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(日本語への翻訳は、ハイツの自宅には数冊の日本語訳の本があるのですが、著作権の関係で、掲載しませんので、Mozartの手紙を翻訳した書物から、父親に宛てたMozartの手紙の上記の日付をcheckして見てください。
翻訳家の人間性によって、同じ文章でも別の人が書いたように翻訳のimageが変わります。)

Mozartは、Clementiと競演して圧勝しましたが、Clementiは素直にMozartの演奏を褒めちぎっているのですが、Mozartの方は、周りの評価とは違って、或いは、Mozartのお父さんへの手紙とも少し違っていて、Clementiの演奏に、深く、傷ついたように思われます。
天才の事を理解出来るのは、天才だけですからね。

先ず第一の問題は、Clementiは、それまでに、たった一度しかforte-pianoを演奏した事が無かった・・という事で、それでも、公平性を欠いていたという事です。

第二番目は、当時はMozartは未だWienに出て来たばかりの田舎出のpianistに過ぎなかったのに対して、Clementiは既にヨーロッパに名声の轟いていた優れたCembalo奏者であり、作曲家でもあったのです。

第三番目は、Mozartが、優っていると言われた、PianoのTechnikですが、Clementiは、後にPianoのTechnikの大集成であるGradus ad Parnassumを作曲します。
この曲を演奏するには、大変なVirtuositat(技巧力??)が要求されます。
ロマン派の特有の感情表出的な音楽から、baroque時代のacademismを駆使したBachのprelude、fugaのようなTechnikを縦横無尽に使用して、その音楽の幅と知識は大変なものです。

1784年に作曲されたと思われる、ヘ短調作品13の6のPiano・sonateは、Horowitzの名演で知られます。
全部の楽章が短調で書かれたこのソナタは、全体を厳しい緊張感が包み、同時に豊かな響きとしみじとした情感に溢れています。Beethovenは、Clementiのsonateを殊の他、好んでいて、その評価もMozartよりも高く置いています。
Clementiの作品は、現代ではすっかり忘れ去られて、sonatineの作曲家としてのみ、名前が残っていますが、HorowitzはClementiのPianosonateを高く評価して、また好んで演奏会のprogramに載せたようです。
この曲の他、作品33の3、作品34の2などの作品を録音しています。
また、往年の名pianistでは、Michelangeliが、Clementiのsonateを好んで演奏しています。
自身も多くのClementiのsonateを演奏しているPietro Spadaが、多くのpianistを募って、分担してこのGradus ad Parnassumの全曲制覇に挑戦したのは、21世紀になってからの話です。

Clementiの弟子達は、Chopinのnocturneの元となる曲を作曲したJohn Field, 1782年7月26日 - 1837年1月23日(Fieldのnocturneは、全音からも出版されています。)
Ignaz Moscheles( 1794年5月23日 - 1870年3月10日)は、有名なEtudeの作曲家として、今でも演奏されています。
同様に、Johann Baptist Cramer (1771年2月24日マンハイム 生 - 1858年4月16日ケンジントン没)も、CramerのEtudeとして、Pianoを勉強する子供達にとっては、とても大切な教本です。
無数のClementiの弟子の中でも、Chopinの音楽に多大な影響を与えたFriedrich Wilhelm Michael Kalkbrenner(1785年11月2-8日 - 1849年6月10日)も忘れる事は出来ません。
ChopinのPianoconcerto第一番は、Kalkbrennerに献呈されたが、殆どKalkbrennerのコピーと言える程、KalkbrennerのPianoconcertoに類似しています。

そういった、弟子達を見ても分かるように、Clementiは大変なtechnicianである事が分かります。
それだけではなく、そのお弟子さん達がロマン派を代表する演奏家であり、Etudeの作曲家でもあります。
その弟子の弟子はSaint-Saensに迄、つながって行きます。

優れた演奏家を沢山輩出した・・という事は、映画「アマデウス」ですっかり悪役にされてしまった作曲家Antonio Salieriを連想します。当時は非常に優れた作曲家の重鎮として高い位置にあったのですが、Mozartが死んだ後に、「アマデウス」のお芝居が大ヒットになって、Salieriの存命中に、Salieriが、Mozartを毒殺したという都市伝説が定着してしまいます。しかし、Salieriは生涯、それについて一度も弁明する事はなく、生涯を閉じます。

これも、後世の人達の勘違いで、当時のSalieriの地位と、Mozartの地位では、比較の対象にはならなかったはずです。

Mozartは巷の音楽家に過ぎなかったのに、Salieriはハプスブルク家の最後の偉大な女帝であるMaria Theresia の宮廷作曲家という名誉ある地位にあったのですから。

しかも、Salieriの門下生は、彼のBeethovenや、Schubert、ロマン派の巨匠であるLiszt等、そうそうたるmemberがいるのですからね。

また、Lisztも師のSalieri同様に、Pianoの指導者としても、大変優れた業績を残したpianistでもあったのです。
勿論、作曲家としても、後世の多くの作曲家達に影響を与えて、新しい後期ロマン派の音楽から近現代の音楽に繋がる業績を残しています。
LisztはCzernyの愛弟子で、LisztもFranceのParisで大成した後も、LisztをFranceまで招いて恩に報いたりしています。また、Czernyは、小さな子供であったLisztをBeethovenに引き合わせています。
Beethovenは未だ小さな子供であったFranzを、集まっていた聴衆に、「次の世代を担う大家」として紹介します。

つまり、Clementiは、そういった多くの業績を残した偉人達と同列の偉大な人種なのですが、残念ながら、こんにち未だそういった評価が音楽界でなされる事はありません。

