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Op.8の「四季」の「夏」の2楽章では、疲れ切った牧童が、木陰で身を休めているのですが、遠くで雷鳴が轟き、まどろんでいても、虻や蚊に苛まれている・・という光景が描写されています。


私の故郷の長崎の夏は、結構暑苦しいのですが、それでも東京のように湿度が強く無いので、部屋を全開にして、風通しを良くしていると、何とか、凌げます。
・・・、アッツ!これは今の人達には分からないよネ?

私が高校生の頃、或いは、音楽大学の学生だった時代には、エアコンなんて、文明の利器は無かったのですよ。

それどころか、私の住んでいた長崎の県営のアパートには、扇風機すら無かったのですからね。

長崎の町は港町なので、朝凪、夕凪があります。
海からの風と陸からの風が、相反して、風がぶつかって、全く、凪いでしまうのですよ。

その年の中でも、真夏の超暑い日(体温超えの日)が、年に2,3日はあるのですが、流石に、そうなると、畳の上で、ヘバッて喘いでいるのが関の山です。
その時に、頭のなかに聞こえて来るのが、Vivaldiの四季のこのウダウダとしたpassageなのです。

暑くて、どうしようもない!!ただ、ヘバッているだけ・・・、そんな光景です。
それは、senza vibratoがよく合います。ピッタリなのですよ!!

但し、実際の演奏では、長いmelodieの総てを、全面的にsenzavibratoで演奏するのは、表現に無理があるので、要所要所だけは、ホンの少しだけ「vibratoが少し入ったかな・・??」 ぐらいのvibratoを付けて表現の痩せとマンネリ化を防ぎます。

Vivaldiの演奏は、こんにちでは、baroque楽器の復刻の技術と演奏法の技術の向上や、研究の成果で、ほんとうの本物の音を聴く事が可能になって来ました。

先程の日本に2,3台しかない Neupertのmodern-Cembaloなのですが、Cembaloの復刻の技術の向上で、本当の本物の音が再び再現されて聴けるようになった時に、音量が劣っているから・・とか、楽器的な特性が未だ完全では無かったから、baroqueや古典派の時代のCembaloが廃れてしまった・・と言った、後世の誤解、誤りが是正されて、再びbaroqueブームが起きたこんにちでは、もうmodernのCembaloが主流を務める事は失くなってしまいました。

強い音量を求めるために、弦を機械的にスプリングで弾くと、音が強くなった分、その美しい音色が失われるし、また、小編成のbaroqueのorchestraには、baroqueのCembaloで音量も充分であった・・・という事が分かって来たからなのです。

強い音量で、美しい音を失って、大orchestraの大音量の豊かな色彩を得る事で、本来の純正の美しい和音の響きを亡くしたのですよ。
これはCembaloだけではなく、violinでも同じ事なのです。弓の張りを強くした分、音の美しさは失われて行くのですよ。

一つを得る事は、一つを失くす事なのですよ。(ヨージーの法則)


今では、すっかり失われた奏法である、Vivaldiの、recitativosoloの部分の演奏法も、私と同じ解釈で、同じような演奏をする団体が、この2,3年の間に、突然、増えて来た事は、これまで信念を持ってやり続けた事が、世界のstandardになるということで、自説が正しかった事の証明にもなって、嬉しい限りです。

まあ、それでも、40年近く待ちましたがネ。
私の場合には、年金の問題も、原発の危険性も、私の説が一般の人達の間に、認められるようになるには、常に30年ぐらいから40年は普通に掛かるようなので、近年、・・というか、30年40年経って、やっとこさ、こういった演奏が普通に認められて、また同様の演奏がなされるようになったのは、これまでの私の経験から言うと、40年も掛かるという事は、普通なのですよ。普通・・・!!


