こういう奏法は楽譜に書き表すと、大変難しく、複雑怪奇に見えるのだが、一度、感(コツ)をつかんでしまうと何の困難もなく普通に演奏出来る、自転車の乗り方やスイミングのような奏法なのだ。
現代の演奏styleの中では日常的ではないので、最初は理解が難しく、とっつきが悪く、手間取るかも知れないが、それは最初の一回だけで、一度コツを掴んでしまえば、簡単な耳の感性による奏法なので、後はどの作曲家のどのような曲になっても以下同文・・・で、難しくはないのですよ。
Bachの無伴奏の曲を演奏する時に、多くの演奏家の手による解釈の版が出版されています。
その他に原典版、所謂、UrtextAusgabeがあり、また、現在ではfacsimile版(写真版)も出版されています。
原典版は、作曲家の意図をそのままに出版するという意味がありますので、本来的には、どの出版社の原典版も同じ楽譜になるハズです。
しかし、困った事に、一冊として同じ解釈の版は無い・・というのが、現状なのです。
それは、次のbaroque時代独自の、無伴奏というgenreの曲を演奏するための、独特の奏法があります。
残念ながら、それは非常にmaniacなものなので、今回の八千代では、現代の奏法にbaroqueの奏法を少し取り込んで演奏するという折衷的な演奏をしました。
Bach時代の無伴奏の奏法
(無限旋律と無伴奏の弾き方について)
または、baroque時代の無伴奏のbowslurについて
baroque時代の作曲法では、舞曲のmelodieの作曲法、構成法としては、基本の原則として終止をしない前半部と後半部に分けて作曲された。
それをbaroque時代の無限旋律と呼ぶ人達がいる。
しかし、無限旋律という言葉自体はWagnerのトリスタンの有名なkreis(回遊)する無限旋律が有名なのだが、baroque時代の無限旋律の基本的な概念はそれとは全く違う。
Tristanに於いては、調性が確定しないままに、melodieも終止しないままに、音楽が流れて行くのだが、baroque時代の無限旋律は、そういった近現代の音楽に定義される無限旋律の意味はない。