揺らしの話

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まえがき
   揺らしの話

中学1年生のヴァイオリンの女の子の話
パイプ・オルガンの伴奏
 ベートーヴェンの話
技術編 作曲者の楽譜に指示してない「揺らし」について baroque時代やrococo時代の慣習的な「揺らし」
溜め
参考までに
いつもの愚痴
 auftaktの拍よりも前に弾き始める奏法
タメとこらえ性
 subitoとAbschneidung
staccatissimoからlegatissimoまで

記号として表された「揺らし」 揺らしを表す音楽用語

音楽が停止する記号  タイミングをずらす記号 rubatoに対しての誤解

 持っていく  持って行くの追記    定型の揺らし

音楽の演奏形態による揺らし  舞曲が本来持っている揺らし  レントラーの形式

 MazurkaやPolonaise等の曲

Variation形式のテンポ設定

練習番号について  芦塚メトードの練習番号付け




まえがき

音楽を勉強する人達が、(それも多くの演奏家を含めて、日本人だけではなく、世界の演奏家達を含めて)音楽を歌う事(所謂、揺らす事)は感情のおもむくままに演奏することであると思っている人が大半であろう。

 

確かに20世紀の始め頃の名演奏家達の中にもそういった主張をする人達は数多く見受けられた。

そういった演奏スタイルは感情表出主義[1]と言われ、アルフレッド・コルトーやエドウィン・フィッシャー、サンソン・フランソア等のピアニスト達やティボー等のヴァイオリニスト、或いはフルト・ウェングラー等の指揮者の演奏等で耳にすることが出来る。

しかし、一般の音楽愛好家達が勘違いをするのは、そう言った感情過多の演奏のスタイルが、19世紀から20世紀の前半の演奏家達の演奏スタイルの特徴であると勘違いである。

本当の所は、それは同時期に存在した演奏スタイルの一つにしか過ぎなかった。その全く同じ時期に、譜面に忠実であることをモットーとして、一切感情を込めないで演奏する演奏家達も数多く存在したのである。

 

しかし、感情の趣くままに演奏するというスタイルは、20世紀の前半になってからは、演奏家にとって致命的な演奏上の欠点をさらけ出すこととなった。

 

それは、音楽が演奏会場で演奏されるだけではなく、録音され、レコードとして一般大衆に聞かれるようになったということに拠るものである。

 

勿論、この録音上の技術的な問題も現代の録音技術を持ってすれば、そういった演奏スタイルをとる演奏家達にとっても何の問題もない。

しかし、それは、今日の録音の技術の進歩があっての話で、20世紀に入った当初は、まず最初の録音媒体は蝋管によってなされた。

本当に古いレコーディングである。

その次の録音媒体は、所謂、SP盤と呼ばれるもので、私の幼年時代にも、まだ使用されていて、横のハンドルを回しながら、シャリアピンのムソルグスキーの蚤の歌や、シューベルトの未完成交響曲を聴いた記憶がある。落語の名人の独演などと一緒に・・・。

SP盤は1枚の演奏時間が最大でも3分程度である。

私が伯母から貰い受けたBeethovenの第5交響曲は暑さ20センチ程度の豪華な箱に30枚程度の分厚いレコードが入った、非常に重いレコードである。

また、この当時のレコードは、1枚ごとにオーケストラのpitchやテンポが変わってしまうことが当たり前だった。

極端な時には演奏上のnuanceさえ変わってしまうことだってしょっちゅうあるのだ。

それがレコードとして当たり前の事だったからだ。

クライスラー等のように超売れっ子でカリスマ的な当代随一の演奏家といえども、この3分の壁は当時の録音技術の限界として捕らえていた。

 

そこで、マニアックな演奏家になると(recordingに対してお金に糸目をつけないので)何台もの録音機器を駆使して、一括録音をする。録音のタイミングを少しずつ、ずらして演奏の切れ目をなくしていくのであるが、当時の機器は相当高額であったし、高度な技術も必要であったので、名演奏家と言えど、そうそう出来るような録音方法ではなかった。

