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バロック音楽の有名な曲の大半は、近現代の校訂者の手によって、かなりarrangeされていると言って良いだろう。
我々が通常、耳にしたり、演奏をしたりしているTommaso VitaliのchaconneはviolinとPianoの伴奏の譜面であったとしても、かなり擬古典の要素が強い。
Vitaliのchaconneをorchestraにarrangeした版が出版されているのだが、その様式は、baroqueの様式を取りながら、かなり近代的である。
Tommaso Vitaliのoriginalの楽譜は残念ながら出版されてはいない。
corelliのla foliaの原典版は色々な出版社から出版されているので、そこは大分違う。
Tommaso Vitaliのchaconneの出典は、俗説ではFedinand Davidという人がドレスデンの国立図書館にある筆写譜から、arrangeをした、という説が一番有力であります。
しかし、Davidの全くの偽作である、・・所謂、偽古典である・・・という説も結構流布しています。
左(上記)の譜面はドレスデンの国立図書館にあるTommaso Vitaliのchaconneのoriginalの譜面であります。
それを底本にした、Fedinand Davidの版から多くの演奏家や作曲家達が改訂版を作っています。
orchestraversionは、Guido Guerriniという人が、Davidの作品を元にして、新たにVitali=Guerrini版というべき版を作り上げています。
色々な人達の手によって、今日我々が耳にしているorchestra版のVitaliのchaconneが出来上がっているのです。
それこそ、これぞ擬古典の典型的なスタイル・・・と呼ぶことが出来るでしょう。

擬古典と呼ぶには、ちょっとどうかな??・・というarrangeは、Pachelbelのcanonを紹介したKurt Redelのpizzicatoのarrangeがある。擬古典というには、arrangeが控えめ過ぎるし、baroqueというには、近現代的過ぎる。
寧ろ、easylistening musicとしてのgenreの方が合っているようにも見えるのだが、それにしてはClassic過ぎる。
まあ、Kurt Redelは、いつもの事なのだが・・・・。


余談  「古典という言葉に対してのこだわり」2

次に、「古典とは何か?」という定義の問題であるが、古典という言葉には狭義の意味と広義の意味がある。

音楽のgenreでは古典音楽とは狭義に古典派の音楽の事を指すのだが、文学や絵画の世界では、古典と古典派は区別して使用されている。
つまり、ルネッサンスの音楽や絵画彫刻のみならず、ギリシャ芸術、所謂、彫刻やTragödie(ギリシャ悲劇を指す)までも含んだ芸術を古典という。

その定義上の擬古典という意味になる。

音楽の専門家の人が、「私は古典音楽を勉強している」と言った場合には、私達は即、「古典派の音楽を・・」と解釈するのだが、一般人の場合には「古典音楽が好きです。」と言った場合には、popularやjazzに対向したclassicという意味であろう。

冗談ついでに、私はよくメールをする時などに、冗談で擬古典を僞古典と書く事がある。

愚にもつかない与太話ではあるが、私の擬古典の定義では、バロック時代のoriginalの作品があって、それを近現代風にarrangeしたものを擬古典と呼び、全く近現代の作曲家が自作をバロックのstyleで作曲した場合、近現代の作曲家のoriginalの作品である場合には、僞古典とわざと呼んでいたのだよ。

勿論、学術的な分類では、そんな分類はないので、あくまでも私の勝手な分類なのだから、悪しからず・・・。

そういう私の勝手な分類では、クライスラー等は典型的な「僞古典!」の典型的な作曲家である。
クライスラーの迷惑なブラック・ユーモアは、自分の偽古典の作品に、全く聞いた事のないような本当に実在した(無名の)バロックの作曲家の名前を、何処からか探し出して来て、「その作曲家の作品である・・・」と、騙ったりする事がよくあるのだ・・・。

「何故、クライスラーは、そんな悪戯をしたのか?」って??
確かに、クライスラーの悪ふざけに過ぎないのだろうが、クライスラーのしっぺ返し的な意味もあるのだな。

クライスラーは、自分のヴァイオリンの演奏や作曲をした作品に対して、権威を振りかざして、いちゃもんをつけて来る批評家達に、若い時から、世界的に有名になった後でも、いつも苦しめられていた。

