と、怒鳴られてしまいました。
私が個人的に自分の用でコストコに来る事はないのにね!! シュン!!
会計の伝票を分ける事だって、天下のコストコなのだから慣れている事だし、大体カーゴーが違うので、いちいち分類する事もないので、それは、単なる感情論なのだよ!
高速の分岐で、隣のレーンで追い越しが掛かった途端に、分岐を行き過ぎてしまう下手な運転のようなものですよ。
普段から、タイマーを使って、同時進行の練習をしていれば、そんな感情論ではなく無駄を防げるのにね。
私にとっては、時間の無駄が一番嫌いなのだけどね??
一つの事しか出来なければ、現代の社会では生きていけないよ!projectは組めないよ!!時代に置いてけぼりされてしまうよ!!!
寧ろ、その仕事の過程ですら、時短になって行くのですが、普通の人達には、それを、時短とは認められなくって、どうしても、作業効率のロス、時間のロスと感じてしまうのです。
そこが、優秀な仕事の出来る人(仕事が出来るという事は、仕事が早いという事でもあります。仕事の遅い人はどんなに良い仕事をしたとしても、仕事の出来ない人に分類されます。)と、凡庸な人の分かれ道(差)になるのですが、一般の社会では、圧倒的に凡庸な人が多いので、こういった方法論は中々、理解しては貰えませんよね。
作業(仕事)は必ず、inとoutがあります。
この一手間のお話は、outのお話になりますが、inのお話は、仕事の時間を人に計算させる時に、仕事に掛かる時間を計算してくる・・・という事なのです。
物事には、須らく、下準備の作業があります。
仕事やその仕事の作業を円滑に熟す為には、下準備がとても大切になります。
私が料理をする前に、別の教室本来の仕事をしながら、その片手間に、料理の下拵えをしてしまいます。
これが、他の人達にとっては、理解出来ない事のようです。
包丁を出したり、野菜を並べて置いたり、直接料理とは関係のない事を、淡々と・・して行くからです。
でも、そういったした準備が出来ていると、料理に入ってからは、とても早く作業が出来るのですよ。
そこの所が一般の人達には分からない。
料理は料理の時に全て、準備しないと我慢出来ないのです。
そこの感覚が私とは違う。
怠け者の仕事術とは、手抜きの時短ですが、仕事の内容をupさせる為の、効率化の方法論でもあるのですがね。
パソコンの作業をしていると、uploadしたり、する時に莫大な時間をただ、「待つ」という事に費やす事がよくあります。
私は、幾ら美味しい店でも、並んで待って食べるようなお店には、行きません。
私の場合には、不味くても、待たなくてよい店に行きます。
同様に、渋滞で待たなければならない時には、渋滞の収まった深夜に走ったり、遠回りをして、渋滞を避けます。(渋滞でも、遠回りするよりも、待った方が早い場合でもです。)
パソコンが、保存のために時間が掛かる場合には、レコーダーのダビング作業や、他の作業を同時進行でします。
上手に二つ、三つの作業を掛け合わせれば、「待つ」・・という無駄な時間が必要ないからです。
その作業がその時に終わらなかったとしても、次にはその作業の途中から始められるからです。
そういった、事を積み重ねる事が時短になるのです。
そういった努力を重ねても、私が、運命から要求されている、私の人生でやり遂げなければならない、与えられた仕事の、100分の1も出来はしないのです。幾ら、効率的に仕事しても、幾ら生真面目に仕事したとしても、やはり、曰く・・・、
人生は短い!!
勿論、誰しも自ら進んで「物を探したい」分けではありません。
当たり前の事ですが、「物が見つからない」から探すのです。
では、「なぜ人は物を探すのか?」という疑問ですが、よく人を観察していると、常に物を探している人と殆ど物を探す事のない人と、二種類のタイプ(性格と言った方が良いのかな??)の人がいるのです。
つまり、言い方を変えると、物を探さないタイプの人は、全く物を探す事はなく、探すタイプの人達は常に物を探し続けているのですよ。
この文章は変で、当たり前の事を言っているように思えますか??