当然、「同じ演奏が2度と出来るか!」「3分おきに、同じ感情が保っていられるか!」と言う演奏家達も多く、レコーディング自体を拒絶する演奏家も多かった。

名演奏家達の一期一会の考え方であり、「そのときの演奏はそのときの感情の産物であり、2度と同じ演奏は出来ない。」 と言う主張である。

 

私が中学生になった頃にはロングプレイのレコードというものが開発された。

所謂、LPレコードである。

中学生の頃、お昼の食事代として貰っていたお金を貯めてレコードを買った。

今、そのレコードをよく見てみると、レコードのナンバーが一桁なんだよね。(0007番という具合に・・)

1月半ぐらい昼食を抜くと、何とか1枚のレコードが買えた。

当然、レコードプレイヤー何て贅沢な物は持っていなかったので、どうしてもレコードプレイヤーがほしくって、(勿論、片親だったので、親には言えないよね。)半年ほどお昼抜きで頑張っていたら、母が見るに見かねて会社のローン(当時は月賦といったが)で、買ってくれた。

それこそ、月給の何か月分かだと思うよ。




 

またまた話が横道にそれたので、本題に戻すと、録音の時代は結構蝋管からSPレコードの時代が長かったのだよね。そういった録音媒体は長時間続けて録音することは出来なかった。だから、一度で、曲の最初から最後までを演奏しなければならない、(二度と同じ情緒表現が出来ない・・)そういった感情表出主義のスタイルでは演奏家としては生き残ることが出来なかった。

アルフレッド・コルトーやエドウィン・フィッシャー、ヴァイオリンのティボー等も、彼らの寿命がSPの時代だけで尽きていれば、今日の名声を得る事は出来なかったであろう。(もし出来たとしても、それは伝説上の人物としての話である。)

彼らの活躍はちょっと前のLPの時代まで続いていたので、私達は不自然でもなく、そういった往年の感情表出のスタイルの演奏を聞くことが出来るし、彼らの演奏を正しく理解できる。

その演奏は、生徒の模範演奏としてでなければ、私達が音楽の教育という立場を離れて、一人寂しくワインを傾けながら聴くには実に良い演奏である。

但し、基本的ではないので、(あくまでコルトー=Chopinであって、Chopinではないのだから・・・)勿論、生徒にはそのようには弾かせないけれどね。

 

[揺らしの話]

先生のコピーとしてや、CDの物真似ではなく、小学校の4,5年生の子供達に正しい揺らしの演奏を指導するのは至難の業である。

腕を鍵盤から上げることを指導しているときでも、最初は「ペンギンかい?!」と思うほどぎこちない。

しかし、それが半年もすると、柔軟に優雅に腕を動かせるように成るのだから、子供の上達は恐ろしい。

これが、音大生に教えるときには、幾ら表現の仕方を説明しても、彼女達のプライドが邪魔をして、なかなか私の言う通りに弾いてはくれない。機械のようにつまらなく演奏する。(一昔前だったら、「コンピューターのように」とか、「ロボットのように」とか言ったのだろうが、今のコンピューターやロボットの方が音大生の演奏よりもはるかに情緒的に演奏することが出来る。

当然、揺らしなどもお手のものだ!

ちまちまとした演奏に、いつも「舞台では、恥も外聞もないんだよ!!」とか、「ホールの大きさに合わせて表現を大きくしないと、感情は伝達できないのだよ!」と言って、怒り捲くっているのだが、子供に指導するときには、そういった問題はない。大人としての驕りがないので、素直に私の注文に応じて表現してくれる。子供を一流に育てるのは楽なものだ。
しかし、子供も高校生ぐらいになって、色気が出てくると、照れや周りの風評の影響でだんだん先生の言う事を聞かなくなってくる。そうなると、一般の音大生と変わらなくなってしまう。芦塚メトードもそこまでだなや!!