ClementiはMozartよりも4歳も年上なのですが、音楽的にも革新的で、ロマン派の先駆者でもあります。

そういった意味でも、古典派の音楽を守って来たMozartに対して、Clementiは時代を先行してロマン派の礎を作った人でもあります。

だから、Mozartは、Clementiの革新的な感情表出主義的演奏を許せなかったのかも知れません。

しかし、そうすると、MozartのClementiへの「感情のない機械的な演奏」・・という評価は、実際のClementiとは、矛盾するし、またClementiのMozartの賛美も矛盾しています。

評価が正反対の評価でなければならないのです。

BeethovenがClementiの演奏や音楽を高く評価していた事は周知の事です。
しかし、Mozartは、Beethovenの演奏を聞いた時にも、「音が乱暴だ!」と酷評をします。
もっとも、Beethovenに演奏に関しては、Haydnも同様の意見だったので、やはり少し乱暴な演奏だったのかも知れません。
それは、私達が弦楽器を演奏する時に、明らかにする事が出来ます。
実際の演奏の所でも、もう一度詳しく説明をしますが、弦楽器の楽器的な特性、特に弓の発達に関して、baroqueの時代には、sforzandoの演奏表現はありません。syncopationでも、決してsforzandoにはならないのです。それはbaroque時代のbowにその原因があります。
こんにち、baroquebowと称して演奏されるbowは、その殆どがもう少し新しい時代のものです。
また、弦も今のような、ナイロンで合成された強い切れない弦と違って、本当のgut string(ガット弦)は、sforzandoが演奏出来るような強い張りを持っている分けではありませんでした。
では、本当のgutとは、どういうものでしょうか?
実は、私達はgutは普段よく見ているのです。
つまり、羊の腸詰めのハムの薄い膜、それに肉を詰めるとソーセージになり、その薄い膜を縒ると、ガット弦(gut string)になるのですよ。
そのimageが出来ると、gut弦が如何に切れやすいか理解出来るでしょう。

古典派の時代に差し掛かると、gutを縒る技術の発達や、弓の改良に伴って、clipに近いaccentまでの表現が出来るようになります。
violinのbowがVottiの進言で、 Francois Tourteがviolinのbowを完成させます。所謂、bowのStradivariと言われている人です。でも、その時代はもう、ロマン派の時代です。
clip-accentがsforzandoの強さを表現するようになったのは、Beethovenの頃からです。
ですから、私達の音楽の解釈も、Haydn、Mozart迄と、Beethovenからを時代区分にしているのです。

Beethovenの表現過多と思われるのは、古典派とロマン派の時代区分に因るのです。

これはSchubertの「魔王」のお話なのですが、10代のMendelssohnが、Goetheの前で、Schubertの「魔王」をPianoで演奏して聴かせるシーンがあります。
Goetheは、甚だ打ちのめされて、「これはcantataであって、私の音楽ではない。Mozartに作曲をして欲しかった。」と述懐します。
勿論、MozartはGoetheの「すみれ(Das Veilchen)」を作曲家しています。でも、Das VeilchenはLiedではなく、Balladeですよね。そこはGoetheも勘違いしています。
右の絵は少年時代のMendelssohnです。
ヨーロッパの少年は少女のように美しい子供が多いのです。

まあ、いずれにしても、Beethovenは、Clementiの事を、(Mozartよりも)Pianoの演奏も、sonate等の作曲技法上も高く評価していました。



Mozartは、 彼の歌劇(Singspiel)である魔笛(Die Zauberflote)で、あの日の競演の時にClementiが弾いた彼のPianosonateOp.47Nr.2の冒頭の主題を使用します。
でも、それは、あの競演からは、10年後の話なのです。
それ程、心の深い所に、傷のように入り込んでいたのです。


先程、書いたClementiが、forte-pianoを一度しか弾いた事が無かった・・・という話は、今から思うと、不思議に思われるかも知れませんが、Clementiが、それまでに、forte-pianoを一度しか弾いた事がない、という事は、1781年の当時としては、結構、当たり前の事だったのです。

つまり、Clementiは、弾き慣れているCembaloではなく、一度しか弾いた事のないforte-pianoで、Mozartと、Pianoの競演をしなければならなかったのです。という事は、全く、最初から不利な条件で演奏をせざるを得なかったのです。
つまり、Mozartは、forte-pianoとの邂逅は、かなり早く、1777年には、シュタイン(Johann Andreas Stein 1728-92)のPianoを絶賛しているし、Wienに移り住んだ次の年(曰く、競演の次の年)の、1782年にはワルター(Gabriel Anton Walter 1752年2月5日-1826年4月11日ウィーン)のPianoを買います。
同じように、Beethovenも20歳頃までのBonn時代には全くPianoを弾いた事はありませんでした。1792年20歳の時に、Wienに行って初めてforte-pianoに巡り会ったのです。

Haydnがforte-pianoに楽器を替えるのは、結構遅くて、1990年の手紙に、Cembaloを演奏する気が無くなった、という事を書いています。

Mozartの場合には、Cembaloのために作曲された曲は殆どないのですが、ClementiやHaydnの場合には、その初期の作品はCembaloのために書かれている場合が多いのです。
当然、forte-pianoとCembaloでは、演奏のstyleが違って来ます。
そこの所は、鍵盤楽器の奏法としては、知っておかなければならない所です。
当然、この1781年の12月24日現在に書かれていたClementiの鍵盤作品は、Cembaloで演奏する事を想定していなければならないのです。

Clementiは、この競演の後で、酷評を受けたのが切っ掛けになったのか??・・・は、知りませんが、Clementiはその後、Londonでforte-pianoの開発と発展に多大の貢献をします。

Piano奏法の先駆者として、多大な貢献をする事になります。

Muzio Clementi Piano Works,Andreas Staier on Broadwood 1802

Broadwood社製の1802年製のforte-pianoによるAndreas Staierの演奏です。


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