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「でも、メールも文章なのでは?」

それは、ちょっと違うね。
メールは会話なので、文章を自分の力で構成する事はないのです。
だから、文章を書きつけていない人のメールは、兎に角、短い!
一例を上げると

今日は元気?

元気!

今何してるの?

メール、打っている!(^−^)

そりゃそうだろうよ!(>v<)

・・・てな具合かな!


一般には、文章力は、才能であるかのように言われています。

しかし、学校で作文の授業はあったとしても、文章を書くためのノウハウを指導してくれる事はないので、殆どの生徒が、暗中模索状態で文章を書いています。
才能は努力と学習の結果なのです。指導も受けた事がない子供達が、「才能がない!」の一言で片付けられては、たまったものではありません。

私達の教室は、巷の音楽教室に過ぎません。芸大の教授達のように、音楽を職業としたい生徒達が全国から集まって来るわけではありません。
近所の子供達が、学校教育の合間に、趣味の一貫で習っているのに過ぎません。
親も子供も、音楽の方に進ませたくって、全国から集まって来る分けではないのです。
しかし、私達の教室で育った多くの生徒達が、実際に音楽の現場で活躍しています。
芸大の教授達と比較しても、凄い%なのですよ。
つまり、才能とは、「好き」と「正しい指導」の結果に過ぎないのですよ。
しかも、「好き」も、正しい指導の結果なのですよ。
ある時に、教室の講師になるために、面接に来た音大生に、
「私達の教室は、巷の音楽教室なので、子供達が音楽が好きになるように指導して欲しいのですが。」と、言ったら、その女の子が、怒り出して「音楽は楽しいものではありません。」と、言い返して来ました。
私達は、
「私達の教室は、巷の音楽教室に過ぎないので・・」と、慇懃丁重にお断りしました。
楽しくもない音楽の演奏を聞かされる方は、幾らピアノが上手でも、たまったものではないよね。
音楽大学に入学するために、嫌々ながら、先生に怒鳴られながら、必死に勉強して、コンクールを目指して、留学して、日本に帰って来て、自費で音楽会を1,2回開いて、そして、
「音楽家でございます。」なんて、言われてもね〜ぇ???
ましてや、小学校の先生達のように、メモの取り方も、指導もしないで、文章力を評価するのは、無知の成せる業なのですよ。アハッ!



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3.[filingの重要性]

さて、私がこの無駄話を長々としたのには、一つの理由があります。それは多分、コクヨのカタログだった思いますが、そのfilingのページに、「ある大手メーカーの社員が書類を捜すために、3分の時間を費やすとしたら、年間の損失は幾らになるか」という試算がしてありました。それは それは国家予算的な、天文学的な数字になるのです。

 

fileの上手下手というのは、家庭での物のしまい方にも現れます。
私の知り合いで物をしまう事がとても上手な人がいます。

しかし、彼女のしまい方の欠点は、一度しまったものが、必要な時に二度と出てこないのです。

彼女なりに工夫して、しまう場所にメモを書いて貼って置いたり、しまった物の地図を書いたりしているのですが、必要なときにそれが何処にしまってあるのか、どうしても分からないのです。

それとは反対に、高校生の時に、僕の友人が住んでいる下宿に遊びに行った時です。
彼の部屋には、本が乱雑に散らかっていて、床が見えないのです。

「どこに寝るのか?」と聞くと、本を掻き分けて「ここだよ!」と言うと、本の下から布団が出てきました。

「菓子を食うか?」と言って、足元の2,3冊の本をどけると、ゴキブリと一緒にお菓子が出てきました。
彼にとっては、その乱雑な何処に何の本があるか全部分っているのでした。

彼にとっての一番迷惑なことは、年に何回か母親が尋ねてきて、彼の部屋を徹底的に掃除することです。
彼の膨大な蔵書が何処に何があるのか分からなくなって混乱してしまいます。
また、最初から覚えなおさなければならないのです。

そういったことは、私も似たようなもので、当時は人に本の事を尋ねられると、「何段目の棚の左から何冊目!」と正確に答える事が出来ました。
但し、ちょっと彼氏と違うのは私の場合には、本棚の中での話ですから、部屋が散らかると言う事はありませんでしたがね。

