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あくまでaccelerandoであり、ritardandoなのである。

 

[持って行く]

crescendoがあるなしにかかわらず、音楽的にそのpassageを(steigerung)高揚させていく場合には、私達は「持って行く」という表現をする事がままある。この言葉も私の勝手な創造ではなく、結構音楽家仲間では一般的な言葉である。それに対してして気分を解放してリラックスさせる事を「収める」(「緩める」)と言う表現をする。

 

[「持って行く」の追記]

rubatoであろうとなかろうと、それが2部形式、3部形式の唱歌形式であろうと、西洋の音楽は基本的に「質問」と「答え」と言う構造で出来ている。

それを表す言葉は、非常に多くまたしかも、微妙に意味が異なる。

あるときにはanacroseとdesinenceであったり、フーガなどではFührer(Dux)とかGefährte(Comes)のような言葉で、その言葉の対立を表す。

その言葉は殆どきりがないと言っていいほどである。

そこで、私達が子供達を指導する上で、普段、どの生徒にも理解出来て、しかもピンと来る簡単な言葉は「質問」と「答え」であろう。それが一番具体的でしっくりきてよい。

勿論、曲の大半は前のphraseが質問であり、次のpassageが答えとなっている。

但し、意地悪な曲の中には質問の次に、又質問が来て、その後で、あたらめて答えがやって来たり、一つの質問に対して、答えが2回も3度もダメ押しで来る場合もある。しかし、常に質問に対して、答えという図式は変わらない。

当然質問は畳み掛けであり、steigen(高揚)であり、ダメ押しで押してくる。それに対して、答えは相手の質問を「収める」のだが、まだ収めてはいけないところでは(緊張を)「緩める」となる。

「緩める」と言うのはきつく縛られた縄を、少し緩めると言う感じであろうか?幾分ほっとさせると言う感じかな?先の「収める」とは、「緩める」は又、ずいぶんnuanceが違ってくる。

ChopinのMazurkaでもrubatoして緊張させたtempoを、収める時に、ちゃんと収めることよりも、steigerngさせた緊張感を、思いっきりしっかりと収めるのではなく、きつい縄目の束縛をほんのちょっと緩めるだけと言うpassageが多い。

これはChopinのMazurkaがあくまでショート・ピースであるから、曲の長さ的に緊張を完全に収めてしまうと、次のphraseの立ち上がりが上手く行かなくなるからである。

「緩める」と「収める」の使い分けが出来る様になるだけで、演奏の深みはずいぶん増す事ができるだろう。

 

[定型の揺らし]

先ほど出てきた「切断」も必ずfeintを伴うので、[定型の揺らし]と呼ぶことが出来る。

しかし、[定型の揺らし]はそんなに特別なものではない。

極々一般的な「揺らし」の原型は、音型が上行し、且つ音楽が高揚する場合には、音楽的には必然的に気分的に早くなるし、音型が下降し、音楽が落ち着きを取り戻したときには、テンポは収めとして、少し落とし気味のテンポとなる。

baroqueやrococoの曲は、アカデミズムの世界では、機会的に味気ない無味乾燥なテンポで演奏されることが多いのだが、melodieの強弱が出来ない(歌うことが困難なCembaloという楽器の音楽であるからこそ、CouperinやRameauのCembalo曲には、そういった歌うための「揺らし」が必要となるのだよ。(別にフランスの作曲家だから、感情的に・・・・という意味は、私にはないのだけれどね。)

 

「揺らし」というものは、決して感情的なものではなく、緻密な計算に基づいたものなのですよ。

それが芸術の持つ普遍性であり、作曲家の意図なのですよ。

 

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音楽の演奏形態による「揺らし」

 

[舞曲が本来持っている「揺らし」]

「揺らし」が曲の一部分にかかるものではなく、曲全体の構造にかかって来るものが数多く見受けられる。そういった形式の大半は舞曲である。

数多くある舞曲はそれ自体がそれぞれの部分部分で独自のrhythmを持つ。

そういった揺らしの形式の典型的なものは、レントラーやMazurkaなどの舞曲やハンガリー・ラプソディーの形式であろう。                             

 

