まあ、とても可愛らしくって、演奏するにも簡単な曲で・・・・et cetera! et ceteta(云々)・・・
誰しも、この曲のimageは、そういったものでしょうね。
しかし、この曲が作られた当時は、この曲は楽譜とは全く違った風に演奏された、と言ったら、驚かれる方も多いと思います。
どういうところが譜面と違って演奏されたのか??
それをご説明しましょう。
芦塚先生がドイツに留学する前や、ドイツに行ったばかりの頃は、ドイツ語に慣れるために、ドイツ語の映画をよく見に行ったそうです。Münchenでは、ドイツ語の映画がよく上演されていたからです。アハッ!
留学したばかりの頃、Münchenで音楽映画のイベントがあって、往年のドイツの白黒映画の傑作である「フリーデマン」という映画が上演されていました。
大Bachと息子の「フリーデマン」との映画です。
勿論、喜んで芦塚先生は、その映画を見にいきました。
マニアックな「音楽映画」の映画祭という事で、殆ど観客もまばらな会場での観劇ですが、Friedemannという映画は、「蕩児の帰宅」風の、才能に恵まれているのにも、関わらず、酒や父親の影に溺れて、道を踏み外して行く放蕩息子のお話です。
父親のBachは、常にFriedemannに心を傷めていました。そして、影に、表にFriedemannの事を気遣っていました。そうしてBachが亡くなった後も、弟のエマニエルが、父親に引き続き、Friedemannに救いの手を何度も差し伸べるのですが、その甲斐もなく、無頼の生活の涯に死んでしまいます。
芦塚先生の後ろに座っていた老人夫婦が、「オロオロと(さめざめと)泣くのよね!」と、困り果ててしまったそうです。
多分、自分の息子に重ねているのかもしれません。
それはそうと、そのお爺さんがオロオロ(鮫々←うそ!)と泣くという話はどうでもよくって、その映画の中で、美しいお姫様の家庭教師なってlessonをするシーンの時に、お姫様が上記のBachのMenuetを譜面に忠実にCembaloで上手に演奏する場面があるのですが、Friedemannが「とてもお上手ですね!?でも、その曲は本当はこう弾くのですよ・」と言ってCembaloを演奏するシーンがありました。(勿論、そのFriedemannを演じている俳優の人が・・ですがね。)
しかし、その演奏を聴いて、そのお姫様だけではなく、芦塚先生も「凄い!」の一言だったそうです。
本当のbaroqueの奏法の実演に巡り会った、所謂、未知との遭遇だったのですよ。
ドイツでは、日本の雅楽の伝承者のような、maniacな古楽器の奏者達の間には、伝統的にそういったCembalo奏法が、失われないで、残っていたのですよね。
この映画は、芦塚先生にとっての、初めて、本当の本物のbaroqueの奏法に触れた、最初の、所謂、firstcontactだったそうです。
この話を長々としたのは、BachのMenuettのような簡単な曲でも、当時はそのままに演奏されることはなかったのだ、ということなのです。
通常、Cembaloの奏法では、(Cembaloという楽器がforteやPianoの強弱を出すことが出来なかったので、その代わりに、forteを表す時には、和音を加えて演奏しました。
そういった和音を補強するためのEtudeと言うか教則本というか、を沢山の作曲家が書いています。
その代表的な作品は、Telemannの教則本です。
今の話に登場したBachの最も優秀な子供の(Friedemannの弟の)Carl Philipp Emanuel BachやBachの友人であったTelemann等、数え切れないぐらいの人達がそういった当時のCembalo奏法に関する教本を書いています。
つまり、Cembaloという楽器・・・というか、当時の楽器の奏法は、譜面に書かれたものを忠実に演奏するということではなく、当時の慣習に従って、色々と自分の好みに合わせて、ornament(装飾音)を加えたり、即興を取り入れたりして演奏しました。
という事で、「Friedemann」という映画の中のワンシーンも、Friedemannが、父親のMenuetに、和音を付け加えて音を充填したり、simpleなmelodieに即興を加えたり、強弱やaccent、vibrato等は装飾音(ornament)で表現して演奏したのです。
