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って、言う人はいないですよね??・・と思ったのですが、「何で??」って、聞かれてしまったので、確認をしておきます。

これは、当たり前のお話で、編纂した Kohler1820年-1886年と Ruthardt 1849年?1934年が、古典派とロマン派の端境期に編纂した・・という事で、その当時、ロマン派のsonatineを、収集する事は難しかったからです。
或いは、古典派以前のbaroque時代には、forte-pianoは未だ出来ていません。
だから、Pianoの教材として、編纂するためには、baroque時代まで、範囲を広げるのは基本的に無理なのですよ。

現在、子供のための教材で、古典派やbaroque時代の音楽が、混在している教本も多く出版されていますが、その教材で勉強しているのは、あくまで、baroqueの音楽の勉強として・・、ではなく、Pianoの勉強のためなのですからね。

チョッと話が本文から逸れて、余談になってしまいますが、・・・・・10日程前に、知り合いの楽器店に頼んでおいた全音版の「今井 顕氏の校訂版」を、昨日、楽器店の人が事務所に届けてくれました。

楽器屋さんのビニール袋の封を開いて、楽譜を見て、驚いたね。 
私の探していた、全くの原典版です。
そうそう、この版が今まで欲しかったのです。
大枚をはたいて海外発注してしまいましたが、それはそうと、素晴らしい!!
取り敢えず、pickupした4曲だけを、この原典版と比較対照して、見てみます。
まさに、このarticulationは、Clementi時代のforte-pianoの奏法そのものです。
古典派の時代は、弦楽器のbowslurでarticulationが書かれていたはずなのです。
そういう主張を30年前からやっていたのですが、昨日(15年9月の22日)も、3ヶ月ぶりに池袋まで行って、ついでに楽譜屋さんに立ち寄って、随分、お久しぶりに、色々な出版社のsonatine albumを手に取って見てみたのですが、古典派の時代のarticulationが書かれているのは、この今井顕さんの版が唯一でした。
つまり、2015年現在になっても、未だに、sonatine albumのarticulationは、いつの頃から編纂されたのか分からない、間違えたarticulationのままなのですよ。
それを私は、30年も前から、論文や、実際に子供達にorchestra等で演奏させていたのですがね。

Clementiは古典派の作曲家です。だから、当然、Clementiは、articulationを、この今井顕さんの版のように付けたはずなのです。

素晴らしい!!
今井顕さんに、感謝(bravo)!!感謝(bravo)です。


譜例:誰もが疑わない標準版のarticulationです。
誰が付けたかよく分からない、大きなphrase-slurなのですが、私達が子供達に正しい古典派のPiano奏法を指導する時には、このslurはとても、邪魔になります。

これは私達がphrase-slurと呼んでいるmelodieのStollenを表すslurなのです。
演奏するための、細かいtouchや、演奏のための奏法を表すためのslurとは、根本的にslurの意味が違います。


譜例:同じ全音楽譜出版社の今井顕版のsonatine albumによるClementiのsonatineの楽譜です。
Clementiの時代には、slurは、phraseを表すslurではなく、演奏の細かいarticulationを表すslur、所謂、bow-slurとして書かれているのです。

だから、上の全音の標準版のphrase-slurは、Clementi自身が書いた正しい楽譜ではありません。
近、現代のphrase-slurであって、ロマン派以降の時代のslurになります。
古典派の時代のbowーslurとしては、時代考証的に正しくはありません。





この段の冒頭の指使いは、Clementi自身が書いた指使いだそうで、標準版も、同じ指使いを踏襲しているそうなのですが、この指使いに関しては、少々、問題があります。
特に、小さな子供にとっては、この指使いはあまり適切な指使いではありません。
小さな手の指使いでは、auftaktの3の指から、肝心要のDの音を5の指で取るのは、大人以上に難しいので、一番しっかりとしなければならない音であるDの音が、不安定になってしまいます。
だから、私は4323ではなく4321−4−1と、取らせる事にしています。


日本人がよく犯す誤りは、2小節目のsforzandoの弾き方です。
この時代のsforzandoを演奏する時に、多くのpianistは、強くaccentで弾きますが、本来は、際立たせのaccentで充分なのです。上品に、あくまで優美な範囲のaccentでなければなりません。
それ以上に強い、鋭い音で弾くのは、時代考証的に、相応しくはありません。


しかしながら、古典派の時代区分は、1750年J.S.Bachの没年から、1827のBeethovenの没年までの77年間、約80年間とするのが、一般的です。
短いような80年、或いは長いような80年ですが、それを十把一絡げで、まとめてしまうのは、時代区分としては、余りにも乱暴で大雑把になってしまいます。

現実的にも、古典派の時代とは、上記のように、1750年Bachの没年〜1827Beethovenの没年までの時代を指す場合が多いのですが、実際には、同じ古典派とは言っても、学者によって、時代区分が異なったりするので、大変困ります。

同じ古典派という分類でも、「Wien古典派」という分類にすると、WeberやSchubertまで古典派の作曲家として、入って来てしまうのですから、困りものです。
また、後期baroqueと、前期古典派の時代にはrococo時代という時代区分も重なって来ます。

同じJ.S.Bachの息子でも、rococo派に属するEmanuel Bachと、Mozartに影響を与えた古典派の大作曲家であるLondonのBachと呼ばれるJohann Christian Bach (1735 - 82)が居て、共にヨーロッパの音楽界を席巻していた作曲家なのですが、様式的には、全く違った時代区分に属する作曲家なのです。