今現在は、私の膨大な蔵書はともかく、楽譜は教室の先生達にオープンしています。
と言うよりも江古田の教室の本棚にあります。
そのために、何処に何を直すかと言う事を細かく決めているのですが、先生達がなかなかちゃんと元の場所に戻してくれないと言うことなのです。
そのために楽譜がよくなくなってしまいます。ピアノやヴァイオリンのソロの曲と違ってアンサンブルやオケの曲は1冊が何万円もします。
2冊もなくなってしまえば、私の1、2ヶ月分のお小遣いがなくなってしまいます。

 

例の通り、30代の後半からは、教室を作ったので、自分ひとりのためにではなく、他の人も私のfileを探せるように、「何関係の本は何処そこへ」とか、「何関係の資料やfileは何処のfileboxにしまう」とかきちんとしまっておかなければなりませんでした。

私にとっては当たり前のこの作業が、「意外と一般の人達には出来ない」と言う事が分ったのは、ずいぶん後のことです。

物をしまうときに「それは何関係のfileにしまった方が、最も効率が良い」と言うことを考えなければならないのです。
単純に「これは何だから何処にしまおう」と思ったら、本当に必要な時には2度と出てこなくなります。
必ず、使う時の事を考えてしまわなければならないのです。先程の二度と出てこない人のfilingのTitleの付け方は教科書的であり、使う立場での書き方ではなかったのです。

一つの資料であっても、それを使うときには色々な角度からアプローチします。それを見越して、Titleを付けなければならないのです。

しかし、分類を決める事は容易なことではありません。
まして日常にどういう状態でそれが必要になるかは、事前に判断する事は難しい。
私の場合にはその場合はまず大きく分類します。
論文用のメモ、とか買い物メモです。(所謂、仕事とプライベートです。)
買い物メモには、毎日買いに行ける江古田の買い物と、意を決してお出かけしなければならない買い物があります。
それを池袋の買い物、電器量販店での買い物、などに分類します。
私の場合には、体が中々動かないので、買い物に行く事もままならないので、仕事の内容で纏めるのではなく、体の動きでまとめています。つまり、江古田周りで済ませられる買い物と、池袋迄、わざわざ電車に乗って行かなければならない、買い物です。
そうして、買う物が溜まるに溜まって、或いは、どうしてもtimelimitがあって、保留にする事が出来ない買い物の場合には、諦めて池袋まで行かなければなりません。そういった時に、池袋の買い物をまとめて、買い物のために、池袋に出かけます。でも、体力が無くなってしまって、途中で帰って来る場合もあります。
timelimitがある場合には、代わりに先生が池袋まで、出かけてくれるのですが、やはり、池袋迄出かけないといけない買い物は、難しい事が多いので、何度も買い直しのクレームに行き直して貰う事も度々です。
やはり、自分で出かけないとね!

 

論文の仕事に取り掛かるか否かも、メモが決定します。
メモが少なくて、論文を書いても情報が足りなくて或る程度迄しか書けない間は、論文を書くだけの時間が出来たとしても、論文には取り掛かってはいけません。
そのときには、充分に準備の出来ている他の作業をすれば良いのです。

 

私の場合には、仕事の論文を、更に、教育関係の論文と音楽関係の論文に分けます。

(仕事上の論文という言い方は、私にとってmemoは、仕事以外のプライベートの雑談やエッセイ、小説、詩等に関する反故もたくさんあるからです。)

最初はあまり細かくは分けないで、それぐらいざっくりと大きく分けた方が良いのです。そうして、メモが纏まって来るのにしたがって、項目をより小さくしていくのです。[1]

 

そうすればmemoがたまった量によって、何の論文だったら書けるのか、自ら決まってくるので、「出来もしない論文に挑戦をする」などと言う無駄な努力をしないで済みます。

メモを上手に活用するには、大きく二つの事を学べば良いのです。

一つ目は、この論文の課題であるメモの取り方と、二つ目はここではあまり詳しくはアプローチはしませんが、そのmemoを何処にfilingするかの仕方です。

メモは、メモしただけでは何の価値もありません。
いつどのような場所でそのメモが必要かで、そのメモの分類が決まります。
必要な時に、即、呼び出せるか否かで、そのメモの価値自体が決まります。
その呼び出し方(分類の仕方)は、芦塚メトードでは、芋づる式(ツリー構造)記憶法を使用します。

