前ページ

逆に「人間は何故いやなことをいつまでも忘れられないのか?」、ということも、実は、これと同じ原理なのです。
人間にとっての
「いやなこと」は、それがその人の記憶にとって、「非常に比重の大きいこと」 だから忘れられないのです。
脳は、日常の中で興味のあることだけを記憶に留めようとする性質があり、興味の無いことはその場で消去されてしまいます。
比較的比重の軽いものは脳の奥の潜在意識にしまわれ、中位のものは前意識という層にしまわれます。
そして意識の中に保存されたものだけが「記憶」として私たちの脳の中に蓄積されるのです。

確かに記憶力には個人差があります。
電話番号や歴史に関する年号、数学の公式などのような無意味なものでもいくらでも覚えられる人もいれば、親しい人の名前すらなかなか思い出せずに嘆いている人もいます。
現代の日本の教育の現場では、勉強の90%は記憶によるもので、丸暗記さえすればいくらでも成績をあげることができます。

しかし、実際に人間の脳の能力には、判断力、理解力、創造力、想像力、構成力、などなどや、それとは別に言葉には言い表しがたいが、閃き(ひらめき)というものもあります。
そして、その中のたった一つの能力として記憶力があるにすぎないのです。
ところが日本の一般的学校教育では、そのたった一つにしかすぎない記憶力を、成績やその人の能力を判断する基準にしてしまうという神話があります。

20世紀の学校教育では、その神話に基づいて教育が行われて、進学をし、就職をしてきました。
その為に感性や判断力、すぐれた分析力などを持ちながら、ただ単に記憶力が人から劣っている為に、その才能が見過ごされて、落ちこぼれてしまうということがまま多く見受けられてきました。
しかし、実社会では記憶力を要求されるウェイトはさほど多くないのです。

「プロになるには」にも少し書いていますが、プロとして、著作をしたり、公演を行ったりする場合は、曖昧な記憶というものは絶対に許されるものではありません。
その為、年代や人の名前のスペル、単語の一つ一つに至るまで、いちいち文献や辞書による確認の作業がなされなければなりません。
きちんとした仕事をするには(どのようにその人の記憶が正確だとしても)記憶に頼ってはならないのです。
それなのに、学校教育では「丸暗記」一色の教育がなされているのが現状です。




トップへ

 

「memo」
右脳と左脳の違い・・・右脳信奉者には左脳の長所を認めない。
右脳と左脳の違いが発見された経緯

記憶法の違い・・・老人のボケと記憶法の違い

右脳はひらめき型

左脳は情緒表現にはいいが、記憶法には良くない。・・・・俳句のはなし
左脳は、雑音を感情表現として捉える事が出来るが、右脳では、ただの雑音としてしか聞こえない。左脳型の人間人のpianistの演奏のpedalingは音の粒を聞こうとしないし、和音が濁っていても気にならないという、日本人独特の欠点がある。

 

「天才」と呼ばれる人達に共通していることは、「非常に右脳の働きが活発である。」ということです。物理学者のアインシュタインや有名な画家のアングル等が、右脳を刺激する音楽に対しての造言旨が深いということはうなずけることです。
ヨーロッパでは、「アングルのヴァイオリン」という諺もあります。
日本の学習法は、記憶onlyの左脳型の学習法であり、記憶法の記憶の方法論も左脳型の記憶法に偏った方法になっています。
本来は、右脳と左脳のバランスがとれた教育がより望ましいのです。

 私が若い頃、教育関係の大学で講師をしていた時の教え子がある小学校に就職していました。
その学校では、同じ学年のクラス対抗で、毎週同じ漢字を覚える課題を生徒に出して、クラス単位で成績を競っていました。
学年主任の先生のクラスが常にトップの成績で、他のクラスの先生達は悩んでいました。
という事で、私の教え子である、先生から、
「自分のクラスの漢字の成績がなかなか上がらないので、どう指導したら良いのか?」という相談を受けました。
先ず、その学校の漢字指導の実際を見てみることにしました。

まず、今どのような方法で子供たちに漢字を覚えさせているのかを聞きました。
1週間に30個の漢字の課題が出て、毎日6個ずつの漢字を覚えるようにしていました。
そして、その6個の一つずつ対して20回(つまり合計120個)漢字を書いて覚えさせるようにしていました。
子供が書いたノートを見せてもらいましたが、最初の一文字、二文字は、丁寧に、きれいに書いてありますが、だんだん文字を繰り返し書く度に、きたなくなって行って、雑な字になっていき、20個目に書いた漢字などは細部が曖昧になり、どんな字なのか分からないように書かれていました。