また、baroque時代の後期と、Stamitz(父)やBoccheriniのような作曲家は、同じ時代に活躍していて、そのために時代的にもかなり曖昧になるだけではなく、baroqueの作曲様式と古典派の様式を合わせ持つ作曲家達が数多くいたりして、音楽史の問題として・・だけではなく、演奏上のstyleの時代区分、所謂、interpretationを混乱させてしまう事もよくあります。baroqueと、古典派では、全く逆の演奏をする場合もあるからです。

古典派の時代区分も、baroqueのように、きっちりと分ける事は出来ません。
時代区分が短いので、様式的に、形式的に重なり合う事が多いからです。

古典派の活躍した地域は、と言うと、Wienと思われがちですが、短い古典派の時代にも、前期、中期、後期があって、前期古典派から中期までの作曲家達が活躍した地域は、ドイツのMannheimです。
(Mannheimはオーバーライン地方北部のライン川とネッカー川が合流する地点に位置しています。市はライン川の右岸、ネッカー川の両岸に広がっています。なんて、言っても、分かりませんよね。地図で調べてください。)

当時、マンハイムで活躍した作曲家の集団を指して、Mannheim樂派と呼びます。
Mannheim樂派の創設者は、18世紀のドイツ南西部マンハイムの(プファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドール(1724年 - 1799年))の宮廷楽団を中心に活躍した作曲家達のグループの中心人物であった、この楽団の宮廷楽長であったヨハン・シュターミッツ(1717年−1757年)であるとされています。

彼(か)の有名なviolaconcertoの作曲家であるCarl Stamitz(1745年5月7日 - 1801年11月9日)のお父さんが、Mannheim樂派の創設者になり、Mannheimを世界に冠たる音楽の都にした人物でもあります。
私達は、orchestra練習の都合上、紛らわしいので、私達に身近なCarl Stamitzを中心にして、お父さんのJohann StamitzをStamitzパパ、Carlの弟で、同じJohannであるStamitzをStamitz弟と呼んでいます。
もっと、ややこしい事に、Stamitzのお父さんと弟は同じJohannという名前なのでね。

父親から、Mannheim樂派を引き継いだCarlは、自分の宮廷楽団に私財を投じ、ヨーロッパ最高のorchestraを作り上げました。
息子Carl Stamitzの時代には、Mannheim樂派は最盛期を迎えました。

参考までに:Carl Stamitz celloconcerto in G 一楽章


青年期のMozart(1756年-1791年)も、父親(Leopold 1719年11月14日 - 1787年5月28日))に連れられて、1777年から1778年に就職活動のためマンハイムを訪問しました。
一般的には、「父親が歳の近かったCarlと、友人であったので、そのツテを頼って来た」と、されていますが、普通に考えて見ると、Carl(32歳)、Mozart(21歳11歳差)、Leopold(58歳26歳差)、で、Leopold とCarlの年の差は26歳差で、「歳が近いから・・」という、文章は成り立ちません。
チョッと冷静に考えれば、分かる事なのにね??

寧ろ、Carlの父親のJohann(60歳)と、Leopold (2歳差)は、2歳差なので、もしも「歳の近かったStamitzを頼って・・」と言うのなら、Mannheim樂派の創設者であるJohann Stamitzの方が可能性があります。ちなみに、Leopold が頼って、訪ねたのがJohann Stamitzとあったのなら、Mozartとの歳の差は、39歳差になります。

では、Mozartが影響を受けた作曲家は、Johannの方なのかな??
否、それは違います。

影響を受けたのは、父Johannではなく、息子であるCarlの方です。
「何故??」って??
それは、作曲様式が全く違うからです。
Johann Stamitzの作曲の様式は、未だbaroqueの技法を引きずっています。
Mozartが学んだ軽妙な古典派の様式とは、根本的に違います。
それはCarlの様式なのです。
そこで、混乱を生じてしまったのでしょうね。

Mozartと息子Carlなら、歳の差は、11歳差なので、Mozartが親しく学んだとしても不思議ではありません。
32歳のCarlは、当時は、作曲技法も、演奏法に関しても、Mannheim樂派のリーダーとして、世界最先端の寵児であって、油の乗り切った時期だったのですからね。
就職には失敗したものの、Mozartは、作曲の技術的には、この楽派の影響を大きく受けました。

素晴らしい作曲家であったJohann Michael Haydn, (1737年9月14日 - 1806年8月10日)(大Haydnの弟)に、可愛がられてその優れた作曲技法を学んで来たのですが、やはりSalzburgという地方都市で、保守的な作曲家であった、Michaelとは違って、時代の最先端の作曲家であったCarlの影響でMozartはその作曲技法を劇的に変化させます。

Mozartの交響曲、第31番「パリ」は、Mannheimのorchestraの管楽器の編成に影響を受けて作曲した交響曲であります。

Mozartだけにとどまらず、Mannheim樂派はClassic音楽における「交響曲」の発展に数多くの貢献をしました。

それまでの急・緩・急の3楽章からなる構成を、(もしくは緩急緩急・或いは、急緩急緩の四楽章)から、4楽章形式に変更し、その第3楽章としてメヌエット・トリオを付加した。
また、ソナタ形式、強弱法などにおいても、その後のMozartの「交響曲」に大きな影響を与えました。

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