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の方が驚きなのですがね。??!!

つまり、彼女等の将来の人生に、
「働いて生活をする」・・・という発想自体がないのです。

だから、その裏返しで、
「Classicをやっていたら、食べられない・・」という一般論が産まれてしまうのです。
本当は、音楽は技術職なので、音楽を職業として、やっていたら、こんなに楽な商売はないのですがね??


ましてや、先程の生徒のように、教室でリーダー的な存在の生徒であったとしても、音楽が趣味で一般大学を受験するのが目標の生徒は、音楽で、生活をして行く分けではないし、音楽を仕事とするための考え方を学ぶ分けではないので、本当の意味で仕事としての音楽を学ぶために教室で受け入れている、
「江古田詣」をする生徒は、例外中の例外の生徒だったのですよ。

しかし、その逆は言えます。
つまり、音楽に進むつもりだったけれど、「江古田詣」を経験して、
「こんなにも、音楽の雑用が難しく大変な勉強ならば、音楽よりも一般大学に進学した方が楽だ!」と言って、一般大学に進路を変更した生徒はいます。

「江古田詣」とは、音楽を職業として捉えた時の、勉強の方法であって、音楽を職業として学ぶ時の、考え方や、色々な雑多な仕事を、職人として学ぶ・・或いは、体験する・・・という、勉強なのですから、
「本当に音楽が好きで、一生音楽と関わって行きたい」という事を、信念にしている生徒でなければ、学校の延長線上として、タダの「お手伝い」として教室に来る生徒には、ハードルが高い事になってしまうからです。

ただ、
「自分のために、勉強をしていれば良い」・・・と、言った風な、一般の大学を受験するための勉強しか知らない学生達にとっては、clientに対しての責任を学ぶ事が、conceptである、「江古田詣」の勉強法は、大人としての社会勉強であり、中、高生に取っては、かなり厳しい壁になって来るのですよ。




昔とは違って、こんにちでは、どこの世界の職人の勉強法にも、curriculumが出来て来ました。

昔のように、
「今、そこにある仕事を熟す事で、仕事を覚えて行く」という、難しい勉強法は、昔々の勉強法になってしまって、仕事を、少しづつ、難易度順に教わるというのは、音楽に限らず、どこの世界でも当たり前になって来ました。
何故、今そこにある仕事・・・という、事になるのか??と言うと、そこにある仕事とは、お金を稼ぐ仕事だからです。
curriculumでは、生徒が出来る仕事(或いは、生徒の技術で、或程度、仕上げる事が可能な仕事)になってしまうので、その仕事を熟す事で、お金を稼ぐ事は出来ないのです。
だから、楽なのですが、その分、厳しさも生き甲斐も薄いのですよ。

職業は、お金を稼ぐ事です。
教育と、仕事の落差はかなり大きいのです。
音楽大学を卒業しても、そう言った職業としての音楽の勉強を一度も経験した事のない、音楽大学の学生にとっては、「江古田詣」は、とても辛い体験学習になってしまうのです。[注2]


ですから、「江古田詣」をさせるのは、音楽大学を目指す生徒で、しかも、将来的に、音楽の世界で活動して行きたい生徒だけの限定になるのですよ。


上記のお話のように、「江古田詣」という事で、学校のちょっとした空き時間を見つけては、先生達のassistをした生徒達は、音楽大学の受験生であったり、
「教室の先生になりたい!」・・と希望した生徒達だけである。・・・・という事を理解していただく事が、「江古田詣」の趣旨を正しく理解していただく、最初のステップになります。



音楽が趣味の生徒の場合には、「江古田詣」は先生の「お手伝い」の域を出ないのでしょうが、音楽を職業とする事を目的とする生徒達にとっては、普段のlessonの中では学べない、「職業としての音楽」を学ぶ、或いは、「音楽の職業としての意識」を学ぶ、学校教育の自己完結型とは、根本的に異なる、「職人としての、或いは、仕事としての」勉強の場、学習の場として、とても大切な場所なのです。

ですから、学校の授業の合間に、お友達との遊びの約束も、彼氏とのおデートもないから、ほんじゃあ教室にでも、暇つぶしに行くか???・・と、言った風に、事のついでにチョコっと教室に来て、先生達の「お手伝い」に来た、という事で、「江古田詣」と呼ぶ事は出来ないのですよ。

