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日本では装飾音は一様に一種類の装飾音しかない。
全ての装飾音が、素早くaccent気味に強く鋭く演奏される。
Bachならそれでも、我慢が出来・・・・・・やっぱり出来ないか!!!
それでは、装飾音の意味が全く理解出来ていないという事だ。無知を周りにさらけ出しているようなものだ。

また、baroqueの音楽を勉強したとしても、baroqueの演奏者が、自分の演奏する曲に対して、ちゃんとした装飾音を曲に付けていくのは、困難であると、(一般には)言われている。

装飾音についてかなり詳しく書かれているホームページを見つけて読んでいたら、次の一節があった。
これは典型的な日本人音楽家達の装飾音に対する見解であろうから、そのままコピペしておく。

 
【バッハの装飾音についてあえて難しさを指摘すれば、それはむしろセンスでしょう。指示されていない装飾音をどこに入れるか、装飾の開始音をどれだけ長くするか、装飾音の回転を何回入れてどのような速さで演奏するかなどです。これには曲自体をどんなテンポで演奏するか、どんなアーティキュレーションで演奏するかなどが関係してきます。当然のことながら「唯一の正解」はありません。】

この上の見解は、全くの間違いです。
装飾音が、
「難解でセンスや感性の問題だ。」と思われてしまうのは、装飾音の本来の意味を見失ってしまっているからなのですよ。

装飾音の華やかさや、豪華さに心を奪われて、本来の装飾音のあるべき姿を考えようとしないから、感覚的で感情的なセンスのお話になってしまうのです。
第七のセンスとでも呼ぶべきかな???

装飾音の本来の目的は、orgelやCembaloという楽器では、音の強弱やvibratoが出せないので、Agogikが出来ないという致命的な欠点を、装飾音という華やかな技術で、補うのが、最初の最大の目的なのだからですよ。

だから、無意味な場所に、装飾音を付けて演奏しようものなら、それこそ大Bach先生から、
「その装飾音は、天から降って来たのか??神の啓示か??!!」と怒られてしまいます。
でも、このお話は、EmanuelがSebastian パパのlessonの風景をお話してくれた時に、Sebastian パパの口癖で・・・と、いう事で、Emanuelが、言っていたお話なのですよ。


また、それと同様に、あるべき所に、あるべき装飾音がないと、それは既に嘘なのだですよ。

センスではなく、論理的な裏付けがいるのだよ!!・・とBach先生がおっしゃっているよ!!

だから、全く同じmordentでも、singleで演奏するmordentもあれば、doubleで演奏したり、tripleで演奏したりするmordentもあるのですよ。
それで、その音の強勢(pointの音がforteか、fortissimoか、それともPianoか、を表すのですよ。


参考までに: Couperinの修道尼モニカの演奏です。装飾音は弱拍の装飾音や強拍の装飾音、頂点を表す装飾音を弾き分けているのですが、本来的にはもう少し強調して弾かれるべきです。楽譜通りではこのようになります・・という意味ですが、実際の演奏ではもう少し分かり易く演奏します。

また、装飾音には、弱拍を表すprall=trillerのような装飾音があります。
音符と音符の間に⌒が、あって、trillerがある場合には、prall=trillerを意味する場合が多い。
極めて上手に演奏すると、「おしまい」の音がCembaloの演奏でも、diminuendoでピアノでは手首を上げて収めて演奏しているように聞こえてくるから不思議です。


Couperinは、多くの曲で、左手のpartは、finger pedalで、あたかもピアノのpedalを踏んで演奏しているように聞こえるように、書いています。
finger pedalは、多くの作曲家は、実際にはあまり書かない人の方が多いのですが、慣例的には、finger pedalを使用して演奏する事が通例です。Bachの平均律のpreludeも通常はfinger pedalで演奏される曲の方が多いようです。
勿論、Bachも実際の曲の中で、finger pedalを書いている曲も多いのです。
気づけば、多いのですよ。
気づかなければ、そんな曲はないと思い込んでしまうでしょうしね??




参考までに: Couperinの修道尼モニカの演奏譜です。
左手は、書かれたpedal、所謂、finger pedalを書き表しています。しかし、本当には、譜面を見やすくするために、幾分省いて書いてあります。その部分を追記して、書くべきfinger pedalを書き表しています。

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