、約半数の生徒が、「そういう先生がいる。」と答えた。寧ろ、先生の方が「何か分からない時には何時でも質問してね。」と声かけをしてくれるそうだ。それは、凄い!時代は変わった!10年前に同じ質問をしたら、そういう先生は皆無だったのに・・・やはり、この10年で少しは変わってきたのだね。それは良いことだ!!)

しかし、逆にその事を言い換えると、今でもまだ、半分の子供達の先生には、質問をしても、答えてくれる先生はいない、という事だよね。

子供が分からなければ、体罰を加えれば良い。

そうすれば、分かっていようと、分からないままであろうと、教育した事にはなるし、子供も痛みに耐えて努力した事にはなる。

それが所謂、昔ながらの儒教型の教育である。

芦塚メトードでは、逆に無意味な努力は、時間と労力の無駄使いとして生徒達に戒めているのだがね。

何故、日本の社会では儒教型の教育が行われて来たのか?

次の話も繰り返しホームページに掲載しているし、機会を捉えて、折に触れて、色々な場所で話をしている事ではあるが、歴史的に日本社会に於いて、アナログ型の記憶法を重要視したのは、絶対封建世界に於いては、その社会制度に対する批判や改革は、最も忌むべき事であるので、そういった思考力を身に付けさせる事が、極力ないように、幼い年齢の内から成人するまでの教育の中で、心の中に、所謂、潜在意識の中に埋め込んで、社会に反抗することのない、おとなしい従順な国民を育てるための教育をする事が、国家にとっての最大の優先事項であった。

つまり、子供達が学習する内容は全く問題ではなく、指導者に対して、如何に従順に従うか、ロボットのように、何も考えず、悩まず、敵弾の中に飛び込んで行くか、それが教育の真の目的であったのだよ。こういった、ロボトミー的な教育は、江戸幕府の時代の封建制度を維持する上で、或いは、明治、大正、昭和の軍事国家を支えるためにも、そして、戦後の大手企業の企業戦士を雇用するためにも、この儒教型の思想と教育は、すこぶる都合が良かったからである。

日本社会では、考え、分析し、判断し、理解し、批判する事を極端に忌み嫌う!

中央集権社会では、一人の為政者の判断が末端まで、何の変更も付加もされる事なく、忠実に伝達されるtopdownのsystemが基本である。

徳川家康は徳川家の血筋を守るために、その権力構造を維持させるために、色々な思想の中から、封建制度の確立をさせるために、最も適した思想である孔子の儒教を国家的な指導カリキュラムとして取り入れた。

そのtopdownのsystemは、徳川幕府の封建制度が崩壊した後でも、明治時代の強い軍国主義を維持するために、或いは、敗戦の後の世界に羽ばたく日本企業を育てるために、我々の世代である団塊の世代の日本社会でも、すこぶる都合の良い思想として、大切にされてきた。

日本人の日本人たるDNAとして、その儒教型の意識が、既にバブル経済が崩壊して、社会制度がグローバル化して、年功序列ではなく、実力主義にならなければならなくなった現在の日本社会の中でも、未だに存続し続けて日本人の心の支えとなっているのは摩訶不思議な状態である。




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[日本型の父親]

儒教型の思想は、寧ろ、儒教の制度とは無関係だと思われがちな一般家庭にとっても、すこぶる都合の良い考え方であった。

普通に考えると、家庭というものは、社会の制度の中から隔絶しているし、封建時代、軍国主義の時代、こんにちの大手企業の社会になっても、そこで働く人間の休息の場なのだから、より安定した変化のない生活がベストとされるのだ。

それは、儒教を取り入れた昔々の江戸時代のtopdownの意識の時代から全く変わらず、そのままの家族構成のままである。

父親が家族の主導をして、妻や子供は父親に従うというのが、日本型の家庭の理想である。

そうすれば、決断を強いられるのは父親だけで、母親や子供達はそれに従えば良いので、従う立場の母親や子供達にとっても、すこぶる楽である。間違えた選択をしたとしても、間違えた責任は父親にあり、自分達の責任ではないからだ。

しかも、その父親さえ、上司や事と場合によっては、自分の父親等に相談をして、上のadviceを貰って行動をしている。だから、あながち父親のせいばかりという事になる分けではない。上司も、「自分のadviceは・・・」と、責任を擦り合う無責任のルーチン(ループ)が無限に続く。そして、責任の所在はなくなり、失敗した時にも、その責任の回避が出来る。

儒教は中国の思想であったはずなので、本来的には儒教の国であるはずの中国は共産国なので、儒教的な思想を持っている若者は、何と!殆どいない。

共産主義と儒教思想は根本的に相容れないからである。

という事で、テレビを見ながら、この論文を書いていたら、ちょうど、日本人の若者の意識や自立についてのドキュメントを放映していた。

日本に留学して、そのまま日本社会でリクルートをしようとしている中国人の若い女性が、周りの日本人の友人達からリクルートについて相談を求められた。

彼女はその事を不思議に感じて、その疑問をtweetして見た。

NHKのドキュメントはそこから始まる。

彼女の周りに居る殆どの日本人の友人達が、自分で就職先を調べ、考え、決断するのではなく、就職先のadviceを、親や周りの友人達に求めて、しかも、その意見を自分の決断の参考にするのではなく、そのadviceに従順に従って会社訪問等をしていたので、その自立意識の無さを不思議に思って、SNSにその疑問をぶつけて見たのだが、その反応は、いずれも「子供の時からも、どの学校を受験するか、どの大学に行くか・・を親や先生が決定して、それでこれまでうまく行っていると思うから、リクルートも・・」 とか、「自分には人生経験がないから、既に経験を果たしている年長の人達にadviceを・・」 という答えが返って来たそうだ。

その中国人女性は、呆れ返っていたよ。「日本人の若者達は、何一つ自分では決断できないのか?!!」って・・・!!

世界の人達から見ると、摩訶不思議な日本人の若者たちという事なのだが、日本に住んで、生活をしていると、「それが摩訶不思議な事である」 、という事が分からない。

そういった社会の中で育ってしまうとね・・・。



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[儒教的な依存の構造のエンドレス]

日本の教育では、子供の内から、子供自身が、自分で自主的に何かを決定することはなく、大人であるはずの母親すらも、決定権を持っていない場合が多い。

しかし、決断を人に委ねる事は、子供にしても、母親にしても、考える事の煩わしさ、悩む事の辛さを経験しなくても良いのだから、基本的には楽な人生なのだよ。

家庭では、全てを決断している父親ですら、社会人であり男性である立場の父親でも、会社に行くと、自分で仕事を決断し、動く事はない。そういった裁量権がないのである。

日本型の会社は、トップ・ダウンの経営が基本であり、仕事をする上で、指示や決定は上司がする訳で、上司の行動は社長が裁量する分けなので、お互いに責任を取る必要はない。

言われた通りに、言われた仕事をすれば良いだけなので、すこぶる楽である。

という事で、教育のconceptは、頭がない(考える事のない、ロボットのような)子供を育てる事が優れた日本人を育てる基本である!先生や親の言う事を忠実に聞いて、その通りに行動する事が、理想の子供ならば、子供が独立し一人で生きて行く事はない。それが、引き篭もりの、根本の原因である。

育てられる側も、考える事がなければ(自己判断が無ければ)、それは責任もないという事なので、楽である!

ところで、子供の時代から、一度も責任を持たされた事のない人間が、そのまま大人になったとしたら、どういう社会が出来るだろうか?

それは、今現在の日本社会を見れば分かるだろう??

毎日、テレビを賑わせているような、自分本位で、社会や他人に対して全く思いやりのない人間が育つのだよ。

・・・こういった自分の権利ばかりを主張して、権利に伴う責任や義務を果たそうとしない人ばかりの、無味乾燥な社会、所謂、殺伐とした社会が出来るのだよ。そして、親や先生達の掲げる理想の現実と実社会のギャップに行き詰まってしまった時に、SNBP(負の転換点)が起こる。「あんなに、勉強も出来て、親の言う事もちゃんと聞いて、礼儀立たしい、おとなしい理想的な子供が、何で、そんな大それたことを!!」と、社会やマスコミを賑わすのがSNBP(負の転換点)である。

しかし、それは心理学的には必然に過ぎないのだよ。

そういったtopdownの権力構造を「良し」とする儒教型の父親の事を、私は「日本型の父親」と呼んで、30年前に大学で「日本型の父親と西洋型の父親」という教育論文を発表した。



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[仮面日本型父親]

私がこの「日本型父親と西洋型の父親」の論文を書いた1980年代の当時は、まだ、ほとんどの父親が「日本型の父親」のみで、実際には「西洋型の父親」は、全くいなかった。

極々、稀に見受けられる一見すると「西洋型」に見える父親も、実は「仮面西洋型の父親」であって、心の奥底の潜在的な部分では「日本型の父親」なのであった。

つまり、外目には物分りの良い「西洋型の父親」を演じているが、それは、自分の関心がない、或いは利害がない部分のみに於いて・・であり、その父親のテリトリー(所謂、逆鱗)に触れる事になった途端に「日本型の父親」に豹変する。

しかし、30年以上の歳月が流れた、今現在でも「仮面西洋型の父親」が大多数で、子供の一生の決断も、子供達と話あって、子供の意識を一番に考えようとする、本当の意味での「西洋型の日本人」は、私はまだ見た事がない。

「仮面型の父親」の実際の例であるが、母親が小学校の先生で父親が中学校の優秀な先生である父親は、全ての教育を「母親や子供と相談して、家族会議で決めている。」と私に言っていたのだが、よくよく、双方の話を聞いてみると、その父親の前提が「子供や母親は社会を知らない。」という前提の上になっていて、父親が学校で普段生徒達を指導する時によく使う「debate力」で、子供と母親を言いくるめて、それを持って、世間的な大義名分上では「家族で話あって決めた。」と言っていたのだよ。

私の研究論文では、そのdebate力で、導き出された「選択権のない条件の提示」をして、「子供の意見を聞いて、子供と相談して・・」とかいう、親のパワハラ的な手法は子供の挫折感をより増幅する事にしかならない。

親が大人としての経験やdebate力を、相手を説伏する手練手管の技術として、教育に使用してしまうと、結果としては、やっぱり自分では何一つ決められなくて、出る釘や長いものにまかれる就職活動ですら自分で決められない大人子供の日本人達が育ってしまう事になるのだ。

家族間の子供の勉強や進路に対しての話し合いの場でも、その時には、親の口車で言いくるめられて、その場限りでは子供達は納得するかもしれないが、それで子供達や母親が納得をしたとしても、説伏をする事は、力の行使の一つの手段に過ぎなく、それを持って「西洋型の父親」とは言わないのだよ。それはパパハラの一つの種類に過ぎない。

つまり、日本型の教育を西洋型のtemplateでやっているのに過ぎないのだから。

そういった誤った教育では、見せ掛けは兎も角としても、決して子供達の自主性が育つ事はないのだから・・・。

これも中国やアメリカの学生達から見ると、不可思議な日本人に見えるのだよ。

勿論、私がヨーロッパに居た時には、私の周りのヨーロッパ人家族の半数以上の父親がヨーロッパ型の父親だったのだがね。



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[儒教型の父親が日本に多いもう一つの理由=女性の甘えの構造]

何故、日本には西洋型の父親がいないのか?

それは必ずしも、日本人男性の支配欲のせいだけには出来ないのだな。

日本人の父親がヨーロッパ型の父親になるためには、男性だけがヨーロッパ的なセンスや考え方を持っていてもダメで、女性自身もヨーロッパ型の自立した女性でないと、ヨーロッパ型の家庭は築けないからなのだよ。

寧ろ、日本独特の儒教的な男性支配の安楽な生活を望む日本型の女性に、その原因を見つける事が非常に多いのだから。

日本の女性の自立や社会進出が、世界のあらゆる後進国よりも遅れているその原因は、女性自身の意識の中に見出す事が多いのだからね。

日本型の家庭の教育では、女の子の自立を極端に忌み嫌う。

女性は結婚が全てで、女性の幸せとは、金のある有名な一流の会社に働く男性と結婚して、子供を作り育てる事に尽きるという。

それが女性の幸せの全てだそうな。

一流大学を目指しての受験勉強も、音楽への勉強も、親の意識の根底には結婚をするためのステータス作りに過ぎないそうな。

だから、親の娘に対しての仕事に対しての考えも、音楽等のプロ活動も、家庭の生活、子育てや家事に影響しない程度の範囲でなら・・?という、条件下でなら・・という条件が入る。

私達の場合、・・というか、世の中の一般論では、そういった仕事は仕事とは呼ばず、バイトと呼ぶのだよ。

それが分からないのかな??