それは、あくまで、小、中学生の趣味の子供達が、lessonの一貫として勉強している教室のlessonのhow-toの延長線上のcurriculumに過ぎないのです。
それで、幾ら何度でも、江古田教室に先生の「お手伝い」に行ったからと言っても、それをもって「江古田詣」と呼ぶことは出来ないのですよ。


では、これから、少し「江古田詣」のお手伝いの内容についてのお話をしようと思います。

先ほどのの勘違いのように、「江古田詣」が、教室で先生の「お手伝いをする」事自体を、「江古田詣」と思われている場合には、「江古田詣」は、本当に、ただ単なる
「先生の雑用のお手伝い」になってしまいます。

つまり、「江古田詣」が、単なる「先生達の雑用のお手伝い」に行く事ならば、或いは、保護者の方達に、そのように、誤解されているのでは、私が教室を立ち上げて、日本に、或いは世界に、未だ一つもない音楽教室の姿、私の音楽教室を立ち上げるに至った、教室本来のconcept(趣旨)がご理解していただけていない事になってしまいます。

そういった誤解の前提の上では、先生達の「お手伝い」を幾らしても、音楽の上達や、意識の向上につながって行く事はないと思います。

という事で、というわけで、改めて、「江古田詣」について、詳しくお話をしたいと思います。

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[先生の仕事のお手伝いについて]

一般の音楽教室では、或程度ピアノが弾けるか、音楽大学を卒業していれば、就職出来る事になっています。
しかし、同じ音楽教室でも、その教室の独自のmethodeで指導している教室では、その教室で指導出来るような講師を養成するには、大変な養成機関の時期(研修期間)が必要になります。
そこが音楽教室の泣き所というか、私達の教室に限らず何処の音楽教室でもそうなのですが、音楽教室の先生方は女性の方が殆んどなので、結婚や出産などで、折角の技術を持ちながら、仕事をやめて家庭に入らなければならない状態になることが、非常に多いのです。
また若い女性の中には、最初から、結婚する迄の繋ぎとして、仕事を見ている人すらいるのです。

そういった若い女性の問題は、格別に、音楽教室に限っただけのお話ではありません。

一般の働く女性にも共通する問題でもあります。
日本社会の女性に対しての考え方は、世界のglobalstandardに反して、国連からも再三再四、改善をするように勧告されているのですが、治りません。
寧ろ、日本の女性自身がそれを良しとし、それに甘んじている体があるから一層女性の地位を悪化させているのですが、それを逆に女性の権利と思っている人達も日本人には多いので、困った事です。
しかし、そういった女性の結婚と仕事への意識の問題に大上段に触れるのは、それだけでも一大論文になります。

本来、仕事とは、結婚を前提とした仕事と、仕事を前提とした結婚観に、女性の持つ結婚への意識が別れなければなりません。
それは現代の少子化の日本の社会を取り巻く問題の解決策であり、日本が世界の中のリーダーである日本を望むのなら、女性の意識は速やかに改善されて行かなければならないのですが、それは女性自身の意識の問題ですので、社会の問題となって、教室の覚え知らない事になります。
(教室では、色々な考え方の保護者の方と接しなければならないのですからね。)

という事で、大昔にその問題について、論文を書いた事がありますので、興味のある方は参考にしてください。
昔々のお話なので、今その話について質問されても、今更、覚えてはいませんが・・・・「女性の仕事と結婚について」  という事で、そのお話は、ここでは、さておいて・・・・。

そういった社会的な意識の問題でも、女性自身の仕事に対する価値観でも、教室で幾ら先生に成れる人材をを育てても・・・、或いは、それで、実際に教室の指導者として活動を始めたとしても、その指導者が子供達を指導する期間は、結婚迄の、極めて短い期間に過ぎず、幾ら先生を育てても、女性を対象にする限り、常に指導者の絶対数が不足してしまいます。
それは、systemやmethodeの必要のない大手の教室でも同じで、就職した先生は、その先生の大半が、常に2,3年でやめているのです。
その理由は、小学校の女性の先生の場合と同じで、仕事に対しての挫折がりゆうなのです。

ただ、大手の企業の場合には、音楽大学の学生が、
「有名企業に就職したい」・・というブランド志向の学生の願望で、都市圏の場合には、やめた先生の補充は、まんべんなくなされているようです。[注3]