(記憶について:参照)

芋づるには、根っこの本体である蔓の部分と所謂髭と呼ばれる部分があります。

MemoのTitleは髭の部分で名づけてしまうと、そのTitleの関連のときにしか探すことが出来なくなります。
ですから、memoを書いたらそれが何に属するのかその根っこ(茎となる部分)を探して、そこに属させるとよいのです。
思い出すときには、それが何について書かれたものかだけを思い出せば、それが分類されたfileを簡単に見つけ出す事が出来ます。
大本の根っこが二つ、三つに跨る場合には、それぞれに同じmemoをコピーして置いておけばよいのです。
きれいに分類する必要はないのです。
如何に有効に活用できるかがもっとも大切だからです。



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4.[メモの速度を上げる方法:芦塚メトードの速記方]

メモ(memo)とは、英語のmemorandumの略である。
英語のmemorandumと日本語のメモの意味は大差はない。覚書であり、手控えなので、箇条書きで思い出せればよいだけである。

先ほども述べたように、メモはそれを控えるのに時間がかかっていてはメモの意味を成さない。
「如何に早くメモを取れるか?」が勝負どころである。

私はそういった意味では、文字を書く事自体が苦手で、項目だけを、丸付き数字で箇条書きにして書き表すtypeであったのだが、それですら(鉛筆を走らせる事自体が)非常に遅く、その頼みの綱の箇条書きをする事でさえ、講義の速度に間に合わないで終わってしまう事がよくあった。

そういった差し迫った事情から、私は大学生の時には、少しでも自分のメモを取る速度を上げるために、自己流の略記法を考案した。[2]

 

最初考えた方法は、固有名詞の単語を冒頭の音と末尾の音をアンダーバーで結んで、書くという方法である。例えば、楽譜と言う単語はが  ふと書く。芦塚音楽研究所のような長い単語は、文節ごとに頭文字を取って、あ お け ょと書いた。後年、この略記法を教室でも生徒達に指導していたのだが、その頃やっと身近になってきたワープロやパソコンのワードを使用するようになって、この方法がそのままワードに応用できる事に気がついて、(ワープロの場合は100文字ぐらいしか単語登録できないのだが)応用する事にした。しかし、親指シフトのワープロと違って、ローマ字変換のワードでは、兎に角、誤変換が多い。

と言う事で、それまでの私の作った変換のルールの一部を変更して、単語の漢字の冒頭の音節のローマ字の部分だけを子音で表す事にした。

 

例えば、「先生」と言う単語は、「先、と、生」の音節なので、sen-seiの冒頭の子音を取って、ssと打つと「先生」と変換されるようにした。当然、「生徒」は、「sei-to」の2音節なので「st」と打てばよい。

 

また、使用頻度によって、非常に優先度の高い1文字で変換される単語、例えば「w」で「私」とか、「p」で「ピアノ」とかの変換と、次の常用単語を、1文字で変換される単語、先ほどの「ss」「st」とかの単語は次のグループなので、2つの子音で変換されるようにした。
「生徒達」や「望ちゃん」のような、「生徒」という単語と「達」と、或いは「望」という名前と「ちゃん」という尊称と、二つの語が合わさっている単語は「達」や「ちゃん」をそれぞれに「tc」「c」として、任意に組み合わされるようにした。

 

「駐車場」や「高校生」のように漢語が三つ以上に渡るものは、「駐と車と場」「高と校と生」の漢字の頭の音を採って「c、s、j」とか「k、k、s」と単純に決めた。先程の「芦塚音楽研究所」のように非常に長い単語なども、「芦塚と音楽、と研究所」の三つの頭文字を取って、3文字でそれぞれ「aok」等と書き表した。

これ等はあくまで、如何に思い出しやすいかの一点から導き出したルールである。しばらく、使わなくて、思い出す事が出来ない単語登録や、当てずっぽうに打っても、出て来ない単語登録は、当てずっぽうの文字に変更した。何も考えなくても、打てば変換されるのが理想であるからだ。
必要のない人名や単語は削除を頻繁にする。必要な時にもう一度、入れ直せば良いだけだからである。

 