以前、NHKの討論番組で、女性と男性、若者達と中年や初老の世代等々を分けて、「仕事に対しての意識」を討論していたのだが、とある初老の男性が、「時間外にトラブった時に、女性はちゃんと対応してくれない。」とクレームを言っていた事に対して、中年の女性社長が、「私達は、与えられた仕事はちゃんとやっています。」と怒りまくっていたのを記憶している。

初老の男性は何かが起こった時のアフターケヤーの「時間外の対応」の事を話をしているのに、中年の女性社長は与えられた時間の中で「ちゃんと男性よりも丁寧に仕事をしている。」と主張しているのが、水掛け論というか平行線で、傍目にも笑えた。

日本社会では、女性は主婦としての仕事や子育て等を、全て一人でこなさなければならない。

女性が起業をする場合に、一番問題になる点は、家庭と仕事の両立の問題か、それ以前に仕事を優先するために、結婚をするか、しないか?の二者択一である。

現代社会では、女性が仕事をして、ある程度のキャリアを上げ、社会的な地位を得る事は難しい事ではない。

だから、女性にとっても、「子供を産んで、育てる」という事を望まなければ、結婚する事自体に意味がないのだ。

という事で、子供を産めるか、産めないかのギリギリの年齢迄の極端な晩婚が、今まで以上に主流になっていくだろう。

それは女性側だけの問題ではなく、男性側にも、同様な問題が提示されていると言える。

女性がキャリアを持って、生活力や決断力を持つのなら、男性が家庭を持つという事は、日本社会の従来の結婚のような、家事や子育てをしてくれる女性と結婚するという意味合いはなくなるし、そういった昔ながらの女性と結婚する可能性は非常に少なくなる。

もし、男性が家庭生活上で、掃除、洗濯、料理も女性と分担しなければならないのなら、子供を産んで貰うという以外には、女性と結婚する理由はなくなるからである。

それが男性の晩婚化を生み出してしまっている。

政府が少子化の問題を云々しようとするのなら、そこの問題を抜きにして、男女の結婚を考える事は出来ない。

それなのに、政府の少子化の対応は、相変わらず子育て支援に留まっている。

儒教型の家庭生活の崩壊を認めたくないからなのだよ。

昔は、入院施設のある大病院では、婦長は未婚の女性に限られていた。

昔々は、学校の女子教員も、学年主任や校長という責任のある役職に就こうと思ったら、未婚の女性に限られていた。

それは、所謂、時間外の対応や、主婦の場合に於いては、優先度の意識が主婦業(旦那の仕事の都合とかも含めて)、子育てが、仕事の優先度で勝るからである。

妻としての立場と子育てをどちらを優先するかは、人によって違うので、それはどうでも良い事なのだ。

事の根本の原因は、家庭と仕事の両立の問題であるからである。

だから、先程の女性起業家の(女性社長の)例のように、一旦、家に戻ると、もう主婦になって、仕事上の社長ではない、家庭人でいる時には、仕事への対応は出来ない・・というのでは、仕事を発注する立場では、女性社長に対して、安心感が抱けない、という意見は当たり前である。

女性が自立して仕事をしようと思うのなら、リスク管理の少ない、仮に残業があったとしても、時間を選べる業種を選ぶべきだったのである。

男性であろうと、女性であろうと、仕事には責任を伴うのは、当然である。「時間外の労働は出来ない」というのなら、その女性社長は、時間外の労働のない職業を選ぶべきであったのだよ。

(これはNHKのドキュメントについての感想である。)

ヨーロッパ社会では、男女の子育ては完全に平等である。

しかし、ヨーロッパも、王権の時代、封建時代があったのは、日本と変わりはない分けで、現代のように完全な男女平等が確立したのは、二次大戦後の話である事には変わりはないのだ。

ただ、いち早くグローバル化をしたヨーロッパ社会と、日本型の社会の違いは、女性の自立に対する意識の差に過ぎないのだ。

音楽の社会でも、音楽を学ぶ人の比率では、女性が圧倒的に多いにも関わらず、(日本のデモシカ演奏家は別として、)本当の意味での演奏家には女性の演奏家が極めて少ないのは、恋人が出来たり、家庭が出来たりした後の、女性の意識にその原因があるのであろう。

どんなに、頑張って、演奏活動を始めても、結婚した途端に、現場から居なくなってしまうという現実は変わらない。

それは、女性の幸せの総てが、家庭を中心として考えられていて、女性自身もそれを望んでいるからなのだ。

しかし、女性の理想が結婚生活で、音楽はただのステータス、或いはバイト程度の仕事のために、一途に音楽だけに邁進して、音楽大学受験や留学何という、大変な苦労をして、そして、結婚して音楽を趣味の域にしてしまうというのは、掛かった莫大な金額や、技術を習得するための努力や勉強をするという事は、いくら何でもリスクやハードルが高いよね。

音楽大学に進む女の子の大半は料理も裁縫も全く出来ない人達が殆どなのだよ。

それで、結婚したら困るだろうかな、と思うのだけどね??

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[学校教育の問題に戻って]

学校で一生懸命に勉強をしていても、仕事で必要な充分な「記憶力」を身に付ける事が出来る生徒は殆どいない。

何故ならば、記憶力は学習して身に付くわけではなく、その対象に対しての興味と価値で、記憶が出来るようになるのだからである。

それに、完璧な記憶力を身に付けたとしても、記憶は単なる知識に過ぎず、それ自体では博識をひけらかす以上の意味はない。

記憶による知識を実際に役にたてようとするのなら、その記憶した知識の内容を観察し、判断し、理解し、分析し、そこから求める答えを求めて行かなければならないのだ。

という事で、子供達に、学校で学んだ事について、「どうしてそうなるの?」と質問をすると、それに答えられる生徒は皆無である。

それだけなら、問題はあまり大きくないのだが、寧ろ、子供達がそういう結果論のみを求める教育に順応してしまって、「どうして?」或いは「何故??」という言葉を、軽視するのなら、まだいい方で、嫌がる傾向にあるという事は大問題である。

私が子供達に対して、言葉の意味を説明しようとすると、「芦塚先生は、何を話しているのか、分からない!」と子供達がよく言う。

つまり、子供達が私から、聞きたいのは答えであって、「どうしてそうなるのか?」という過程ではないからである。

という事で、私がそれの成り立ちや意味等を説明しようとすると、子供達は自分達が求めている話と違う話を、私が始めてしまうので、面食らってしまうのだよ。

学校教育や塾教育で、やっているように、問題に対する反応として、解答を記憶させる指導をしていたら、その問題を、理解しているわけではないので、一旦その解答方法を覚えたとしても、直ぐに忘れてしまう。学校の勉強が「校門を出ない」のはそのためである。

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[正しい学習指導とは]

子供達が物事をちゃんと記憶し、それを将来に活かせるようにするには、先ず「その必要性を理解し、その問題の意味をちゃんと理解すると、忘れないようになるのだよ!」と、子供達にも、しょっちゅう説明するのだが、それが(理解する事や、考える事、必要性を意識する事等々が)、子供達にとっては、かったるくて時間の無駄に思えるのだよ。

学校や塾の教育で求めているのは解答であって、問題を理解する事や、何故、そういった解き方が導き出されたのか、という解き方の方法論ではないからだ。

とは言っても、それを学校や塾の先生に指導しろ、と言っても、それは無理かもしれないね。

それこそ、大学教授並みの知識と見識が必要となるからだ。

物事はsimpleになればなる程、その説明は難しくなるのだよ。

だから、ノーベル賞の学者の先生達の、初歩の授業をテレビで見ていると、初歩の初歩の話であったとしても、極めつけに面白い!

簡単に見えた事の話が、何処までも奥が深くて、話が尽きないのだよ。

それは凄いよ!!やはり、ノーベル賞を取るlevelの人達は違う。

それがそこまで説明出来て初めてその事が分かっていると言えるのだよね。

正しく勉強をする時に必要な能力は、先ず先人達の残した文章を読んで、先人の知恵と経験を理解する事である。

その理解に必要な能力は、その文章を客観的に理解し、分析し、判断する力である。

そこまでを、認知力と言う。

先人の知恵が、正しいか、誤っているかは、物を見比べて、比較し分析する能力が必要となる。物を見る力の事を観察力と言う。

先程と同じ事の繰り返しになってしまうのだが、観察力というのは、主情を交えず、物事を客観的に見つめ理解し判断する、所謂、正しく物を見る力であり、そこから更に発展させて、分析し判断し正しく理解する事を持って認知力という。

文章の内容を理解する読解力は、理解力や判断力と同じ意味だろうし、認知力というのは、よく分からないのだが、自分の経験値に照らし合わせて、判断する力という事なのか。

洞察力というのは、文章そのものに、既に書かれている内容ではなく、その文章の持つ裏の意味や、書かれていない所まで、類推し、分析し、洞察(推論を伴った判断力)をするので、洞察力となる。

ここまでが記憶とその理解に関する領域である。

それからは、それを伝達するという作業になる。

思考力というのは、必ずしも与えられた情報に対してのみ、行われる作業ではない。

自分の考えの場合もあるし、その場合には発想力になるのだが、発想力も、必ずしも自分の考えだけに限定するものではない。

思考力とは、基本的には知識上の情報を使用して思考する場合が多いが、発想力となると閃きや想像力、創造力、或いは独創力のような自由な思考による場合が多くなる。

私が、「このメトードは私が始めて創り出したメトードだ。」という事を自慢していたら、高校の数学の先生をやっていた女性に、「人間は自分が創造したと思っていても、必ず昔の人か、誰かがやっているのよ!そんなに、簡単に創造なんて出来るものじゃないのよ!」と、愚蔑的な顔をして言って来た。

しかし、本当はその先生が知らないだけで、無から有を創り出す方法(methode)はあるのだよ。

私がやっているのは音楽だから、音楽の歴史はルネッサンスから数えても、音楽の歴史はタッタの五百年に過ぎないのだよ。

音楽の基本的な性質が違うのだから、別にピタゴラスの時代から、計算し勉強する必要はないのだよ。

それに、調の確立は、baroque時代以降からに過ぎない。

そうすると、100年は減るのだな。

ピアノの音楽の研究になると、forte-pianoが出来て来てからだから、最と資料の量は減ってしまう。

自分が研究したい分野、場所、人等々を絞り込めば絞り込む程、本当に資料というのが少なくなってしまいます。極端な場合には、資料が全くなくなってしまうのですよ。

逆に、世界中の資料をネットや文献で求めても、100の資料が集まらなくて困る事も往々にしてある。

人は原則として人のやっている事を研究するという性質がある。

つまり、研究というのは色々な人が色々な事をやっているように見えて、実は殆どの人達が同じ研究をやっているのだよ。

つまり、メージャーなBachとか、HandelとかMozartとかchopinとか、ヴァイオリンだったら、Wieniawskiとかの超有名な作曲家達の研究は、色々な人達が色々な角度から、専門的に研究しているのでその中で人のやっていない研究をしようと思っても、なかなか難しいのだよ。それでも、その作曲家が好きな人はいるだろう。

その場合には、独自性は諦めて、スペシャリストになる手もある。

それでも、社会的には充分だと思うよ。

独自性に拘る理由はないのだから。

しかし、自分が大した実力もないのに、一角(ひとかど)の研究をしたければ、色々な分野の中から、誰もやっていない穴場を探せばよい。

そうすれば、誰も研究していない所を研究できるのだよ。

人のやっていない研究を探す事は、いとも簡単な事だ。

あのbaroqueの音楽で超有名なPachelbelだとしても、近年までcanonしか知られていなかったし、それこそ楽譜だって、canonの1曲だけしか出版されていなかったのだよ。

この数年になって、かなり多くのbaroque時代の曲が新しく発見されて、出版されて来ている。

biberやpurcellに至っても、全てこの数年に再発見されている作曲家で、日本ではそのほとんどの曲が本邦初演の曲となるのだよ。

何故、今になって、そういった無名の優れた作曲家達の作品が日の目を見るようになったか??って?