教室も、ご多分に漏れず、今現在は、特に先生の絶対数が不足していて、生徒の指導だけではなく、東京事務所での事務の作業も滞りがちで、「ネコの手も借りたい」のが教室の先生達の本当の本音ではあります。

但し、「先生の数が足りない。」という事は、「教室が先生を募集しても、申し込みがない。」とか「教室の先生になり手が居ない」と、いう意味ではありません。

教室では、常に先生を公募していますし、面接を希望する学生の面接をしています。
しかし、その面接で、教室の特徴、特性を詳しく説明して、それで学生や講師希望者が納得して、企業見学として、lessonやオケ練習の見学に来られた後で、少なからず、cultureshockを受けて、その次 に教室に見学に来る先生は皆無なのですよ。

だって、小学低学年の生徒に、
「そんな事も出来ないの?」と言われてしまって、不思議そうな目で見つめられては、音楽大学を卒業した手前、二度と教室には来れないよね??

私がその話をすると、子供達は、みんな、 
「え??私、そんな事言った???」と言って、その後は二度と、そういった見学に来た人達を傷つけないように、そういった言葉を口にしないように、注意してくれるのですが、子供達の講師希望者への驚きの目線は、痛くって・・・どうしようもありませんからね。

講師として就職を希望する人達が有名音楽大学を卒業して、コンクール歴や華々しい演奏歴を持っていたとしても、或いは音楽教育の現場やオーケストラで長く働いていたという実績があったとしても、私達の教室の先生としては、その技術も経験も全く役に立たない・・・という意味なのです。

そこは、一般の人達も音楽大学の卒業生も、みんな、勘違いをしています。

教室に履歴書を提出される講師希望の先生達に「面接をする前に、私達の教室のホームページを読んで見てください。それで教室の方針にご賛同いただけるのなら、面接をします。」と必ず、言います。
すると、殆どの先生達は、二度と教室には、連絡してこなくなります。

極希には、
「私は、とても無理です。」というお断りの電話があります。
それぐらい、一般の音楽教室とは違って、私達の教室の先生になるためのハードルは高いのですよ。
それに、教室の仕事をこなすのなら、音楽大学の卒業生よりも、教室の小学生の方が、数倍仕事が出来るのですからね。

そりゃそうよ!!普段から、オケ練習や室内楽で、何気なく、年下の生徒達の面倒をみつけているのだからね。

もっとも、子供達は、それが、仕事の勉強だとは思っていないだろうし、大学生(・・・この場合には、あくまで音大生のことですが、)が、そういった仕事を全く出来ない・・という事は、子供達には理解出来ないでしょうよね。

一般の音大生の場合には、音楽大学を卒業して、大人なのだから、lectureや仕事が、小学生よりも出来ないと言う事は、絶対に理解出来ないだろうし、それこそ、それを目の当たりにしただけでcultureshockでしょうし・・・ね。

 

音大に入学して、何処かの有名な企業の音楽教室で1,2年働いて、結婚をして、子育てに専念する事を目的とする程度なら、「江古田詣」等の勉強の必要性はありませんし、その苦労も無駄になります。
それよりも、料理、裁縫と、主婦としての勉強をした方が、良いに決まっています。



「江古田詣」のお話に戻って、教室の生徒達が、一般の音楽大学を受験して、音大生として4年間を学生生活をインジョイして過ごすだけならば、教室のオケ練習や室内楽の練習に参加して、楽典のlessonをみんなと一緒に勉強するだけでも充分です。

但し、この場合の「音楽大学」とは、有名私立の音楽大学の意味であります。

芸大に関しては、(音楽大学としての音楽技術のlevelは、それ程ではないのですが)、学生の音楽に対する「意識」や、仕事に対するひたむきさという点では、芸大は日本の音楽大学のlevelを超えて、ずば抜けています。
「でもしか音楽大学」を受験しようとする意識では、芸大受験は、とても立ち行きません。

芸大をもし受験しようと思うのなら、音楽の勉強をするよりも、寧ろ、「江古田詣」の勉強が必要になります。
芸大を受験する生徒達は、その技術水準に問題があったとしても、皆、
「proの音楽家に成りたい」と言う意識が、小学生の低学年から、一般の音大を受験する生徒とは全く違います。
ひたむきに、一途に勉強して来た人達なので、その意識だけは、実にprofessionalです。



