今回のorchestraの演奏に関しては、指揮をした私としては、近年来の発表会では、今までになく、不本意な出来でした。
年齢が上がるにつれて色々な家庭の事情のようなものが、出て来て、それぞれの子供達の演奏に反映されてしまいます。
音楽教室としては、仕方のないことかもしれませんが、そういったハプニングが積み重なって、思わぬ所に大噴出してしまう事があります。
一週間前のオケリハでは、今迄の練習の中でも一番良い出来だと、珍しく私が、褒めていたのにも、関わらずです。
一番、驚いた事は、skaちゃんのBocCriniのcelloconcertoの時に、skaちゃんがrit.の後のtempoをmissって、遅く演奏してしまった時に、(それ自体は大したことじゃないではないので)私はskaちゃんの遅くなったtempoを無視して、orchestra本来の「in
tempo」で、次のpassageの指揮をしたのですが、concertmasterとなるRが、私の指揮ではなく、skaちゃんのtempoに合わせて演奏してしまったのです。
当然、賛助出演のOGの諸先輩達は、勿論、ビックリした顔をしながらでも、R の演奏を無視して私の指揮に合わせて演奏しました。
そこは、先輩諸氏、ハプニングにも動じないのはさすがです。
教室のorchestraの演奏としては、極めて希な、いままでになかったorchestraのズレまくりが起こってしまいました。
勿論、OGさん達の指揮者に合わせて演奏する方が、soloの間違いに対しての正しい対処なのですがね。
こういったorchestraが左右でずれるという間違いは、オケ慣れしていない学生オケの場合にはよくあるのですが、今回の問題は、子供達が、オケ慣れしていないから、・・・という理由でも、子供の演奏だからという理由でもありません。
何故なら、私のmethodeでは、一般的には、絶対に練習しない教室独特の「間違いの練習」と言うのがあります。
lessonの中のmethodeとしての「間違いの練習」というのもあるので、同じ「間違いの練習」という名前なので、チョッと紛らわしいのですが、それとは別の伴奏の場合や、orchestra、室内楽の場合等のriskcontrol法なのです。
教室の生徒指導の見学に来た先生の話ですが、伴奏をする生徒への指導のlessonで、violinの先生が、「soloの子供が、ここをこういう風に間違えるから、そういう時はこう対処して!」と指導していたら、それを見学していた先生が「生徒が間違えるという前提で伴奏者に指導するのは、soloの生徒に対して失礼ではないですか?」 と烈火の如く怒り出してしまいました。
violinの先生は、唖然としてしまったそうです。
その先生の言っている、「本番は、間違えないで弾けるかもしれない。」といった淡い期待は、「子供を信じる」という意味では、素晴らしい事のように思えるのかもしれませんが、子供の失敗を前提にして、そのriskが最小で済むようにするのは、本当の意味での、思いやりだと、私達は思っています。
また、子供が間違えるのは当たり前と考えるのは、決して子供を馬鹿にする事でも、卑しめる事でもないと思っています。
私は、超一流とか、神様とか言われている人達の演奏を聞く機会がありました。
しかし、そう言った人達でも、よく間違うのですよ。
ただ、その間違いが殆ど取り沙汰されないのは、殆どの人がその演奏家の間違いに気づかないのですよ。
その、間違い方も実に洗練されていて素晴らしいのです。
間違えた時のRkを常に訓練するという事が、proである大切な条件であるという事です。
自分の子供に限って・・・というのが、教育の崩壊を招くように、子供が上手に間違えないで演奏出来る・・というのは、本当の生徒に対する信頼や、思いやりにはならないのですよ。
発表会で失敗する事の方が、小さな子供達にとっては、大きな挫折につながって行って、結果的には音楽が嫌いになったり、教室をやめてしまったりします。
ヨーロッパの小学校では(というよりも、世界のstandardでは)、子供が自分の書いた答案を消せないように、鉛筆の使用は学校では禁止です。子供達は黒と赤のボールペンを使用して、先生の授業を受けています。
ヨーロッパの授業でも、先生が黒板に説明の文章を書く事はよくあります。