それ以外にも、violinやfluteの伴奏をする時には、現代のPianoの伴奏のように、伴奏の譜面が書いてある分けではなく、solo楽器のpartに、伴奏するcello(低弦part)だけが書かれており、Cembaloの奏者は、伴奏のcelloのpartに書かれている和音を表す数字の指示に従って、右手の和音のpart即興で演奏するという、basso
continuo(通奏低音)と呼ばれる奏法に従って演奏しました。
また、当時の音楽のrhythm(リズム)は楽譜に書かれた音符のrhythm通りには演奏されずに、当時の慣習に従って、その独自のrhythmで演奏される事が当たり前でした。
そういった技術は、今ではすっかり失われてしまいましたがね。
先程のBachのMenuettですが、1、3、5小節目の、2,3拍目の8分音符は、8分音符ではなく、skipで演奏しなければなりません。(付点8分音符と16分音符ではなく、skipなのですよ。)そういった決りがあったのですよ。
・・・・skipとswingについて・・・・
チョッと蛇足になりますが、私達が生徒に演奏の指導をする時には、「skip」という言葉と「swing」と言う言葉を、結構、厳密に区別して指導します。
つまり、この場合の言葉は「skip」ではなく、「swing」なのです。
では、先程は、何故、「スキップ」と言う言葉を使ったのか?という事の説明ですが、それは、swingと言う言葉は、一般的なClassic音楽を勉強する上での、音楽表現の言葉の中には含まれない言葉なのだからです。
つまり、Classicの人達の場合には、swingという言葉は、殆ど使用されないので、Classicの音楽を演奏する人達には、この単語は通用しません。
唯一、Classicオンリーの教室をうたっている私達の教室ではありますが、演奏(指導)の都合上で、教室の生徒に対してのみ、使用している教室の造語の扱いになります。
しかし、勿論、Classic以外のgenreである、jazz等の演奏の場合には、この言葉は通常の音楽用語として使用されています。
それは、jazzのrootsが、Africaの民族音楽に源流を見出す事が出来るからなのです。
つまり、jazzもdanceにそのrootsがあるから、そのrhythmにdance特有のrhythmがあるのは、至極当然と言えます。
という事で、baroqueの演奏では、skipで演奏する場合には、複付点のrhythmのように鋭く演奏するし、swingで演奏する場合には、3連音に近いrhythmになります。
それを与太るように演奏するという意味でもswingと私達の教室では呼んでいます。
baroqueの音楽を研究するにあたって、書かれたrhythmと演奏のrhythmが違う事は、その奏法とrhythmの違いを覚えることは非常に難しく、「何故、そのrhythmでなければならないの??」とか、「skipとは言っても、本当はどういうrhythmなのかしら??」とか、分からない事だらけで、勿論、誰も当時、そういったbaroque奏法を研究している先生は誰もいなくて、研究書もなくって、芦塚先生は、その理由について、しつこく、またまた、何時もの通り、何年も、何年も、「何故・・・・??」と、悩んだそうです。
ちょうど、芦塚先生の音楽大学の学生時代に、ベーレンライター出版社のアルヒーヴ部門で出した、「マグダレーナ・バッハの練習帳」というbaroque楽器とbaroqueの奏法を学術的に再現した演奏のレコードを手に入れて、baroqueの奏法の研究をしていました。
確かに、Emanuel Bachの「Cembalo奏法への試み」というtitleの教則本には、Cembaloの奏法として、そういった色々な古式豊かな奏法が説明されているのですが、芦塚先生は「Emanuel Bachの本にそう書いてあった。」とか、「慣習的にそう演奏します。」では、納得しないのでね。それは、単なる理屈であって、音楽表現上はピンとは来ないのよね!!