また、「教育」のように、k,I,と打つと「き」と変換されるような単語は「ky」と打つことによって、誤変換を防いだ。だから、「勉強」は「bky」となる。

 

近頃は、子供の名前なども、凝っていて人名事典を引いても出てこないものが多い。一般で変換できない人名は、利用頻度によって、そのまま単語登録するか、子音だけの略語で登録するかを分けている。

また、間違いやすいドイツ語や英語の単語、音楽用語等も単語登録して、綴りのミスを防いでいる。

同様に半角英数の文字や無意味な音節の羅列であるメールアドレス等も単語登録をしておくと間違いがない。(mrad1〜3⇒変換で各教室のメルアドが出る。セキュリティの数字キーも同様である。)

変わったところでは、常用句と言うのであろうか、例えば「に対して」も,「ts」とか「しました。」を「s。」とかで省略した。文末には必ず出てくる定型句であるからだ。
文末の定型句「する。」が敬語になって「します。」なら「m」を足して、「sm」と打ちます。
「ます。」だけなら「m。」です。
過去形は「た」ので、「t」を足して、「しました。」ならば、「smt。」で「しました。」と変換されます。
そのセオリーを覚えれば、単語登録自体を覚える必要はないのです。

 

(以下、より詳しく知りたい方は、「芦塚メトードによる単語登録の作り方」を参照の事:)




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5.[思い出し方]

音楽のlessonを受ける場合には、先生の指導されている諸注意を、いちいち細かく楽譜に書いていては、その都度lessonが中断されてはなはだよくない。
立場を変えて、先生の立場でも然りである。

そこで(これはあくまで)私の場合の例なのだが、初級の場合には、一回のlessonではcheck箇所は2,3箇所であり、且つ、子供は私達と一緒に練習をするので、そこで改めて子供達は練習のfeedbackが出来る。
生徒がよく分かっていなかった場合でも、その時点で先生が細かく説明する事も出来るし、忘れないように書くこともそこの時点で(lessonのfeedbackの時に)出来る。

問題は中級や上級の場合であるが、時間と指導の箇所がとても多くなって、細かく説明が出来なかったり、指導のためのcheckの箇所を指摘するだけで、目一杯の時間になることが往々にしてある。

そういった場合には、私は楽譜に問題の箇所を色鉛筆でcheckし、(色がその問題の意味を表す。)後は、次回までに修正してこなければならない箇所を(@、Aのように)丸付き数字で表す。

具体的に例を上げれば、Pianoの練習の場合には・・・
楽譜を覚えていない場合@AB
指使いCDE
指が回らないFGH
等々です。

買い物memoならば、
江古田の自宅付近の買い物
池袋周り

そのために出かける必用のある買い物

ただ単にメモをするのは、芸がないので、携帯で自宅のパソコンにmailでメモをして件名に買い物memoと書いて送ると、outlookの中で買い物memoのfolderに自動的に入ります。
後は、フラグを設定して、timelimitを付ければ総て自動でcheckされます。

上級のlevelになると、指摘する箇所が20箇所とか50箇所とかになる事すらある。
しかし、そのlevelの生徒達は、丸付き数字だけで(或いは色文字だけで)自分が何をどう間違えたか、そして練習の内容や方法などを理解できる。
それはそれまでのlessonの積み上げで練習法やcheckのpoint等がマスターできているので、事細かく指示する必要はないからである。

 

最終的にはいかなる状態であろうとも、まず最初の一歩は本当にシンプルなものからはじめなければならない。

この丸付き数字の練習法、或いは色鉛筆の練習法は、昔々、始めて親に頼まれて、お買い物に行く小さな子供が、親から指に紙縒り(こより)を巻いてもらって「小指と薬指の買い物は済ましたから、後中指の買い物は何だったっけ?」と考えているという、日本の昔ながらの記憶法の発展した形なのだ。

こういった記憶法の事を、(2014年の今現在では心理学の世界では、アルツハイマー症などに効果的な方法と立証されている方法でもある。)芋づる式記憶法(と私は呼んでいる)の最初の一歩なのだが。

拠所(よりどころ)さえちゃんとあれば、記憶を呼び覚ます事の出来るという、最も簡単な記憶法でもある。
その拠り所は、自分に都合の良いもので良い。




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6.[要約と箇条書き]

