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私が、芦塚メトードを提唱して、芦塚音楽研究所を立ち上げた、本来の意味は、大学生のように、大人になってから(ある程度の歳を取ってから音楽の正しい基礎や勉強をしても、その時には「時既に遅し!」であり、それから基本の勉強をしても、Technikを身に着けようとしても、一度身に付いた悪い癖は、もう二度と取れないからである。
子供の内から正しい音楽理論に基づいた、本当のtraditionalな音楽技術と理論を身につけなければ、本当のproに育つ事はない、という事が子供達のための教室を作った意味である。
それと、芦塚音楽教室を千葉に開設した時の、もう一つのconceptは、私がヨーロッパで音楽を学んだ時の、Classicの醍醐味であるensembleやorchestraの楽しさを、日本の子供達にも指導して、音楽の本当の楽しさを味あわせてあげたい・・という事であった。
勿論、日本でもorchestraの教育やensembleの教育がないわけではない。
しかし、それはensemble教育やorchestra教育として、体系的なものではなく、単に一過性の、室内楽にしても、orchestraにしても、学校や一般のジュニアのオーケストラのように、一つの曲を半年や、1年掛かって練習するという類のものである。
それを、勿論、「教育」とか「体系」とは言わない。
また、特に、小学生ぐらいの年齢の室内楽に関しては、世界的に見ても皆無であり、私達の教室でおこなわれている教育のみが世界で唯一の室内楽のメトードであるといえよう。
室内楽にしても、orchestraにしても、小学校入学以前の年齢で、楽器を習い始めるのと一緒に、初級のversionからvorschuleとして、室内楽やorchestraの予備段階から、sub教材としてorchestraや室内楽で皆と一緒に勉強が出来れば、本当の音楽の楽しみ方を学習出来る。
「楽しさ」という事を強調して書いてはいるが、室内楽によって、身に付くであろう能力は限りがない。ensembleによって、身に付くであろう、その最たる技術は、音量と絶対tempoである。音量と言っても、音の見せかけの強さではない。音には実際の音量と感性の音量の違いがあるからだ。その感性の音量の事を通常は「遠音」と呼ぶ。また、大人になってensembleを勉強しても、音楽的なtempoをお互いが感じていて、本当の意味で、絶対tempoを理解していなかったとしても、経験や聞き覚え等で何となくそのtempoに入ったりする。
子供の場合には、絶対的にtempoを設定していないと、その経験則はないので、そういった大人特有の曖昧さはない。
しかし、子供に室内楽やensembleを指導する場合には、教材やテクニカルな面を含めてcurriculumの難しさや指導の難しさがある。
と言う事で、私はバロック時代から、近現代に至るまでの、室内楽やorchestraの曲を、集めて、技術levelや内容そのものを加味して、子供達の教材として、体系化して来た。
子供の室内楽で、曲として、そのlevelの曲は、もはや存在しないといったgenreの作品は、不肖私が曲を子供達の水準に併せて作曲をして、その段階を補った。
orchestraの曲に関しては、教材として、中級の(初歩の段階から上級の)段階までを網羅出来る教材として、膨大な作曲数を誇るVivaldiの作品を教材としてcurriculumに分類して、再構成してVivaldiーmethodeとしてリストアップして、Vivaldi-methodeとしてcurriculumを作り上げた。
しかし、そこでVivaldiのconcertoの中で、1positionだけで演奏出来る数曲の教材から、次のlevelの3rd positionを含む曲の段階に於いて、Vivaldiのa
moll Op.6Nr.3の曲を選曲する事になって、私のmethodeを勉強して、子供達を指導してくれる先生と、大トラブルになってしまった。
Vivaldiのa mollのOp.6Nr.3の曲が、「どうしても、Vivaldiのa mollは、初心者のキンキンした嫌なimageしかないから・・」と、言って、なかなか私のVivaldiーmethodeのTechnikを、そのまま勉強してくれなかったのだ。
その先生自身が、子供の頃に、そのメトードで勉強して来たので、自分のトラウマがあって、「Vivaldiのa mollのconcertoはキンキン、キャンキャンした嫌な音の曲だ!」というimageが払拭出来ないのだよな!!
それに、このVivaldiのa mollのような簡単な曲であったとしても、systemを持たないで、練習すると、(systemを持たないままに、闇雲に練習すると・・・)音大を卒業するlevelになっても、超絶難度の難しい曲になってしまうのだよ。
そこが、systemで演奏するか否かの違いなのだな??