それは、パソコンの発達に起因するのだよ。

昔だったら、多くの教会や図書館に埋もれていて、数百年の間、一度も日の目を見る事がなかった古文書が、パソコン上で公開される事によって、世界中の人が見る事が出来るようになったという事なのだよ。

それと、古文書の中から、楽譜を起こすという作業は、こんにちまで、職人の手技で楽譜起こしされていて、大変な手間とお金が掛かったのだよ。

しかし、パソコンの発達で、手軽に楽譜起こしが出来るようになったのだな。

finale等のノーテーション・ソフトの開発と発達によって、非常に安価に珍しい曲が出版されるようになったし、出版社を介しなくても、個人や図書館がoriginalで楽譜を出版出来るようになった事が、今まで膨大な古文書の中に埋もれていた、優れた作品を、もう一度、世の中にappealする事が出来るようになったからである。

こんにちの私達はそういったこれまでの歴史上にない恵まれた環境に生きている。勿論、この10年、20年に限った話である。

先程のfinaleというノーテーションのソフトでも、始めて発売された時には、30万ぐらい、というか、以上したのだよ。それが、発売から10年以上経った今では、5万とか9万とかまで安くなっている。それも、一般の人達や研究者が手軽に自分の研究を発表出来るようになった一つの理由なのだよ。

そういった恵まれた環境の中で、更に、自分の独自性を追求したければ、その研究の仕方の方法論を学ぶべきである。

誰も研究していないのだから、「自分の主張が正しい。」と主張したいのなら、何故に正しいのかという論理性をトコトン追求する事だよ。

幾ら自分が情緒的に正しいと思っても、それが単なる自己満足的な感情論であり、情緒論ならば、それは論文としての態はなさない。

多くの人達を説得するには、その主張を裏付ける普遍的な論理性が必要なのだよ。

 

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[加齢による記憶力の減退]

齢 60歳も後半を超す頃になると、周りの人たちから「芦塚先生、 60を過ぎると記憶力が減退しますよね! 」と、同意を求めて、話しかけられることがよくある。その時に、私が必ず答える事は「歳をとって減退したのは好奇心であり、記憶力では無いのです。 」というと、ほとんどの人が驚いた表情をして、しかし納得はする。

しかし、これはあながち歳をとった人だけに言えることではなく、寧ろ年齢には関係がない。

平和ボケと過保護社会の日本独自の無関心なのだよ。

だから当然、一般よりもかなり優秀な子供達であるはずの、教室の子供達も、世間一般の子供達と同様に、自分の身の回りの事であったとしても、身の回りの事に極端に興味が薄く、それが大好きな音楽の勉強(オーケストラの練習) 等の勉強であったとしても、なかなか興味を持って、覚えようとしないのが、普通なのだ。

という事で、私のレッスンの殆どのconceptは、子供たちが興味を持つ事を喚起するためのレッスンである。

一見すると回り道に見える指導法ではあるが、一旦、子供達が本当の意味でそういった事柄に興味を持ち始めると、自動的に向上心が芽生えて来て、実行力や決断力も自然に身に備わってくるので、結果は時短になるのだよね。

私のオケ練習を見学に来た人達が不思議に思ったり、膨大な無駄な遊びの時間を使っているように見えてしまう、私の雑談と子供達との無駄話や与太話のキャッチボールは、そういった子供達への音楽への興味や勉強するという事の楽しさを導き出すための私の独特の手法なのだよ。

 

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[体力が]

歳をとることで、1番失うものは、まずは体力である。

世の中では、体力と気力を同次点に扱う場合が多いのだが、実際には体力がないにもかかわらず、気力だけで仕事をこなす人たちも多い。

反対に、十分な体力を持ちながら、やる気をすべて無くしてしまった人たちもよく見かけるから、体力と気力は別物として扱う方がよい。

体力と気力を失うことで、同時に失われていくものは根気であり、持続力、持久力である。

ということで、私の場合には、体力や気力、精神的な鬱と闘いながら、・・・というか、むしろ体調に相談しながら、無理をしないで体調を合わせながら、仕事を持続していくように試みている。

自分の若い時の体力をイメージして、無理矢理に自分を叱咤激励して仕事をしようとする団塊の世代の人たちをよく見かける。

それまでの、人生で過ごして来た勤勉さのなせる業なのだろうが、歳には逆らえないんだよ。

こういうところでは、私の独自の「怠け者の仕事術」が、そのまま体力の衰えに合わせたペース作りにも役に立っている。

一般的な人達の場合には、体力の衰えが、そのまま気力の衰えにつながって、人生に対する興味を見失ってしまう。

仕事の興味が希薄になると、当然その仕事の能率や完成度は極端に低くなってしまう。

同様に、自分の身の回りに対して、無関心になってしまうと、物事に対する興味が極端に失われてしまい、それが無意識に「記憶をする力」を段々と弱くしてしまうのだ。

これが加齢による記憶力の低下の根本原因である。

 

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[仕事の能率や完成度を維持するために]

個人の能力とは直接関係のない話になるのだが、私の場合、加齢という事よりも、それ以前に、病気によって極端に体力が失われてしまったので、そこを補うためにパソコン等による仕事の機械化や、人を上手に使って仕事を全うする方法で、能率の衰えを乗り越えた。

「人を上手に使う」と言う意味は、「自分のやるべき仕事をそのまま丸投げにする」という意味ではなく、自分が弱い体力の部分や、私が定型作業と名付けているルーチン作業のところを、仕事を覚えようとする人たちに、仕事を指導する意味も兼ねて私の仕事を手伝わせるのである。

相手にとっては、仕事のやり方を指導してもらうというメリットがあり、私の場合には体力のなさで仕事が、遅れて行く部分を若者に補って貰って、仕事の能率を落とさないというメリットにもなる。

芦塚メトードで、繰り返し言っている「一挙両得」の法則である。

という事で、「人を上手に使う」と言う事を、今、教室の先生たちに指導しているのだが、それが意外と難しく、出来ないのだな。

人を上手に使いこなせなければ、弟子を育てる事はできないし、人を雇って、教室を拡大して行く事も出来なくなるのだ。

私の知り合いの人の例のように、あまりにも自分が多彩な仕事ができるために、等々自分の弟子と呼べる人を育てられなかった人を何人も知っている。

一般では、弟子を育てられる人は、その人の資質によるものだと解釈されていることの方が多い。しかし、人を育てる、・・・弟子を育てる、と言う事も、 1つの学びうる能力であり、技術なのだよ。

人を指導する事を学ぶ事が難しいのは、単に技術を指導する事ならば、カリキュラム通りにレクチャーしていけばよいわけなのだが、指導者を育てるとなると、単なる技術力だけではなく、その技術を子供達に指導するための、段階(step、stage、grade等)の把握や、子供や親の心理的な面のホローや、そういった、今現在何が子供達に出来て、何を指導すれば、子供達がオーバーフローになってしまうのか?という、技術や指導内容の構成を理解し、把握する力も必要になるからである。

そのためには、長いspanでの、指導者の主情的、感情的思い込みではなく、客観的な、冷静な子供の成長を観察し、分析し、判断出来なければならない。

ともすれば、指導者は、密に会話をしている親の話を鵜呑みにしがちである。

私は、「子供がそう感じていて、そう思っているのなら、子供の意見の方が正しい。」と先生達を叱咤している。

それが、明らかに子供の間違えた理解による誤解であったとしても、子供にとっては、それが真実なのだからである。

そこに、大人の経験値や常識や一般論を持ち込んで、子供を説伏する事は、絶対にしてはならない。

あくまでも、子供の立場で、子供と同じstageで、観察し、理解し、分析し、判断して行かないと、子供からのsymbthyは得る事は出来ない。

大人の持つ常識や世間一般の通説を子供の説伏に使ってはいけないのだ。

そうすれば、意外と大人社会の不条理が見えてくる。

そこから、子供に信頼される、本当に意味での教育が始まるのだよ。

子供達の疑問に、真摯に答えるという事が、良い指導者の条件であるのだよ。

それは、指導者の条件であり、指導講師であるためには、もう一つ、大上段の洞察力が必要となるのだ。

指導者を育成するためには、単なる知識を集合させる事ではなく、そういった全ての能力を統合する統合力や総合力、また根気よく指導するための忍耐力も当然必要となってくる。そういったものが、所謂、教室で言う所の指導講師(講師を育成する講師)には必要となって来るのだ。

そのためには、指導者の音楽や生徒、父兄に対しての、理解力や認知力、観察力、分析力、判断力、洞察力等々の能力を育成しなければならないという事なのだよ。

勿論、今までの話の中には、経営者としての、一番大切な「教室の経営と運営」という事は全く話ししていない。

経営的手腕は、指導の勉強とは、全く違った次元の話になるからだ。



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[経営者としての可能性]

経営的手腕で一番大切なものは、先見の明である。

先見の明とは、一般によく言われるような、感覚的な情緒的な能力の事を指す分けではない。先見の明、所謂、予知の能力は、現在の会社を取り巻く環境の分析、観察、判断の結果導き出される計算上の必然であり、ギャンブル的な、賭けのようなイメージは全くない。

そこが会社を潰す人間と、会社を存続させて行く事が出来る人間の決定的な違いである。

ある会社が潰れるのには、会社が潰れるだけの必然的な理由がある。

しかし、多くの人たちはそこの所に気づかないし、また気づいていたとしても見ようとはしない。何故なら、人は自分の弱点を見ることが嫌だから、怖いから・・なのだ。



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2012/06/14 (木) 23:16

レガートシモ奏法と探り弾き

legatissimo奏法は、Pianoや弦楽器、歌にもある。それは音楽の技術的な問題なので、「論文のネタ」にはならない。

正しいlegatissimo奏法を学んだ事のない音楽家の卵達が、見様見真似で野狐的なlegatissimo奏法で演奏する事で、探り弾きの負のspiralに落ち込んでいるのをよく見受ける、というだけの話だ。

音楽家の卵達の大きな勘違いは、ひたむきに練習をする事が、上達の秘訣であるように思っている所にある。

それこそ江戸時代の儒教的な、化石化した思考方法だよ。

今で言うと、「100回練習して出来なければ、1万回練習すれば良い」と言う誰かの言葉と同じなのだな。

芦塚メトードで言い続けている事は、「誤った練習法で練習すると、100回誤った練習したのを、0にするには、100回練習して、やっと0回練習した事になるのだよ。」下手な練習ならば、しない方がましだし、悪い先生に付いて音楽を学ぶのなら、まだ習っていない生徒の方が、早く上達するのだよね。3年間、他所で悪い先生に付いて勉強して来た生徒を、ちゃんと伸びるように教育し直すには、0の状態まで持って行くのにやっぱり3年間かかるのだよ。


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2012/07/01 (日) 2:34演奏家に不向きな性格の人

人生の全てが「行き当たりばったり」の人はお稽古事には向かない!

特に、演奏家には、コツコツ型で、粘り強い性格が必要である。

かく言う私もかなり行き当たりばったりの性格である!

正に、演奏家とは真逆の性格である。いやあ、困ったもんだ!

という事で行き当たりばったりの性格を逆手に取って、「怠け者の勉強法」というのを作ったのだが、本当の怠け者(真性怠け者)には、そういった勉強方法すらかったるいらしい!


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2012/07/31 (火) 13:46

芦塚メトードの第2の欠点

芦塚メトードでは、芦塚先生の言う事をちゃんと聞いていると、練習をコツコツしなくても、ある程度は上達してしまう。

そこで、勘違いしてしまう人達がいる。

「芦塚メトードで習うと、練習しなくとも上手くなるのだよね。」

そうじゃあ、ないのよね!

そういう風に思われると困るのだよ。

芦塚メトードでは、無駄な練習や意味の無い練習を省いて、必要最低限のcheckpointを、集中して練習するから、長時間の練習が出来ないのだよ。

それが、練習しないように見えてしまうのだよね。

だから、教室のスタープレーヤーの生徒が、教室に居る時には、2時間、3時間の練習しか出来なかったのに、日本人の有名な演奏家に師事した途端に、4時間、5時間も練習出来るようになる。

親は「やっぱり、有名な先生に付くと違うな〜ぁ!」と感心していたのだが、指先だけの練習で、音の粒々を聞こうとしないで練習しているので、練習すればする程、下手になって行くのを、本人も親も気がつかない。

「何故??」 ・・・だって、最初から、自分の音の粒々を聞いていないのだから、本人が下手になったのが分かるわけはないだろう??

当たり前の話だよ。

もう一つ困る事は、私のlessonを受けていると、自然にいつの間にか、どこをどういう風に間違えたのか?どういう練習をすれば良いのか?という事が自分でも分かるようになる事なのだな。

「それは、素晴らしい事じゃない??何故困るの??」

それはね、AちゃんやBちゃんのように、先生の前で一回演奏して、「此処と、此処がこういう風に悪いので、此処と此処は、こういう練習をしておきます。」

何て言われたら、それでlessonが終わってしまうのだから、だよ。

それに、生徒の方も、自分が悪い所が事前に解っているので、同じ事を同じように先生に指摘されると、結構、堪えるのだよね。

いやあ、困った!困った!

しかし、もっと困る事は、それでも先生から、改めてちゃんと注意されないと、段々練習しなくなってしまうのよね。

そこいらの勤勉さ迄は、子供の間はやはり無理なのよね。

自分の欠点が見えれば見える程、そこの部分からは逃げたくなるのは、人間の本能だからね。

それでも、ちゃんと勉強出来るようになるには、もう一段階も、二段階もstepupが必要なのだよ。・・・というか、それはもう、proの領域になるという事さ!!


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[副科のlevelが低かったとしても、]

特に、弦楽器や管楽器を主科にして、Pianoを副科にしている生徒の場合であるが、Pianoの技術は拙いのに、音楽の解釈や、音楽理論に関しては、主科の上級者のlevelになるので、Pianoで演奏は出来ないとしても、音楽の解釈のNiveauは高いlevelの指導をしなければならない。

ともすれば、音楽指導の経験の浅い指導者は、Pianoのlevelだけで、その生徒の理解力を判断しようとする。そうすると、その生徒はその先生のlessonを信用しなくなるのだよ。

Pianoでは、実際には弾けなくとも良いから、頭ではちゃんとその理論を理解出来るようにする、という事が肝心である。

そこの所の指導は、慣れが必要で、すこぶる難しい。

2012/09/01 (土) 9:15

今の子供達はやりもしないで、「出来ないモン!」と言うのが口癖になっています。

「出来なければ、代わりに誰かがやってくれる…」 そういう普段の生活のパターンが、口癖になって身に付いてしまっているのです。

次の会話は私が、「出来ないモン!」と言う言葉が口癖になっている子供とお話しをしている風景です。

「出来ないモン!」

出来るか出来ないかは、やってみないと分からないでしょう?

「やったけど、出来なかったモン!」

出来なかったのを、積み上げて行くと出来るようになるのですよ!

ピアノやヴァイオリンを習い始めた時には、こんな難しい曲が弾けるようになるとは思わなかったでしょう?

出来ないことを積み上げたから、出来るようになったのだよ!