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1点支持と3点支持

baroqueの音楽や古典派の音楽を、現代の日本の弦楽奏者が出来ないのは、 Francois Tourteの弓の改良からの、3点支持による弓の持ち方の性です。
現代でも世界の勝れた演奏家達は、1点支持の持ち方をしますが、それは、本当に楽器の音を出そうとすると、3点支持の強引な音の出し方では、強い割れた音は出ても、美しい楽器本来の音は出ないからなのです。

勿論、violinやcelloが初めて作成された頃の時代では、弦もガットだったので、強い音量の演奏では、切れて弾けなかったでしょうしね。
・・と私が、公言していると、馬鹿な音大生が、
「You Tubeで強い音量でバリバリと演奏しているョ!」と反論して来ました。

阿呆かいね??ありゃア、ガット弦ではなく、ガット風の絶対に切れないナイロン弦だよ!!
ガット弦は、今は・・超、切れにくい、しかも、弦が伸びにくい、超高性能のナイロンの弦の事を言うのですよ。
本物のガットだったら、一瞬で切れてしまうのだよ。それに高価です。

今の人達は、
「ガット」という言葉尻に惑わされて、本当の本物と偽物の区別が付かなくなっているのだよね。
羊さんにも悪いし、しょっちゅう弦が切れていても、問題だし、本当の羊の弦は、製品的にも、品質の保持管理は難しいのだから、ナイロンのガットもどきの弦の方が、とても良いのですよ。
ただ、
本当の自然の羊さんの腸の筋のガットの弦は、切れ易く、強い張力には、耐えれなかった・・という事は時代考証として、知っていて欲しいのだよね。馬の尻尾も昔は質が悪くて・・てな、話をすると限が無くなるかいね???


今回のVivaldiのclassの生徒達にとっては、baroqueの奏法に挑戦する事は非常に難しいとは思いますが、敢えて、
子供の内から本当の本物の演奏に触れて勉強をして行く事が、本当の勉強の早道である・・という私の主義主張をそのまま、ベースにして、敢えて、Vivaldiのrecitativosoloの部分は、その難しい音楽表現に挑戦する事にします。
(先生が・・ではないですよ。・・小学4年生の生徒がですよ。)
アハッ!


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violinや弓の改革
violinが作られた時代には、楽器が演奏された場所は、王宮の中か、教会でした。
つまり、こんにちのような広い演奏会場で演奏される事は無かったのです。
当然、violinも弓もそんなに広い会場を想定して作られてはいませんでした。

プチブルやビーダーマイヤーの時代になって、大衆が音楽芸術を求めるようになって、その時代の要求で、大きなホールで演奏可能な楽器に対応するために、Cembaloは急激に廃れて行って、single actionのforte-pianoから現代のdouble actionのPianoへと変貌を遂げました。violinもネックを長くして張力を強くしたので、楽器がその張力に耐えられなくなったので、楽器の響板の内部に力木という支える木を貼り付けて、強い弦の張力に耐えられるようにして、弓も逆反リの現代のbowにTourteが改良・・????して、その強い弦の張力に耐え得るような弓を開発しました。
それならば、violinではなく、新しい楽器を作れば良かったのに、baroqueのviolinをそういう風に改良する事によって、(私の場合には改良とは思わないのですが、・・・ね)それによって、baroque時代の美しい音は、強い音に変更されたのです。
そして、その強い弓の張りに対抗するための弓の持ち方、所謂、3点支持の持ち方が採用されるようになったのです。
しかし、Beethovenにしても、Chopinにしても、そういった音の強さだけを求める風潮に対しては否定的で、Chopinも死ぬまで、single actionの古い楽器に執着しました。 当然の事なのですがね。






