赤の文字はWikipediaからコピペ状態の未処理原稿
Muzio Clementi(ムツィオ・クレメンティ)は、1752年ローマの銀細工師の息子として生まれ、14歳でイギリスに渡りました。
1766年(14歳)の暮から1767年初の頃の何時の日かに、 ロンドン市長を務めていたベックフォード(Peter Beckford)の甥に引き取られイギリスの田舎ドーセット(Dorset)に渡るが、彼は音楽の勉強を受ける機会を与えられず、やむなく楽器の練習や勉強に対して、独学で計画的に、厳しく勉強をした。
1775年頃(23歳)には、その 保護者から離れてロンドンに出て、チェンバロ奏者として働いていた。
1779年(27歳)の頃には、王立劇場で指揮者に任命されて、その年の春に出版したop.2のPianosonateは大変大きな反響を呼んだ。
1780年(28歳)の春には、パリへ旅行をして、宮廷にてマリー・アントワネットの御前で演奏をするという栄誉に与っている。
1781年(29歳)の 12月24日には、かの有名な事件と言うか、カタストロフィと言うか、ウィーンにて神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世に招かれて、ロシアのパーヴェル大公(後のロシア皇帝パーヴェル1世)らをもてなす席で、当時25歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと競演する。
(その時の感想を、モーツァルトは、父への手紙において書いていて、クレメンティを酷評している。)
1782年(30歳)からは、 以後20年、殆どロンドンに留まり、ピアニスト・教師・作曲家として名を挙げ、またピアノ製作と出版(傾きかけた出版会社の社長を勤め、ベートーヴェンと直接会い、一部の楽譜の出版もこなした。)にも携わる。
Clementiは、生涯に、交響曲を20曲、ソナタを100曲(うちピアノ・ソナタは64曲)、その他にも多くの作品を残している。
この間のお話の列挙は、あまり意味はないので、割愛させて貰って、コピペで省略させて貰います。
1813年(61歳) - ロンドンに在住する音楽家30名がフィルハーモニック協会を設立。
1816年までクレメンティは常任指揮者を務める(クレメンティが指揮者を辞めた1年後、ベートーヴェンの第9番ニ短調 「シラー『歓喜に寄す』による合唱終曲付き」の契機となる交響曲の委嘱をする)。
1814年(62歳) - スウェーデン王立音楽アカデミーの会員に選出される。
コンサートを定期的に開催する協会も設立し、文字通りロンドン楽壇の大御所として、長い音楽人生を送りました。 クレメンティの作品 クレメンティのたくさんのピアノ曲の中でとりわけ有名な作品が、「ソナチネ」です。
ソナチネ・アルバムには、1798年に出版された作品36の6曲のソナチネが収められています。
青字はWikipediaからのコピペです。
Clementiは、単に、ピアニストとしてだけでなく、作曲家、ピアノ製造業者、ピアノ教師などとしても、成功を収めて、誰もがイギリス人と疑わない程、イギリスの社会に順応して、1832年3月10日(80歳)の長寿でイギリスで没しています。
ちなみに、Clementiが没した1832年という年であるが、Mozartの死後から、41年後になり、Beethovenの死後5年である。
SchubertはBeethovenの1年後に没するので、6年後、WeberはBeethovenよりも、1年前に没しているので、4年後である。
ロマン派の作曲家達から見ると、ChopinとSchumannは同じ歳なので、22歳の時にClementiが没する。
Mendelssohnは一つ上なので、21歳の時、Brahmsは1833年産まれなので、Clementiの死後1年後に誕生する。
古典派の作曲家とロマン派の作曲家が密集しているのが分かると思う。
有名なBeethovenの交響曲第5番、運命のMotivとそっくりな曲がClementiのト短調ソナタ op.34-2です。演奏はHorowitzです。
もっとも、ベートーベンのthemaが同音反復から3度下がるのに対し、クレメンティのは5度下がっている。
ベートーベンがこのクレメンティの曲からかの運命の発想を得たのではなかろうか??
Horowitzの名演奏で知られるPianosonateは数多くYou Tubeで聴く事が出来ます。
また、往年の名pianistであるMichelangeliも、多くのClementiのsonateを録音していて、これもYou Tubeで視聴する事が可能です。
ヘ短調 Op.13-6 Maria Tipo, pianist、
格調高い本格的なsonateが数多くあります。
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Arturo Benedetti Michelangeli plays Muzio Clementi Sonata in B flat Op. 12 No. 1
Clementi - Piano sonata op.14 n°3 - Horowitz
Horowitz plays Clementi Sonata Op.25 No.5 - (1/3)
Clementi - Piano sonata op.26 n°2 - Horowitz
Pietro Spada plays Clementi Sonata in G minor Op. 50 No. 3
Clementiの作品の中でも、最も有名な曲は、100曲のEtudeから構成されるGradus ad Parnassumであろう。
Muzio Clementiが作曲した指の練習のための教則本(1817年、1819年、1826年)。
当時は指のために書かれた練習曲が少なかったので、ピアノ学習者にとって貴重な教本であった。
Clementi Studi n.9 e n.16 dal "Gradus ad Parnassum" - Vincenzo Vitale, pianoforte
fugaの練習曲です。forte-pianoでの演奏です。
V. Horowitz - Gradus ad Parnassum Bk. I, No. 14 (M. Clementi)
日本版では、音楽の友社からTausig/井口版が出ているのだが、これは29曲をselectしたのだが、難しい課題は省いて、より簡単な曲だけをselectしているので、Clementiの本来のVirtuositatは、習得出来ないのだよ。あまりお勧めではないのだよな。
という事で、全曲はedizione curciから、全3巻で、出版されています。
このGradus ad ParnassumというTitleは、教室のFiori musicaliと同じで、色々な作曲家の曲集に使われています。(Fiori
musicaliは、音楽の花束とか、花籠とか言う意味です。)
同様に、Gradus ad Parnassumとは、「パルナッソス山への階梯」という意味のラテン語であります。
英語のachievementという意味に近いのかな??
パルナッソス山はギリシャに実在する山で、芸術や学問の聖地とされ、「グラドゥス・アド・パルナッスム」という題は芸術の教則本などによく用いられました。
そんなに険しそうな山でもないのだけどね。
色々と伝説のある山なようですよ。
今度、この山に関わる伝説を調べてみると面白いかもね??
Gradus ad ParnassumというTitleを持つ教則本には、次のような例がある。
先ず、第一に上げなければならない教則本は、Johann Joseph Fux(1660年 - 1741年2月14日)の対位法の教則本(1725年)であろう。
対位法教本の古典的存在であり、Beethoven等の作曲家もこの教則本で勉強をした。当然ながら、Clementiもその教則本で対位法の勉強をしたはずです。
残念ながら、Fuxの教科書の日本語の翻訳書はない。
右の本は、私が所有しているFuxの対位法の教科書であるGradus ad Parnassumの、今現在出版されている本です。
私が勉強したのは、現代対位法なので、この対位法の教科書を勉強した事はありませんが、その法則は理解しています。(古典対位法なのでね)
後に、Debussyは、「子供の領分」(1908年)の第一曲として「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」という曲を書いて、皮肉っている・・とされるのは、勿論、Clementiのforte-pianoのための、教則本の方です。
他にもCzernyは「新グラドゥス・アド・パルナッスム(Nouveau Gradus ad Parnassum)」と題された曲集を作曲した。
ChopinのEtudeが登場するまでは、ClementiのGradus ad Parnassumは、最もポピュラーな練習曲だったと言われています。。