Ricordi版Cembaloのpartは、私の譜面に比べて、複雑で、しかも、難しい事にお気づきと思います。
右手が二つの声部を複音楽的に演奏しなければならないし、16beatで、速いpassageを演奏しなければならないので、小さな手の子供達にとっては、不自然に指が広がって、結構、演奏が難しいのです。
勿論、それで、音楽的に華やかで効果があればそれでも、勉強する価値はあって良いのですが、ここのpassageは、orchestraがtuttiでforteで演奏されている所なので、Cembaloの音は全く聞こえないので、難しい割には、何の演奏効果も見受けられません。
それに対して、私のRealisationでは、随分、simple(単純)で簡単に書かれています。
その理由の一つは、即興で演奏する時に、basso continuoの楽譜を、simpleに和音として見る事(聞くこと)がとても大切だからです。
また、soloのbasso continuoの部分と違って、orchestraのpartが分厚いので、華やかbravura(ブラブーラ=華やかな)な感じは、逆にorchestraの響きの中に埋没してしまって、校訂者の意図とは違って、生きては来ません。
例え、tuttiであっても、音が大きく動いているpassageならば、速いepisodeを演奏して行く事も可能です。
でも、このpassageは、orchestraも華やかに激しく動いています。だから、当然、・・・
simple is the vest(??)です。アハッ!
(この洒落は分からないよね。昭和40年代に流行った、アランドロンのコマーシャルで、simplelifeの背広の宣伝文句です。つまり、simple
is best!ではなく、the vestなのよ!)
simpleなRealisationの演奏が出来れば、細かな華やかな演奏はいつでも出来る・・という事と、tuttiの部分なので、simpleでなければ、orchestraのbackにはならない・・という両方の意味があります。
Ricordi版はあくまで学者の書いた机上の楽譜で、難しい割には、生の演奏では活きて来ないのです。
勿論、実際に通奏低音が演奏出来るproの演奏家達が、Ricordi版のCembaloのpartを参考にして演奏する事はありませんしね。
そんな事をしたら、proの沽券に関わるでしょう??
Cembaloを演奏する人が、celloのpartに書かれた数字譜を見ながら即興で演奏したのは、よく知られていることです。
しかし、ここで書物等で、忘れられている事は、soloの部分のお話です。
チョッと、余談になりますが、私がドイツに留学中にドイツ人の友人達とアルプスに登った時の話です。
山頂にある山小屋に何と、小さなオーストリアの民族楽器であるChita(チター)と、ドイツ特有のベース弦を持った民族楽器であるギターが置いてありました。
友人達は、その楽器を取り上げてChita(チター)とギターの伴奏で、歌を歌い始めました。
それが、何と、超、上手いのですよ!!proなんてもんじゃないのよね〜!!
即興でどんどん色々な曲を歌うのですが、次の曲のキー(調性)や、複雑な和音を歌いながら、歌い手がコードでチターの人に指示をしながら歌うのです。2時間近く、全く休まないで歌い続けていました。
もっとも、アルプスの絶壁の小道を、ワンデルンしながら、Jodelを歌い続けながら山道を登っていたのですから、殆ど一日中歌っていたのですよ。
凄い!!
民族性の違いをひしひしと感じました。
で、どこが参考なの??・・・って???
つまり、即興のproの人達は、知っている曲であろうと、全く知らない曲であろうと、要所要所のコードを貰うだけで、全くノンミスで即興で演奏出来る・・という事ですよ。
右側の写真はドイツ留学中に、ドイツ人の友人達とアルプスの山にハイキングに行った時の写真です。
ドイツにいる間には、よく山に登ったものですが、私達男性陣は、岩登りをしていたので、日本人の女の子(violinですが)には、無理なので、お弁当を食べた草溜まりの所に残して、岩にしがみついていました。
アルプスの山並みが素晴らしいですね!!
baroque時代や古典派の時代では、作曲家は、毎週、1曲の曲を仕上げるのが義務だったのです。
1曲といっても、cantataの場合は30分以上は掛かる曲ですし、violinconcertoも全楽章なので、20分以上の曲なのですよ。
それに、大きなFest(お祭り)であるクリスマスや、大きな行事のある日には、4時間もかかる大曲を作曲しなければなりません。
Bachのマタイ受難曲や、ロ短調ミサ曲は、4時間以上も掛かる大曲です。
コピー機の無かったbaroque時代には、part譜を作るにも、何ヶ月も掛かったでしょうが、その間の毎週のミサは休む事は出来ないのです。
その毎日のgottesdienst(カトリックの毎週のミサの事を正式にはなんというのかは、知りません。ドイツ語ではそのように言いますが・・)用の曲を、毎週休まずに書くとして、作曲が間に合ったとしても、part譜を作ったり、練習もしなければなりませんよね。
その時間はどこにあるのかな?
勿論、作曲家の仕事はそれだけではなく、経理も人集めもしなければなりませんでした。
今の、当世風の若者達なら、忙しすぎて、泣き出してしまうでしょうね。
という事で、多くの場合には、violinconcerto等の場合には、作曲家(soliste)はsoloのbasso continuoのcellopartさえ、書かなかった事が多いのですよ。
勿論、Vivaldi等の大作曲家の場合でも、当然の、自明の理で、再現された楽譜も多いのですよ。
では、初見のensembleというのは、どういう風に可能だったのでしょうか?
それが、私が何時もオケ練習で指導している、Sequenzの奏法なのです。
つまり、themaAが繰り返されるとして、その転調がquintZyklus(五度圏dominante連鎖=五度の和音を連ねて行く事)なら、そのpassageは一々書かなくても、省略出来るのです。
その省略の手法は、教室の生徒達にも、暗譜のmethodeとして指導しています。
芦塚メトードで、Pianoを勉強する初心者が、先ず最初に習うBeyer教則本では、芦塚メトードである、暗譜の訓練として次の譜面を作っています。
しかし、この方法は本来は暗譜の為ではなく、樂曲分析法でもあるのです。
Vivaldiのlevelまで、上達すれば、練習番号付けにも、そのメトードを使用します。(orchestraの練習番号は、一般的には、感情的、感覚的に付けられているので、殆ど練習には役に立ちません。教室では、練習番号を、ツリー構造で作成するので、生徒達に宿題にしても、ロゴの順番を予め決めておきさえすれば、全員同じ答えになるので、とても楽です。10年前の子供達に付けた練習番号が、今の子供達が付けても同じ答えになるからです。)
つまり、現在のjazzのプレイヤーの人達のsessionと一緒で、楽譜は、覚書程度があれば、本当は必要はないのです。
concertoのsoloの部分は、soloのpartはVivaldi自身(作曲者自身)が弾きますので、ある程度は、複雑でも良いのです。
しかし、伴奏のCembalistやcellistにとっては、ある程度のsuggestionだけで、演奏出来た方が、効率がよいのです。
という事で、通奏低音のpartは結構簡単で、効果的に演奏出来るように配慮がなされています。
その一番最初の原理の説明が、Beyer教則本の暗譜法になるのです。
という事で、basso continuoのsoloの部分の奏法も、基本は、芦塚メトードの暗譜のmethodeから、派生して行った方法論なのです。
だから、教室のPianoの上級生達は、一度も習った事のない、basso continuoの演奏法を、和声学も知らないで、そのまま演奏出来るのですよ。経験則としてね・・!!