また、「当時の慣習だから・・」という説明には、芦塚先生はとても承服するような性格ではないからね。
そして、ある時に、何気なくオカルトのドラキュラの映画を見ていた時に、その映画の中の舞踏会での魑魅魍魎のbaroque・dance(多分Menuetを踊っていたと、思いますが)のシーンを見ていて、「はた!」と、天の啓示を受けたように、気が付いたそうです。
「なんだ?!」「Emanuel Bachに、難しい表現で、難解に込み入って書かれている、rhythmのお話は、Menuetのstepの話だったのか??」
芦塚先生が、この事に気がついた時に、長年のbaroqueのrhythmの問題が一瞬で解けたそうです。
baroqueのMenuettやchaconne、la folia、saraband等も全部、当時はdanceの曲だったのです。
当たり前の事かもしれませんが、danceのstepを持った曲だったという意味です。
それが分かった・・という事は、音楽の表現上に決定的な違いを産みだします。
baroqueの音楽の演奏だけではなく、ChopinやTchaikovsky等の作曲家達のPolonaiseやMazurkaも、ländlerやValse等も舞曲で、そのrhythmの微妙な変化はdanceのstepによるものだったのですよ。
芦塚先生は、音楽大学時代のPianoの試験で、ChopinのPolonaiseやBartokのルーマニッシェ・タンツを、舞曲のrhythmで弾いて、すこぶる先生達の評判が悪かったそうです。
BartokはPianoの名手であると同時に、民族音楽の研究者としても歴史的な功績を挙げています。
だから、自分の作品に、民族の音楽、所謂、danceのrhythmを巧妙に取り入れています。
芦塚先生は、音楽大学でPianoの試験に、Bartokの課題が出ていた時に、Bartokに関しては、ちょうどBartokの自作自演の演奏を聴いて、そのrhythmを真似るのに、すこぶる躊躇したそうです。
音楽大学でそんなBartokの真似をして演奏したら、赤点は覚悟しなければなりません。「なんで、あんなに与太って弾くの??」てね!?
音楽大学では、作曲家の意図よりも、書かれた譜面に如何に忠実に演奏するかが、大切なのですからね。ましてや、60年代の当時にはBartok等という曲を試験の課題に演奏する生徒なんて一人もいなかったのですからね。
Poland生まれのルービンシュタインが、Polandの民族音楽であるPolonaiseをPolonaiseのrhythmで演奏していたとしても、そういったPolonaiseのrhythmでPolonaiseを演奏する事は、音楽大学では絶対に許されません。
ChopinのPolonaiseのルービンシュタインの演奏の真似も、ルーマニッシェ・タンツのBartokのrhythmの真似も、絶対に許されないのです。
「誰がそんな風に弾くの!!」と怒られてしまいます。
「Bartokです!!」何て、言おうものなら、即、破門です。
人生経験の豊富な芦塚先生の事だから、それは承知の上での、嫌がらせの演奏です。
でも、まあ、試験の結果は、赤点じゃあ、なかったようなので、それはそれで、良しとしますかね。
芦塚先生も、結構、昔から意地悪だったですよね?
今は、レコードではなく、動画の時代です。
だから、画像等で、baroquedanceを踊っている人達のstepをよく見ると、rhythmの詰り具合の意味がよく分かります。
なる程、右足がこうなって、左足がこっちに行くから、このrhythmじゃあないと、転んでしまうのか???