誤解のないように、補足説明しておきますが、私が指導している生徒には、「出来ないモン!」と言う生徒は一人もいません。

私のlessonでは、最初から子供が出来ないような練習は、絶対にさせないからです。

難しい曲を生徒に与える時にも、最初に練習法の説明や、その曲の中の抜き出し箇所の練習からスタートするので、曲を全部貰った時には、難しい箇所はいつの間にか自然に弾けるようになっています。その状態から、その曲の譜読みに入るのです。

それでも、ある程度年齢が上がってくると、趣味組の生徒では、自分の弾きたい曲と練習量が噛み合わない時などが出てくる事もあります。

しかし、それまでに、そういった練習法が身に付いていると、その曲を「出来ない」という事はありません。

それはその生徒が、色々な練習法を駆使して、その曲を何れ位練習すれば、弾けるようになるか、とか、練習時間が足りない場合にも、本人自身が、後どれぐらい練習を増やして練習すればちゃん弾けるようになるか・・を自分で判断する事が出来るからです。


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[勉強のstep]

私が、親や先生達へよくするお説教です。

子供達が出来ない事を出来るようにするには、ただ「やりなさい。」と言うのでは、駄目です。

子供達が出来ない事が出来るようにするためには、課題の与え方にステップが必要なのです。

そのステップの勾配がならだかなら、子供達は行き詰まる事はありません。

そのステップが急勾配ならば、そのステップの間に、更に幾つかのステップを作って、勾配をならだかにしてあげればよいのです。

その方法論を作る事を教育というのですよ。

だから芦塚メト−ドでは無理なく、子供達が自然にいつの間にか出来るようになっているのですよ。

それは子供達が簡単だから、サラサラと出来るようになっている分けではありません。

子供達の前で一生懸命に道をならしている先生達がいるから・・なのですよ。

親も、家庭での教育で行き詰まったら、先生に相談すれば良いのです。

「餅は餅屋」なのでね。


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2012/09/01 (土) 11:36

芦塚メト−ドと無駄な事    

芦塚メト−ドの一番大切なポイントは無駄な事を省くと言う事だ。

「決められた時間の中だから、決められたように、学習しなければならない!」と、いったような、教義優先のご都合主義からの脱却である。

儒教的な考え方でも、やりたくなくても、いったん決められた事はきちんと守る事をよしとする!

芦塚メト−ドは、そうではない!

常に万全を期し、万全に至らない時には、万全になるように、そのステップを図るようにするのである。

無駄なオケ練習はしない!

分奏が必要なら、分奏にかけるべきである。

分奏が全く出来ていないのに私がオケの練習の指導をしても、(Cちゃんのレッスンの時のように、)全く同じ事を全く同じように、半年間も言い続けるだけなのだから!

それでも、同じ話を初めて聞いた事のように、半年間も同じように聞いて、レッスンを受けていたCちゃんも凄い!



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2012/09/16 (日) 0:56

論文のネタ集 

[良い意味でのアマチュアイズム]

私が日本型の音楽教育を批判する時に、よく「良い意味でのアマチュアイズム」と言う言葉を口にしますが、その時に勘違いされる事は、私がアマチュアイズムを賛美しているように誤解される事です。

人は音楽への価値観を、大きくクラシックとかイージーリスニングとかいう分類をします。だから、クラシックはクラシックとして、大きな括りではなされてしまいます。

私は音楽家なので、人間としての生き方を音楽に求めます。

だから、私にとっては、音楽は宗教であり、哲学なのです。

しかし、音楽を通じて、有名になりたいとか、マスコミや華やかな世界で活躍したいと望む音楽との関わり方もあります。

その場合には、音楽は必ずしも、その人自身の人生の究極の目的ではなく、自分がメージャーになるための、単なる一つの道具に過ぎないのです。

クラシック音楽をやっているとはいっても、今の若者の大半は音楽をイージーリスニングの延長線上か、自分の技術をひけらかすパフォーマンスとして捉えています。

多分、音楽そのものの美しさや、感動をした事がないのでしょうね。

私は青春時代に、音楽に感動して、音楽の道を歩む事を決めました。

その青春時代の全てが音楽だけであって、脇目も振らずに音楽に邁進した時の気持ち、そういった青春時代にしか、中々持てない一途な想い、ひたむきさ、そういった意味での、所謂、「初心忘れるべからず」と言う言葉であり、決して音楽をイージーリスニング的に、軽く、ただ単に美しく、気楽に趣味的に捉える・・と言う意味ではないのですよ!

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2012/10/05 (金) 19:13

教室のホームページ関係     

音符の等分割と不等率分割

音符は等分割されるという定義でつくられています。

割り算は小学校の4年生で出て来るので、それまでの子供達に音符の説明をするのは難しい事があります。

「4分音符の半分の音符は?」と子供に質問をすると、「4を2で割るのだから、2分音符!」という答えが返って来る事があります。

音楽大学の学生に「64分音符を何個集めると、2分音符になりますか?」と授業の時に質問をしたのですが、即答した生徒はいなかったのですよね。

不思議な話です。

音大生は経験値として、音符を学んでいるからなのですよ。

音符の分割の定義が全く分かっていないのです。

64分音符とは、どういう意味なのか、その意味が分かっていないから即答出来ないのです。

答えは全音符が基本で、その全音符を二分割したのが、2分音符なのです。ですから、2分音符という意味は、全音符を2分割した音符という意味なのですよね。

だから、64分音符というのは全音符を64等分割した音符という意味です。

つまり64分音符を64個持ってくると、全音符になります。・・・というか、定義が逆でしょう??

だから、2分音符は全音符の半分なので、32個で2分音符になるのは当たり前です。

ここは、等倍の話だから、作曲家で勘違いする人はまず居ないし、そんな勘違いをした譜面は見た事がありません。

しかし、音符の単位に連符が入って来ると、事は複雑になります。

2を3に分割する場合には、それでも音符の単位の間違いは少ないのですが、Ravelのような大作曲家でも、チガーヌのような名曲にさえ、音符の単位の間違いがあるのですよ。

逆の3を2に分割する場合の音符の単位はよく混乱している譜面を見る事が多いのですよ。

作曲家は理論家ではないので、Schubertのような大作曲家でもよく間違いを犯す事があります。

「音符の単位は、・・??」 と一々、考えるよりも、「書く!」という事が優先してしまうからでしょうね。

でも、連符の音符の単位の考え方は、充分小学校にも理解出来るくらいに単純なのですよ。

原理を知っておくと、連符の単位で間違う事は決してありません。

全音符を1とすると、2分割された音符は2分音符になります。・・で、「1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が・・・、パッと花菜散る凍りの刃・・・」

でも、4分音符に変わる前には、2と4の間なので、3等分がありますね。だから、全音符を1の単位にする時には、3連符は2分音符になります。

以下、同様に、4分音符のグループは、5、6、7連符で全部4分音符の単位です。

その次は、8分音符なので、次の16分音符まで、9、10、11、・・・15連符迄単位は8分音符の単位になるのですよ。

簡単でしょう??

表に書き表すともっと簡単なのですが、意外とその表を書き表している楽典の本は見た事がありません。説明すると当たり前の事なのですが、これもコロンブスの卵で、解ってみると・・・なのですよね。だから、歴史的な作曲家でも間違えてしまうのですよ。ついつい・・・!!



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2012/10/23 (火) 16:23

怠け者の仕事術      

[仕事は派生した時に必ず、一部分を一度はかじっておく事]

この、私の仕事術の法則(how-to)は、仕事が、発注されたままおざなりにされてしまって、いつまでも片付かないその理由が、その仕事を受けた人が仕事のimageを具体性に持たないで保留にしてしまう事に、そのおざなりの理由が起因する場合が多いからである。

仕事を受注した時に、その一部でも囓っておくと、その仕事の輪郭が朧ろげにでも把握する事が出来るからである。

そのために、昔、仕事を伝達するための書式(template)を作ったのだが、そのカードは仕事の打ち合わせの時にも使用しては貰えなかったので、そのままボツになっている。

仕事の手順を頭の中で作り上げる事が難しいからなのであろうか??

という事で、仕事を囓ると、何となくでも、朧ろげでも、仕事の輪郭が掴めるからである。

仕事の輪郭が分かった状態で仕事をするのと、分からないままに当てずっぽの状態で作業をするのとでは、仕事の速度は全く変わるのだよ。

これも一見すると無駄なように思えるかもしれないが、大切な時短のtechnicの一つなのだよ。


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2013/01/31 (木) 14:05

「後で、時間がある時にやっておきます。」という人に・・・

ヨージーの仕事の法則

仕事では後に時間はない

私のように基本的に一人で仕事をしている場合には、ちゃんと締切迄に仕事を終わらせれば良いのですから、「後で、時間がある時に、やっておきます。」という事を、言うのは可能です。

しかし、「後で、時間がある時にやっておきます。」と口にする人で、締切の時間を守る人は極めて少ない。

というか、自分で勝手に、こちらが指定した締切日を変えて、「**迄に間に合えば良いのでしょう?」とか、臆面もなく言って来るから困ったものです。

つまり、人には、時間を守る人と、守らない人の二種類の人種がいるのですよ。

会社の仕事の場合には、一つの仕事は、どんどんprojectとして、次の人に受け継がれていきます。つまり、連携が大切なのです。だから、締切りは絶対の時間になるのです。

作曲が間に合わなくて、1日、出版社の輪転機を止めたとします。大体その、損失は5百万ぐらいになります。

スタジオで録音の時に、誰かが遅れて来たので、録音が10分伸びました。スタジオ代と録音技師に10分間の追加料金を払うのに、100万円かかったのですよ。大きなスタジオでは、それぐらいは普通にかかるのですよ。

勿論、私達の仕事ではないので、私達が払った分けではありません。私達は単に見学していただけだったのでね。



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2013/02/02 (土) 20:06

モンスター・ペアレンツ

モンスター・ペアレンツとは、自分の子供の事に対して、思い通りにならないと我慢できないタイプの人達の事をいう。

しかし、子供の事に対して、「望んだ」…という意味は、必ずしも、「子供が望んでいる事を」・・という意味ではない。あくまでも、親が望んだ「子供に対して」という意味である。

しかし、大半のモンスター・ペアレンツの親は、親の望みが「子供の望み」でもあると信じているので、始末が悪い。

子供が教室の先生に対して、「help」を求めたりしているケースが多いからだ。

親は周りの意見が聞こえないので、「子供がそう言っている。」と説明しても、「そんな事はありません。子供とはよく話し合っています。」とか返ってくる。挙げ句の果てには、「先生は嘘をついている。」とかいう話になってしまう。

公立の小、中学校に於いては、モンスター・ペアレンツは大問題になるのだが、私立や公立でも高校の場合や音楽教室の場合には、それ程、その解決は難しい事ではない。

学校や教室は義務教育ではないからで、他の生徒や保護者の迷惑になる場合には、その生徒をやめさせる事が出来るからである。

私達の教室でも、教室の規約に「退会勧告」という条文を入れている。

尤も、その条項を追加した理由は、モンスター・ペアレンツに起因する訳ではなく、指導経験の未熟な教室外から指導に来た先生が、生徒や父兄達と感情的に喧嘩をして、勝手にやめさせたりした事が、何度かあったからである。

生徒を退会させる裁量権は、指導に来ている先生達には、原則としてないのだ。

教室の役員の先生達がその裁量権を持っている。

それも、基本的には何処の教室も同じである。

また、この退会勧告自体も、教室の他の規約同様に、教室が独自に定めたものではなく、一般の音楽教室の規約と同様に、殆どの音楽教室で共有する規約である。

参考までに

退会勧告

月謝の滞納、教室に無許可の教室での営業活動、宗教の勧誘、教室の活動や先生の指導に対しての批判やそういった言動が著しく他の生徒保護者の迷惑になる等の場合には、教室から退会を勧告する場合があります。


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2013/02/11 (月) 21:45

芦塚メト−ド  

芦塚メト−ドがユニークなのは子供を叱咤激励するのではなく、子供が自分自身でやるようになるという事です!

先生の指導力が優れていて、それで生徒が上達している教室は数多くあります。

そこの問題点は、先生がいないと、(先生の指導がないと)生徒は上手く演奏する事が出来ない、という事なのです。

その点は、私達の教室は大きく違います。

生徒に曲の演奏の仕方を指導するのではなく、曲の色々なpassageの練習の仕方をlectureします。

だから、生徒が、他所から移って来た生徒の場合には、練習の仕方が分からない場合や、練習をする事自体に嫌気がさしている生徒も多く見受けられます。

だから、そういったすっかり練習嫌いになってしまった生徒に、「ちゃんと来週までに練習して来なさい。」等と先生が言う事はありません。

一人で練習するのが嫌なら、lessonの時に先生と一緒に練習すれば良いのです。

それだけでも、充分に上手になります。

たった、週一回の練習でも、先生と一緒に練習する場合には、無駄が全くないから、その生徒が嫌々ながら、1週間練習して来たのと、同じぐらいの成果を上げる事が出来るのです。

練習して、見る見る内に上手になるのなら、子供は自分でも「練習してみようかな?」という気に自然になって来るものです。

でも、始めて自分で練習する気になったとしても、それで上手く行く分けはありません。

先ずは、一人で練習出来た事を、褒めるのがコツです。それがsteponeなのですよ。

そして少しづつ、練習の仕方を学んで行きます。Step by step・・・!