いえ、そうではありません。大変な事を言っているのですよ。
人間は全てその二種類の人間に分類されるという事を言っているのです。
でも、そこで重要な事は、生まれついて、日常的に、物を探して来た人達は、産まれついて、常に「物を探している」ので、「ものを探している」という事の損失や、探しているという意識すらないのですよ。
また、物が無くなっても、それが出て来なくても、結構、平気なのですよね。
それも普段の日常だからですよね。
そういうタイプの人達と物を無くさないタイプの人が一緒に仕事をすると、大変な事になります。
大喧嘩が起こってしまうという事・・・。
物を探す人は、原則として、片付けられない人なのですが、不思議な事に、整理整頓の上手な人でも、物を探せない人がいるのです。
無意識に、自分の手近な所に何時も物を置きっぱなしにするタイプの人は、物を探すtypeの人である事は、当然なのですが、逆に、一見するととても整理は上手で、部屋も見た目にとてもよく整理整頓されているように見える部屋が、しかし逆にあまりにも上手に仕舞い過ぎて、どこに何をしまったか分からなくなって、結局の所、物探しをしなければならなくなる人もいます。
椎名町の事務所も(ある意味では)、物が二度と出て来なくなってしまうので、私は「ブラック・ホール」と呼んでいます。
椎名町の事務所は上記の二つの分類で言えば、片付けられないtypeの人達では、所謂、ゴミ屋敷タイプの人間にに該当します。
色々たくさんの人達に物探しの理由を尋ねると、まず第一番目にあげられる理由がその「・・・ぱなし」です。
「・・しっぱなし」の人達にその理由を尋ねると、そのタイプの人の一番目の弁解は、結構ワンパターンで、先ほどの文章・・・「時間がなかったので、後で、片づけようと思ったのだが・・・!」という一言に尽きるでしょう。
そういった、「・・・しっぱなし」のタイプの人は、個人の家庭では、自分だけの問題になりますので、放って置くとして、会社の場合のように、多くの人が同じ物を使用する場所では、そういった性格では会社自体が成り立たなくなって論外[1] になってしまいます。
外の世界では、・・つまり、会社などでは、「っ放し」のtypeの人は、幾ら仕事が出来た人だとしても、下手すると、首になってしまうのですよ。(当然、仕事が人並みで、しかも、「っ放し」な性格な人なら、確実に首です。)
それなのに、本人は、「自分はなんの落ち度もなかったのに首になってしまった。」なんて弁解していますがね。
それは本人に取っては、当たり前のお話で、物を失くしつけている人にとっては、物を無くすという事は、そんなに周りが大騒ぎするほどには、大した事はないと思われてしまうのですが、立場を変えて、その「物」で実利を上げなければならない・・「会社」としては、金額の損失を伴う大損害なのですから・・・。
会社も或る程度大きな会社では、整理整頓のための専門の部署まであるぐらいですから、私達部外者が資料の提出を求めても、それが出てくるまでには大した時間はかかりません。
寧ろ、そんな大した仕事をしていない中、小の会社の方が、資料が出てくるまで、応対に時間がかかる事の方が多いのですよ。
それは、仕事の規模が小さいので、資料自体が少ないので、分類をキチンとしなくても、時間を掛けて探せば、何とかなるからなのです。
この会社のお話は、この文章を読んでいる人には殆どの人達には、「無関係の事だ」と、思われるかも知れませんよね。
しかし、家庭内の仕事も、子供達の勉強も、その効率、(或いは子供自身の能率と言ってもよいかもしれませんが)、その整理法が根本の原因である場合が多いのですよ。
つまり、人は自分の頭の中をキチンと整理すれば、当然、成績も上がるのです。
一生懸命、勉強していても、中々能率が上がらない・・・と言う人は、結構、普段から物を無意識に探しているのではないかな??
