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Hennry purcellのChaconyのbasso continuo(通奏低音)の作曲のお話の続きですが、私の所有している楽譜は、 edition Petersの版ですが、別に、この曲だけ・・・、否、校訂者のschleiferさんだけを、虐めている分けではないのですが、・・・一般的に、baroqueの楽譜のCembalopartや、室内楽のgeneralbassを作曲する場合には、basso continuoのpartは、orchestraの曲が、簡単でsimpleな曲の場合には、校訂者はCembaloのpartは殊更難しく書いてしまうし、また、このpurcellの曲のように bezifferten Bass(数字付き低音) が異常に難しい場合には、このschleiferさんのように、ついついmelodieの partをなぞって書いてしまうようです。

曲の演奏についても、作曲に関しても、また、baroqueのgeneralbass(通奏低音)にしても、皆さん、複雑怪奇(komplizieren)と幼稚っぽい(kinderei)の間で苦労をしているようです。

しかし、この二つの言葉には、ドイツ留学中に散々...悩まされた思い出があります。

「ドイツの留学時代」は、もう、私にとっては、昔々の思い出ですが、Genzmer先生の下で作曲の勉強をしていた時に、私の作品を師匠にお見せする度に、何時も悩まされていたのが、師匠の
「この曲はkomplizierteだ!もっと、einfachに!!(leicht,英simple)」と、いう口癖でした。

それで、私なりに思考を単純にして、作曲をして行くと、今度は
「これはkindereiだ(幼稚っぽい)!」と、叱られてしまいます。
だから、ある時に、師匠に楯突いて、
「先生のおっしゃっているのはvereinfach(単純化する、簡素化する)という事ですよね?」と質問をしたら、Genzmer先生が「否、vereinfachではなくeinfachなのだよ!」と、叱られてしまいました。

その時には、師匠の言っている意味が未だ正確に掴めてはいなかったのですが、実際に作曲をしたり、演奏をしたり、して行く過程で、段々と、段階を経て、師匠の言う事の意味が分かるように、なって来ました。

作曲は、Liedのように、短い曲を除けば、ある程度の長さのある曲ならば、感情の赴くままに思いつくままに書き留める分けではなく、綿密なbauplan(設計図)に従って作曲をします。
ですから、大年の大作曲家達は、曲を書くのに、いきなり展開部から、書き始めたり、最後のclimaxから書き始めたりします。

本当の所、同時進行的に総ての部分のMotivを同時期的に書き始めるものです。
優れた作曲家は凄い速さで、感情の赴くままに、作曲をする・・事が知られていますが、師匠曰く、
「女性のお産のように、頭の中で熟考して、形作って行くまでに2ヶ月も、3ヶ月も掛かるのだが、それは、Pianoに向かっているのでもないし、楽譜にメモしている分けでもないので、人には、遊んでいるようにしか見えない。しかし、imageが頭の中で出来上がると、1、2週間で、作り上げてしまうので、人は、作曲に要した時間が1,2週間しか掛かっていないように見えてしまう。本当の産みの苦しみは、何もしていない、2,3ヶ月の間なのにね!」と、おっしゃられていました。

その師匠の作曲法(というか、歴代の大作曲家達は皆同じ作曲法を採っているのですが、)は、作曲の場合だけでなく、ありとあらゆる実仕事の現場で使わせて貰っています。
演奏でも、basso continuoでも、未だ、思考過程の状態では、結構komplizieren(複雑化された、)な状態になってしまいます。

そう言った場合には、思い切って、何度か白紙に戻して、考え直すと、その過程で驚く程simple(師匠曰くeinfach)な、解答が出て来るものです。
その状態が、vereinfachではなく、einfachな状態なのです。

音楽の演奏でも
悪戯に演奏効果を狙うのではなく、本当に人を感動させるには、どうすれば良いか?という事を悩み続けるとしたら、Genzmer師匠のいうスッキリとした、口当たりも良く、しかも、感動的な演奏が出来ると思いますよ。

師匠が私の曲を見て、書き直しを要求する時には、einfachという言葉をよく使いましたが、実際に、曲の勉強で手直しをする時の口癖は、
「sauber machen!」(お掃除をしよう!)という言葉を連発していました。

sauberザウバーという単語は、汚れのない、という意味です。
音楽家は究極のpureさを追求する職業と言えます。キンキンした耳障りの音や、浪花節のような押さえつけた音、馬頭琴のような、余韻と響きのない音は、ヨーロッパの音楽家達が忌み嫌う音なのですが、20世紀も後半になって来て、急激に文明がcomputer化していくに従って、steinwayやBosendorferのような、高級なPianoに至っても、若者の好む軽い金属的な音が好まれるようになって来ました。

古いClassicのPianoの音を聞きたくても、それはもう昔の事で、難しくなってしまいました。
私は困った事に、幾ら高価なブランド品を見ても、何も価値を見いだせないのですよ。
それは約束事で、決められた価値であって、その物自体の価値ではないからです。
本当の物にはその物自身に、それなりの価値があります。
自分の目で世の中を見る事が大切ですね。
行列の出来るお店に行って、美味しかった験しは一度もありません。
本当に美味しいお店には行列は出来ないのですよ。
不思議な事にね・・・??






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