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[中学1年生のヴァイオリンの女の子の話]

中学生のヴァイオリンを習っている女の子のお父さんが、子供をどうしてもコンクールに出したいと言ってきた。

私としては、「もし、お子さんを将来音楽家にしたいのなら、コンクールには出さないほうがよいですよ。」と意見をしたのだが、「素人なので、子供のlevelがわからないので、ぜひコンクールに出してみたいのですよ。」 との、分かったような、分からない話で、なんとなく生徒をコンクールに出すことになってしまった。

そこで、初めてその女の子のヴァイオリンのレッスンしてみると、これが酷い!全く機械的に無味乾燥に楽譜通りに演奏する。

勿論、技術も何も(へったくれも)あったものではない。

技術はともかくとしても、幾ら指導しても、音楽の感情表現が全く出来ないのだ。

「これではコンクールにはとても無理だ。」ということで、曲の持つ感情表現や情緒表現を指導する事をやめて、すべての情緒表現を技術としてlectureすることにした。

所謂、「揺らし」の機械的なlectureである。

勿論、私はヴァイオリンを弾けるわけではないので、私がヴァイオリンを演奏して、コピーをさせるというわけにはいかない。通常のレッスンは、先生が生徒に自分の真似をさせて、レッスンするのかもしれないが、コンクールではそうは行かない。

それが出来る(可能である)というケースは、その先生の演奏がコンクールの全国大会に入賞するlevelよりも優れた演奏が出来る場合に限られる。

小学部門でも、高学年の、しかも全国大会で入賞を競うlevelになると、そこいらの音大出のヴァイオリンの先生では、とても太刀打ちできないだろう。

小学生ですら、全国大会のlevelともなると、非常に高度なテクニックを要求されるのだから、それにも増して、中学部門の全国大会のlevelでは、先生が弾いて生徒に指導していくのは、プロのプレイヤー・クラスでないと難しい。

何せ、奴等は半年間、死に物狂いで練習してくるからね!

だからといって、どこかの音楽教室のように、有名演奏家のCDでも真似ようものなら、全国大会の審査員クラスになると、それこそ「お笑い」で、嘲笑の的になってしまう。地方予選、地区予選なら兎も角も、全国levelの審査員ともなると、それぐらいは普通に分かるからね!

ということで、楽譜上で正確にインタープリテーション(解釈)をして、それをメトロノーム等の機械を駆使して、あたかもパソコンに手入力するように、正確にダイナミックや揺らしを設定して、半年間(勿論、週1で・・!!)みっちり指導した。

追加レッスンなんて真っ平ごめんだからね。

勿論、コンクールの全国大会で無事入賞する事が出来たよ。

審査員の評価は「感情が勝ちすぎるので、自分の感情をもっと抑えて演奏するように!」だそうな!!

これには、笑っちゃったよね・・!!

 

[パイプ・オルガンの伴奏]

私が日本に帰国して間もない頃の話だが、私のミュンヒェン時代の友人でオルガニスト(女性なので、本当はオルガニスティンと言うが・・)が、目白のカテドラルで音楽大学の卒業生が歌うシューベルトのかの有名なアベマリアの伴奏をすることになった。シューベルトのアベマリアには、あたかもカデンツのようなメリスマのpassageが出てくるのだが、そこの所のタイミングが伴奏となかなか合わない。

歌手の人が怒って「そこの所は私の歌をよく聴いて、私にちゃんとあわせて弾いてください。」と言って来た。

私の友人のオルガニスティンは「パイプオルガンは、私がキーを押さえてから音が出るまでに0.5秒かかるのですよ。だから私はあなたの歌の0.5秒前を演奏しているのですよ。だから、もし、あなたが『こういう風に歌いたい。』と、言ってくれるのなら、そのように揺らしたり、待ったりして伴奏しますから。」と、説明したのだが、彼女は「だって、どういう風に揺らすかは、実際に歌ってみて、その場になってみないと、分からないから!」と、全く納得しなかった。

「演奏会がどうなったか?」って?

そんなの知るかよ・・・・!!