小学校から高校、大学までの勉強の大半は、(90%以上の)記憶です。
殆どの学習は、「どうすれば記憶が出来るか?」という学習であり、指導であり、その記憶をするためのhow-toの参考書が無数に出版されています。
でも、私の理論では、根本的に違います。
芦塚メトードでは、記憶は興味であり、興味を持った物は無意識に覚えられるし、その覚えるのに掛かる時間は1000分の1秒に過ぎません。
また、興味を持たない事は、覚えられないし、無理やりに記憶したとしても、次の日には忘れてしまいます。
そう言った無理やり記憶ばかりやっていると、全ての記憶が曖昧な、うる覚えの記憶になってしまいます。
しかし、人間のarchiveに収められた記憶は、その人の本棚や、倉庫と同じで、片付けられない人には、再び思い出す事はありません。
つまり、「思い出す事が出来ない」・・という事は一般の人達からは、「覚えていない」・・・という風に捉えられてしまいます。
芦塚メトードの前提は、記憶は、「記憶しようとしなくても、記憶が出来ている」という前提に立っています。
つまり、ここの部分が、一般の考え方と基本的に異なっているのです。
芦塚メトードでは、人間の記憶は潜在意識が司るものであり、それを前意識迄連れて来る水先案内人が必要になるのです。
人間は必要な時に、必要な記憶をどうしても思い出せない人達が多いのですが、それがアルツハイマーのような病気が要因である場合を除いたとしたら、その人の中の水先案内人が、よっぽどサボっているのか、仕事に向いていないのか??という事に尽きるでしょうね。。
・・では、どうして普通の人達は、自分の記憶を、思い出せないのか??
それは、この論文で書いている、「物を無くす」事と同じ原因があるという事が言えるのです。
人は、ある事を記憶するのに、その事だけを覚えます。
しかし、私が常に述べているように、記憶を引っ張り出す糸口が多ければ多い程、記憶は楽に引っ張り出す事が出来るのです。
夜の大海原の中で、優れた水先案内人は、月の方向や山の影、その他の多くの物を見て、正確な自分の居場所と進路を見つけようとします。
でも、一般のヘボい水先案内人は、くらい月夜の大海原の上で途方に暮れるのです。
でも、優れた水先案内人になるためには、そんなに難しい勉強は必要はありません。
その糸口のコツを掴めば良いだけなのですから・・。
芦塚メトードでは、記憶を引っ張り出す時に、どの糸口を使えば引っ張り出せるのか??というTechnikを指導します。
人間には五感というものがあります。
五っの感覚は、人間の体では、それぞれ、耳、目、鼻、口、肌等々に表さられます。
つまり、その五感の殆ど全部が、頭の中にある器官なのですよ。
その感覚の全てを使って、忘れているたった一つの事を思い出せば良いのですよ。
一つの記憶があるとして、その状況の状態を思い出せば、忘れる事はありません。
ある日ある時、ある人と、どうして、こうして・・と、その時の状況を正確に思い出せば、しっかりと確実に思い出せるし、忘れる事もありません。
しかも、忘れている人達へも、記憶を正確に喚起する事が出来るのです。
こういった記憶法を、私は「芋蔓式記憶法」と呼んでいます。
こう言った芦塚メトードによる記憶法の方法論は教室のlessonにもそのまま、応用されています。
ある時、私が初めてone lessonをした子供がいます。
lessonで、演奏を間違えたので、「じゃあここから弾いて・・??」と、左手のpartを私が弾くと、先生が「この生徒は未だそのlevelの生徒ではないから、無理です。」と言って来ました。担当の先生は、「その生徒の学年が低いから、そういった暗譜は出来ていない。」と思ったのです。
私はその先生には構わず、そのままその方法論でlessonを続けました。
30分のlessonの間に、その生徒は、ちゃんと私がどのpartを弾いても、一発で何処の小節を弾いているのか?思い出せるようになったのですよ。
つまり、年齢や技術のlevelが低いから、そういったデジタル型の暗譜法は出来ないというのは、先生達の一般的な思考パターンの思い込みで芦塚メトードではないのですよ。