でも、日本のように、先生がお話をしている時に、生徒が黒板を書き取るのは絶対に禁止です。日本のように先生のお話を聞きながら、黒板を丸写しするという教育は絶対のtabooなのです。
それは当たり前の事で、黒板を丸写ししながら、先生のお話の内容を理解する事は出来ないからです。
私がよくする教育に関するお話の中で、楽典の時に、自分の答案の間違いを必死に消していた子供のお話をしました。
私の「何故、自分の間違いを消しているのか?」という質問に対しての、「親が、怒るから、間違いを決して正しい答えを書くのだ。」という子供の話です。
これは、学校教育の例ですが、教室の発表会でも、教育の内容は同じです。
「子供達は失敗しない」という前提は、「私の子供は常に100点万点を取り続ける」という事を信じるようなもので、子供に過剰負担を抱かせ、結果、子供を潰してしまう過保護の親のようなものです。
「100点が取れなくても、子供が勉強を楽しんでくれれば良い。」と言うのが、私の指導方針です。
細かい注意はproを目指すようになってからでも充分なのですよ。
それまでに、音楽を嫌いになる事さえなければ、それで良いのです。
Rk管理は、小さな子供達に対しての思いやりであって、決して、失礼な事ではないのです。
しかし、だからと言っても、どんな失敗も許される分けではないのです。
先程のRの失敗は、proを目指す学生としてならば、許されるべきではないのですよ。
本来的には、ドタキャンと同じくらいに大きな罪なのですよ。
しかし、そういったhappeningの対応方法(所謂、Rk管理)は、教室の最も重要なmethodeとして、常日頃、後輩達の幼いsoloの子供達と、年上の先輩達がorchestra合わせをする時に、orchestraの最も重要なtechnicであるとして、教室の常識として、何度も、何回も、何時も、練習を積み上げていたり、先生からの厳しい指導を受けていたはずなのですが、たった一日の一般の学校のお友達との、ディズニーランドで遊んだ・・という事で、自分のmotivationが、落ちてしまって、そういった基本中の基本をさえ、忘れてしまって、出来なくなってしまうのですよ。
私が、彼女が私の指揮と、曲のtempoが完全にズレてしまった事を指摘したら、「曲がずれたらsoloに合わせるのではないですか?」と、理屈に合わない反抗をしていました。
彼女の勘違いは、小さな子供達のsoloの伴奏をPianoで伴奏する時に、「子供が間違えて、別の所に飛んだら、一緒にその場所に飛びなさい!」というlectureの話です。先程の間違いのriskcontrolの方法論のの話なのです。
しかし、orchestraや、室内楽のようなgenreの場合には、その原則は全く使用しません。
オケや室内楽の場合には、拍が優先します。soloが落ちても、オケは、そのまま弾き続けるのです。連弾の練習からでも、その勉強をします。
彼女は、今迄、そういう風に習っていたのですが、初めて子供達の伴奏をさせられて、新しいtheoryを習った時に、過去に勉強して来たtheoryも上書きされてcancelしてしまったのです。
オケであろうと、子供の伴奏であろうと、伴奏は伴奏なので、・・・と、今迄習って来たmethodeが彼女の中では、書き換えられてしまったのです。
私は「そう言った事は一度も教えていない!」と怒ったのですが、その曲だけではなく、総ての曲で、指揮を見落として自分勝手に弾いていました。彼女にとっては、一つ一つ、理があるのでしょうがね??
私の一番毛嫌いしている、短絡的な、教科書的な、学校教育的な行き方です。
そんなに私に付いてくるのが嫌なら、いつでも教室をやめて構わないのだけどね。
rit.とritardandoが同じものであるという話も、普段から、再三再四しているのだけど、自分が覚えていない事は、習っていない事なのだよね。
それぞれのgradeによって、守らなければならない方法論は、その都度変わるという事も再三再四指導しているはずなのだけどね。
一つを習ったら、今迄習った事がcancelされるのなら、音楽の技術の積み上げは、出来ないという事だよ。
教室で勉強することよりも、友達と遊ぶ方が優先なら、そりゃproのorchestraに入るのは、無理だろうよ!!