だから、他所の音楽教室では、芦塚メトードのようなsystemがないので、このVivaldiのa mollを演奏出来るようになるまでに、violinを学び始めてから、7年とか、10年とか掛かる・・・というか、或いは、弾けないままに、violinを弾く事をやめてしまう子供達の方が一般的で、殆どなのだそうな??
私達の教室でのこの曲を弾けるようになるまでの、最短のレコードは、2歳半の女の子がいて、violinを習い始めて、半年で1,3楽章をin tempoで演奏していた例がある。
勿論、それはとてつもない例外(Genie=ジェニー=ドイツ語才能、天才)だけどね?
しかし、早期教育が子供のgenieを育て伸ばすものではない。
寧ろ、日本の学校教育の場合には、子供全体が同じ学校の指導者の下で、画一的な教育を受ける事が教育の理想であるとする。
日本の社会では、個性という事や、一人の生徒の優れた能力を認める事はなく、どのような才能があろうとも、学校教育上では、夢を持たない一般の生徒と同じ画一的な教育を受けなければならない。
そのために、子供を将来、アスリートにしたい・・とか、将来は俳優にさせたい、演奏家にしたい・・という、夢のある親や家庭と真っ向から対立する事もざらである。多くの音楽に進もうとする子供達が自分の将来の夢のために、学校を転校する事を余儀なくされている事も、普通の事であろう。
子供のgenie、所謂、才能や夢を大切に教育するのは、現代の世界の常識である。
出る釘は打たれる・・の日本の教育社会なのだが、一旦社会人になって、会社に就職すると、そこには厳然とした能力社会が存在している。
人と同じ事をやっていては、社会人としては認められないのだよ。引き籠もりや、ニートは寧ろ、塾等や大学で優秀だった生徒が多いのだよ。つまり、学校教育では先生の言う通りにちゃんと勉強する生徒は良い生徒であろうが、会社では、裁量権が求められるし、独自性を求められる。しかし、学校教育で否定され続けた能力が社会では、その人の価値を与えるのだよ。
だからと言っても、好き勝手やる事が、その子供の個性を磨く事にはならないのだよ。
何か好きな物(分野=genre)があるのなら、それを最大限に伸ばして行く事が、本人の自信に繋がって行くし、能力(genie)を育てる事にも繋がって行くのだよ。
家庭も円満になるし、言う事はないはずなのだが、日本人の場合には、人と同じ事をやっていないと、不安でしょうがないという、日本人の独自性がある。
それがネズミの集団自殺だとしても・・・だよ。どうして??って?
だって、将来引き籠もりになるのが分かっていても、今の学校の成績の方が心配なんだろう??
アハッ!(-_-;)
日本の常識、世界の非常識って言ってね!!
確かに、2歳半なら、驚異かもしれないけれど、同じ技術のlevel(水準)でも、4、5歳ぐらいで、1年ぐらいの経験年数なら普通かもね??
小学校や中学校で、或いは高校生で良い成績をとったとしても、大学は、就職は??・・ではなく、一生を通じて、幸せな人生と言えるか・・という事なのだよ。
本当に好きな事を出来れば、それが幸せなのだけど、学校教育では、そういったものは子供には有り得ないという前提で教育しているからね。かわいそうな人達だよね。
教室の生徒達は、選抜された選りすぐりの生徒達ではなく、極々極、普通の花園教室の近所の子供達なのだけど、それでも、教室のorchestraの生徒にとっては、一度も譜面を見た事がなかったとしても、平気でこの曲を演奏してしまうし、celloの生徒等が、聞き覚えでcelloで、highpositionで弾いてしまうのだよ。何故って??
それがsystem(methode)なのだよ。
Vivaldiのviolinconcerto a moll Op.3Nr.6の私のホームページ上での解説(Analyse)のPageにlinkします。
私のVivaldiーmethodeで学んだ生徒達の演奏を聞いたviolinの先生達が、子供達がサラサラと簡単そうに弾くのを見て、「Vivaldiの曲って、こんなに簡単だったの??」と改めて驚いていた。
それにもう一つ驚いていた事は、「ちっともVivaldiのconcertoのキンキンとした鋭い嫌な音がしないのね?」と驚いていたのだが、「Vivaldiの本当の奏法(バロックの奏法)を知って、間違えた弾き方をしなければ、そんな嫌な音は絶対に出ないのだよ。」
「日本人は、Vivaldiはviolinの教育教材としてのimageしかないのだけれど、一度でいいから、ちゃんとした、本当のbaroque音楽の奏者が演奏するVivaldiを聞けば、そういった誤ったimageは一瞬で払拭されるのだけどね!?」 というと、「ふん、ふん!」と感心していた。
いずれにしても、日本の場合には、周知のメトードのせいで、初歩の子供達が弾くviolinの音は、ギーギー、キシキシと耳障りな音を立てて、聞くに堪えない!!
