古典派も後期になると、音楽の主流はMannheimからWienに移って行きます。
HaydnやMozart、Beethoven等の古典派の頂点を築き上げた作曲家達がWienで活躍を始めます。
保守的な地方の都市であるSalzburgに見切りを付けて、Salzburgを飛び出して、最大の都市であったWienに行ったMozartに、師匠であって、子供時代からのMozartを可愛がって来たMichaelは、兄で、当時、ヨーロッパ最大の作曲家として知られていたFranz
Josefh Haydn(1732年3月31日-1809年5月31日)を、紹介します。Haydnは、Mozartを一目見て、恰も息子のように可愛がります。Mozartの父親のように慕って行きます。
歳の離れた二人ですが、お互いの才能を認めて、相互に学び合うという良好な関係が、HaydnがLondonに旅立つまで続きます。
乱暴な言い方ではありますが、音楽の特徴としては、中世の音楽やbaroque時代が教会を中心にして、発展していったのに対して、古典派の音楽は貴族階級の間で発展しました。MozartやWeberの時代、Beethovenの時代に差し掛かると音楽の中心は貴族の没落と共に、民衆の物になっていきました。
そして、ビーダーマイヤーの時代につながっていくのです。
一般的に、(音楽史的には、)Haydnがsonate形式を作ったと言われていますが、このsonatine albumに収集されている作品は、Haydnよりも前の時代の作品です。
ですから、Haydnはsonate形式を、より完璧な物に完成させた作曲家であり、sonate形式は寧ろ、Mannheim樂派達の手によって、自然発生的に生まれた形式である・・・と言っても過言ではありません。
同じ古典派の作曲家でありながら、その様式を区別するのは、その作曲家の所有していたforte-pianoにもその一因があります。
この時期のforte-pianoの発展は著しいものがありますが、そのために、楽器的な性能、機能や音色等が著しく変化して来たforte-pianoの黎明期(或いはカンブリア紀)と、言う事が出来るからです。
sonateやsonatineの形式が確立するのは、 forte-pianoという楽器が一般に浸透していく歴史に整合しているのです。
Haydnの初期のPiano-sonateは、本当は、未だ、Cembaloのために書かれているsonateです。Haydnの場合には、1790年以降の作品は、完全にforte-pianoのために書かれている作品なのですが、ですから、作曲様式やthemaのMotivが、Cembaloのために書かれた作品と、forte-pianoのために書かれた作品とでは、明らかに異なったMotivであり、themaを使用しています。
その作品の違いは、歴然としています。
一番最初のforte-pianoは、誰が作ったのかは、定かではないが、一応、Bartolomeo Cristofori製作のピアノフォルテ(gravecembalo col piano e forte 1700〜1720頃)が3台現存しています。
右側の写真の楽器です。
一般にforte-pianoが普及するようになった時代は、1760年頃からです。
しかし、先程も書いたように、Haydnがsonateの作曲の様式をCembaloからforte-pianoに移行するのは、かなり遅めで、1790頃からであり、その頃のHaydnの書簡に、「自分が全くCembaloを弾かなくなって、完全にforte-pianoに移行した。」というその一節が出て来ます。
参考までに:「forte-pianoについて」
古典派の時代では、バロック音楽の特徴であった通奏低音(basso continuo)が使用されなくなり、バロック以前の音楽の様式であったpolyphony(多声音楽)からhomophony(和声音楽)に変わりました。
古典派の時代では、交響曲や管弦楽曲の基礎が作られ、独立した交響曲や、ritornellol形式によらない、新しい形式の協奏曲、triosonateに変わって、それ以降の室内楽の基本となる弦楽四重奏曲等の形式《genre》が生み出されました。