一見すると、まどろっこしいようなやり方ですが、これが本当の時短になるのです。

本当に急がば回れの諺通りなのです。



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論文のネタ集

 

2013/02/28 (木) 11:32

「感情を込めて演奏する」という事は、「その時の気分を込めて演奏する」という日本人音楽家達の勘違い!

このお話はホームページ「芦塚先生のお部屋」の中の論文に何度も繰り返し、触れられて、あちこちの論文にも同様のthemaで掲載されている。

本当はこの話を蒸し返すのは、「「耳タコ」であろう。

しかし、オケ練習でも、或いは人へのアドバイスとして、その話と似たり寄ったりの内容の話を私が繰り返しするのは、それが意外と分り難い話であるからだろう。

つい先日のオケ練習ででも、子供達に「偶然」の定義の話をした。

自然界では、「当てずっぽう」なものは、必然的に「法則性を持って行く」・・・という話である。

2面しかないコインの裏表は、コイン投げを際限なく繰り返して行くと、1/2に限りなく近づいて行くという法則である。

東京で蝶蝶が羽ばたくとブラジルで洪水が起こるという、あの数学の法則であるのだよ。・・・・・アハッ!

その為に、偶然の数字の並びを作るには乱数表が必要となる。

二次大戦の時に、ドイツのUボートとアメリカ軍の暗号解読のための乱数表を巡る息詰まる攻防を描いた映画は必見であろう。

ドイツ留学から帰国したばかりの頃には、「チェロ入門教本」や「Beyer研究」、その他多数の研究を同時に作っていたのだが、その中で、絶対に絶対音感を身に付けさせる為のmethodeである「絶対音感訓練」の教則本を1年掛りで作っていた。

しかし、ある任意の和音から、次の和音への進行で、絶対的に法則性を持たない完璧なrandomな和音を選び出して、連結するために、和音の接続の定義を作ったのだが、それを実際の課題(和音)に直す作業が意外と大変で困っていたら、当時私のチェロの弟子であった日本女子大の講師の先生が、日本女子大の大型コンピューターを内緒でタダで回してくれる事になった。

本来ならば、大型コンピューターのレンタル料は、数分単位で百万円ぐらいかかるのだが、空き時間を使って、内緒で、タダで・・ということだった。

コンピューター・プログラマーの彼女に数式を渡して、待っていたら、大学から電話が掛かって来て、1時間近く回ったままで、数百万の金額になるそうな・・・慌てて、コンピューターが「難しい」と考える計算式を幾つか省いて、見たのだが、今度は、和音進行のルールに当て嵌まらない。

仕方がないので、一番近い回答である乱数表を出して貰って、その中で法則性のあるものを、人力で省いて行ったのだが、それじゃあ、何のためのコンピューターか分からん・・・という事で、コンピューターで、必然的な和声進行をしないrandomな和音の進行の一覧を作るのは諦めた。

という事で、コンピューターがダメならば、その和声進行のルールを私の祖母が好きだったダイヤモンド・ゲームのようなゲームに作り替えて、幾つかのサイコロ(サイコロには、6っの数字のサイコロの他に、4面体から始まって、普通の6面、8面、12,14、16、20、24、30、100と数限りなくある。)を買い揃えて、当時の私の生徒達や弟子達とゲームをして遊んで、数式のdataを取って、和音の進行表を作った。一月も掛からないで、完全なdataが取れたよ。

日本に数台しかない大型コンピューターを回すよりも、人間の頭でやるゲームの方が余っ程早く計算出来たね。

改めて人間の頭の能力には驚いたよ。

これとは、別の話になってしまうが、以前も、同じ話をしたのだが、音楽の表現は、子供の年齢ではなく、子供の技術力で決まる。

一般の音楽教室では、かなり優秀な生徒であったとしても、コンクールや音楽大学を目指すさん達とは、所詮、物の考え方が違う。

小学5、6年生の段階で私の所に来ても、1年や2年ぐらいで、コンクールで要求される音楽の水準まで技術levelを上げるのは、基本的には幾ら私でも、教育上、技術の指導上、無理な話である。

しかし、音楽のシロウトである親は、時としてその無理難題を言って来る!!

教室としては、親の希望は、無理難題でも聞いてやらぬ分けにはいかぬ!

という事で、親の「たっての希望」で、子供が私に代わって間もない、未だ音楽表現が全く出来ない時期に・・・楽譜をrhythm通りにしか演奏出来ない段階で・・・生徒をコンクールに無理矢理出す事になったのだが、私のその時の苦肉の策は、音楽技術の指導の中に、音楽の表現や演奏の表情も含めてlectureする事であった。

めでたくコンクールの全国大会で入賞を果たしたその生徒に、審査員からの評価は「技術は非常に優れているが、音楽に対する表現がオーバーなので、感情をセーブして演奏するように!」だった。

これは「受けた!」ね!!

全国大会の審査員でも、「作られた感情表現」と、感情的な「オーバーリアクション」の違いが分からんかね??アハッ!

舞台芸術では、何時、何時でも同じ表現をしなければならない。

「気分が乗らないから・・」という事では、役者は務まらない。

世間のお客様は、役者が恋人に振られようが、喧嘩していようが、そんな事は知った事ではない。その役が楽しい役ならば、ピエロのように、涙を隠して、笑いを取らなければならないのだよ。

音楽も舞台芸術だ!って言う事は知っていた??

知らなかった??・・・・えっ?!「音楽は職業だ!」という事を私に指摘されて、驚いて腰を抜かしていた某音楽大学の院生じゃあないのだからね!!


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仕事の仕方(捉え方)のlecture

先生との交換mailから発展させて

2013/03/16 () 6:58

[仕事の効率]

新幹線無事に乗れました。
1時間半は寝れたから優秀な方だ。
今日のレッスンもして、四日市教室以外の仕事もして、夕飯も作って、四日市移動の準備もして、少なくても寝れたから、手伝いがいなくても、かなり効率は上がった。

2013/03/16 () 14:29

[仕事効率]

「仕事の仕方」の話だが、「仕事の仕方」は単なる方法論なので、仮にその仕事の手伝いが居たとしても、居なかったとしても、時間に間に合わせる事が出来ない人は、やっぱり、時間に間に合わないのだよ。

それは、寧ろ、その人間の「仕事の出来上がり時間のタイミング」に対する意識の問題だからなのだよ。

例えば、毎年というか、何時も「クリスマス会の人形劇の準備」に対して、「8月の休み中にprojectをstartしろ!」と説教しているのだが、「8月では、その気が起きない!」と却下されてしまう。

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[長期作業と短期作業]

作業を並行で作業する場合には、作業自体には、長期的な作業と短期的な作業がある。

純子の場合には、並行で作業をするときには、短期的作業に関しては大分、ミスなく気を付けて出来るようになって来たのだが、その作業は、その日1日の中でこなせる短期の作業を並行する場合に限られていて、長期的な作業の並行は、まだ上手く出来ているとは言えないようだ。

長期的な並行作業が出来ていないその根本的な理由は、私が何時も説教している「物をしまう」「整理する」という事とオーバラップして来る。

その仕事が単純な一つの仕事であったとしても、「仕事に振り回されて、時間を作れない原因」になっているケースでは、人はその仕事の締切が近付かないと、中々作業に入れないのが、根本的な原因であると思います。

長期的作業という作業には、大きく2つの種類があります。

その一つはprojectが大きく、長期に渡って作業をしなければならない作業という意味です。

もう一つの長期的な作業は、作業自体は、直ぐに終わる作業なのですが、それを常日頃しなければならないという、所謂、エンドレス作業です。

問題は、この「仕事内容はすこぶる簡単で、取り掛かっても直ぐに終わる作業なので、いつ取り掛かってもよいけれど、ついつい忙しさにかまけて、優先度の高い他の作業の後回しになってしまって、何時までも残っている」・・・という、「作業の取っ掛りが中々見えて来ない作業」についてです。

そう言った作業の場合には、私は「別の理由や口実を設けて」作業に入るという事をよくやります。

つまり、その仕事に対して別の付加価値を付ける事によって、作業に入る口実を作る‐のです。

その仕事に、何かの仕事を引っ掛けて、「別の口実(付加価値)をくっつける」という発想の転換は、普通には中々難しい事のように思われます。

なぜ難しいかというと、その一つのprojectの中の作業だけではなく、別のprojectを含めて、仕事の全体像が見えていないと、その作業に類似した作業を持ってくることは中々できないからです。

しかし、それもやはり慣れで、簡単な作業を一つの作業として、こなすのではなく、別の作業と一緒にprojectを組むという癖、所謂、並行作業に慣れていれば、簡単に、複数のprojectを一緒に組む事が可能になります。

その第一段階、というか、その並行作業の練習が芦塚メトードで言う所の定型作業です。

一般的なルーチン・ワークに似ていますが、意味はちょっと違うかな??

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[作業の冷凍保存とfiling

長期的な作業には、その作業をその場で終了させる事が出来ない場合には、その作業をSleepさせるための凍結保存する場所をちゃんと作っておく必要があると思います。

作業効率の悪い人は、このfilingの場所を作ったり、仕舞ったり、取り出す」という作業がとても下手です。

分類のコツは、分類が全ての(全体の)作業で統一性を持っていることです。

また、その分類のコツは、「教室に初めて来た人でも簡単にfileが探せるし、またしまうことが出来る」という条件を満たしていなければなりません。

そのために、私は、ツリー構造を用いています。

大項目から中項目へ、それからさらに小項目へと進んでいけば良いからです。

これは教室の分類項目ですから、教室のindexの分類に単純に従えば良いだけなのです。

一般的な分類の効率化の1番大切なconceptは、他人が来た時に、一々教えなくても、直ぐに探せるように分類しておく事です。

それ出来るようになると、「自分自身が何処にしまったかを忘れてしまって、物を探す」というような不仕末もなくなります。

くどい様ですが、教室のことをよく知らない人が、簡単に探し出せるように分類をする事が、自分が物忘れをしても教室を、教室の事務作業を、ブラックホールにしないようにするためのコツです。

という事で、事務所を効率的に、且つ又、能率的にするためには、ちゃんとしたルールに従って(つまり、情緒的感情的な分類ではなく)論理的にfileを分類して、完全に、「誰でも、何時でも」取り出せて、仕舞えるように、整理整頓する事なのです。

それと、長期的なprojectに対しての、人に任せられるpointや、同時に作業した方が効率のよいpoint、或いは、資料や道具の不足で無理矢理仕事をするよりも、道具を買うとかして、その後作業した方が良い仕事、後回しにした方が効率の良い作業等の、分類に対しての直感的なprojectを把握する力が、人を使って、大きな会社を経営管理運営する力になります。

そういった所を、意識をして、努力して訂正して行く事が、今の状況の改善にそのまま継って行きます。

Sent: Saturday, March 16, 2013 11:07 PM
Subject: RE: Marin Maraisの練習風景の動画

少しずつは長期仕事もやってはいるのだけど、なかなか成果が目には見えてこないな・・・。

やはり整理がなってないからだよな。

先日は動画のDVDの整理をして、オケ練習などのDVDをためていける場所は作った。

しかしまだレッスンビデオや演奏家ビデオなどの保存場所が整理されてない。

売り用CDなども整理し掛かってまだ出来ていないし・・・限りがないけどやらなければ溜まる一方だし、有効利用が出来なければ意味ないし・・・・と思って少しずつは分類作業もやってますンよオ。

 

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2013/03/17 () 1:45

[今、何をしなければならないのか?]