これは、両手の中の一声部だけを奏く・・という方法論だけではなく、「*Pageの*段目の*小節目から弾いて!」とか、「練習番号*から弾こう!」とか、私のlessonでは、常に日常的に色々な記憶をsuggestするための指示を出します。
それなのに、折角の芦塚メトードの指導なのに、先生達は「急いで楽譜を見て!」とか、「ここの所でしょう??」とか、アナログ的な唯一無二の記憶の方法論で、生徒に手助けをしてしまいます。
私の言っている一言、一言がデジタル型の記憶法を示唆して、指導しているのが分からないのですよ。
という事で、記憶が曖昧で何時までも覚えられない先生達の理由が分かります。
私達、教育に携わる人間は、その生徒の部屋の整理整頓の具合で、勉強の成績を見る事が出来ます。
・・てな事を言うと、親は「だから、『部屋を片付けなさい!』って言ったでしょう!」と言うかもしれませんね。
でも、部屋が片付いているから、成績が上がるという訳ではありませんよ。
@「勉強が出来る」のに「部屋を片付けられない」タイプの人は天才型の人です。
だから、或る時には人が驚く程の凄い良い成績をとっても、次の試験では極端に低い成績を取る。
上手くローテーションが合えば、東大にでも合格するけれど、コンディションの悪い時にタイミングが合ってしまえば、浪人は覚悟しなければなりません。
A部屋が、いつもいつもキチンと整理されていて、いつでもぱっと物が取り出せる人は、秀才型です。
常時、コンスタントな仕事をする事が出来ます。
Bしかし、問題なのは、一見すると部屋も片付いているように見えて、どこに何をしまったのかが分からないタイプの人達です。
その人達が、一見整理上手に見えていても、実は物をなくしてしまうタイプの典型の人達になるのです。
でも、その人達の言い訳のパターンは、「後で一度に片付けよう・・と思った!」「それが時短になると思ったから・・」という「一言」に尽きるのですよ。
補足:
C実はこれ以外にも、ここに書いていないタイプの人がいます。
実は、今の子供達はそのタイプの人が、一番多いのではないのでしょうか??
その人達は、「片付けが全く出来ないタイプ」の人です。
子供達の場合には、「親がやってくれるから・・」が主な理由で、子供のうちは、それでも何とか済みますが、大人になっても、治らないと、「片付けられない症候群」の人間になってしまう危険性があります。
そうなったら、もう、「人間失格」ですからね。
追記:物をなくす人の行動パターン
相も変わらず、『「探す」という事程、無意味な時間を無駄にする事はない・・』と、私が、30年間も言い続けているのにも関わらず、椎名町のブラックホールは治らないのですよ!!
その原因は上記の様に、「後でまとめて片付ける」という事が、時短と勘違いしているからである。
整理上手な人は、綺麗に整理してしまって、いざ使おうとする時に、「何処に仕舞ったのか??を思い出せない」ばかりでなく、仮に思い出せたとしても、「出す事が一手間で、いざ出そうとすると、仕事に間に合わなくなってしまう。」というタイプの人達です。
でも、私に注意された通りに、その場で、仕舞っているのに、物を無くすという場合もあるのです。
それは整理の仕方に問題があるのです。
その場合の特徴は、分類迄は出来ているのに、その仕舞い場所が複数にあるのかさもなければ使い勝手を考えないで整理をしてしまうという事に尽きます!
椎名町の私の座る目の前のテーブルにあるリモコン入れの中に、私が普段、必要としている、しかも最小限の文具の小物が入れてあります。
一番利用頻度の高い、チョッとした作業をするのに、日常的に使う鉛筆やペーパーナイフやカッター等であります。
それを私以外の人間が使用した後で、仕舞うのに、文具入れには戻すのだが、目の前のリモコン入れに戻してくれないのだよ。
何故って??
「だって、そこには文具以外の物も入っているし、大体テレビのリモコン入れだから、分類は間違えているだろう??」てな、事だよな!!