しかし、だからと言っても、所詮は、日本の音楽大学なので、そこを卒業したからといっても、それでproへの道が開けてくる分けではありません。
そこは、日本の音楽大学の教育方針や、音楽教育に対する考え方は、一般の音楽大学のそれとは、殆ど変わらないからです。
芸大の教授は、基本的には、privateに生徒を指導する事は、出来ません。
公務員法に抵触するからです。
という事から、芸大の教授達は基本的には、自分の生徒は持っていなくて、受験の1年程前から、金銭的な目的で受験生のlessonを、何回かする事になります。受験生は、たった、1,2回のlessonでその教授の門下生という名目で受験します。
教授達は、希に秘蔵っ子の生徒を育てている事があります。
そういった秘蔵っ子の生徒を、自分の勤める芸大に進学させる事は、あまりありません。
それは、もしその生徒が芸大に合格した場合に、その生徒が自分の生徒になる可能性が低いからです。
ヨーロッパの音楽大学と違い、日本の大学では、先生が生徒を選ぶ事は出来ないからなのです。
教授は自分の生徒を一般の普通の大学に進学させて、homelessonで指導を続けます。
それが、その秘蔵っ子の行方を守る最良の策だからです。

先程から言い続けている事で、ここらではもう耳タコなのでしょうが、その生徒の将来の目的が、「演奏や音楽の指導をプロ」として(所謂、職業として)・・・考えているのなら、本当には、別に音楽大学を受験しなくても、芸大を受験しなくても、或いは、留学をしなくても、良いのです。

音楽のparadoxは、その生徒の将来の目的が、音楽大学を卒業した・・という結婚する時のstatusとして・・や、何処かの(私達の教室のようにmethodeを持った教室以外の)音楽教室で指導しようと思うのなら、音楽大学を受験して、卒業するのは、有意義です。

「音大に入学したい。」「音大を卒業すればよい。」・・・という考え方と、「音楽を職業としてやっていきたい。」という考え方の意識には、それこそ「月とすっぽん」ほどの雲泥の差があるのです。

昔々から、洋の東西を問わず、職業として技術を学ぶという事は、(学校ではなく)現場での経験が必要だと言われて来ました。
それは技術職である医者でも同じことです。
大学を卒業しただけの医者では、とても怖くて誰も医者として、任せてはくれません。
音楽とは違って、失敗すると即命に関わるのですからね。
経験に優れた指導者の元で研鑽を積んで、実力を磨いたから、周りの人達が医者として認めて、職業として成り立っているのです。

音楽を勉強している学生の中には、子供達へのlecture、或いは初歩の指導する事を馬鹿にして、「私は演奏家になるのだから指導の仕方を学ぶ必要はない。」と豪語する学生も多いようです。

しかし、その学生の子供への指導に対しての傲慢さは、その学生を指導する音楽大学の先生の考え方でもあるのです。
だから、忠実な音大生は師匠の言う事を信じて疑わないのです。

子供達が自分の指導について来ないのは、その生徒が、不真面目で、勉強して来ないせいであって、自分の指導力のせいではない。
子供に指導するのに、勉強は必要はない。
ただ、ひたすら自分自身の音楽を磨けば良いのだ!・・・そう、師匠に習って来た!
 と、言っています。

でも、現実の音楽の世界は全く違います。
演奏のプロといえども、演奏だけで生活をしているわけではないのです。
教育やその他の色々な仕事を同時にこなしているのです。色々な経験を学ぶ事が、プロとしての意識を学ぶ事になります。
又、その演奏家が、子供達を指導も出来ないような水準の、音楽だとしたら、その人の演奏の完成度はたかが知れています。
とてもプロの演奏とは呼べないでしょう。