これはmotivationというよりも、意識の問題だよ!!「えっつ??同じ意味じゃあないの??って???」
そういう風に解釈するから、怒られるんでしょうが!!!!(`ヘ´) プンプン
発表会の1週間前には、orchestraは今までになく、非常に良い出来で、木曜日の個人lessonの時もなかなかちゃんと弾けていて、私も「今回の出来は、なかなか・・・・」と褒めていたのですが、それで、安心したのか、それとも息抜きのためか、何と!!発表会の二日前の金曜日に、学校のお友達とディズニーランドに遊びに行ったのですよ。
発表会の2日前に・・・!
これも、前代未聞だなや!!
親がコンクールの直前に、避暑地に行くと言い出した事はあったのだけど、その時には、その生徒は、自宅で一人で自炊をしてlessonに通っていたよ。
それが、普通でしょう??
勿論、私が言っているのは、その生徒の意識の問題です。
つまり、意識(motivation)の問題なので、BocCriniのconcertoだけではなく、総ての曲をR一人でぶち壊していました。
昔の私だったら、それだけで、破門にした・・と思いますがね。
だって、発表会が終わったら1週間、まるまる教室は休みなのですよ。
幾ら、友達の都合でも「発表会が終わったら、ディズニーランドなんて、いつでも、行けるから!」「二日でも、三日でも、行けるから・・・」と頼み込むのが筋でしょう??
せめて、それぐらいの意識は持っていないとね!??
一番、意識を高めて行かなければならない本番直前に、遊びに行って、次の日や、本番で、パッと意識やmotivationが、元に戻る分けはないと思いますがね。
そんな当たり前の事も、自分が「友達と遊びたい!」と思った瞬間に、情緒が優先されてしまって、分からなくなってしまうのかね??
私は、彼女に何度も、口を酸っぱくして、言ったはずだよ!
「proになりたければ、1年365日proの意識を持って生活しなさい!」
「それが出来る人だけがproになれるのだよ!」と・・・・。
彼女の場合には、学校が1週間休みになったとしても、絶対に自分からは、教室の先生には教えません。
連絡をしないのですよ。
「学校が休みになった」・・・という事は、彼女にとって、「privateの時間が出来た」・・という事で、「練習の時間や、お勉強の時間が出来た」・・・という事ではないからなのですよ。
proを目指す生徒では、彼女は、流石に貴重な人材だわ!!
そんな生徒は今までも、一人もいなかったからね。
でも、本人は、motivationが落ちてしまったので、「自分が全てbatonについて来れなかった」・・と言う事は、全く分かっていないのですよ。
言葉としては、分かっていても、頭では理解が出来ていないのです。
自分がbatonについて来れなかったと言う事は、先生の指揮が分からなかった=先生が、ちゃんと指揮してくれなかった・・・と思い込んでいるのですよ。
確かに、「本番では何時もの練習とは違った指揮をする」 という約束を1週間前の最後の練習で、子供達と約束をして、普段の練習の時とは、全く違った指揮をしました。
でも、そのお話は私は1週間前のオケ練習でみんなにちゃんとしたはずなので、皆も納得していたはずですがね。
現に、彼女よりも年下の生徒達、皆は、私のbatonに着いて来ているのですからね!!
「カラヤンや、ベームのような大指揮者で、ベルリンやWienのような世界最高のorchestraとの練習でも、練習の時から、あんな、カッコいい指揮をするわけではない。
寧ろ、普段は、私のようにマスではなく、非常にsimpleな1拍取りで指揮して練習するのだよ。
本番だけはお客様用に、performanceの指揮をするのだよ。」 と言って、何度か、performanceの指揮の練習して、ちゃんと入れるように、練習をしたはずですがね。
現に、OGの先輩諸氏やKontrabass、Cembaloの連中は、練習の時にはいなかったけれども、ちゃんと、performance用の指揮であっても、問題なく入って来ているでしょう???