つまり、物は文具という大きな括り戻せば良い・・という事ではなく、当然、元の場所に戻すのならば、物がなくなる事はないのだよ。
しかし、物を無くすタイプの人達は、自分の身近な場所で、しかも分類上はちゃんと合っている場所に戻しているのだから、間違えた事をしている・・とは思っていないのだ。
しかも、正しい場所に戻した・・と思い込んでいるのだから、その場所が何処であるのかは、もう既に覚えていないのだ。
それでも、その場所に未だそれが在る間は、探し出せるのかも知れない。
しかし、その場所を一度動かした時点で、それは二度とこの世界に現れては来ないのだ。
片付けられない女の場合には、その場にポイ置きをする。
それまでで済むのなら、美観以上の問題では、大した事はないのだが、ポイした上に更にポイをする、そしてそれが繰り返されると、不思議な事に積み重なった物は、ブラックホールに落ちて行くのだよ。
今現在でも、椎名町かハイツのブラックホールの何処かに失われてしまったものが無数にある。
しかし、私が不思議に思う事は、失われた物は、必要なものである事が多いので、必ず買い直しているのだから、物は椎名町の事務所の何処かに無数に存在しているはずなのだよね。
しかも、椎名町にしても、ハイツにしても、物の置き場所(所謂、スペース)はそんなに多くはないのだよ。
これだけ物を無くすという事は、例えブラックホールであったとしても、その中に入り切れなくなったものはホワイトホールから溢れ出さなければならないのが、自然界の法則なのだよ。
それなのに、二度と出て来ないというのは、どういう事なのだろう??
それだけの量を保存出来る場所は、やはりブラックホールだよな??
これこそ未知との遭遇なのだよな???
「物をなくす」と言う事は、不注意によって、何処に置いたかを記憶していない・・という、不注意ミス以外では、しっかりと物を仕舞ったにも関わらず、頭の中のアーカイブ(倉庫)の中から、その物を置いた場所検索するという作業がうまくいっていないということです。
それを私は、弟子達や生徒達には、よく「本棚の整理の仕方」に例えて説明をします。
実際には、オケ練習に参加している生徒達に、「今迄、オケ・室内楽や個人のlesson等の習って来た楽譜を、どういう風に分類して、どういう風に仕舞っているのか?」を質問することがあります。
また、教室の分類と同じ分類に、生徒の部屋でも、楽譜を分類させる事もあります。それは、教室のアーカイブと整合させるためです。
本棚の整理で一般的に整理されているとされる、モデルは、外国のテレビ・ドラマ等で、古いお城や宮殿の書庫の本棚が登場するシーンでは、きちんと本のサイズ別にとても美しく整理をされています。
但し、それは製本の歴史から来るもので、今の社会では現実的なものではありません。
昔々の活版印刷では、書物の余白のスペースが、かなり大きく取られていました。
本は昔々はとても高価なものだったので、本はPageを保護するためにとても分厚い表紙で装丁していました。本が傷んで来ると、その分厚い本の装丁を直していたのです。
ヨーロッパでは、今でもそういった本の装丁を専門にしている職人の人が沢山います。
装丁を新しくする度に、本の端は少しカットされて、揃え直されて来ました。
何回かのカットの後では、本の余白は全く無くなってしまいます。
そうなると、装丁は無理になって、本の寿命になるのです。
私はドイツ留学中に、今では出版されていない昔々の楽譜を大量に買い込んで来ました。
教室で見る事は出来ませんが、ハイツにarchiveされています。
装丁という習慣がなくなると、本の整理は昔の技術になってしまいます。
そして、本棚の整理は難しいものになって来ました。
本がインテリアではなく、仕事の資料や道具として、本に依存して仕事をする人たちの本棚は、決して美しく整理されている分けではありません。
仕事上で、探し出し易いように、必要な時に検索しやすいように、分類別に機能的に整理されているので、異なったサイズや装丁の本がいっしょに分類され、収められているので、見た目には決して美しいとはいないのです。
右側の写真は、江古田教室での本棚の光景です。
楽譜の大半は椎名町に引っ越してきましたが、椎名町では、扉の付いた本棚を購入したので、こういった雑然とした感じはありません。
少し進歩したのかな??