教室を開設したばかりの頃、指導の先生と数名の上級の生徒の伴奏を、CD等も出しているproのピアニストにお願いした時に、そのproの女性が「どこのヴァイオリン教室に行っても同じなのだけど、上級生のviolinはまだいいのだけど、初心者の子供のviolinの音は聞くに堪えれないので、『何処に逃げようかしら?』と悩んでいたのだけど、この教室の子供達は、初心者でもキーキー、ギーギーした音は出さないのね?」「不思議だわ!?どうしてかしら?? 」と、他のviolinの先生同様に、驚いていた。
proの人なので、「弓の持ち方が・・」とか、専門的な細かい説明をしたのだが、「子供が楽器を習い始める一番最初のlessonの時に、嫌な音と綺麗な音を先生が弾いて、それから正しい音の出し方を指導すると、子供達は決して嫌な音は一度も出そうとはしないのだよ。」というと「(VェV)フム
( ゚ ω゚)フム」と、納得していた。
しかし、Vivaldiのa mollに関しては、多くのproの人達が嫌がって、弾こうとも、聞こうともしない。
教室の先生に、Vivaldiのa mollの演奏を、ちゃんとした演奏で、聞き直させる所までには、彼女と一緒に仕事を始めてからも、1年近く掛かったよ!!
人間の思い込みを、正しく導くのは、極めて難しい!!
「たった一度でいいから聞いてみて!!」 と言っても、頭から、信じようとしなくって、そのたった一度すら聞いてくれないのだからね!!
You Tubeで見つけた演奏です。
Vivaldi Op.3Nr.6 .
baroqueviolinの演奏ではありませんが、一般的な演奏とは対照的な柔らかいimageの演奏です。
色々な所の音が違っていますが、その出典はどこなのかな??不明です。ただ、バロックの演奏ではないので、教室としては推薦の演奏には入れていません。
古式豊かなbaroqueviolinの演奏は、今現在も探しては、いるのですが、中々見つかりません。
You Tubeでなければ、baroqueviolinのCDは、Op.3の全集で持っているのですが、著作権の問題で、その演奏をYou Tube等を経由して、お聞かせする分けにはいかないし、一昔前のCDなので、バロックの演奏とは言っても、今の私達の解釈とは、かなり違いますので・・・。
こちらは教室の演奏です。
Vivaldi Op.3Nr.8 a moll T楽章
八千代のコンサートの風景です。
曲はVivaldiのdoppelconcerto(2台のヴァイオリンのためのコンチェルト)です。
勿論、子供達の演奏なので、バロックversionの演奏ではありません。
Vivaldiによるviolinやcelloのcurriculumは、(他の作品とは一線を画す「四季」(ずば抜けて難しい)を除けば、)ある程度の技術水準迄の曲しかありません。
baroqueの基礎的なtechnicは、決まっているからです。
当然、私のmethodeでは、Vivaldiを卒業すると、次のorchestraの課題に入って行きます。
baroqueの作品では、Locatelli やTartiniの作品を学びます。
また、古典派の様式と奏法でStamitzやHoffmeister、HaydnやMozartの作品を演奏して古典派の奏法(technic)を学びます。
古典派のHoffmeisterのviolaconcertoです。
13年10月20日の千葉の発表会の風景です。
もっと時代を下って、近現代の作品を練習する事もあります。
そういった課題の一つがSeitzの五つの作品で、studentconcertoのcurriculumです。
本格的な大orchestraの伴奏を持っているstudentconcertoの作品も多くありますが、しかし、そのstudentconcertoの大半は、Piano伴奏の形でしか出版されていません。
所謂、concertoの形式をとるPiano伴奏の作品で、そう言ったgenreの作品なのです。
作曲家本人がorchestrationをした作品よりも、後世の人がarrangeをしたものが多いようです。
また、出版社によってorchestraのpartが出版されている作品は非常に珍しいのです。
このSeitzのOp.15 ニ長調は、その希な作品の一つになります。
昔々、生徒達への指導のために、片っ端からSeitzの楽譜を集めたのだが、海外発注で届いたある版が、Seitzのorchestraversionを出版している事を知って、さっそく、出版されている版は全て手に入れた。
しかし、このSeitzのorchestraversionは、partだけを売っていて、scoreは出版されていないという話であった。
さっそく、子供達にorchestraversionで発表会で演奏をさせようと思ったのだが、scoreがついていないので、指揮をする時(指導)に困ってしまった。「Pianoscoreで、指揮をしろ」とでもいうのかね??