例えば、パールマンであれシェリングであれ、超一流の演奏家は、1年の半分、演奏活動をしても、残りの半年は後進の指導をしています。
超一流の演奏家である彼らにとっては、生徒を指導するよりは、演奏活動の方が、遥かにお金を稼げるはずです。
という事で、当然、彼らは生活のために生徒達を指導をしているのではありません。
後進の指導し育成をすることに、意義があるから指導しているのです。
しかし、多くの似非演奏家達は、子供達の教育を、小馬鹿にして、自分の演奏の合間に、チョコっと指導しているだけです。
もっと酷くなると、自分の生徒が今何を勉強しているのか??果ては、生徒の名前すら知らない先生がいたりします。
要するに、自分の演奏会の事しか、頭にないからです。
その先生の名前に憧れて来た生徒は二種類の人達がいます。
名声に憧れて、その生徒である事をstatusにする生徒です。この殆どが音大生や音大の卒業生です。
それに対して、キッカケは、先生の有名なnamevalueに憧れて、門に入ったとしても、その場限りのやっつけの指導に不満を感じて、本当に生徒のために指導してくれる先生に代わってしまいます。これは子供から高校生までの、音大や音楽高校を受験するまでの生徒達です。
そこで、生徒に逃げられた先生は、何と感じるのか??
勿論、最初の間は、全てを生徒のせいにして、
「私の言う通りに練習しないから行き詰まったのよ!」とか「所詮、才能がなかったのよ!」で済ませてしまいます。
しかし、或程度、やめた生徒の人数が、多くなると、
「やっぱり、私は演奏家なのだから、指導者には向いていないのよ!」となります。
それでも、自分のnamevalueに憧れて来る弟子がいるので、自分の指導への不誠実さを恥じる事は一生ありませんし、それに気付く事もありません。
「神よ、許し給え!彼らは自分している事が分からないのです。」というお話になります。

 


芦塚音楽研究所は、最初は私の教育のmethodeの実践の場として開設さました。
塾の乱立や、大学の乱立から、本来の教育制度の崩壊を恐れた文部省から委託を受けた人が、その指導のcurriculumの論文を実践して欲しいという希望で、「子供の教育は、したくない!」という私に対して、再三の説得をしてきました。
その説得に負けて、私の考える教育のあり方を実践する場として、千葉の花園に音楽教室を開設したのです。
そういった理由のために、最初はその実験的な教育に賛同していただいた方だけが教室に入会して来たのです。
という事で、その時は、最初の保護者の方が教室の内容を説明して、それで納得して入会された方のみ教室に受け入れていました。
優れた指導者が生徒を指導して、生徒が上達するのは、当たり前でそれはmethodeにはなりません。
methodeであるためには、それを学んだ生徒が優れた指導者になれないと、・・・つまり、誰もが、それを学ぶ事によって、夢が達成されないと、methodeと呼ぶ事は出来ないのです。
優れた生徒と、優れた指導者を要請すること、・・・。
その実験は、約5年程度で、その目標を達成しました。
そこで学んだ生徒達が
「他の教室に就職するのではなくって、このままこの教室で教えたい」という、希望を言って来たので、教室を、生徒達の音楽教室として、会社にして、生徒達の働く場所として提供したのです。

ですから、芦塚音楽研究所は子供を教育する場所という意味の他に、指導者を養成したり、proの音楽家を育てたりという目的を持った教室なのです。
一般の人達は、音楽教室というククリでしか、教室を見れません。
しかし、それは、やむを得ない事だと思います。
なぜなら、そういった学校は、世界の何処を探しても見当たらないからです。
そう言ったsystem自体が存在しないので、理解して貰えなくても致し方ありません。
人は存在しないものを理解は出来ないからです。
それでも地球は動いているのですよ。

「江古田詣」は、音楽を職業としたい子供達、プロを目指す生徒達のために、教室が提供している学習のための現場なのです。
昔の徒弟制度の職人達が24時間、1年365日、住み込みで働いてした頃の、学習法の、ほんの少しの体験学習なのです。

音楽が、お嬢様の教養の一部ではなく、結婚のstatusとしての勉強ではなく、もしも、職業として捉えるのだとしたら、必然的に学ばねばならない、職人としての技術です。

職人としての勉強は、学校教育のように時間で優先されるものでもなく、出来なければ赤点が付いて終わり・・とされるものでもありません。

仕事は必ず、その時間に、その水準で、完成されなければならないものだからです。
当然、一度その仕事に対しての意識が確立すると、総ての仕事や勉強、果ては雑用まで、ちゃんと出来るようにしなければなりません。


子供は、中学生の頃になると、学校の作業や、家庭での雑用が、或程度、出来るようになります。
これは、自然な成長の中のお話です。
しかし、この成長に伴うお手伝いの能力が、
「先生達の教室のお手伝い」も出来る・・と勘違いされてしまいます。
その勘違いの理由は、二つあります。