私の場合には、私がその仕事に取り掛かる前に、私はその仕事の内容によって、どういうジャンルの仕事に分類するか・・・とか、必要な資料類や書物の保管場所を先に決めてから、仕事に取り掛かります。
殆どの人達が仕事が終わってから、片付ける場所を決めるようですが、私の場合には、その仕事に短い場合でも、2、3日、・・・長い場合には、本当に何十年も掛かってしまうのです。
ですから、デスクの上に資料や反故が散らばったままにしていては、他の仕事が出来なくなってしまうからです。
私の場合の「怠け者の仕事術」では、私は仕事が少しでも、行き詰まると、無理をしてそこの所をなんとかしようとはしません。
そのまま、保留にして、箱やfileboxの中に仕舞い込んでしまいます。
凍結保存(freezedry)するのです。
そして、直ぐに次の作業に移ります。
保留にした仕事は良い解決案が見つかったら直ぐに解凍をして仕事に入るのです。
だから、一度、部屋の中のアーカイブに仕舞った仕事は、良い解決案(アイディア)が見つかった時に、直ぐに出せないと折角のアイディアが台無しになってしまいます。
アイディアは新鮮だから美味しいのですよ。
少しでも出しっ放しにして置くと、直ぐに腐ってしまいます。鮮度が命なのですよ。
だから、パッと仕舞えて、パッと出せる事がとても重要な事になるのです。
私の自宅は物が溢れて散乱しています。
しかし、私は灯りの消えた真っ暗な部屋の中ででも、資料を探し出す事が出来ます。
歳を取ってからは、夜、何度も起きてトイレに行くようになってしまいました。
でも、枕元にはメガネは置いていません。
寝惚けていて、目があまり見えないので、メガネを枕元に置いておくと、メガネを壊してしまうからです。
だから、部屋の灯りをつけないままに真っ暗な部屋をトイレまで歩いて行きます。
つまり、どっちみちメガネを掛けたとしても、寝起きの弱い目では全く見えないのでね。
それでも、何かにぶつかる事はありません。
部屋の様子はちゃんと頭に入っているのでね。
という事で、先程も同じ話をしましたが、私は本棚から1冊の本を真っ暗闇でも、探し出す事が出来ます。
先程のお話は、原稿を書いている時の原稿のお話だと思われるかもしれませんが、実は本を書く作業は、その前の資料調べの段階が非常に重要です。
一つの原稿に対して、結構幅広い分野に付いてコツコツ調べなければなりません。
また、私が生徒達に何時も言っている事なのですが、原稿を書くときには、絶対に記憶に頼ってはいけないという鉄則があります。
どんなに自分にとって、当たり前の事であったとしても、ちゃんと歴史の年代や文字のスペルに至る迄、辞書や資料で、キチンと確認を取らなければならないのです。
そういった細かい資料類も辞書類も含めて、書物をいちいち、丁寧に、本棚に戻していては、次にその仕事(作業)に、取り掛かる時に、またまた同じ資料を探し出すために、最初と同じ時間が掛かってしまいますので、あまりにも非効率で仕事にならないからです。
かといって、「出しッぱなし」にしてしまっては、どこにその資料を置いたのか?どこにその本が行ってしまったのか?・・・という、「物を探す」というジレンマに陥ってしまいます。
だから、超怠け者の私としては、「物を探す」という一瞬の手間さえ惜しむための、「その仕事(project)のための、仮のアーカイブを作る」という事は、とても大切なセレモニーとなります。
オケ教室や花園教室のオケ・室内楽の楽譜の現在進行中の楽譜という分類です。
そして、その仕事(作業)をフリーズさせる時には、私の場合は、そういった、書物や五線紙楽譜等や、定規コンパス、鉛筆に至るまで、放り込めるように、文房具で売っている書式のfileboxではなく、大きさにゆとりのある男性用の背広の箱を大量に背広の仕立て屋さんから買い込んで来て、その中に放り込んでindexを付けて半間の押し入れに放り込んいます。
だから、10年経っても、20年経っても、20位の仕事のproject全てが、一瞬で取り出すことが出来ます。