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一般教育における体験学習

子供達を色々な場所で演奏させて、経験を積む事が、音楽の上達のみならず、その生徒達の人生の経験にとっても有り得ないほどの絶大な意味を齎します。

しかし、学校教育で大人社会の体験として学習させられるものは、ホンの上澄みの奇妙なものに過ぎません。
その前提となるのは、「子供には絶対に出来ない」という大前提があって、子供達に夢を与えるために・・・という大人の穿った見方、考え方なのですが、汚いもの・・辛いものは省いて、触りの部分だけを体験させて、そのつもりにする・・という事なのです。
中学生として、高校生として、ボランティア活動で、介護を経験したとしても、本当の現場は、そんな綺麗事ではありません。
会社就職でも同じなのです。

実社会を全く知らないままに、学生の時の夢幻で、会社に就職して、大学まで、認められて来たはずの自分が、全く社会では認められなくなっているのに、気づく。
そして、ドロップアウトしたのが、ニートであり、引き篭もりなのです。
もっと、極端に社会に反抗して事件を起こす若者達は、高校生、大学生迄は優秀な模範的な子供であり、学生であったのです。
それを心理学の用語では、SNBP(負の転換点)と呼び、私達にとっては、必然的な結果論にしか過ぎないのですがね。

まあ、弦楽器の弓の持ち方や、音楽教育そのものも、1点支持は子供には出来ない・・とか、自分達が演奏している演奏は、長い辛い学習の結果であって、音楽の世界で生きて行くには、その過程を経なければならない・・というのも、そういった大人のエゴから来るものなのですがね。

宮本武蔵の五輪の書には、奥義として
「無駄は一切やってはいけない!!」と、1巻の纏めの言葉として書かれています。

無駄な経験を経て、やっとproとしての勉強が出来るのであれば、それは時間を労力と莫大な費用との無駄に過ぎない・・としか、思えないのですがネ??


私達の教室では、子供達が対外出演をよくします。
しかし、子供達に演奏のオファーがある事は絶対にありません。
3年間続けて、私の体力の限界・・と言う事で、ポシャらせた八千代のコンサートでも、(或いは、それ以外の子供達の演奏したコンサートでも)オファーそのものは、先生達に来たもので、それを私が、
「子供達を連れて来ても良いのか?」という確認を取ってからのお話です。
その時に、必ず返って来る答えは
「proとして、その水準で演奏出来るのならば・・」という答えが返って来ます。
当たり前の話です。
企画をする側は、
子供と言う事は有り得ないからですよ。

それから、対外出演に参加を希望する父兄、保護者に、
「学内や教室の中の演奏ではなく、一般の演奏なのだから・・」というproとしての意識の確認をします。

しかし、親にとっては、子供が社会人として社会活動をしている・・という事は、どうしても認められないようで、1年、2年も経つと、学校がやはり優先になってしまいます。「子供達は、勉強や学校が再優先なのだから」・・と・・。

それならば、やはり、学校主催のボランティア活動までしか、出来ないでしょう??
八千代は民間ではなく、市の主催です。
しかし、それでも企画は、やはり、proとしての活動で意識である事を要求されて、子供である・・という甘えは通らないのです。
だから、八千代の演奏活動は中止する事にしました。
私の
「体力の限界」という言葉は、単なるジョークなのですよ。

対外出演をした時に、聴きにいらしてくださった方達から、驚きの声と質問をよく頂きます。
特に、その質問は、業界の方達からの質問が多いようで、集約すると、以上の3点になるか・と思います。

「少人数で、殆どが子供達なのにどうしてそんなに音量があるの??」
「orchestraの音がとても綺麗で、聴いた事がないような音なのだけど、どうして・・??」
「何で、そんなに沢山の曲が演奏出来るの??」「どれくらい練習しているの??」


芦塚音楽教室は、巷の音楽教室に過ぎないので、
「どれくらい??」「これくらい??」も、練習している生徒はいません。殆ど日曜日のオケ練習の時に、練習するだけの、所詮、趣味の生徒達だからです。
だからと言っても、学業を必死に勉強しているような生徒達には見えませんがね??私には・・・・。

「子供達で少人数なのに、どうしてそれだけの音量が出るの??」 ⇒この質問には明確にお答えする事が出来ます。

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