話が長くなりましたが、文章を書いていて、ある程度内容的に文章が出来上がってきて、長くなってしまった原稿を、清書の前に一度そのまま書きとるというめんどくさい作業、(どうしても、文章にする前に一度この作業をしなければなりませんが・・・)こういった作業には芦塚メトードの速記法が大変に役に立ちます。
ちょっとした慣れだけで覚えられて、読み取りもそのままパソコンに向かえば、原文に戻るからです。

メモの取り方の第二点は、これは経験が必要です。
メモの取り方のコツは、本来は小学校、中学校、高校で、そういったメモの取り方を学ばなければならないのです。
何故ならば、普段の授業で、メモを取る技術があるか否かでは、生徒の成績に直に影響して来るからです。
しかし、「メモの取り方」に限らず、現在までの日本の学校教育では、本当に社会に必要な実用的な教育は一度もなされた事はありません。
ですから、社会で仕事をするのに必要な、そういった技術が全くないままに、若い人たちは社会に巣立って行くのです。
学校の評価では、秀才で通した真面目な生徒達が、社会に出た途端に、自主性のない判断力のない、大人子供として評価されてしまいます。
本人は親の教え、先生の教育をちゃんと守って、言われる通りにやって来て、「良い子」として、育って来たので、社会に出ても、上司の言う事を聞いてその通りにやっているつもりなのに、何故批判されるのか、その理由や、原因が全く分からないので、困ってしまいます。その結果、人生に行き詰まって、ニートや引き籠もりになってしまいます。
社会適応が出来ないのですよ。

経験が必要なこの方法とは、話を要約する(所謂、箇条書きにする)という手法です。
しかし、箇条書きされ、要約された話は、元の話の細かいニュアンスはともかくとして、大まかなアウトライン上では必ず復元されなければなりません。
アウトラインが変わってしまっては、全く違った内容の文章になってあいまって、それでは「要約をした」とは言えないからです。

メモを取ることが出来たとして、そのメモ通りに行動したとしても、その構造が理解出来ていなければ、オーダーに応えた事にはなりません。

教室でも、私が注意した事を「ちゃんと言われた通りにやったのに先生に怒られた!」と泣きべそをかく生徒がいます。
でも、私にとっては、言われた事を守ってやってくれていないのです。
そこのボタンの掛け違いなのですよ。




学校等でも、本などを読んで、要約する場合には、何度も本を読み返して、作者の意図を熟考することが出来ます。
よくある「あらすじ」とは、意味が少し違います。
作者の意図を汲み取って、その内容を要約する事なので、「あらすじ」とは直接は関係ありません。
本は、何度も読み返す事が出来るので、ポイントをはずさないで要約することが出来ます。

しかしながら、現実の社会生活の中での箇条書き作業は、初めて聞く話を頭で理解しながら、それを箇条書きして行くという作業をしなければなりませんので、そこにはある程度の経験と慣れが必要になってきます。
理解出来ないからといって、何度も聞き直してしまったら、上司から怒鳴られてしまいますし、それが嫌だからと言って、自分で、適当に思った通りに自己流に直してしまっては、ヘタをすると首になってしまいます。
そういった経験のない学生にとっては、「どうすればよいの??」という世界ですよね。
現実に、普段のlessonでは、そういった問題は起こりませんが、「江古田詣」の生徒にとっては、それが日常なのです。
「江古田詣」はproとしての仕事を覚えるための勉強だからです。

その勉強の仕方は、私の教室では、インスト予備軍の中、高生達にフローチャートの書き方としてlectureしています。
フローチャートは図式の箇条書きだからです。
それと練習をさせる課題が、本人達が一番身近なもので、練習する事が出来るからです。例えば、美味しい紅茶の入れ方のフローチャートとか・・。
生徒達が何気なく毎年作っている、発表会の進行表は、そういった作業の全てが入っています。(勿論、進行表を見て動く事ではなく、進行表を作る事にですが・・・)

大切な事は、一つ一つの言葉を聞いて、それを忠実に守って仕事をしたとしても、ダメなのです。
以前に習った事の上に、ちゃんとツリー構造として、積み上げて守って行かないとダメなのですよ。
積み上げが出来る人と出来ない人は、全くの別の人種になります。