という事で、クライスラーは、ワザと自分でバロック風の作品を作曲して、あたかも、何処かの図書館で見つかったバロックの作品を、自分で改訂したものとして、演奏していたのだよ。

クライスラーのその曲の演奏を、コンサートの会場で聞いた、当時の有名な権威のある批評家が「私は若い頃、この楽譜を見たのだが・・」とクライスラーの演奏を酷評したのだが、クライスラーは、それを聞きながら、ほくそ笑んでいたのですよ。

しかし、クライスラーは、自分が死んだ後にも、それ曲々が自分の作品であるという事を明かす事はしなかったのよね。

クライスラーがネタバラシをしなかったので、クライスラーの自作か否かで、またまた、物議を醸したりしてね。
作曲技法を見れば、作曲年代なんてすぐに分かるのにね。
批評家は作曲家ではないからね。分からんのかね???

人をけむに巻いて喜んでいる、それが、クライスラーの「大人のお洒落」なのだよね。
批評家を前にして、「この作品は私のoriginalだ!」とかバラしてしまうと、つまんないよね。
洒落が、洒落でなくなって、単なるブラックユーモアになってしまうからね。

それはそうと、私はある時に、Corelli=Geminianiの解説を書く時に、ついついうっかりと僞古典と書いてしまい、弟子に怒られてしまいました。
「先生、漢字、違いますよ!!」ってね・・・。
「先生のブラック・ユーモアですか??!!」ってね。
違うよ!単なるケアレスミスだよ。
つい、うっかりのミスだよ!!メンゴ、メンゴ!!
だから、前のホームページも中の論文にある「擬古典や偽古典の話」は、ただの笑話というか、私流のブラック・ジョークに過ぎないので悪しからず。


まだ古典派にこだわって、古典派の時代区分について
また、蛇足ついでに、音楽の古典派というカッコククリも、同じ時代の作曲家でありながら、それを分類するククリが幾つかに分かれることがある。
その顕著なものはウィーン古典派と呼ばれるくくりである。

古典派の巨匠であるBeethoven(1770~1827)と、全く同じ時代に生きて、音楽活動をしたロマン派のはしり、所謂、前期ロマン派の作曲家がいる。
その代表的な一人は、Mozartの従弟でもあるCarl Maria von Weber(1786~1826)と、Beethovenの熱心なシンパでもあり、前期ロマン派の巨匠と目されるFranz Schubert(1797~1828)であり、彼らも、BeethovenやMozartと殆ど同じ時代に生活していた作曲家なのだよ。

つまり、全く同じ時代に古典派の大作曲家達と、ロマン派の大作曲家達が、同時に活躍していたのだよ。

古典派の時代とロマン派の時代が重なってしまった・・・という事では時代区分的にすこぶる都合が悪いので、そういった同世代の作曲家達を便宜上、一括してくくったのが、「ウィーン古典派」という分類でになる。

しかし、その分類を使用しては、作曲家の作品に対する作曲技法の様式的なアプローチが全くなされていない・・・という事で、音楽史的には、今ではその分類で分類れることは殆どない。
バロック時代から古典派への端境期には、ロココの作曲家達と前期古典派の作曲家達が同時期に活躍していたし、古典派から、ロマン派の移行期には、上記のような作曲家達が同じ時代に活躍をしていた。
それは近現代でも同じである。
ロマン派後期の作曲家達と近現代の作曲家達は殆んどが同じ時代に活躍しているのだよ。

余談  「古典という言葉に対してのこだわり」・・・終わり
・・・・ご清聴様でした。



originalのorgel曲からstringsorchestraへのtransposeについての問題点
まあ、それはこのchaconneの話からは蛇足に過ぎないので、本題の擬古典の話に戻って、話を進めると、当然このPachelbelのchaconne e(!) も音楽のgenreとしては、擬古典の部類に入る事になる。

今回演奏して、You Tubeにupしている(2012年11月23日八千代の冬のコンサート)の私達の演奏の底本となる版は、Robert Müller-Hartmannの比較的、原曲に忠実なtranscript版である。
表現が紛らわしいので、補足説明をしておきます。
原曲に忠実なのは、Mueller-Hartmannのarrangeのお話です。organのpartをそのまま、弦に持って来ただけなので、時々不自然になる事があります。原曲のOrganでは、不自然に響かないpassageが、orchestraになると不自然に響くのです。