ハンガリーの幻想曲と名づけられた一連の曲、フリュートの有名なドップラーのハンガリー田園幻想曲やリストのハンガリー狂詩曲、或いはヴァイオリンのサラサーテのチゴイネル・ワイゼン、ラベルのチガーヌに至るまで、基本の形式に従って作曲されているのだ。

私はこのハンガリーの形式を雅楽の形式になぞらえて、「序、破、急」の3部から成り立つ形式に中間部の歌謡形式の部分を加えたものと説明している。

 

「序」の部分は、混沌として無秩序なカオスの状態から徐々に音楽の片鱗を見せ始める部分である。テンポは断片的で一貫性がなく、混沌とした状態を繰り返す。

 

次は本来的には「破」の部分になるわけなのだが、長大な長さのハンガリー狂詩曲の場合には実際には4部構成をとることが多い。

だから「序」と「破」の間には中間部として、独立した・・息抜きの「歌う部分」が置かれていることが多い。ほとんどの曲が小さな歌謡形式をとっている。

有名なサラサーテの子守唄のpassageである。

だから当然「揺らし」も、優しい歌謡形式の定型の「質問」と「答え」の「揺らし」でなければならない。

 

それから、「破」のpartに入ると、ゆっくりしたテンポからだんだん速くなるpassageを何度も繰り返して、音楽を盛り上げていく。

 

最後の「急」のpassageはだんだん速くなるわけではなく、段階的にテンポをあげていく。そして最後のfinaleに差し掛かってから一気にテンポを出来る限り最大まで加速して終わる。

 

曲が比較的に小規模である場合には、4部構成の第3部と第4部が一体になっていて、あたかも、挿入された歌謡形式の部分が3部構成の中間部であるかのような書かれ方をしている作品も多く見受けられる。

いずれにしても、或いはどの楽器に対しての作品でも、この基本的な形式は定型であり、演奏もその様式(演奏スタイル)に従ってinterpretationされ、演奏されなければならない。

 

レントラ-(ländler)の形式

大規模なレントラーの形式の作品は19世紀の後半のドイツやオーストリアの作曲家によって、数多く書かれた。
その代表的な作品は、violinの教材の作曲家として有名なザイツOP.12 ト短調の3楽章のlandlerであろう。
大landler形式で、軽快なleggieroのthemaから、私がBarentanz(熊さんのダンス)と呼んでいる、重いphraseと素早いphraseが交互に出てくるdance、次には・・・と、この曲の詳細な解説は、下記に少し詳しく触れているので、ここでは飛ばして、ザイツのト短調の3楽章のlandlerも、ハンガリー狂詩曲同様に、結構に、大規模な形式で成り立っている。

Seitz violinconcerto ニ長調 Op.15 Ⅲ楽章へリンクします。

しかし、不思議な事にヴァイオリンの曲にはこのレントラーの形式で書かれた作品は数多くあるのに、オリジナルのピアノの曲の作品はまだ探せていない。

勿論、民族音楽のレントラ-をピアノにトランスポートした作品にはよくお目にかかるのだが、あくまでオリジナルの作品としては、いまだに探せていないのだ。

それは、別のサイトに詳しく書いているが、Pianoが特別なセレブから、或程度裕福な一般大衆の物になる時代には、既に、landlerの時代からValseの時代に変わっているからなのだ。そう言った時代考証の話も、学術書には書かれてはいない。
何れにしても、landlerやその他の舞曲は、classic音楽の分野よりも、民族音楽の分野に属する事が多いのだよ。
民族音楽の研究はもっと後の時代になるからなのだよ。

 

もう一つの面白いことは、殆どの舞曲が3拍子なのに対して、レントラーは2拍子の曲が非常に多いのである。それはアルプスのダンスのstepに特徴があるからだ。レントラーはロンド等と同様に輪舞であることが多い。ウインナワルツのように基本的には2人で踊るダンスよりは、カントリーダンス(学校のフォークダンス)に近いからだ。私達が高校生の頃、強制的に踊らされた、オクラホマ、何とか??とか言う曲も、2拍子の曲である。カントリーダンス(フォークダンス)は皆で簡単に踊れるように、大きな輪になって直進運動をする。集団で円になるときには、回転の少ない2拍子の方が踊るのに有利だからだ。