その事については他の教育論文やホームページでも、詳しく説明してありますが、簡単に説明しておきますと、お子様が中学生ぐらいの年齢になると家庭でも、色々とお手伝いが出来るようになってきて、頼もしくなってきます。「この子もずいぶんしっかりしてきたのねぇ!随分大人になってきたわねぇ!」と感心します。それで、「これぐらいしっかりしてきたら、教室のお手伝いも出来るわね!」という事になります。

しかし、その感覚で教室のお手伝いとなると、それは、教室の仕事としての「お手伝い」とは、全く次元の違うお話になってしまいます。
つまり、「教室の作業」はあくまで大人の会社の仕事としての「作業」であり、それは子供の「出来る」というlevelでこなせる作業ではないのです。

又、一般の音大生が良く勘違いをするのに、「音楽大学を卒業するだけで、音楽教室の仕事は充分に、こなせる」という思い違いもあります。

音楽大学での授業はあくまで教養の一環としての授業であり、音楽大学で学ぶピアノ等の主科のレッスンを含めて、楽典やsolfege、或いは音楽理論等は、実際に曲を演奏する上では当然なのですが、子供達を指導する事にさえも何の役にも立たない、ということなのです。

実際に「演奏家になりたい」、或いは、「演奏でステージに立ちたい」と思ったら、プロとしての専門的な音楽理論と演奏法をそのカリキュラムで学ばない限り、音楽大学の通り一遍の授業だけでは、何の役にも立たないということなのです。

しかし、私がそう言ったからといっても、殊更、「音楽を美化した」上でのお話ではありません。
つまり、それは音楽の世界に限った話ではないのです。

プロとして勉強をしようと思ったら、それは全ての分野(genre)の仕事に共通する事なのです。

医者であれ、プロ野球の選手であれ、お店を経営している経営者であれ、・・・・つまりどんな職業であったとしても、職業である限り、現場で必要な知識は、学校で学ぶ知識とは、直接的には関係がありません。

しかも、仕事では、学校と違う一番大きな魅力は、・・職業というものは、常に一番である必要はないのです。

言い方を変えると、水準に達していれば、その技術者は、何人いても良いのです。

ある人が、その技術が、世界でナンバーワンになった・・とします。
しかし、その人、一人だけが、ナンバーワンであるとすれば、注文の来るありとあらゆる仕事がこなせなくなってしまいます。
常にナンバーワンに仕事は殺到するからです。
その仕事をこなせなければ、その人はナンバーワンである事を続ける事は出来ません。
という事で、必然的に弟子を育成しなければなりません。
そうしないとその仕事の技術は永遠に失われて、ただの、オーパーツになってしまうからです。

という事で、仕事では、常に、ナンバーワンである事よりも、水準に達する事が、教育の目的になります。
しかし、逆の言い方をすると、そのグループでナンバーワンになったからと言っても、そのグループの水準が低ければ、一般社会で認められる事はないのです。
学校の部活で、国体で日本一になったとしても、オリンピックの選手達とは、全く別の世界です。
総てのathleteは、小学校に入る前から、そのprofessionalの水準で、勉強を積み重ねているのですからね。

日本の音楽大学で音楽を勉強させている保護者の方が勘違いをしている事もあります。
それは、ヨーロッパに留学をする時に、日本の大学と同じように「受験して合格すればよい」という勘違いです。

音楽の世界は職業の世界なので、日本であろうとヨーロッパであろうと、集団教育では教えられないのです。
職業を学ぶという事は、徒弟制で、マンツーマンで学ばなければならない、という事は、今も昔も変わりません。

だから、そういった、ギルドの考え方、徒弟制度の考え方が、発達している(??こんにちまで残っている)ヨーロッパの大学に留学を希望する場合には、日本の大学のように、「どの大学を受験するのか?」、ではなく、「どの先生に師事したいか?」で行く(受験する)大学が決まるのですよ。

留学を希望する生徒は、まず自分の師事したい先生に、自分の演奏のtapeを送って演奏を聞いてもらいます。
その演奏を聞いて、先生がその生徒を「弟子にしてもいいかな?」と思われた場合には、次にその先生から、録音ではなく、直に演奏を聞くために、お呼び出しがあります。
そこでその先生の元で、1,2回レッスンを受けます。