仕事の仕方には、幾つかの重要なpointがあります。

先ずは、仕事の全貌を掴む事と、「から、迄」という時間軸をしっかりと把握する事です。

という事で、私が教室の先生になる事を希望していた弟子達に、最初に作らせた大きな作業が、「年間計画表」でした。

その教室の「年間計画表作成」の仕事をさせた意味は、 1つにはワープロの操作に慣れると言う意味がありました。

もう一つは、教室の行事の全体像の把握で、 「いま何をしなければならないか」を自分で把握するための勉強でもあったのです。

その「年間計画表」が、完成するまでには、丸々 1年掛りました。

ワープロで作らせたす年間計画表は、ワープロの時代には、大変な画期的な表で、膨大な手間と時間が掛かってしまったのですが、パソコンが発達した今現在では、すこぶるオーソドックスな表になっていて、Excel でも超、簡単に作る事が出来ます。

その基本的なチャートの考え方は、今では「ガントチャート」と言って、無料のテンプレートも沢山ネットに掲載されています。

だから、ワープロで昔作った物を、関数として、表に計算式を打ち込まなくても、単に表としてパソコンに移すだけなら、Excel でいとも簡単に書き表す事が出来ます。

そのチャートを忠実にExcel で作っておけば、関数は後で入れる事が出来ます。

一般的にも、コツコツ型の人達は、与えられた仕事をコツコツとこなすのは上手なのですが、全体の構成を見ないうちに仕事を始めるために、よく仕事上の判断ミスや無駄な作業工程、同じ仕事を別のprojectとしてdouble-bookingして作業したり・・・というロスタイムによる原因から、仕事の締切に遅れを引き起こしたりしてしまう事があります。

コツコツ型の人間は、そこの所がウイークポイントなのですが、スロースターター型の人は、正反対のタイプなので、コツコツ型の作業は苦手で、中々出来ないのだが、その分、全体の把握や構成力、思いつきとresponseがあるので、人材の組み合わせを上手くやると、何とか「年間計画表」がなくても、落しをしないでやって行く事が出来ます。

しかし、この「やって行く事が出来る」・・・というのは、逆に、「年間計画表」が無くても、やれるから、「必要性が無い」という風に、勘違いされてしまいがちになります。

しかし、それは、偶然上手く行ったに過ぎないのです。

必ず、何時かは、破綻を来たします。

今回の教室のように、仕事の出来る人達が結婚や子育てで、教室を辞めて行く事は、会社としては当たり前の極々普通の日常の話です。

だから、常に、新しい人材を育てる事が、curriculumとして普通に出来るようにしておかなければんあらないのです。

新しい人材に、仕事を覚えてもらう上でも、先生達が若い世代の人に、ベッタリと付きっ切りになる分けには行きません。

ある程度は任せても、出来るようなcurriculumが必要です。

だから、新しく年間計画表を作成するのではなく、今迄使用して来た、教室の仕事の年間計画表のチャートから「から迄」を、きちんと理解する事が必要となって来ました。

しかしながら、人材の不足で、・・・或いは、人材は雇ったとしても、先生が教室の仕事と新しい人材を指導するための余力がないので、仕事を教えようとすると、逆に自分の仕事がこなせなくなってしまう…という、ジレンマに陥ってしまっています。

どういう仕事を、何時から、何時までに、しなければならないのか?という、指示を出すだけの事ですら、先生の自分の仕事との両立という点で、上手くこなせなくなってしまっていて、指揮系統、指示系統のコントロールの乱れは、教室が人材を育てる上でのネックになってしまっていて、それが、教室の仕事が遅れている、根本的な原因になっているのです。

そういった現状を改善するという意味でも、今現在、教室が最初にやらなければならない作業は、先生達がまだ中学生の時に、ワープロで作り上げた年間scheduleを、Excel transposeする仕事が最も大切な作業で、本当は一番早くしなければならない作業でしょう。

何故ならば、その年間計画表が昔にも増して重要な意味を持つようになって来ているのは、今は八千代の対外出演や、千葉教室のクリスマス会等のイベントや、四日市教室の出向とかweblesson等の不定期な仕事等を並行でこなさなければならないからで、横軸の並行作業に対して、縦軸の日にちと「から迄」を確実に把握して、且つ、一括管理する事が必要だからです。

今現在の教室の仕事の進め方は、四日市の教室のscheduleを考えている時は、四日市の教室のprojectの事だけ、千葉教室の発表会のprojectを考える時には、千葉の・・、八千代の時は・・、etc.と、それぞれを単独に考えて仕事をしようとしているので、仕事が無制限に増えて行くのです。

例えば、A先生に東京教室のprojectを任せたり、クリスマス会のprojectを別のB先生に担当させて行けば、問題は複雑化しないので、一般の会社では通常はそのように解決して行きますが、それでは、人材のロスや時間のロスはなくなりません。

一人一仕事では、結局の所、仕事を効率的にこなす、という事は出来なくなって、不必要な無駄は省けないのです。

一般の会社の場合でもそうですが、同じコピー作業を複数の人が別の色々なタイミングでやって来るので、コピー機に作業が集中したりして、結局の所、コピー機の台数が足りなくなって・・etc.会社が無駄に肥満し、経費の浪費になって、赤字経営の原因にもなるのです。

だから、一人一人が「落とし」や、「double-booking」等の仕事をする上での、初歩的なミスが無いように、パソコン上で、会社のprojectを総合的に管理する事が大切です。

それが、ガントチャートです。

私達の教室でも、パソコンが一般的になる10年、20年前から、それぞれの教室の発表会や年間行事等のscheduleと先生やassistantscheduleをワープロで年間scheduleを作って、一括管理していました。

 

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[定型のprojectと雑用]

発表会やおさらい会や人形劇等eventはそれぞれ一つのprojectとして分類すればよい。

その他に雑用があるが、実はその雑用には、またまた、「から迄」があるのです。

それはその都度の「から迄」なので、年間や発表会projectscheduleの中には入らないのだと思われがちなのですが、大きな年間計画表がある程度把握出来るようになると、その都度の「から迄」は、projectの中の決まったscheduleとして、きちんとあるべき場所に存在するのです。  

 

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[雑用(所謂、「から迄」の作業)の下準備]

次に大切なpointですが、「から迄」の作業の「から」には、必ず、取り掛かる前の段階で下準備があります。

仕事の下手な人は、「から」の作業に入ってから、「から」の下準備をしようとするから、仕事がどんどん遅れて行って、結果、何とか辛うじて、締切に間に合ったとしても、前日は徹夜作業になったりしてしまうのですよ。

下準備は、「から」を始める前に、事前に準備しておかなければならない作業である。

一見すると、無数に存在して、仕事としてこなして行く事が大変に思われる「から迄」作業も、実は不定期ではあるが、その殆どの仕事がprojectの中に含まれるのだよ。

とどのつまり、そのprojectを熟さなければならないので、この「から迄」作業が派生するのだよ。

という事は、この作業も一つの定型作業に過ぎないのだ。

そこが理解出来れば、幾つかの「から迄」作業を、一つの作業として一つの行程に収める事が出来る。つまり幾つかの作業を一緒にこなす事が出来るのだよ。

そこに、一般人には困難なハードルがある。それは、「から迄」作業の下準備をしようと思っても、中々仕事に入らない限り、何が本当に必要なのかが分からない・・・という事なのだよ。

一般人の場合には、作業に取りかかった後で「これがなかったから… !あれが足りなかったから…!池袋に買いに行かなくっちゃ! ! 」という風に、その都度仕事がストップして、別の作業が入ってきてしまいます。

Sent: Saturday, March 23, 2013 11:12 AM

携帯電話なら、少しでもバッテリーが減ってくると、皆直ぐに充電するのに、デジカメの充電に関しては日常的ではないので、必要になるまで、中々充電しようとはしない。

使う時に慌てて充電して持って行っても、結局の所、ミスを連発して仕事にならない!

それは家庭のやり方であって、絶対にミスが許されない「仕事」としての考え方ではない。  

仕事とプライベートの考え方の差が分かっていない!

家庭の話ならば、「充電が完璧でなかった!」とか、「使い方に不慣れだった!」で、済ませられるかも知れないが、仕事なら、そうはいかない。

今までにも、何度もデジカメが充電不足のために必要な時に、その必要なアングルの写真が撮れない事が、よく(というよりも、結構頻繁に)あったのだが、「覆水盆に返らず」で、撮れなかった写真はいくら仕事上で必要な写真であったとしても、二度と同じ写真は撮れないのだよ。

「発表会にしても、レッスンにしても、一期一会なので、そのタイミングを逃すと、二度と同じタイミングには巡り会えないのだよ!」 という事を何度も言い続けているはずなのに、自分が、ホームページやパンフレット等の資料を作る立場になければ、所詮は、価値観の問題で、他人事で何度注意しても治さない!

注、ホームページを作っているのは私なのだが、レッスンや練習等で実際にそれをやっているのは先生達であるので、レッスンには価値観を持って下準備するけれど、写真やdataを取るという事は、二義的になってしまう、という意味です。


そういった、お話は何も充電に限った事ではない。

ここで、この話をする意味は、「下準備に対しての意識」の問題を提起しているのだよ。

一つの例えを話すと、新しい道具を買ったら、まずテストをしないといけない。

しかし、教室ではその時に差し迫って必要でなければ、箱を開ける事すらしないで、そのままになって放置されてしまっている。

そして、開封したのが、2カ月、3ヶ月後では、もし、その道具が初期不良の不良品であったとしても、保証すらして貰えないだろうよ。

それにテストという意味は、単純に、「正常に作動しているのか、不良品か」 を見る、という意味ではない。

教室用にデジカメを買った!或いは、ペンタブレットを買った!それを本当に必要になった時に、その道具の使い方が分からないといって、取説に頼っているようでは仕事にならない。

仕事をする時に、道具の使い方をあれこれするようでは、仕事としては、成り立たないのだよ。

だから、買った時点で、時間を見つけて、その道具の使い方を、あらかじめ、研究しておかなければならないのだよ。

だから、せっかく、私が仕事が早く終わるように、有効な道具を買い揃えてあげたとしても、いざその時になって、使い方が分からないままに、旧態然とした昔のままの仕事の仕方をしている。

道具の使い方を覚えるより、仕事をさっさとした方が早いから、という言い訳なのだよね。

そりゃあ、そうだろうさ!

仕事をしながら、道具の使い方を覚えるのは、そりゃあ、無理だわさ!!

道具は使いこなせるようになってから、仕事に使うものなのだよ。

だから、仕事で道具の使い方の勉強はしない。

そんな大変な事はしないのだよ。

道具を使うときには、「取説通りにやる」人と、私のように、ちゃんとした簡単なprojectよりも、簡易化した手順で、必要最低限の情報の手抜き作業で道具のcheckをする人の二種類のタイプの人がいると思われる。ある物を使ったり、情報をシンボル化したりして、操作を簡素かしてcheckするという事だ。

私が新しい道具を導入するのは仕事上で、人手を減らすという意味や仕事の時短を図るためであって、決して、新しい物が何でも良いからという意味ではないのだよ。

仕事が際限無く遅れて行く原因のもう一つは「物がない」ということである。

作業をしようとすると、カッターナイフがない、ガムテープがない。

プリンターの紙がない。・・で、仕事がstopしてしまう事だ。

次の「から迄」のまでに書いているように、仕事をしている最中にプリンターのインクが無くなった、印刷用紙が無くなった、という事で、一々、小物を池袋まで買いに出かけるようでは、とても仕事になったものではない。

仕事の時間や手間が際限なく増えて行くだけなのだよ。



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[から迄の迄の話]

それと次に忘れていけないのは、「迄」のタイムリミットの決め方です。

殆どの人が、仕事の完成を「迄」のリミットにする、という事です。

でも、このやり方は、家庭の仕事のやり方であって、仕事としての、やり方ではありません。

仕事には、必ず「ダメ出し」が何回かあります。

タイムリミットはこの「ダメ出し」で訂正や修正をする時間を含んだものでなければなりません。

私が出版社と仕事をする時には締切日の3日前を、私の出版社への持ち込み日に決めていました。そこで、幾つかのダメ出しが出たとしても、2、3日あれば、直前までの2,3回のダメ出しの修正は出来るので、その全てを納得の行くように加筆補正出来るからです。

私達の言う「ダメ出し」は技術不足という意味でも、完成度の不足という意味でもありません。

お互いの目標とする完成形のimageのすり合わせが、少しずれているだけのダメ出しなのです。

だから、2、3日程度の日にちでも、充分に修正が出来ます。

子供の発表会ではないのだから、発表会の当日までに練習が間に合わなかった、とかいう話は仕事としては成り立たないし、それは社会人の立場ではない。要求された水準に応えるのが、プロというものです。

また、クライアントとの打ち合わせで、完全にお互いの目標がずれてしまっているようでは、それはプロとは呼べませんからね。

打ち合わせの段階で、ちゃんとした打ち合わせが出来るか否かも、プロの作業の一つなのですよ。

私達の教室は会社なので、よく若い青年が売り込みに来ます。

ベテランと、若手の売り込みの大きな違いは、若手の人達は、自分達が会社から言われた目標を何とか売り込もうと、一生懸命頑張ります。こちらが、それを必要としなくても、自分が売りたい物の良さや効率を必死に説明するのです。

ベテランの人は、私の話をよく聞いて、今私が何を必要としているか、そこから何を売り込めるかを判断します。その多様性が新人とベテランの差です。

ホームページの売り込みがよくあります。

一つのタイプは、私達の教室が「音楽教室だから」という括弧括りで、音楽教室の宣伝のホームページの売り込みに来ます。要するに、一度も私達のホームページを見ないで、ホームページの売り込みに来るタイプの営業マン達です。

その人達には、「教室には今ホームページが立ち上がっているので、それをよく見てから、ホームページを作れるかどうか判断して、もう一度電話しなおしてください。」と言います。二度と掛かって来る事はありません。

二つ目のタイプは、最初私達のホームページに目を通してから来る事は、先程の人達よりも優秀なのですが、如何にも素人っぽい、このホームページを見て、幾つかのサンプルを作って持ってくるのです。しかし、実にテンプレートなのですよ。

ホームページを作成する時に、私も他の教室のホームページを参考までに、checkしてみました。

良いホームページのレイアウトがあったら、是非パクリたいと思ったからです。

しかし、他のホームページも、殆どがテンプレートなのですよね。

業者の人が勘違いをしているのは、教室のホームページは、ワザとテンプレートを使用していないのです。カッコいいホームページではなく、温かいホームページを目指しているので、手作り感が欲しいからなのですよ。

という訳で、「これと同じテンプレートは、全く同じ物がホームページビルダーにあるけど、まさかホームページビルダーではないよね。」というと、「否、いや違います。会社の独自のです。」とドギマギして弁解します。

出来なくって、素人っぽいのと、出来ても敢えて、素人風にしているのと、分からんかね〜??

それじゃあ、営業は無理だと思うよ???