当時は、未だMacのG4の時代だったのだが、finaleの3.0の最も古い時代のMacのfinaleで、part譜から、逆にscoreを作る作業をやった。
というか、アシスタントの先生に頼んで入力してもらったのだな!??
この曲は、とても良い曲では、あるはずなのだが、今三、演奏してみると、上手く行かないのだな!??
何かしら、物足りないのですよ。
・・という事で、しばらくの間は、この曲・・・というよりも、Seitzのorchestraversionに関しては、Piano伴奏のversionの演奏だけで、orchestraversionは、お倉入りになっていたのだが、「子供達に、舞曲を指導したい!」・・・・・・それも「landlerを指導したい!」 ・・・・・と思い立って、SeitzのOp.15の曲を、久しぶりに、書庫から引っ張り出して、八千代を前提として、全楽章演奏する事にして、色々と楽譜(score)のcheckを始めたら、な、な、な、なんと!・・・originalのorchestraversionのscoreの中に、目障りな(耳障りな)間違いが無数にある事に気付いたのですよ。
こりゃあ、またまた、orchestraの校訂の作業をせにゃあかんかいな??・・・・と思ったら、何と!!!・・・Macで作成した、このSeitzのconcertoのfile自体が、紛失して見つからないのだよね!!
勿論、その原因は、突然、江古田教室の大家が、法人契約(会社)の人達を全員追い出してしまって、個人契約の人達だけにするという暴挙に出たので、その「事務所の引越し」が原因で、突然、事務所を引っ越さなければならなくなったのだが、私が心臓の手術の余後で、引越しの作業を手伝う事が全く出来なかった事で、多くの資料類の分類が出来ず、それで、資料類が紛失してしまったのだ。
問題はそれだけではなく、泣きっ面に蜂とでも言おうか??それ以前に、Macとfinaleのソフトのversionupの問題がある。
finaleをMacからPCに移行させるのに、3.0から始まって、98、2000ハイブリット、2004等々と、何度もフロッピー間を移動させなければ、古いfileをPCで開く事が出来ないのだ。
そして、ついにxpからwindows7に移行する時に、大元のfinale自体をversionupする事が出来なくなってしまい、新しいfinaleを買う事を要求されたのだよ。
finaleに限らず、windows7へのversionupの時には、色々なソフトが新しく買い直しを求めてきた。
私の音声日本語入力のソフトである、ドラゴンスピーチも同じである。
後はホームページビルダーも、買い直しを要求してきた。
パソコンのソフトの、この横暴は許せない。
という事で、古い2004のfinaleは使えないままに、そういったソフトばかりが入っている捨てるに捨てられないxpのパソコンに入っているままである。
windows7には、finaleをサラに買い換えなければならないので、それは阿呆らしいので、旧versionのfileを開く事の出来る安い簡易versionの、finaleのソフト(お試しソフト)であるPrintMusicを応急手当に買ったのだが、旧versionよりも、格下のソフトなので、今まで出来ていた事がPrintMusicでは、出来ないので、超!頭に来ながら、入力をしている。
その前に、それこそ、一月近く、古いMacのフロッピー・ディスクを片っ端から、探して見たのだが、全部、遣り掛けの未だ入力されていない、不完全なfile資料しか見つからないのだよ。
やっと、3週間近く経って、全楽章の入ったフロッピーが見つかったのだが、今度はそのfileが、「このversionのtranslatorが見当たりません!」とmessageが出て、全く開かないのだよね!!
Mac用のfinale3.0から、2004までを、G4にインスツールし直して、全部、開くかどうかを試したのだが、同じmessageが出て無駄な努力だった。
「このversionのtranslatorが見当たりません!」 と言われても、他のMacのfileは全部開くのだよ!!
これは、単なる、虐めか??
゚(゚´Д`゚)゚ わ〜ん!!
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