あなたが、チョッとした意識のボタンの掛け違いで、今まで、普通にちゃんと出来ていた所が、全く出来なくなっているという事が、自分では分からないのですよ。
それが、ballerinaや、総てのgenreのproプレイヤーが言う所の、1日練習しなければ、神さまに分かって、2日練習しなければ、自分に分かって、3日練習しなければ、全ての聴衆に分かる・・という言葉なのです。
もっとも、1日練習しなければ、神さまでなくても、先生にも分かりますがね。
昔々、私がよく生徒達や、音楽家の卵達に言っていた言葉があります。
それは、「99%の努力と1%のヒラメキ」というエジソンの言葉(本当はエジソンはそんな意味で言ったのではないそうですが・・・)をもじって、ヨージーの法則という、ironicalな箴言集として、折に触れて書いた箴言集の中に、「99%の意識と1%の努力」という言葉があります。
つまり、子供のための音楽教室を開設して30年以上、その意識に悩まされ続けて来たのですよ。
しかし、子供は本来は、pureで一途なのです。日本の子供達がその一途さを持ち続ける事が出来ないのは、目先の事にしか目の行かない大人達の教育のせいです。
中学生ぐらいの年齢の子供が、手練手管の社会性を身に付けた時、proの夢は潰えてしまいます。
MunCn留学中に私のPianoの曲をItaliaで初演してくれた、Italiaの天才少女は、13歳でも一途さとpureさを持ち続けていました。
日本に帰国して、学生コンクールを聴きに行った時に、小学生、中学生の子供で、全国大会で1位を争う少女達の眼差しも、Italiaの天才少女のRobertaちゃんと同じように、一途で素晴らしい眼差しを持っていました。
Olympicを目指すathleteの子供達も同じような、一途な目をしています。
それは、素晴らしい。
proとは、その一途なpureな心を大人になっても、持ち続ける事が出来た人達です。
殆どの子供達は歳と共に雑念を持ってしまって、その眼が曇って行くのですよ。
発表会の前日は、欝で全く一睡も出来なかったので、そういう体調の状態で、指揮について来ない生徒を引っ張るのは精神的にも肉体的にも、至難の業です。
千代の富士が引退の時に、記者の質問に対して、吐き捨てるように「体力の限界!」と言っていましたが、それは本当は気力の限界ではないでしょうかね??
自分自身では、必死になって、気力を引き絞って、エネルギーを絞り出そうとするのですが、それに体が付いて行かない!!
唯、訓練された上級生のorchestraでは、指揮者の最小限の動きを見て、その瞬間の動きから、必要なeinsatzを汲み取ってくれます。今回も、それで欝の私も助かっています。
という事で、自己弁護のために、先生のせいにするのは、許せないというよりも、音楽の社会では生きていけないでしょう??
ましてや、教室のreaderという位置にありながら、私の指揮を全く見ようとしないのは、(小さな初心者の子供達ならいざ知らず!)上級生としては許せない事です。
こういった、お話とは、全く別のお話なのですが、同じ、指揮についての私のtroubleの、今までにない番外編のもう一つなのですが、私が、orchestraの指揮の最中に、指揮棒を3回も落としてしまいました。
その理由は、私が普段、使用している指揮棒が、2本とも折れてしまって、全く私の使いつけない何時もの指揮棒とは、全く異なった形状の指揮棒を発表会に持って来ていた・・という事だったのです。
しかも、普段の指揮棒と違う指揮棒だという事を、私に誰も教えてくれませんでした。
それは、超、失礼な事ですよね。
これも、一昔前だったら、お客様が居ようと、居まいと、大声で怒鳴り散らしていたと思いますよ。
歳を取って、気が長くなったものです。
ちゃんと、気持ちを抑えられるようになって来たのですから。
指揮棒は長さや重さ、weight balance もありますが、それ以上に持ち手のコルクの形状や材質が需要です。
持ち手はおしゃれに木の持ち手になっているのもありますが、重さも少し重くなるし、湿気を吸ってくれないので、本番では滑りやすく、使いにくくなります。
また、指揮棒の持ち手はの形状は、その指揮者の指揮棒の持ち方によって変わります。
私のように、完全に手を弛緩させた状態で持つタイプでは、長細い形状のグリップでは、指揮棒のgripが指の間で止まらないで、指の間からすり抜けて、すっこ抜けてしまうのです。