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[何気ない日常のmemoを取るという事]

コツコツ型の人間が本当にコツコツしなければない事は、何気ない日常の動作の中でふと思いついた事や気づいた事、そういった事を自分のパソコンにdataとして保存をすると言う事です。

不思議な事にコツコツ型の性格の人でも、そういった何気ない日常の中でmemoをコツコツと取り貯めるという事は、中々難しくって、出来ないようです。

つまり、所謂、勤勉な人達は、日常の何気ない生活の中で、コツコツとしているのではなく、ある程度、意を決して、時間を決めて、そこから仕事を始めるから、そういった極普通の一般的な日常の中で、思い付いた事をmemoに保存するという事が出来ないのです。

学校教育の欠陥かしら??机の前にキチンと座って、本やノートを準備してからでないと、仕事が出来ない。

それじゃあ、時短は出来ないのだよねぇ?!?!?!

時短は「ながら」なのだよ。

お茶を飲みながら、散歩をしながら、の「ながら」で仕事の話やメモを取れないといけないのだよね。

分かり易く、説明し直すと、勤勉な人達は、「お茶を飲んでいる時には、お茶の雑談」として聞いてしまいます。だから、私が幾らその事について、詳しく説明しても、聞いた事にはなっていないのです。

ちょっとした、メモ的なお話、「その資料を今日中に出しといて!」とか、「*ちゃんにmailしといて!」とかいう仕事上のorderですら、「聞いてない!」になってしまいます。

私の場合には、歩いている時に、思い付いた事をメモして自宅のパソコンにmailで送ってしまいますが、そういったタイプの人達は、散歩をしながら、ふと思いついた事をメモするという事が、難しいのです。

「だって、歩いている時に、思いついたら、そこで立ち止まってmemoを出して、ペンを出して・・・??それじゃあ、散歩にならないでしょう??」云々!!

ダヴィンチを引き合いに出さなくても、すべての作曲家はメモ魔です。

作曲家の場合には、散歩は「アイディアを捻り出す目的」のためなので、そこで立ち止まったり、ベンチに腰掛けたりして、ちゃんと「アイディアをメモ帳に書き留める」のは、当然なのです。(ドイツでは散歩道のいたる所にベンチがあって、ゆっくりと風景を楽しめるようになっています。)

教室では、アイディアや仕事の打ち合わせを散歩でする分けではないし、日本の道には、物を書けるような、いや、老人がちょっと休めるような、ちゃんとしたベンチもありません。

ならば、歩きながらでも、memoが取れるように、携帯の録音機能を使えば良いのですよ。

昔の携帯は録音機能がなかったので、私は、昔々は高性能のカセットレコーダー、その次には、マイクロカセットレコーダー、その次には、デジタル・ボイスレコーダーを買って、持ち歩いていました。

今は携帯電話のボイスメモも、非常に高解像度になって来て、性能も良くなって来たし、携帯電話のメモリーも、8GのミニミニのSDcardを入れているので、情報が入らなくって困る事も無くなったので、写真やschedule、住所録や、ボイスメモに至るまで、全部全て携帯電話で出来るようになったので、ボイスレコーダーのような単体のメモを持ち歩く事もなくなってしまいましたがね。

私も若い頃は、1度思いついた事は絶対に忘れなかったのですが、今は逆に、直前に思いついた事さえも忘れてしまいます。

という事で、私もきちんと思いついた事はメモを取るように、(今は)しています。

それで、これはいつも言っている普段の話なのですが、思いついた事や、仕事上のちょっとしたordermemoするように言うと、何時も「memoがない。」「書くものも,書かれる物もない」と言ってお座なりにされて、「仕事として」、或いは「adviceとして」も派生しないので、私が同じ注意を何度も繰り返ししなければならなくなってしまい、怒ったり、イラついたり、してしまいます。

私は同じ注意を何度もするのが大嫌いだからです。

それは、「時間の盗人」であり、時短の大敵だからなのです。

また、人と、打ち合わせをしていると、「言った!」「言わない!」で揉める事がよくあります。だから私は、その場でたった今話した内容の話であっても、仕事の話は、確実に自宅のパソコンへ、携帯やパソコンからメールをさせるようにしています。仕事の話は、どんな些細な事でも、後で「言った! 」 「言わない! 」という事あるからです。その場合に、私は言った! 」 「私は聞いていない! 」で、揉めるのは愚の骨頂です。だから私の場合は、 「何月何日に、あなたがこういう風に言ったのだが? ! 」と、相手のメールを見せて、相手に納得させる事も出来るし、自分が間違えてる場合には、速やかに非を認める事が出来るからです。

私が通常、肌身離さず持っているものは携帯なので(多分、かな? ?かな? ?…でもよく、携帯を忘れるよね! ) 携帯から自分のパソコンへ覚え書きとして(防備録でも良いかな? )メールで送ります。

メールを打つ時間がない場合には、音声メモとして携帯に残しておいたり、文章が10秒以内なら、携帯に添付をして自分のパソコンに送ります。(私の携帯で送れる音声のdataの量が10秒までなので、)

防備録や人への指示としてなら、10秒でも充分です。

近頃は滅多に池袋まで行く事はないので、携帯のメモ帳に買い物リストを作っておいて、ビックカメラならカメラのイラスト、デパートでの買い物ならばデパートのイラストを携帯メモの最初に貼り付けておいて、買い物する時にその場所での「買い忘れの落とし」がないようにします。

買い物が済んだ分は、その場でメモを消すようにしています。

情報が少なくなると、買い物の時の「買い忘れ」が少なくなるからです。

そういったちょっとしたコツコツ作業に慣れてしまうと、上記の「から迄」の下準備作業も、作業に入るまでに、ある程度の情報がちゃんと上がっているので、下準備作業の落としもなくなってきます。

当然、下準備の作業で買い物があった場合でも、それまでの時間のゆとりの中で買い物がちゃんと終わっていれば、作業の度に「何がない!かにがない!」で仕事の進行を邪魔されて、作業の進行が遅れる事はありません。



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[本当にあったプリント用紙がなくなって仕事を2週間、3週間に渡って送らせた悪例]

或る先生が、私達の教室の先生から自宅のプリンターで資料をコピーをするように頼まれた時に、2度や 3度どころでなく、 「コピーをしようと思ったら、自宅にプリンターの用紙がなかった! 」とか「プリンターのインクがなくて印刷できなかった」という言い訳をして、その都度、2週間ぐらい教室の仕事を遅らせてしまった事があります。(何で、その間、教室にも来ていたので、教室のコピー機でコピーしなかったのかという経緯は私には、よく分かりませんが・・兎に角、仕事が2週間以上プリントが遅れたのです。)

私がその先生に、 「私の場合は、仕事道具類は常にスペアを準備していて、スペアがなくなった段階で、暇を見つけて池袋まで買いに行ったり、ネットで注文したりするのだよ! 」とアドバイスをしたら、先生曰く「スペアを買うだけのお金がないから… ! 」と答えてきました。

どういうこっちゃ? ?

理解不能! !

勿論、「お金がなくて、これからは一切プリンターを全く使わない」…という事ならば、その理屈も成り立つのかもしれませんが、現に普段は家族全員で日常的に彼女のオールインワンのプリンターをコピー機替わりとして使用しているのだから、その理屈は成り立たないのですよ! !

要は、「スペアーを買いに行くのが面倒くさい!」と言っているのに過ぎないのだが、どっち道、買いに行かなければならないのならば、時間にゆとりのある時に、さっさと行った方が良いと思うのだがね。私の場合には、プリンターのインクや紙に関しては、スペアーを何個も沢山買っています。本当に忙しい時には、プリンター用紙が1日でなくなる事もあるからです。

(私のプリンターは、業務用ではないので、教室のように、同じページを100枚も刷るという事はありません。せいぜい同じページを刷ったとしても、先生用に、参考までに2枚か、3枚を刷るだけです。

それでも、一文章が50ページぐらいになる場合もあるので、A4、1冊を一日で使い切る事だってあるのですよ。

普通は、色々な物のスペアーは1個ずつしか置きません。そのスペアがなくなった段階で、買い足して起きます。決して、無くなってから買い足すという事は絶対にしません。

この話は論外だとしても、スペアの道具がないということで仕事が滞ると言う事は、あってはならないことだからです。

仕事を速やかに滞りなく進行させるには、それなりの環境を整えることもとても大切なことなのです。

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[人を使うと言う事と人を育てると言う事]

人を使うという事は、 1つのプロジェクトの中で、一つ一つの作業の中から、どういった作業ならば人にその仕事を任せる事ができるのか?という的確な判断が必要になる。

ただ単に、人を使うということではなく、人を育てていくと言う事ならば、安全策をとって、初心者でも出来る簡単な作業だけを人にさせる、という事だけではなく、折に触れて、少々難しい作業だとしても、いろいろと教えていかなければならない。

そうしなければ、教室にとって非常に重要な作業で、間違いが許されない重要な作業を任せられるように育っていく事はないからだ。

いろいろな作業を、段階別に配列して、作業のレベルを、その都度、少しずつ、アップさせていく事、それが、人材を育成する大切な基本になるという事なのだよ。

 

そういった話をすると、分かり切った話をしているように思われるかもしれないが、実はこれが意外と難しいのだよね。

つまり「少々難しくても…」という「少々」の作業には、それを指導する先生のアシストが必要になるからです。別の言い方をすれば、本当にその先生が実際に手伝って欲しい時間であり、タイミングはその先生が、いちばん時間がない…指導するゆとりがないタイミングなのです。

というわけで、その作業工程のprojectが始まる前に、指導する先生のゆとりのある時間内で、そういったprojectに取り掛かる(起こす)前に、その工程の中の難しい作業の部分だけを抜き出して、その範例を作って指導しなければならない、という把握が必要なのです。

そうすれば、project自体の「タイムリミット」が近づいてきた、本当に忙しい時に、「その仕事のやり方を説明するために自分の時間を削らなければならない」と言う、二重、三重の手間が防げるのです。

また、忙しくなってしまった時に、その作業工程を「あぁ、やれ!こう、やれ!」と教えたとしても、その時には、指導される側は、「言われた通りにやった」に過ぎなくなって、同じ作業をまた、任せた時にも、また、同じ「あぁ、やれ!こう、やれ!」を繰り返さなければなりません。

本人は時短をしているつもりになっていても、結果的には、無駄の積み重ねにしかならないのですよ。

人は万能ではないから、事前にどこをどういうふうに教えたらよいのかということを、判断しろと言う風に言われても、困ってしまいます。

実は、そこで先程のメモの話に戻るのです。

つまり今までやった作業で、どこで行き詰まったか、何が出来なかったか、そういったことがあったときに、ちゃんとメモがなされていれば、そこで何を指導しなければならないのか、ということを判断することはさして難しい事ではありません。

もし、自分にそこまでの時間的ゆとりがなければ、その仕事を学んでいる本人に、ポイントをまとめさせて提出させれば良いだけなのです。

何も自分がすべてをかぶる必要は無いのです。

本人が自分で自分のウイークポイントをまとめる方が、先生がまとめるよりも数倍効率が良いからです。

メモを取ること、ひとつをとっても、急がば回れの諺のように、そのprojectで必要となる技術を、時間のゆとりを見つけて、別の簡単な作業で指導する事は、しいて言えば、その一つ一つが時短に継って行くのですよ。

人の上に立つという事は生易しい事ではないと、一般の人達は言いますが、 1つの仕事の構造式や、全体の仕事の把握と言う事が、出来るかどうかという事が、人の上に立てるかどうかの別れ道という事だな!??

それに尽きるのよ!



