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Mozartの場合にはrepriseは空きの小節に10とか書いて、10小節前に出てきたpassageと同じように演奏した。しかし、sonateの場合にはつなぎのpassageには、転調楽節がある。それは毎回変わる。だから校訂者によって#と解釈する人と♮と解釈する人の違いが出てくる。或いは、作曲家自身が間違えて書いている場合すらあるのだ。

それで、同じfacsimileの譜面や原譜を見ていても、解釈が違ってくるケースが出てくるのだ。

同じMozartのrondo a mollの167小節目のslurの例であるが、出版されている数多くの版では次のように書かれている事が多い。

譜例:その一つの例として(春秋社版)

166小節目から168小節目の1拍目に至る長いslurは、ただ単にmelodieを表すphraseのslurにしか過ぎないし、しかも、驚く事に(注)とした部分は、出典の根拠のないtieで結ばれている。

しかし、この改悪を井口先生一人に押し付ける事は出来ない。

CzernyやLiszt等の校訂者(作曲家としてではなく)は、古典派の時代のforte-pianoという楽器から表現豊かな現代のPianoに楽器の機能が進歩した時に、「もし、その曲を作った作曲家が今の楽器を使用したならば、多分こう弾いたであろう!?」という想定の元に、昔の大作曲家達の作品のarticulationを自己流に書き換えて行った。

そういったPianoの黎明期に、Czernyが校訂した多くのBachの作品(小品集やinvention、平均律等の校訂版)も日本版(Peter版)として、一般のアマチュアならいざ知らず、音楽大学の先生達の間でも、いまだに使用され続けている。

井口版である春秋社版もそういった、改悪版を定本にして校訂している。

 

原典版として権威のあるHenle版では、166小節目から168小節目の頭のslurは次の譜例のようになっている。

譜例:Henle版

この注の部分は166小節目から響き込んで来たslurが167小節目の3拍目で終わって、ド、シに、所謂、bowslurが書かれている。

Bowslurの独特のnuanceの表現のしかたは、頭の音に軽いaccentをつけて、後ろの音は弱く抜いて弾く。

本来はヴァイオリン(弦楽器)の奏法なのだが、古典派の時代にはヴァイオリンとCembaloやforte-piano等とは奏法の違いはあまりなかった。古典派の奏法は、ヴァイオリン独自の表現がそのままforte-pianoにも、使用されていたのだ。

167小節目の5,6拍目のラ、ソ#、(―ラ)はkadenz(終止句)なので、それを表現するために、(際立たせるために)slurは書かれていない。つまり、「ド、シ」のbowslurはkadenzに入るための導入を表しているのである。

古典派のarticulationは、情緒的に付けられる事は少なく、多くの場合にはしっかりとした論理性を持っている。このpassageのarticulationの微妙な変化も、Mozartの大作曲家である面目躍如とした、正に作曲学上の理論的な裏づけを持ったarticulationであり、phrasierungである。

 

参考までに、167小節、168小節の直筆楽譜を見てみよう。

譜例:Mozartの直筆楽譜

 

実際に音楽を指導していると、私自身も色々な曲の中で、判断に迷う音に出会う事がある。しかも、色々な出版社の違うUrtextAusgabeを見て、どちらの版が正しいのか分からない、という事も間々ある。

という事で、その解決の一番の方法は、作曲家のfacsimile(直筆楽譜)を買うことである。今もMozartの作品のあるpassageでどうしても納得の行かない音に悩まされている。だから、Mozartのfacsimile版の楽譜を購入したいのだが、何せ1冊5,6万もするので、高価で買えない。



私も色々な曲で音に疑問を持つ事が多い。UrtextAusgabeを見ても、どちらの版が正しいのか分からない。という事で、Mozartのfacsimile版の楽譜を購入したいのだが、何せ高価で買えない。

UrtextAusgabeは、御親切に必要最低限の指使いを小さい数字で書き表し足り、鍵カッコで書き表しているものもあるが、基本的には原典版は何も書いていない方が普通である。

HaydnやMozartの古典派の時代では、まだarticulationや強弱等のdynamikを楽譜に書き表す事はあまりなかった。いまだ、forte-pianoは一般的ではなかったからである。

子供達が今日のピアノでMozartやBeethovenの作品を学習するためには、校訂者の手によるarticulationやdynamikが必要ではあろう。

 

話をこのBeethovenのsonatineのⅡ楽章に戻して、例えば、日本で最も使用されている、この二つの版の違いを分析する事が、それこそ初歩的な教材を研究する上での、先人達の知識を学ぶ上での最も基礎的な第一歩となるであろう。

まず着目すべきは、melodieのslurの違いである。

それは全音版がphraseを表すmelodieslurを使用しているのに対して、安川版はbowslurを使用しているからである。

ところが、不思議な事に、7小節目、10小節目では、全音版がbowslurになって、安川版がmelodieslurに変わっている。

同じ版、同じ校訂者、同じ曲によっても、全く整合性がないのである。(これは由々しき問題である!)

その事については、以下に詳しく説明する。

 

Bowslurとphraseのslurについて

まず、此処では「Slur(スラー)の意味の違い」を説明しよう。

Bowslurは細かいtouch等のarticulationを表すslurである。

古典派の時代に於いては、鍵盤楽器はまだ主流ではない上に、当時の慣習として、演奏する楽器を特に定めない(violinのために書かれた曲をrecorderで演奏する等々)という事が普通であった。という事で、Haydnの作品なども、オーケストラに書かれたものを、Cembaloやforte-pianoで演奏する事も極一般におこなわれていた。という事で、forte-pianoのために書かれていたsonate等も、基本的にはviolinの弓使いを表す(bowの順番を表す)bowslurで書かれていたわけである。

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