という事で、私の使用している指揮棒のgripは、手の掌の中で自由に回転して、手の中で動いて手のひらにぶつかって止まる、という動きをします。
手で(指先で)指揮棒の動きを止めるのではなく、手のひら(掌)にぶつかって動きが止まるので、全く力を使わない・・指揮の仕方なのです。
そのために、指と指の間からすり抜けないように、大きい丸いgripが必要になります。
合唱の指揮の場合には、よく短めの指揮棒を使いますが、私は、非常に長い(40センチ以上の)指揮棒を使用しています。
(今現在使用中の指揮棒は、Playwoodの岩城宏之modelというのを使用しています。)岩城先生からは、お食事やお酒をご馳走になったりしましたが、指揮棒や指揮についてのお話は伺っていません。
当然、指揮について、習った事はありません。
だから、この指揮棒を私が使用しているのは、岩城先生とは、全く関係のない偶然で、岩城先生の使用されていた指揮棒の話は聞いていないので、岩城モデルと言われても、よく分からないのですが、それにしても、確かに私には振りやすい指揮棒です。
応急に、持って来たという指揮棒は、何時も使用している指揮棒とは、長さは兎も角としても、グリップの形状が細長いタイプで、振り下ろした時に、譜面台にでも当たった瞬間に、そのまま手をすり抜けてしまいます。
せめて、オケ練習で使用している折れて短くなった指揮棒をそのまま持って来てくれれば、そういったミスは起こらなかったのですがね。
それに、先程も言ったように、誰も私に指揮棒の事を伝達してくれなくって、本番の時に舞台で、指揮をしていて、始めて指揮棒が違う事に気が付きました。
そこのところも、せめて本番直前迄には、指揮をする私に、ちゃんと事前に、その旨、伝達するのが筋でしょう。
そういう所も、まだまだ未熟です。
落ちた指揮棒を拾おうと思ったら、ズボンがパンパンできつくて、かがめない事に気づきました。
拾おうとかがみ込む度に、ズボンが破れてしまうのではなか??と戦々恐々としました。
ズボンに関しては、2,3年前の発表会から、「黒ビロのズボンが小さい方のズボンになっている」・・・と、文句を言っているのですが、「先生が太ったからで、大きめのズボンなんか、何処にもないよ!」と、いつも怒られてしまいます。
先生達には、もう、何度も、「大きめの黒のズボンを買ったはずだ!」と、何度も、買ったはずの大きめのズボンの話をするのですが、誰も信じてはくれなくって、私が太ったせいにされてしまいます。
これも、カサンドラの悲劇ですよ。
発表会から一月も経った後の事ですが、廣川智ちゃんのheurigeのpartyがあるので、・・と、久しぶりに、押し入れやクローゼットをひっくり返したら、何と、その黒ビロのズボンが3年ぶりか、4年ぶりに出てきたのですよ。
「ほら!!俺の記憶の方が正しかったじゃないの??」と言っても、もう誰も聞いてはいない・・・、「出てきたからいいんでしょう???」だってサ!!??
Rについては、もう一言、アドバイスを・・・・
音楽は、相撲や体操やお芝居と一緒で、一発勝負です。
勿論、実力が足りなくって、演奏を失敗したわけではないので、ちゃんと心の底から反省する事が出来たとしたら、次の週にでも、もう一度、チャレンジし直せば、発表会1週間前のように、合格lineに到達出来るとは、思います。
しかし、音楽の世界では、それはありません。
音楽芸術は、本番の出来がその人の出来なのですよ。
泣いても笑っても、それ以上でも、それ以下にでもないのです。
やり直しが出来ない・・・という事が音楽の厳しさなのですよ。
そこのところが、難度説明しても、分からない・・・分かって貰えないのです。
いや、分かりたくないのか??・・・・な????
学校教育では、やり直して出来たら、それは良しとなります。
何度でもやり直す事が出来るのです。
入学試験でも、答案を書き間違えたら、消しゴムで消して書き直せば良いのです。
今日のオケ練習でも、Rちゃんは「大学受験では、ボールペンは禁止で、鉛筆じゃないとダメだと書いてある」と言っていたのだけど、それってマジ??
要するに、マークシートを機械が鉛筆しか読み取らないので、鉛筆になっているのだそうなのだけど、シャープペンシルもたまには読み取らない事があるらしいので、禁止だそうです。
いずれにしても、それは日本と韓国だけのお話で、アメリカやヨーロッパでは、公文書は鉛筆は禁止だし、大体、売っていないよね!!