そしてその先生が「教えても良い」「弟子にしても良い」と思われて、その許可が出ると、その後、その先生が指導している大学の教室(クラス)の空席を待って、空席が出来たら、そこで初めて、受験の日にちが決まるのですよ。
だから、有名な人気の教授に師事するためには、5年待ち、7年待ちなんて事も、ザラなのです。
日本のお嬢様のstatusの勉強では考えられない事ですよね。
でもそれが世界のglobalstandardなのですよ。

本来的には、日本の国立の大学の先生は、国家公務員なので、バイト(この場合は、home・lesson)は認められていません。
有名私立音楽大学の場合には、その縛りは学校が持っているので、一概には言えませんが、基本的には、homelessonをする事は、自由です。
ヨーロッパの音楽大学は、殆どが国立か、州立なので、homelessonは、公務員法に触れてしまいますので、one lessonで見て貰うというのも、基本の原則は無料なのです。(少なくとも先生の方からは、金額を言って来る事はありません。)

ちなみに、私の大好きなオルガニストでチェンバリスト、音楽学者であるWienの音楽大学の教授でもあるアントン・ハイラー先生は5年待ちです。
ヨーロッパで人気の教授達に師事するためには、5年待ち、7年待ちは当たり前の普通の事なのです。

というお話でも、お分かりのように、日本のエレベーター式の大学の発想という事は、ヨーロッパの音楽大学では通用しません。
これで、日本の音楽大学のlevelが、趣味の教養のlevelだ・・・という事が、ある程度は分かってもらえましたでしょうかね?


日本の大学で、音大に入学するために5年間も受験する事を待つという事は考えられない事でしょうが、ヨーロッパの音楽大学でそれがまかり通っているのは、学ぶ目的が教養として学ぶという事ではなく、職人の技術を学ぶという意味だから、憧れの先生に師事するために、3年待ち、5年待ちが普通に通用しているのです。

自分が、本当に尊敬して敬愛している先生に指導を仰いで、師事する、それこそが技術習得の王道です。大学を目的に受験するのではないのですよ。大学はその先生が指導する場所を提供しているのにしか過ぎないのです。

ヨーロッパやアメリカでは、結婚は愛しているカップルがするものが普通です。・・・一般的です。
日本のように、
「結婚して一緒に暮らしていれば、自然に愛情なんて生まれてくるものだよ!」というのは、愛情と馴れ合いを混同している日本人の事勿れ主義の表れてあって、真摯に音楽を追求する探求者に取っては絶対に認められないお話ですが、結婚や、一生の仕事である会社を、父や、先生に決めて貰っている日本人の女の子を見て、その女の子のお友達の韓国の女性が、「自分の恋人や会社の就職を、人に決めて貰うのは、全く信じられないし、自分の人生を、喩え親であったとしても、他人に委ねるのは、理解出来ない!」と、驚いていました。
儒教の思想はお隣の中国や韓国から日本に伝わって来たはずなのですが、その儒教体質を維持しているのは日本だけで、本家本元の中国や韓国では当の昔からもう、globalstandardな考え方になっているのにね。
これも日本の女性の、自分の社会的な位置を意味しているのですが、その甘えの構造を日本女性は認めようとはしません。

日本人の場合には、日本の大学での受験だけの話ではなく、ヨーロッパの音楽大学に留学する場合でも、
「自分を指導してくださる先生は誰になるのか?」など考えて音楽大学を受験する生徒はいないでしょう?

brand志向の日本の場合には、その大学そのものがstatusになってしまっているのです。

ヨーロッパの人達はその先生がその大学にいるからその大学に行くのに過ぎない。

指導してくれるのは、あくまで先生だからです。
そこの所を日本人は勘違いしているのです。

何度も繰り返して、お話しているので、敢えて、ここで蒸し返さなくても良いのですが、蛇足として、もう一度追記しておきますが、学校で学んでいるものは、仕事として・・ではありません。
学校教育で何を学んでいるのか??それに応えられる人は、余程、社会を知らないのか、学校の事で周りに対して目が見えなくなっているのです。

