という事で、当時は、銅板の原板を削るという事は極めて希な事だったので、作曲家の作品の演奏は、作曲家の周りの人達に限られていた。
だから、作曲者は、演奏家に対して、作品の細かい演奏指示を、直接、すれば良い分けだし、演奏家も作品を演奏をする時に、作曲者から直に質問をして、演奏指導を受ければ良かったから・・敢えて、印刷譜に直す必要はなかったからである。
もう一つの理由は、作曲家が置かれた当時の立場、作曲を仕事とする職業音楽家としての立場にも、作品を印刷する必要性があまりなかった原因がある。
当時の作曲家は、教会か宮廷に所属して、毎週のeventに合わせて、注文通りの曲を作っていた。大きなフェストがある時には、4時間も掛かる大曲(例えばマタイ受難曲のような)を書かなければならないのだが、それでも、毎週のGottesdienst(礼拝)の曲を作曲する事は欠かす事は出来ない。
まさにスーパーマンの仕事力であって、手塚治虫の比ではない。
作曲家の仕事が作曲だけならば、まだしも、orchestraの練習の指導、part譜作成、教会や宮廷との行事の企画の打ち合わせ等々、信じられない程の忙しさである。
それに、銅板をコツコツと削って、こういった楽譜を作り上げるという事は、もはや人間技ではない!!
しかし、そういった慣習的な事は、時として、作品の解釈に於いて、致命的な現実を作り出してしまう事もある。
MozartのPianosonate Bの1楽章は、repriseのpassageが全部省略されているのだが、その中に転調楽節が含まれている。
そうすると、単純にrepriseしている分けではなく、音がナチュラルなのか、♭なのか、判断に苦しむ事になってしまう。どこからを転調楽節としているのかはMozartにしか分からないからである。
そういったcaseは例外中の例外の場合であるが、一般的には、bowslurやforte piano等は書かれていない事の方が多いので、楽典、楽理の勉強の延長線上として、私の音楽教室では、生徒達には、articulationを補足して、新たに構成し直した版、所謂、芦塚versionを勉強させて練習、演奏させている。
教室の発表会や対外出演等でも、生徒達の演奏では、殆どの楽譜を、この芦塚versionに準拠させている。
蛇足の寄り道
このBachの無伴奏とは全く無関係の話に飛んでしまうのだが、昨日(16年2月28日)のオケ練習で、子供達の演奏するVivaldiのcelloconcertoのh
mollの3楽章のCembalopartが余りにもヘボくて、愕然としてしまった。
この曲は、八千代の公開演奏で演奏した事もある曲なのだ。
動揺が隠せなくなって、「そのCembalopart、俺がarrangeしたversionなのか?」と聞いたら、原譜のままだという答えであった。
しかし、何で、八千代の公開演奏に使用した曲のCembalopartが、超ヘボい原譜のままなのだ??
確かに、orchestraのpartは、訂正補筆でversionを新しくする必要はなく、kleinigkeitの補正で良かったので、finaleversionは作っていない。でも、この原譜は酷すぎる!!でも、子供が演奏する分けなので、今からの改訂は無理である。
せめて、練習に入った時点で、一度checkに入っていれば、Cembalopartの変更も可能だったのだが・・・・。
哀号・・・!!!
みち草から戻って
Ashizukaversionの校訂と、一般の校訂本との最も大きな違いは、bowslurの解釈である。
Urtext(原典版)と呼ばれる版ですら、Bachのbowslurを忠実に再現してはいない。
つまり、Bachのbowslurはどの音符にまで、くっついているのかが、すこぶる曖昧だからであり、同じ原典版でも、slurの位置が異なるからである。
しかし、Bachが、そういった細かいslurの位置にまで、こだわりを見せなかったのは、そのarticulationが、MotivのSequenzに拠るものであり、楽理楽典上の「自明の理」に過ぎないからである。
それなのに、原典版の校訂者達は、slurの長さを楽理楽典上に求める事はなく、感覚で解釈をしているに過ぎない。
「こう言ったslurの書き方は古臭く、無意味な書き方である」という奢りの意識が見え隠れする。
Bachの筆の後を、対位法的な複音楽として、2声部の書法、3声部の書法として捉えると、そのarticulationは揺るぎない必然の元に存在している事が理解出来る。
くどいようだが、殆どの出版されている楽譜は、現代のviolinや弓を想定して、そのarticulationが書かれているのだが、その前提は、「Bach時代のbow、所謂、baroquebowは長いphraseを演奏するのは不向きで、Bachの意図したmelodieを演奏出来なかった」という前提であり、これは「baroqueの弓は、長さが短いという事でslurも短くしか演奏出来なかった」・・という全くの誤った勘違いに過ぎない。
baroqueのensembleの曲(triosonate等)では、violinのpartにでも、結構、長い持続する音符が常時使われている。
しかし、baroquebowで演奏したからと言っても、弓の持ち方の違い等で、殆どmodernbowと同じくらいに、音を持続させる事が出来る。