 

[ベートーベンの話]

私も、リュウマチで指が動かなくなる前の、40代の頃までは、まだ少しはピアノが弾けたのだよ。

伴奏者として、舞台で金を稼いでいた事もあった。

今の私の生徒じゃなくても、今では、自分自身でも信じられないのだがね・・・。私に、指が回る頃があったということが・・・・。

さて、愚痴は兎も角も、昔々のお話、・・・ということで、若いピアニストへの、演奏会(本番)前のlectureで、(若いピアニスト??・・・とは言っても30は越していたのかな?)模範演奏をしなければならなくなって、ベートーヴェンの32のvariationを演奏していたとき、finaleへの導入での美しいmelodieをたっぷり聴かせるpassageに差し掛かった時、聞いていた演奏家の人が「まるで演歌のようだ!」と、私の演奏を聞いて怒っていた。私としては、彼女が、何でベートーヴェンをそんなにつまらなく弾くのか、そちらの方がよっぽど不思議なのだが・・・。
いやぁ~、見解の相違かな??

 

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技術編

「揺らし」には、大きく分けて、作曲家の指示したものと、舞曲や民族音楽のように定型の形式的な揺らしを伴うものの二つに大きく分類される。また、楽譜上には指定され記載されていなくとも、そのまま演奏すると、とても不自然に成ってしまうので、揺らしをしなければならないものも数多く見受けられる。
またそういった揺らしが曲の1phraseに対してではなく、形式そのものに成っているものもある。

そういった揺らしを伴う楽曲の例をいくつか例を挙げて説明しよう。

 

 

作曲者の楽譜に指示していない「揺らし」について

 

[baroque時代やrococo時代の慣習的な揺らし]

baroque時代やrococoの時代の曲には、表情記号やテンポの設定の記号が書かれていることはまれである。
ましてや、同じサラバンドやフォリアのテンポは時代時代によってずいぶんと異なるのだが、それを間違えて(時代考証を無視して)乱暴にも「サラバンドやフォリア 
(クリックするとla foliaの解説のPageにlinkします。)は荘重で遅い曲である」と指導している人が少なくない。
la foliaにしても、sarabandeにしても、その曲が生まれた当時は非常に粗野で煽情的で何度も禁止された事のある曲である。
それが宮廷に入り、洗練されてrhythmの特性だけを残して、荘重な優雅な曲に変わって行った、という流れがある。だから、Vivaldiのtriosonateのla folia等も結構速く激しい曲である。
参考:(芦塚音楽研究所の先生方による)Fiori musicali baroque ensemble演奏で

表情記号やテンポ記号は当時は慣習的なものであり、楽譜上には書かれていなくとも、必然的にそのpassageはそういう風に弾かなければならないという、ルールがあったのだが、それを完全に無視して無味乾燥に機械的に演奏させる指導者が多くて困る。

その極端な例では、Baroque時代やrococo時代の曲では、phraseの終わりのpassageにrit.を入れないと、メリスマの為に、そのphraseの中の拍に収まらない曲が数多く見受けられる。

当時はまだ表情記号やテンポの設定が書かれる事自体がまれであった(と言うよりは、ほとんどなかった)ので、当然、書かれてなかったとしても、慣習上accelerandoやritardandoを入れて演奏しなければならない。

 

譜例: Couperin 修道尼モニカ

 

Cembalo等の楽器は、現代のピアノのように強弱で細やかなnuanceを表現することが出来なかったので、tempoの揺らしは、揺らしそのものよりもむしろ強弱を表す意味でも必然で重要であったのだ。

私がいつも生徒に指導している、強拍を表すモルデントと弱拍を表すモルデントや、sforzandoをあらわすダブル・プラルトリラー等も装飾音であると同時に、微妙なテンポの揺れを伴って奏されているのだ。

(詳しくは ホームページ: Couperin 修道尼モニカ 参照)

 

[溜め(タメ)]

私のレッスンは、子供に言葉を教えるところから始まる。表現が正しく伝達されるためには、その演奏表現を伝達するための正確な言葉が必要なのだ。

 