日本の音楽大学でも、ヨーロッパの音楽大学でも、学校で学ぶ音楽は、自分の音楽を磨くという事です。

でも、それは、自分が完璧に演奏出来れば、それで良い・・・という、芸術家の考え方です。

それが本当の芸術家であるかどうかは、その人自身や、取り巻きの人達が決める事ではありません。
Genzmer先生がおっしゃっていらしたように、それを決めるのは本人ではなくって、時代なのですよ。
BachやHaydnや、Beethoven等の大作曲家ですら、じぶんが芸術家であるという事を言われるのを、恥としていたのですよ。

仕事は、職人としてやるものです。
学校でのclientは生徒です。
先生達は生徒のために、指導します。
しかし、職業では、clientは、その仕事を発注して来たお客さまです。
お客様が満足しなければ、何が何でも、満足させるために努力をしなければなりません。
そこが、学校教育と職業との大きな根本的な違いです。

学校の勉強も、音楽大学の勉強も、学校と名の着く限り、その勉強は、自分のためにします。
塾で勉強した若者が、社会に通用しなくて、ニートになったり、引き籠もりになったり、果ては、大事件を犯したりして、社会問題化していますが、それは、現代の教育の当たり前の結果なのですよ。
ニートになった若者の弁解をテレビでやっていました。

「私は一生懸命に真面目に仕事に取り組んだ!それなのに上司は認めてくれなかった。」「私は高校でも、大学でも、良い成績でやって来た。こんな会社で誰も認めてくれないなんて、ただのイジメだ!」若者は必死になって、抗弁していたのだが、勉強は、自分のためではなく、人のためにやるものなのですよ。

仕事も、自分の為ではなく、他人の為(つまり、clientのため)に、やっているのですよ。
そこの所が理解出来れば、上司の人達からは、気に入られると思います。

NHKの討論会の場で、中小企業の社長と、女性起業家の人が、侃々諤々と討論していましたが、話は並行線で、収集がつかなくなっていました。
老人の会社社長が、
「ラインが故障をして、ストップした時に、女性であるあなた達が、深夜でも、直ぐに会社に駆けつけて来て対処をしてくれますか??」と質問をしているのに、その女性社長は、「私達は丁寧に故障の無いような仕事をします。男性の方に遜色を取らないような仕事をします。」と言っているだけでした。

つまり、女性で主婦で、母もしている訳なので、
「深夜の対応は、私達女性では、出来ない」と言えば良いのですが、その一言がどうしても言えないのです。
そこが女性の限界なのでしょうかね??

同じ質問でも、ヨーロッパやアメリカの女性なら、絶対にそういった対応はしない所ですが、そこは、未だ女性の仕事の意識の低さ・・であって、globalstandardな世界視野と、儒教体質の日本の女性の限界なのでしょうかね。

日本の音楽大学で、音楽を熱心に勉強している若者達が、自分を認めて貰うため・・・自分の評価のために、必死に音楽を勉強している事に、日本人の学生の大人としての人間性の希薄さ、人としての自覚の薄っぺらさを感じて、
「寂しい世の中になったな??!」と、浮世の無常をしみじみと感じている今日この頃です。

偉大な作曲家達のいう職人とは、作曲とは(勿論、演奏もですが)・・・相手がいて、その人達のために作る(演奏する)ものなのです。

ヨーロッパの演奏家の先生達も、実際の生徒指導の時に、その話を前面に出して指導する先生は数は少ないのですが、不思議と、学生達の演奏は、必ずaudienceに方を向いているのです。
これが、本家本元の伝統なのでしょうかね??

その落差は、思いの外、大きいものなのです。
人を感動させるために、取り組む音楽と、自分を認めさせるための音楽では、その世界は全く違うのですよ。

brand嗜好の人達は、自分で本当の本物を見出す事が出来ないので、「brand」という、あらかじめ、素晴らしい物と設定(約束)されたものを信じるのです。
コンクールというbrandで、賞を貰って、マスコミで騒がれるようになると、誰しも
「凄い!」と、持て囃します。

そこで、私が「これは、マスコミの人気で、本当は、あの人は実力がないので、・・」とか言うと、周りから、
「やっかんでいるのではないの??」と逆に軽蔑されてしまいます。

でも、5年もすると、その持て囃された人達は、一般大衆からは、すっかり忘れ去られているのですがね・・・??
その頃には、
「やっかんでいるのでは・・」と言ったその張本人も、じぶんがそう言った事すら覚えていないのですよ。

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