('ェ')フム ( ゚ ω゚)フム
danceは基本的には、Valseのように、円を描いて回転しながら踊るものと、Menuettのように直線的に動きながら、stepを踏む踊りの二種類があります。
それが、所謂、2拍子系のrhythmと3拍子系のrhythmの違いになります。
勿論、danceによっては、その原則は当てはまらない事も多いのですが、一番simpleなstepとして覚えておいてください。
それによって、何拍子の何拍目が詰まるかが決まって来るのですから。
つまり、chaconneやfolia、sarabandは2拍目に強拍が来ます。
1拍目は体の動きを停止させて、ポーズを決めるからです。
2,3拍で前に動くのです。
動いて、停止して、決める、動いて、停止して、決める、の繰り返しです。
直線の動きは、曲の拍子の小単位が3拍子であったとしても、大きなstepでは、3拍子ではなく、大きな単位の2拍子になります。
輪舞に必要な回転の動きは、3拍子のstepで生まれます。
Menuetの直線運動に比べて、ländlerやValse系の回転運動です。
(またまた蛇足ですが、ländlerには3拍子系のものと、2拍子系のpolkaに近いものもあります。つまり、polkaという名前のländlerがあったりします。danceは、学術的なものではなく、自然発生的な、民族の舞踊に属するので、当然分類の事なんか考えてはいません。分類は後で、こじつけたものだから、所詮は、分類は、曖昧なものです。)
また、baroque時代のskipを演奏する時には、非常に鋭く、(弦的な奏法で言うと)、引っ掛けのbowになります。
(このskipの話は、前のMenuettのswingによるskipの話とは違います。ゆっくりとした曲に出てくる非常に鋭いskipのお話になります。)
また、purcellのchaconneのCに出てくる、書かれたschleiferも、装飾音として非常に鋭くskipします。
でも、困った事は、schleiferが鋭いskipになるわけではないのです。
曲の弱拍を表したり、またlegatissimoのglissandoのような感じを表現する時にはschleiferもゆっくりと演奏するのです。
schleiferを演奏する時には、体の動きを付けて演奏すると、こんにちのような、装飾音としての、accentのような演奏から逃れる事が出来ます。
schleiferのチョッとした演奏上のコツでしょうかね??
schleiferの実際の演奏例なのですが、右の譜例は、教室の常設のレパートリーの曲で、子供達がいつも演奏している Locatelli のL'Arte
del Violino Op.3の中の8番のⅢ楽章のscoreです。
soloviolinが書かれたschleiferを演奏するのですが、これがskipのように鋭くなって良くない。
装飾音の頭の音にvibratoのaccentを付けて、bowの抜きをするように演奏します。
結構、甘えるような、悩ましいような演奏表現が出来ます。結構、意味深なphraseなのですよ。
楽譜通りに現代風に演奏すると、逆に、結構キツい表現になってしまいますよね。
それでは、音楽的ではない。
本当はもっと豊かな表情を持っているpassageなのです。
つまり、その表現のためにも、楽譜上に書かれている音符とは全く違った演奏をしなければなりません。
それは、当時の様式も慣習も知らない私達には、難しい事なのでは・・・?
否、そんな事はありません。
私達が当時の音楽を知ろうとする時に、演奏の技術で奏法を知ろうとするから難しいのです。
楽譜としてではなく、danceのstepとして、見ればそんなに難しいものではないのですよ。
勿論、danceを習うという意味ではありません。
baroque・danceを映像で見れば、(バレー・ボールではありませんよ。舞踊のバレーですよ。)見ているだけでも充分に、そのstepを体感する事が出来ます。
baroque・danceの人間の動きを見て、目でstepを覚えればよいのですから。
しかし、演奏する人達が、いつもいつもそういう映像を見る分けではないし、どうしても、書かれている音符と違うように演奏するという事には、現代の演奏者は慣れていません。
だから、ある程度は校訂して、演奏に近い譜面を作る必要があります。
それが、benjamin Britainの演奏譜であり、芦塚先生のpurcellのchaconne Cの演奏譜なのです。
演奏者が演奏するように、譜面を翻訳して、書き加えた譜面、それを、Realisation譜と言います。
今回は、四日市の生徒さん達には、練習時間の関係で最初からBritain版を渡しましたが、本来は、原譜を渡して、それからBritain版のRealisation譜を渡すのが良いのです。
そうすると、どういう所が慣習的に、どう演奏しなければならないのかが、直ぐに理解出来るようになります。
それとも、楽譜が全く違う風に書かれているから、徒らに混乱を招くのかな??
最初に、どの楽譜を使用するかは、指導をする先生の裁量権かな??
Henry PurcellのChaconne C