勿論、コンピューターが無かった頃の箱型管理systemです。
一人で仕事そのするのならば、何も、整理のために時間を割く必要はないかもしれません。
自分の仕事を、プロジェクト別に分類して、まずその整理の場所を細かく分類すればよいだけだからなのです。
後は、仕事をしながら、その時に必要になった資料類を、予め分類された正しい場所に収めていけば、いつの間にか、放っておいても、アーカイブはきちんと整理されてしまうのです。
問題は、オフイスなどで、資料そのものが複数の分類項目に該当する場合に、そのどちらに分類するかで、納める箇所が変わってしまうケースです。
勿論、同じ資料をコピーをして2箇所、3箇所に納めれば、問題は無いのでしょうが、それでは作業時間や経費、保存場所などのとてつもない無駄を作ってしまいます。
だから、そういった場合は、仕事内容を詳しく吟味して、大項目と小項目を作れば、不必要な資料のコピーをする事は避けられます。探す手間も必要最低限で収まるからです。
ただ、検索のためのインデックス付は、資料を納める場所に関しては、非常に上手下手が出てしまう重要なチェック・ポイントとなります。
一つの作業で使用した資料は、次の作業では全く別のキーワードで必要になるかもしれないし、または別の人達が必要になるかも知れないからです。
ですから、インデックスはどんな内容の仕事をしようとしていても、何時でも、誰でも、見つけられるという普遍的な大前提のインデックスでなければなりません。
つまり、その場、その場の、あまり細かい分類に捕らわれてしまうと、検索のキーワードが別の種類の仕事に移行した時や別の人達の仕事に移行した時に、アーカイブから探し出すのが困難になってしまいます。
そういう時には、普遍的な大前提を取る、ツリー構造の分類はすこぶる機能的です。
資料が少ないときには、大項目の分類で、増えるに従って、中項目、小項目と増やしていけばよいからです。
こういった整理術を日頃から、自分の日常の生活に応用して、常日頃から心がけておくことは、作業の効率化のためだけではなく、日常の普段の生活でも、大きな手助けとなります。
この私のsystemは、ある意味、記憶のメカニズムと同じ考え方なのです。
多くの人達は、記憶の仕方を勘違いしています。
成績の悪い生徒は、「覚えられない!」と、いつも嘆いています。
しかし、本当は、人間は無意識に記憶するものなのです。
人間はなんとなく覚えた記憶は、その必要性がないので、archiveの中に仕舞いこまれてしまうのです。
一度、倉庫にしまわれた記憶は、余程の事がない限り、日の目を見る事はないのです。
それこそ、どこかの事務所のブラックホールと、同じなのですよ。
だから、その仕舞い込まれた記憶を呼び出すためのindex付けが必要になるのです。
覚え切らなければ、或いは、覚える気がなければ、その分、tree構造を緻密に作れば良いだけなのです。
順番に辿って行けば、回答が導き出せるようにです。
[定型作業]
「江古田詣」で先ず、生徒達が覚えるのは、何処の会社も同じ、お茶汲みであり、コピー作業であります。
そう言った見習い期間の体験学習を終わって、或程度の仕事がこなせるようになった時に、教室の先生として、次の仕事の手順として、先ず、覚えなければならない作業は、routine作業です。
routine作業の事を教室では、「定型作業」と、呼んでいます。
「定型作業」とは色々な仕事の流れの中で、必ず出て来る作業です。
また、比較的に覚えるのが簡単な作業でもあります。
私達が、わざわざ「定型作業」と言い換えているのは、routine作業とは、言葉がよく似ているために、誤解を招く事がたまにあるので、その違いをはっきりとさせるためです。
取り敢えず、話を分かり易くするために、ルーチン作業の方から例を上げて説明しましょう。
今日では作業の多くにパソコンを使用します。
しかし、パソコン作業では、パソコンが自動的に作業をしている時には、人は何もする事がなくなってしまう事がよくある!