そこで、私がその先生にアドバイスしたことは、
「漢字を覚えられるだけ書きなさい。」というふうに生徒に指導しなさい、ということでした。
その通りに実行すると、最初は子供たちも不安で、それでも、おっかなびっくり、自主的に4〜5個くらいは書いていましたが、次第に書く個数が減ってきて、しまいには1個しか書かない子も出てきました。
しかし、その1回だけで、全ての漢字が覚えられるようになったのです。
そして、その先生のクラスは全員が100点満点をとれるようになり、学年でトップのクラスになってしまいました。
芦塚メトードを、一般の子供達に応用してどの程度の成果が上がるかの、実験も兼ねていたので、
「他の先生にはこの方法を教えてはいけない。」という条件下でのアドバイスだったので、他のクラスの先生は「どうして?」と不思議がって、やっきになって、対抗するために、もっとたくさんの漢字を書かせるようになりました。

最初は20個ずつ書かせていたのに、40個書くようにしたり、学年主任の先生などは、100個ずつ書くように宿題を出し、子供たちは毎日600個も漢字を書かなければいけなくなってしまいました。
毎日家に帰ってから、4時間も掛かって漢字を書き、それでも出来ないので、今度は母親や父親が手伝って、宿題を書いても間に合わない・・・という状態にまでなり、それでも成績は下がる一方でした。

時間をかけて、コツコツと毎日、600個書いたクラスの成績が下がり、1個ずつしか書かせなかったクラスがトップになったのはどうしてだと思いますか?

 実は、この600個書くという作業は、私のメトードでは、「覚える為の作業」ではなく、「忘れる為の作業」になるのですよ。

 「覚える為にはどうすれば良いか?」という本はたくさん出版されていますが、「忘れるためにはどうしたらよいのか?」という本は、これまで、1冊も見たことがありません。

人間は忘れたいことだって沢山あるはずなのにどうしてなのでしょうか。
どうして忘れたいと思ったときに忘れられないのか。
忘れるということはどういうことなのか。

私は高校生の時に、覚えるための本は無数に出版されているのに、忘れるための本は一冊も出版されていない・・という事に着目して、忘れる為のmethodeを創りあげました。

その方法論の一例です。
 例えば、大嫌いな人がいたとします。
その人のことを、忘れたかったとします。
では、その人の名前が、例えば田中さんという人だったら、まず、その人の名前を別のよく似た名前に覚え直します。
例えば田村さんとか。
「あの人は田村さん、あの人は田村さん・・・、田中さんではなくって、田村さん・・」と自分で思い直すようにします。
そして次にはもっと違う名前にしていきます。

例えば村川さんとか。
また
「あの人は村川さんだ。あの人は村川さんだ。」と覚え直します。
そしてまた‥・・・というようにどんどん別の人の名前に置き換えていくのです。

するといつの間にか本当にその人の名前が思い出せなくなってしまいます。違った情報を頭に入れて「思いかえ」をしていくことによって、だんだんそれを曖昧なものにしていくやり方です。

先程の漢字を沢山書かせたというのは、実はこの記憶を曖昧なものにしていく方法に他なりません。
沢山書けば雑に書くようになります。

すると漢字の細部をいいかげんに書くようになります。
書けば書く程忘れていく「うる覚え」の状態を作りだしているのです。 

儒教型の根性主義の教育は、努力して忘れる勉強をしているような無駄な努力なのです。
本当ならば、うろ覚えとしっかりと覚えた事を区別出来るようになれば良いだけなのですがね。
ドイツの国民は数字国民です。
ですから、ドイツの小学生達は東京の質問をするのに、「東京の緯度と経度は?人口は?都の面積は?等々」数字の質問をして来ます。
塾教育の日本の生徒達は、ドイツの子供達よりも数倍も時間的に勉強しているのにも関わらず、何も覚えていません。
不思議な事なように無知です。
いつも、
「あなた達は、学校でいったい何を習っているの?」と質問しなければならない程、何も知りません。