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2013/04/20 () 15:35

[上記のお話の繰り返しになるのだが]

今ネックになっているpoint2つある。

人は、自分のウイークpointを、幾ら注意されても、その人にとってのネックは、やはりその人のネックであって、中々そのウイークpointが改善される事はない。

もし、その人がそのウイークpointを、本当に「治したい」と思うなら、或る時、或る瞬間には、意を決して、本当に意識して、治そうとしないと、何時まで経っても直らないものなのだよ。

人が自分のネックになっているpointを治すことが出来ないのは、その人にとっては、そこに問題意識を持たないからなのだな。

私がアドバイスをすると、殆どの人が、「そういう事はない!本当に反省している!」 とその都度言うのだが、実際には、改善される事はなく、仕事をする時には、やっぱり忙しいので「そこまでは手が回らない!」とか、同じ弁解をする。

私がアドバイスした時に、「そういう事はない!本当に努力している!」と言ったはずなのに・・・、である。

実際に仕事をする時には、やっぱり、その時、その事自体が、自分のネックになっている・・・とは思わないで、唯単純に「仕事が忙しいから!」と、元の木阿弥の自己弁護で済んでしまっているのだよ。

で、私がアドバイスをすると、・・・・・・と、堂々巡りになってしまっているのだよ。

先ず、第一のpointなのだが、私の場合には「仕事が派生した場合」、その仕事の手順や、優先度、資料等の下準備等の全体的なapproachも、一人で考えるよりも、先生達と雑談をしながら、その話を煮詰めて行くというstyleを取っている。

お茶や食事をしながら、その時に決まった事を、仕事の内容を確定させて行くのだが、一般の人の場合には、散歩の時に話しをした仕事の話や、コーヒーを飲みながら話した企画の話が、打ち合わせという意味ではなく、単なる雑談になってしまっていて、その時にも、メモも取らないし、極端な場合には、雑談として理解していて、仕事の話をした事自体を忘れてしまっていて、改めて、仕事を始めようとする時に、また全く新しく最初からその話を、もう一度、しなければならない事が多い。

仕事の仕方が違う分けなので、仕方がないのかもしれないのだが、私にとっては、2度、 3度と、全く同じ、仕事の打ち合わせをしなければならなくて、限りない時間の無駄(ロスタイム)のように思われてしまうのだ。

しかし、その事について注意をすると、「散歩しながらは、メモが出来ない」とか、「コーヒーを飲んでいる時は、休んでいるのだから、その時にメモ帳や資料を揃えるのは大変だ!」と反論してくる。

「休む時には、休む事に徹したい。」という事は、ある意味、正しいのかもしれないし、「コーヒー・ブレイクというリラクゼーションの時間に、仕事をしたくない。」という気持ちも分かるのだが、私にとっては、何時までも、ウダウダと仕事が保留になっている方が、ストレスになるから、始末に悪いのだよ。

私にとっては、同じオーダーを二度、三度受ける事は、絶対に許せない事なので、雑談の時に仕事が派生すると、それをドンドン済ませてしまう。

そうすると、後で、「それは確定した仕事ではなく、考慮中の仕事なのだから、勝手に進められたら困る!」と、文句が来てしまう。

「じゃあ、仕事として、改めて、オーダーがない限り、仕事はしない!」と、宣言したのだが、実際にオーダーが出た時には、もうタイムリミットで、ギリギリの出来上がりになるか、徹夜になってしまう。

私は仕事は、派生した時に、済ませる癖があるのだよ。

そうしないと、徹夜をするのは嫌だからね。

プロとしても、徹夜でする仕事にろくな出来上がりはないと思うよ。そんなのは、やっつけ仕事だよ。

仕事は一度で済ませるのが、良い仕事をするコツなのだよ。

一度という意味は、勿論、やっつけ仕事という意味ではない。仕事が派生した時に直ぐに仕事に掛かると、何度でも、試行錯誤が出来るからなのだよ。

同じ注意を2度、3度受ける人は、要するに、何かの紙切れやメモ帳、等に、ちょっとメモをするという簡単な作業が、日常化出来ていないのだよ。

それなら、やはり仕事の効率という事は理解出来ないし、自分の身の回りを時短にして行く事は出来ないだろう。

それなら、何時まで経っても、その人の仕事は楽にはならないだろうよ。

その人の仕事の進行を見るのには、その人の携帯やパソコンを見ると、その人の仕事状況がよく分かる。(mailの中身を見るのではないよ!mailの分類を見るのだよ。)

仕事が忙しい人は、携帯のやり取りも、パソコンでの情報のやり取りも、一般人とは違って、日に100通以上のmailに目を通さなければならない事が多い。

だけど、仕事の上手な人は、mailの返事がdirectで返って来る。兎に角、早い!

仕事が遅くて、よく落とす人は、私がmailで送った仕事のオーダーを読んでいなかったり、読んだとしても、結局、忘れてしまって、そのmailが何処にあるのか、何時のmailかさえ分からない状態になってしまっている、と言う事を繰り返している。

携帯にしても、パソコンにしても、mailはよく出来ている。

Outlookでは、未開封のmailは、封筒が閉じたままだし、返信済みのmailは←で赤(紫?)、転送は→で青色の矢印である。

Mailは読んだら、返信をするのが礼儀である。

特にmailの場合には、相手が読んだのか、それ以上にmailが届いたのかすら分からないからである。特に、生徒の場合には、仕事としての自覚がないので、読んでも返信すら来ない場合がままある。

Outlookの場合には、返信を強制させる場合がある。私は余り使わないのだが、時々返信を求めるmailで送ってくる人もいる。自動的に着いたという事を相手側に送る機能もある。

Mailで「読んだよ!」というだけなら、返信mailに「RJ」と打つ事にしている。「了解!」と変換される。丁寧にする場合には、「RJS」で「了解しました。」となる。キーを打つ回数はいづれにしても、2個か3個に過ぎない。これだけの、mailを返すのは、礼儀で常識と解釈している。

ただ、返信には、返信の文章が必要な物があって、その場で読んだけれど、返信を打つ時間がない場合も多い。

ソの場合には、先に返信用のmailを一度、開いて、閉じておくとよい。そうすると、そのメールは下書きのfolderに入る。

間違えて送ってしまわないように、addressを削除しておいて、少しずつ気が向いた時に、時間を見つけては書く。一気に書かなくて良いので、楽だ。

その他のメールに関するアドバイスは、ホームページのパソコン教室に書いてあります。

人によっては、「仕事のやり方を改善しないと」というと、「新しい仕事を増やされる」と思って、逆にパニックを起こす人もいる。

仕事の進め方の改善法を教えようとすると、改善するための手順を教える前に、「自分の仕事のrotationが!!!」と言って、パニックを起こしてしまう。

仕事はその仕事量が増えてきた段階で、仕事の手順を変えて行かなければならない。

人は仕事の量が少ない時には、「そんな手順を考えるよりもやった方が早い」と言ってやろうとしないし、仕事の量が増えてしまうと、「そんな事を考えていると、仕事が間に合わなくなってしまう。」とパニックになって、仕事の優先度を作らないままに、兎に角「今日中の仕事」に追われてしまう事になる。その結果、本当に重要な仕事を、間に合わなくなってしまったり、落としてしまったり、挙句は仕事自体が雑になって、信頼を無くしてしまう。

 


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2013/03/17 (日) 4:47

太極に立って物を見るという事

「太極」なんて言うと、庶民の日常生活には無関係の話のように感じられてしまう。

しかし、親が子供の将来を考える時に、フィーリングラブのように「今が良ければ良いのよ!」何て事を言っているから、子供が道を誤ってしまうのだよ。

引き籠もり、然り、ニート然りなのだよ。

音楽の場合には、子供の将来が、これ程分かりやすいものではないであろう。

子供がプロを目指していたとして、音楽大学を卒業した人や、コンクールに入賞した人、果ては留学から帰って来て、演奏会を何度もやった人・・・それなのに、自称プロではあっても、傍から見ると、プロとは呼べないのだよね。

そういった現実を見ているのに、またぞろ、同じ道を歩もうとする。

音楽の道に限らず、一般の進学でも同じなのだよね。

一流高校を出て、一流の大学に進学する・・・。

でも私達から見ると、ちっとも一流の大学ではないのだよ。

一般常識はないし・・・、自分で物を考える事も出来ない。

だから、会社に入っても、人と協調する事が出来ず、ニートになったり、引き籠もりになったり、果てはホームレスになったりする。


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2013/03/24 (日) 3:18

FW: 結子のお説教

結子は米しか食べない!魚野菜はほとんど食べないし肉も食べようとはしない!

一生懸命にご飯を食べなさいと言う意味は、ご飯をたくさん食べなさいという意味では無いのです。おにぎり1個でも、心を込めて一生懸命に味わって食べなさいという意味なのです。演奏には誠実な演奏と不誠実な演奏があります。


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2013/03/24 (日) 13:08

テストの為受験の為コンクールの為etc.

人生の全ては為為為で

その為がなくなれば、本当の本物を手にする事が出来る!

2013/03/25 (月) 14:23

プロを目指すのならば、情報を正確に残す事が大切です!

2013/03/31 (日) 12:59

だらしなさすぎなのは寧ろ親自身で

親のジェラシー

2013/04/07 (日) 9:16

Re:ラロのスペイン交響曲のsforzando   

楽譜にそう書いてあるから、そう弾くというのは、あまりにも幼い!

楽譜からどう弾かなければならないのかを読み取って行く事が大切であるのだ!

2013/04/29 (月) 13:56

発表会の反省会は不思議な事にソロは当然室内楽やオケの演奏の反省をしないと言う事はおもしろい



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2013/05/06 (月) 7:15

夢を叶えるには

夢を夢として終わらせるか、夢を現実の事と出来るかが難しいのは、目的のためにもう一つの自分の喜びを捨てる事が出来るかに掛かっているのです。

一つの物を選択するのにという事は一つの物を失うという事である。


2013/05/17 (金) 23:42

練習するのはアマチュアで、その場だけ行ってチャラチャラ弾くのがプロだ
(と音大生が言っていた??プロは練習しなくても、完璧に弾けるらしい・・???)

2013/05/24 (金) 23:26

自殺未遂を繰り返す主婦

この子のためにも頑張らないと…!!

違うんだなあ!

一途さとかひたむきさとか一生懸命という事は、辛さに耐えて辛抱してという意味ではないのだが、どうしても日本人はそこの所が分からないのだな?

一途さとかひたむきさは、もっとメジャーなものであって、楽しいハッピーなものなのだよ!!



2013/06/02 (日) 11:39

知識は単なる記憶であって、それ自体は何の意味もない。

知識はそれを使いこなす能力を身に付けた人にのみ、価値をもたらす。

2013/06/14 (金) 12:57

凛の友達の言葉

凛が八千代に友達を呼んだ時に、友達が言った言葉を詳しく書いてください。内容ではなく、言い回しが重要です

2013/06/14 (金) 17:14

作曲家や小説家は自己批判能力が勝っていると寡作になってしまう!自惚れが強く克己心のない若く美人の方が社会的貢献度は高い!

2013/07/01 (月) 17:40

思いやり、一途さ、自主性


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2013/07/16 (火) 10:09

論文のネタ集

一般の人間は、一生懸命努力さえすれば、必ず報われると安易安直に思っている。

私が昔から言い続けているように、誤った方向性、誤った方法論、誤った努力では、その努力は報われる事はないという事が、未だに、親達や子供自身にも分からないのだ!

夢が叶わないのは、努力が足りないからだとして、もっと無駄な努力を増やそうとするだけで、私の夢に対する考え方や生活そのものを変えていこうとはしない!

自分達の日常生活を優先したままで、その範囲内で、私の指導との妥協点を探しだそうとする。

妥協の上に成り立つ、「一生懸命な努力」何てものはありはしないという事が分からないのだよ!!

そして、自分達は、先生の言うことを、ちゃんと聞いて守って努力しているというのだよ!!

日常生活を変える事無しに、……だらしないその日その日に振り回された日常生活の延長線上に叶えられる夢など、あるわけはないという事が、どんなに説明しても分からないのだよ!!

そして、その結果、挫折をしたとしても、その理由を子供自身の才能の無さや指導者の力量不足の性にして、自分達が心の落とし所をほんの少し変えればよい、という、いとも簡単な努力さえ、しようとはしない。

そして、自分達がそれまで持って来た考え方の誤りを認めようとは、絶対にしない!

自分達の考え方の延長線上にも叶えられる夢があるという錯覚に陥っているのだ!




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2013/07/16 (火) 17:29

時間と水準

分かり切った事で、その点では学校教育や塾においても同じだと思われるのだが、仕事は与えられた時間内でどれだけ出来るのかが、評価の基準となる事が多い!

それに対して、評価の基準が時間には無く、作品の水準で評価される仕事もある。

物を一元的にしか見ようとはしない、現代の子供達にとっては、この相反する評価の基準は、いたずらに混乱と困惑を招く原因にもなっている!


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2013/07/18 (木) 1:42

時間と水準2

以前、美紀や弘子が生徒のレッスンで「間違えなく最後まで弾けるようになったので、もう合格でよいか?」という事を聞いて来た!

私の場合には、そこから私のレッスンが始まるのだが、

今回もひかりが反省会の前に「間違えなく最後まで弾けたから反省会には出席しなくてもいい」とひかりが言ったという事を聞いたのだが、「『完璧に出来た?』と思った時には、音楽の勉強をやめる時である??」「それは進歩がなくなったという事を意味する分けなのだから?」というのが私の持論である!

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homepageのcatastrophe
2018年の9月29日の早朝の事なのですが、  サーバー上の不要fileを削除したら、   layoutが全部無くなってしまいました。 サーバー上のトラブルなので、layoutを 全部、やり直さなければならなくなりました。    不都合をおかけしますが、暫く、お待ちください バーナーや枠だけが、無くなった・・と思っていたら、 Pageの途中から次ページと表示されている  「次へ」文章が全部無くなってしまっていました。 これは、超、shockです!苦節20年間の積み上げて 来た論文や文章が殆ど全て無くなってしまいました。 運良くback・upの残っている文章も絵や楽譜等が 無くなって、サーバーから探さなければなりません。 これは大変な仕事です。元に戻す事は不可能と しても、一応、homepageの形態は取れる 所までは何とか、努力したい・・と思っています。



ページ 」と表示された以降のPageは全てぶっ飛んで失われてしまいました。
dataのback・upが例え紙原稿で残っていたとしても、OCRで読み込む事が出来るので、幸いなのですが、この「茶飲み話し」は、望み薄でしょうかね??

芦塚音楽研究所のhomepageにも、「茶飲み話」のsiteが残っていたのだけど、残念ながら、2013年の2月の11日までの分しかありませんでした。
但し、2014年の9月4日からは、こういった雑文はFacebookに移行してしまったので、約1年半だけが失われてしまった事になります。
そこの時期をpickupして集中的に探して見ると良いと思われます。


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