単純に守って仕事するのと、ツリーの上に組み立てて行くのでは、全く別の結果が出るのですよ。

 



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メモのまとめ方

 

7.[整理の仕方のお話]

外国の映画などを見ると、自分の書斎にあたかも図書館のように本が整然と並んでいます。

私も高校時代にはもうすでに約6000冊から1万冊の詩や小説等の本を持っていたので、本棚にどういう風に収納するかが、一つの課題でした。
それで、映画を見習って、本のサイズ別にしまってみたのですが、見た目はとてもかっこいいのですが、何せ使いづらい。
本の分類別に収納すると、使いではとても良いのですが、見た目にはとても乱雑に見えて格好良くない。(しかし、やはり本は活かさないと意味がないので、乱雑でも使いやすいようにする事にしました。)
それで、映画に良く出てくる書斎の蔵書は、実用的ではなく、ただの飾り(インテリア的なイメージ)かな? と、把握していました。

しかし、そういったかっこいい蔵書の収納も実は、機能的であったと言う事を、ヨーロッパに留学して、初めて知ることになります。 

アメリカの女の子達は本を剥き出しにしてベルトで締めて、よく道端の上で本の上にお尻を乗せて休んでいます。
私の友人のアメリカの女の子もご他聞にもれず、書物に関する意識は低いようでした。

古いタイプの日本人である私も、或いはヨーロッパ人もそれだけは許せない行動です。
私が留学中には、日本に居た時と同様に古本屋を訪ねるのがとても楽しみでした。

そしてドイツの古本屋のオーナーのお爺さんに、古本についての色々な事を教えてもらいました。

昔のヨーロッパでは本はとても高価で貴重なものでした。(昔と言うのは、100年前、50年前のお話で、そんな近い時代でもそうだったのです。)
それで、本が傷まないように丁寧に製本をして保存したのです。
ヨーロッパの古い本は余白が非常に多くとってあります。
それは、傷んで補修、製本をするたびに、少しずつPageの端が切り取られるので、その切り取りの部分をあらかじめ余分に作ってあるのです。
ですから、本が本棚に整然と並んでいるのは、一冊一冊を丁寧に製本して保存していたと言う意味だったのですよ。
しかし、何世代にも渡って、受け継がれて修復が繰り返されるとついには、その余白も今日の本と同様にギリギリになってしまいます。
まあ、それだけ大切にされてきたと言う証なのですがね。

私も二度と手に入らないような貴重書を結構大量に所有しています。
ですから、知り合いの製本屋の人に頼んで数冊製本をしてもらいました。

それで分った事は、私の経済力では私の持っている貴重な本を、きちんと製本するのは無理だと言う事でした。
ちなみに、この製本というのは金のモールにタイトルを印刷した、ちゃんとした厚手の表紙の製本のことで、今流行の簡易製本ではありませんのであしからず。

ただの簡易製本でしたら、まだ本が新しいうちに、ビニールの粘着カバーを貼り付けておけば結構補強されます。

楽譜と違って一般的な本等は、一度読むとなかなか二度とは開きません。
捨てるか、取って置くか悩む所です。
一般の人の場合には、私達のように本が物を書く為の資料となるわけでないので、不必要なものは捨てるか、古本屋に売るか、すれば良いのです。

原則論は「一年以上使用しない物は捨てる」と言う事です。
近頃は、「断捨離」という言葉が流行っています。
断捨離の仕方ですが、読んだ本を本棚の一番左側に置きます。
次に読んだ本も、また一番左に置くのです。
そうすると、常に右側にある本は1年間、一度も手に取った事のない本と言う事になります。
意を決して、一年に一回、右側から何冊かの本を処分すれば良いのです。
日にちを決めておくとすれば、その日の分に、仕切りの板を置いておけば良いのです。
そうすれば、何処が1年分かすぐに分かりますからね。

勿論、一年に一回しか開かない本でも、貴重書があるかもしれません。
私達のように、仕事として本や楽譜を集めている場合には、1年に一度も開かなかったとしても、捨てる事の出来ない貴重な書物になります。
それは断捨離の対象にはなりません。研究の資料になるのです。
だから、当たり前の話ですが、それは最初から、資料として、別の棚に置いておけば良いだけなのですからね。

「いやぁ〜、蛇足でした。ハイ!」

  

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