記憶が曖昧なのは、未だ救いようがあるかも知れません。
自分が損をする事はあっても、人に迷惑をかける事は少ないからです。
しかし、「困ったちゃん」は、記憶を自分の都合の良いように、すり替える人達です。
こういった人達は、記憶の「思いかえ」を無意識に行って、それを本当の記憶として、認知してしまうのです。
平たく言うと、自分の都合の良いように過去の出来事などを思いかえてすり替えて行く、というとても幸せな性格の人です。
最初は自分に都合の悪い事をひた隠しにする為に嘘を言っていたのに、いつの間にかその記憶がその人の脳の中で都合の良いように書き換えられてしまうのです。
困ってしまうのは、それが他の人にとっては全くの架空のことであったとしても、本人はそれを
「本当のことだ」と信じてしまっていることです。
本人にとっては、疑いようの無い真実の話なのです。
こういった「困ったちゃん」とは、接しない方が無難です。
信じている事を、
「誤りだ!」と認めさせるのは、洗脳された宗教の人達の洗脳を解くようなものです。
それに、命を掛けなければなりません。
でも、恋人か、家族ででもない限り、それだけの労力を使うのは無駄ですよね。
一種の心の病気とも思われますが、意外とこのタイプの人は私たちの周りにも多くいることに驚かされます。

 


トップへ

 

 

記憶のメカニズムについては一般的には次のようなことが言われています。

ひとつは、「ビット」という考え方です。どちらかというと心理学の分野で使われている言葉です。
「ビット」の考え方は、「人間が短期記憶(下の忘却曲線のお話を参考にしてください。)で貯蔵できる最大数は7ビットまでである」、という考え方です。

7ビットというのは、T−a−m−a−b−0−yという文章があったら、1文字を1ビットとするとこれだけで7ビットになってしいます。
しかし、それをTと、amと、aと、boyのそれぞれの単語として記憶すると、4ビットになります。
あと3ビットは一度に覚えることができます。
またこれを一くくりにして「1文章を1ビット」として記憶すれば、あと6ビットは覚えられる、というように、1ビットにくくる量を増やすことによって、人は記憶する量が増えていくという考え方です。

 

もうひとつの塾型の記憶法の根拠は、ドイツの実験心理学者で、エビングハウスという人が考えた「忘却曲線」というものです。
人間が記憶したものが何分で忘れられるのかということを研究しました。
それをグラフで書き表したものを「忘却曲線」と言います。
要するに忘れる量のグラフです。
エビングハウスによれば、意味のない事柄については、「記憶の47%が20分以内に、66%が2日後に、79%が31日後に失われる」、と言います。
その忘却曲線に沿った勉強法が現在の予習、復習をしましょうというものです。
常にフイードバックすることで、忘れる→思い出す→忘れる→思い出す‥・・を繰り返して記憶を確実なものにしていこうというものです。
人間は常に忘れるという前提に立った考え方です。


・・・興味のある事は、忘れないのにね??アハッ!

 

 

同じ言葉の繰り返しになってしまいますが、子供達を見ていて、(本当は私が高校生の時から気付いていたことなのですが・・・)私が常日頃、疑問に感じていたことは、「人は興味のあることは一度で覚えられるし、しかも忘れないではないか。」ということなのです。
例えば、学校の勉強はなかなか覚えられない子供でも、自分の好きなテレビ番組については、その番組の曜日と時間とチャンネルと、番組に出演する俳優の名前など、こと細かに記憶しています。
自分にとって楽しいこと、必要性を感じることなどは、しっかりと覚えられるのです。
反対に興味のないことは、頭には入っていても、脳の奥深くにしまわれて二度と「記憶の引出し」から出されることがありません。

 

記憶量は、その人がその事に対して、「どれだけ興味があるか」「どれだけの価値観を持っているか」によるのです。
私達の教室の発表会を見にきたヴァイオリンの先生が
「どうして何十曲も覚えられるのか。これだけ弾けるということはきっと毎日泣きながら何百回も弾かされているに違いない。」と思い込んで、子供たちに「きみは毎日何時間位オーケストラの練習をしているの?」と聞いてまわっていました。
ところが子供達の答えは、
「オーケストラの練習は月に2〜3回しかありません。」「家ではオーケストラの曲や室内楽の曲は殆んど練習しないかな?家では譜面も開かないよね??」と言う、思いも着かない答えしか返って来ないので、「部外者には、生徒にそういう風に言うように、教室から言われているのではないのか??」と、全然納得できない様子でした。芦塚メトードが「音楽を好きにさせる教育」であるからこそ楽に確実に覚えられるということは、そう簡単には理解していただけないのです。