音楽を演奏する為の楽語や楽典で使用される音楽用語はヨーロッパで使用される用語のほんの一部でしかない。日本語に置き換えてみようとするのだが、適切な音楽用語が見あたらない事の方が多い。だから、ジュリアードの先生が連発する単語は英語のままで、ドイツの音楽用語はドイツ語のままで、それにもまして、フランスの言葉はそのままフランス語で使用している。最初から「妙チクリンな日本語訳を考えるよりはましか?!」と言う話である。

しかも、音楽表現や技術に関して、存在しない単語も数多くある。

それを説明するときには一般的には「それは、こう弾くのよ!!」とか言って、何度も何度も弾いて聞かせるのだろうが、私はそんな事はめんどくさいので、言葉を造ってしまう。

そうすれば、曲が変わるごとに弾いて聞かせることはないもんね。

「そこはfeint(フェイント)で弾くんだよ!」とか、「そこはお尻のtouchだよ!」 で、説明は済んでしまうからね。

 

しかし、この変な 「溜め(タメ)」と言う言葉は、私の造語ではない。

音楽業界というか、オーケストラの奏者達や演奏家達が共通して使用する比較的に一般的な言葉である。

ここで、こういう事を敢えて話題にするのは、実は「タメ」と言う言葉は、本来クラシックの世界の言葉ではないからだ。
だから、クラシックの世界でこの言葉を知っている人は少ない。

むしろ、演歌やポピュラー、或いは民謡などの世界の言葉である。

しかし、日本のオーケストラ奏者達が好んでこの言葉を使用するのは、音楽の演奏表現を伝えるときに、これほど便利な言葉はないからである。

「タメ」と言う言葉はphraseの入りのauftaktの音符に対して一番多く使用される。言い換えると、全てのauftaktは「タメ」を伴うと言っても過言ではないであろう。

 

しかし、この言葉は、音楽大学などの、学生達、音楽を勉強中の人達にとっては一番嫌がられる言葉であろう。

音楽大学の先生達は「タメ」の演奏を極端に嫌う。音大の先生達はMetronomを使用する事を極端に「機械的である!」とか、「非音楽的である!」とか言って、軽蔑するのに、「タメ」を入れようものなら、「楽譜に書かれたrhythm通りでない!」とか言って、怒り出す。

私達は学生の時には、「auftaktは正確なrhythmで演奏するように!」と音楽大学の先生達から厳しく指導された。

8分音符のauftaktをほんの少しでも長めに弾こうものなら、烈火のごとく先生の雷が炸裂したものである。

しかし、現場に出ると、今度は逆に「auftaktは次の音に対しての「タメ」がなければならない。」 と、先輩達から指導される。

そこが、現場の音楽とアカデミズムの音楽の違いでもある。

 

「タメ」はauftaktの音と次の音のinterval(音程)で「タメ」の長さが決まる。

auftaktの「タメ」を、私が生徒に指導するときには「垂直跳びのジャンプ」に喩えて説明する。

高く飛ぼうと思えば思う程、人は低く腰を屈める。

その分、「タメ」の時間は長くなるのである。

それをエルガーの「朝の挨拶」のmelodieで説明しよう。

 

譜例:エルガー 「朝の挨拶」

此処に①から③の三つの「タメ」がある。それぞれは同じEの音の「タメ」を持つ。①のauftaktのEの音の「タメ」は通常の「タメ」である。②のEは比較的にあっさりと奏く。③の「タメ」は頂点だから思いっきり溜めてクライマックスのCisの音に向かう。それぞれのEの音の表現がintervalによって、重量感が変わるのである。

 

「タメ」をよく「glissando」と勘違いをしている奏者がいるが、「タメ」と「glissando」では演奏法が根本的に違う。

「タメ」は、寧ろ「legatissimo奏法」の延長線上の一つであり、「glissandoの演奏法」とは明確に区別して演奏しなければならない。

 

[参考までに]

A: legatoとglissandoの演奏の違いは器楽の先生達よりも、声楽の先生達の方が、より厳密に指導している。

それは歌詞の歌い方から来るから、である。

「am Abend und am Morgen (朝なゆふなに・・)」という言葉があったとする。

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