そういった響き上の問題よりも、大きな問題があります。
幾ら原曲をそのままコピーしたように、原曲に忠実にarrangeしたからとは言っても、幾つか問題点が出てきます。
その、よく問題となる最大の変更点は、調が元調のf mollから、e mollへ移調されている点です。

Müller-Harptmannは、その移調の理由を明らかにしていないが、彼の代わりに代弁するとして、その理由は、推測して二つ考えられる。

その一つ目は、弦楽器はフラット系の調はあまり得意ではない(響きがよくないから)という演奏上の理由と、baroque音楽を演奏する時に、現代の演奏会では、低いbaroquepitchに対応させるために、慣習的に(利便的に)半音下げて演奏する事がよくあるから、(baroquepitchにtuningし直すよりも、半音低いキーで演奏する方が簡単だから・・というそれだけのeasyな理由なのだが・・・)という二つの理由である。

通常はbaroquepitchは、A=435ぐらいが多いのだが、オーケストラの場合には、全ての楽器の演奏家がbaroque楽器を持っているわけではないし、楽器をスライドさせて、tuningしたとしても、Aのpitchを、演奏会pitchの443から、baroquepitchの430辺りまで低くtuningする事が難しいので、baroquetuningの簡易versionという意味で、Aの音をAsにtransposeする事で、baroquepitchとする事がよくあります。
これは、あくまで便宜上の、単なる利便性の意味で、学術的には何の根拠もないのだ。


日本のあるbaroqueの演奏団体が、baroque演奏を専門としているのにも関わらず、Cembaloをbaroquepitchにtuningするのではなく、スライド鍵盤によって、半音低く415で演奏していたのは、全くlacherlich(馬鹿馬鹿しい)である。
その話は日本の演奏団体がbaroque専門の団体であるからで、イージーなスライド鍵盤によるbaroquepitchではなく、本来のbaroquepitchで演奏しても不都合は起こり得ない。だから、スライド鍵盤によるA=415のbaroquepitchは有り得ない、proとしてはあるまじき事である。


しかし、通常の現代の音楽を演奏している一般のorchestraでは、半音の半分ぐらい低くなる、baroquepitchで演奏するのは、楽器の特性上無理である。
また、orchestraの全ての団員がbaroque楽器を買い揃える事も無理な話であろう。(弦楽器のみの場合なら、それでも可能性はあるかも知れないが、管楽器を含めた全ての楽器をbaroqueで揃えるのは、かなり無理難題である。日本にはそういったorchestraは一団体もないと思うのだがね。)
だから、orchestraの場合には、この利便性のみのAをAsに移調して演奏するのはヤムを得ない。
それで、Müller-HartmannのPachelbelのchaconneを原曲のf mollからe mollに、transposeしたという推測である。
・・・・それとも考え過ぎかな???? 

しかし、Müller-Harptmannがこのchaconneをe調に移調したことでは、致命的な問題が生じる。

左の譜例のように、冒頭の和音で、2nd violinは最低音の解放弦のGの音を弾かなければならないが、basso continuoのcelloやKontrabassのEの音からは、純正の響きが取れない。

弦楽器では、開放弦のkonsonanz上に基音を作る。
だから、violinはEの音が基音で動かせない音になる。
つまり、KontrabassやcelloのEの音も、violinのEの開放弦上に作られるのである。
それに対して、2nd violinやviolaがGの音で開始するのであるが、violinの場合には、Gの音は最低音なので、その音を微妙に調整する事は出来ない。
その為に楽器本来のEとGの音で演奏しなければならなくなるのだが、Themaの音が繰り返されるたびに、純正ではない不協和な響きが聞こえて来るから、困ったものである。


ならば、tuningのAを変えればと思われるかもしれないが、それは現実的ではない。
Aのtuning音を変えると、自動的にGも変わるからである。
「Gだけを狂わせれば・・?」そうするとG線上の全ての音が狂って来る事になって、話はそんな簡単なことではない。つまり、tuningで純正の音を出す事は不可能なのだ。
いずれにしても、これはまずい!!

曰く、弦楽器にとっては、e mollに移調された事は、純正の美しい響きを作る上では、すこぶる都合が悪い。

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