 芦塚メトードでは記憶に対しての基本的概念は、一般的な「ビット」の考え方とは根本的に違い、「人間は一瞬で数億ビットでも覚えられ、そして忘れない」という前提のもとに築いたものです。
しかしこの覚え方は、私が初めて思いついたものではなく、属に「天才」と呼ばれてきた人たちは皆できることなのです。
将棋の天才は、何手日の駒でも思い出して再現することができるし、モーツァルトは1回聴いただけでその曲を再現できるし、天才の絵描きは、一度見ただけの風景を完璧にキャンバスの上に再現することができるのです。

その覚え方を一部の天才だけでなく、誰でも習得できるようにカリキュラム化したものが芦塚メトードの記憶法なのです。
芦塚メトードでは記憶を色々な面からアプローチします。
構造分析による記憶、視覚的(映像)記憶、パターン化による記憶、・・・・・記憶に対する沢山のカリキュラムがあり、一人一人の性格に合った覚え万を習うことができます。
しかし、どんなにすぐれたカリキュラムでも、一度「単純に繰り返せば良い」という安易な左脳型記憶法に頭脳が移行してしまうと、(人間はより安易な方に逃げる性質があるので、一度身についた記憶法であったとしても、)元の記憶法に頭脳を戻すには大変な苦労を伴います。
もっと、極端な例になると、
「音符カードは市販のカードなので、音符カードを使った音符の読み方のmethodeは、芦塚メトードではない」・・という、暴論もあったりして、全く、困ったちゃんです。

 

ここでは芦塚メトードの記憶法の全てをお話するにはあまりに膨大すぎて紙面が足りませんので、そのうちのひとつである「映像記憶」について、ご紹介したいと思います。
以下は「映像記憶」について、あるオーケストラ練習の日に、私が子供たちに話したこと(lectureした事)をそままに記します。





トップへ

 

子供たちへの話T

 「うる覚え」

皆さんに、また1つ言葉を覚えて欲しいのよね。
どういう言葉か、っていうと
「うる覚え」という言葉。

人によっては「うろ覚え」とも言う。これがね、アナウンサーなんかもテレビで言ったりする言葉なンだけど、何故か「うる覚え」「うろ覚え」も、辞書[1]には載っていないことが多いのね。
不思議なことに。そういう言葉ってけっこうあるンだよ。
「うる覚え」っていうのは、要するになんとなくしか覚えていないところ、目をつぶって思いうかべたときにボヤーツとして思い出せないところ、そういうのを「うる覚え」っていう。

では、うる覚えをなくして正確にしかも速く楽譜を覚えるにはどうしたらいいと思う?

「・・・・・?」
簡単でしょ。楽譜を見ないで練習すればいいんだよ。
「な−んだ。そんなのあたりまえじゃん!」
そっ!!
でもそのあたりまえのことが、なかなか、みんなできないのよね。
じゃあ楽譜を見ないで練習するとどうなるか?
見ないで弾けば、うる覚えのところがどこなのかはっきり分かるね。
うる覚えのところは弾けなくなっちゃうから。
はやく正確に覚えるコツはね、うる覚えなのかをしっかり把握することなんだよ。
正確に覚えようという癖が身に付くと、学校の成績等も、ビックリするぐらい上がるんだよ??
でも、誰も信じないか???アハッ!

昨夜、上級生のお姉さんが斉藤先生のviolinのlessonを受けていました。
隣の部屋で、聞くとはなしに聞いていたのですが、3度のEtudeを音程が悪いところをその場で直しながら、弾いていました。
チョッと、堪らなくなって、口出しをしてしまいました。
「直しながら弾いているのはいいけれど、音程の悪い音とその前の音のcheckを、楽譜上にしているの??」「していないのなら、今まで弾いて、手直しをした音は覚えているの??今からcheck出来るの??」と質問しました。
「それが、分かっていないのなら、今の練習は無駄な練習でしょう??帰ってから、復習で抜き出し練習は出来ないよね?」「それは練習の時短、効率化にはならないでしょう??」
そういった、無意識な練習の無駄をなくし、効率を上げていく事の勉強は、日常の全ての行動を、無駄をなくし、効率を上げて、時短を図る事が身に付くと、見違える程上達します。
「練習もしていないのに何故上手くなるの??」

次ページ