しかも同じ作業を、何度も繰り返えさなければならない場合もよくあります。
そういった時に、パソコンの作業に慣れていない人は、パソコンが、自動で作業している時にも、パソコンの表示画面をぼんやりと見ていて、パソコンの仕事が終わるのを、待っていたりして、私から怒られます。
そういったパソコン等の出来上がりを待たなければならない場合には、最初の一回目のパソコン作業の時に、パソコンが作業を終わる待ち時間をタイマーで計測して、次の作業からは、パソコンが自動作業に入ったら、タイマーを使用して、他の平行作業をすると良いのです!
しかし、敢えてここで、こんな事を言うのは、こんな簡単で当たり前の事が、要領の悪い人には、不思議な事に、「出来ない!!!!」からなのですよ。
つまり、仕事をする時に、一つの仕事しか出来ない人が多いのですよ。
そういった人達には、同時に二つの作業をするという事は理解出来ないのです。
常に、一つの作業が終わったら次の作業に取り掛かる・・という無駄をします。
私は、体調が悪いので、1年に何回かしか、池袋に出かけません。
マンションの前の駅から、僅か7分程で、行く事の出来る池袋ですら、体調との相談をしなければなりません。
だから、滅多に無い体調の良い時には、出来る限り池袋の買い物を纏めて済ませます。半年ぐらいに溜まりに溜まった買い物を一気に片付けるのです。
勿論、最後の買い物が終わるまで、私の体調が続く分けではないので、途中で疲れてしまって、買い物が後、2つ、3っつ残ったままに、急いで、自宅に帰る事もよくあります。
これは体調なので仕方の無い事なのです。
先生達が仕事の買い物をしに池袋に行く時に、ついでに、私の買い物も買って来てくれるように頼む事もあります。
しかし、多くの場合には、私が頼んだ買い物は忘れられてしまう事が多いのです。
何故??つまり、教室の仕事の延長線上に、その私のプライベートの買い物のdataがないからです。
今も、昨年の8月にバッテリーの切れてしまったブラウンのヒゲソリがあります。購入した店でバッテリーを買おうと思ったのですが、「メーカーに送らないとダメだ」と言われてしまい、池袋のビック・カメラに、仕事の道具を買いに行くついでに、ヒゲソリを持って行くように頼んだのですが、もう、半年近く経ちますが、未だに椎名町のお願いした場所に置いてあるままです。
この半年、何度もビック・カメラに出かけて、買い物をしているのに、ヒゲソリはそのまま置いてあるままです。
それが、無駄な行動をしなければならない、時間の損失であるという事に思いが及ぶ事はないのです。
ヒゲソリをビック・カメラに出すための予定を組まない限り、修理(バッテリー交換が修理というのなら・・)に持って行く事はないという事でしょうね。
同時に二つ、三つの事を熟すには、ある程度の訓練が必要です。
右の写真は、私の愛用のCASIOのタイマーです。
このタイマーは、色々と特別な機能を持っていて、非常に使いやすいし、便利なタイマーです。
先ず、上の青いボタンT1、T2、・・・は、それぞれ独立したタイマーで、同時に4つまで使用する事が出来ます。
左の青いボタンは時間の設定ですが、通常のキッチンタイマーと違って、最大99時間59分59秒までの設定が出来ます。
という事は、約4日と4時間のタイマーがset出来る分けです。
それと、勿論、00の状態でstartさせると、ストップウオッチになります。
計測は勿論、最大99時間59分59秒ですよね。
勿論、通常は、デジタルの時計として、机の上に鎮座まします。
時々、どのタイマーに何をsetしたのか、忘れる事があるので、タイマーの下にあるメモ用紙に、「T3風呂」とか、メモ書きする事は欠かせません。
「人生は短い」・・・少しでも、computer作業等で、空き時間が出来たら、他の作業をやって、パソコンが仕事が終わる迄の無駄な時間を有効に使います。
そのためには、タイマーを幾つも使い熟すのは、必須条件です。
でも、時間を無駄に使う人は、そもそも、「待ち時間をタイマーで図る」という事すら、出来ないのだよ。