なので、当然、受験も鉛筆はダメだし、シャープペンシルは日本の文化なので、ヨーロッパやアメリカの人達はシャープペンシル自体を知らないのですよ。
ドイツでは、師匠に見せる作曲の楽譜でも、万年筆で浄書してから・・・だったので、鉛筆は使っていないよね。
自分で下書きをする時だけ、日本から持って行った三菱のハイユニの2Bで楽譜をsketchした。
でも、その楽譜はあくまで自分の下書きのためであって、私だけではなく、先生に見せるための楽譜はドイツの生徒達も全員清書をしていたよ。
ドイツでは普通鉛筆は使わないのだから、誰でも万年筆での浄書だよ。
だから、当然、一箇所訂正する時でも、全部書き直すのだよ!!
それが師匠に対する礼儀ってもんだよ!!
もう一つ分かっていない事があります。
それは、学校の試験は合格させるために試験なのです。
私立の音楽大学でも、入学金が必要なので、基本的には、合格させたいのですよ。
お金のために・・・・!!
しかし、規定のラインに到達していなければ、落とさなければなりません。
でも、本当は合格させたいのですよ。
芸大の場合には、国立なので、生徒の合否と大学の経営は直接には関係しません。
だから、レベルに達していなければ、一人も合格させる必要はないのですよ。
だから、violinやviola、或いはcelloという括りでなく、もっと音楽一般という括りで、合格者の人数を出している。
それもアバウトでね。
violinやviolaに、該当者がいなければ、合格させる必要はないのですよ。
でも、この採用のやり方は一般社会では普通の基準なのですよ。
そこの所を親達は勘違いしているのですよね。
自分の子供だけは、社会が認めてくれると思っているのですよ。
社会は所詮他人だという事が分からない。
優しい家庭の延長に大学や会社があると思い込んでいる。
それなのに、塾に熱を上げているのだから、理解不能だよね!!!
2014年11月11日09:01
私の部屋の冷蔵庫と、村田さんの冷蔵庫の一番大きな違いは、私の冷蔵庫には、常に何も入っていないという事です。
昔々、未だ江古田の教室に住んでいた頃は、冷蔵庫にコンセントを繋いでいなかったので、中には本が入っていました。
私の部屋を訪問して来た人が冷蔵庫を開けて、驚いていました。
今日は、いつものように、朝6時起きで、昨夜やり残していた仕事を片付けたら、8時になったので、3年前の無洗米を炊いたご飯が冷蔵庫に残っていたので、玉ねぎとベーコンを微塵に切って、ご飯を卵ご飯にして、炒飯を作ろうと思ったら、中華あじも炒飯の素もなかったので、適当に塩コショウして作りました。
極力、洗い物を作らないように、包丁はお袋の使用していた長崎のペティナイフで、テーブルの上で作ります。
切れ過ぎるので、お袋が怪我をするから・・と、しまい込んでいたものです。
確かに、よく切れる!!
食卓で料理をするのは、ドイツ仕込みで、台所は物置になっているので、調理する場所がないからです。但し、ペティナイフとは言っても本刃なので、よく切れる反面、使い終わったら、すぐに拭いて水を切らなければなりません。
30分も...放っておくと、もう、サビが出始めます。
お湯呑みで、炒飯の型抜きをしたら、簡単に水洗いして、そのまま、スープカップにします。
折角、お湯をポットで沸かすので、スープとお茶の両方に入れます。
お茶殻を捨てなくても良いように、私の自宅では濃い味茶の粉末を利用しています。
これならゴミが出ないし結構美味しい。
自宅では食事は殆ど作らないし、以前にも書いたように、お腹が空いたら、マンションのそばのセブンで買い物をしてくるので、無洗米が3年も4年も経ってしまったのです。
先生達が「捨てて!」と、言っていたのですが、試しに炊いてみたら、芯が残って不味かったので、水に浸す時間を4時間程にしたら、倍以上の量になってしまいましたが、普通に食べれました。
言わなければ、誰も気づかないでしょうね。
しかし、水分で増量されてしまったので、1食分の無洗米が、2日分のご飯になって、冷蔵庫に保存されていたので、椎名町の事務所から、玉ねぎとベーコンと卵を貰ってきました。
朝っぱらから、食事を作るのは、フレンチ・トースト以来かな??
殆ど、前日に買ったコンビニ食か、事務所からのお弁当の持ち帰りなのでね。