それに対して、3拍子のstepは足のstepが円の回転運動をするので、むしろ、ペアーの回転の動きが基本である。

その典型である、ウインナーワルツは2人だけのペアーで、小さな円回転運動をしながら、大きな集団の輪舞をする。足のstepの難しい非常に高度な踊りである。

 

 

 

 

村のländler

私がドイツに着いて、語学研修の為に滞在していたKocchel村のお祭りのダンスである。

この模範のダンスの後、私も(観光に来ていたお客さん達も)一緒に、手ほどきを受けながら、レントラーを踊ったのだが、100キロ近いおばあちゃんを両手で持ち上げる場になって、おばあちゃんが「無理だろうからいいよ!」と遠慮していたのを軽々と、持ち上げたので、見ていた人達が皆びっくりしていた。当時私は170㎝、55㎏のガリガリに痩せていたけれど、実は武闘派で体力や腕力には自信があったのだよね。

レントラーの最初の部分の入りは、非常にゆっくりと入って、ほんの1小節ぐらいでin tempoまで急速に早くする。phraseが2回、3回と繰り返されるときには、「タメ」がそのつど少なくなる。(減っていく。)レントラーの2部の歌う部分は、少しゆっくりのテンポになるのだが、それはrondoの原則に従う。

最初のレントラー部が終わると、次の部はBären Tanz(熊さんの踊り)と言う部分になる。非常に重々しい2小節ぐらいのpassageと非常に速い2小節の部分が繰り返されて、4小節の速いpassageが続く。それがまた繰り返されて、・・と何度か繰り返されて、それが終わると、またlandlerの部分の開始である。

 

つまりレントラーの構造式は、landlerA=小rondoで(a+b+a+c+a)、熊さんダンスB、landlerA、ゆっくりと歌う歌謡形式の部分C、landlerA、finale部分とCoda

つまりは、大きくA,B,A、C、A+finaleとCodaの大きなrondoを構成する。

landlerAは大きな曲では小ロンド(a+b+a+c+a)を形成することが多いのだが、小さな構造の場合には、landlerA=(a+b+a)の単純なシンメトリー形式になっているケースも多い。

その場合には、殆どの曲がlandlerA(a+b+a)、B、landlerA(a+b)+(a+Coda)の3部構成をとっている。

「なぜ?」って・・・??

それは音楽上の決まりではなくって、踊りの決まり(構成)だからだよ!

 

landlerを引き合いに出さなくっても、民族舞踊には慣習的に決められたstepを伴った枠組みがあるんだよね。stepというのは、その踊り方によって独自のrhythmを持っているのだ。

それが、Chopinのピアノの曲のように純粋にピアノのための作品で、踊りを前提とした音楽でないという曲になったとしても、その踊りのstepによるrhythmはきちんと定石として守らないとおかしいもの(lacherlich!)になってしまうのは当然でしょう?

それでは舞曲とは言えなくなるものね!

 

MazurkaもPolonaiseも同じだよ。

 

ピアノの先生は、よく「クラシックだから」「ピアノの曲だから」「Chopinは踊るために書いたのではないから!!」なんて言うけれど、それを言ったらChopinに失礼だよね!

だって、それじゃぁ、Mazurkaとも、Polonaiseとも言えなくなってしまうからね。

彼は戦争で滅ぼされた自分の故郷を思って書いたのだよ。

それに対して「Mazurkaのテンポなんて、日本人には分かる分けはないわよ!」とか言ってしまって、舞曲のテンポやrhythmを無視して勝手に弾かれてもねぇ!?

そりゃChopinに失礼だわさ!!

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MazurkaやPolonaise等の曲

私達がまだ音楽大学の学生であった頃、まじめに形式学の本とか買って、いろいろな音楽の形式を研究したもんだ。

そこには「舞曲は全て押しなべてABAの3部形式で作曲されている。」などと、乱暴な解説が書いてあった。

それをいまだに信じている音大生、或いは音大の教授達が多くて困ってしまう。舞曲の形式とはそんなに単純なものではないのだよね・・・・!

ChopinはとてもMazurkaを愛したとされる。それは、ChopinにとってのMazurkaは、俳句と同じで、大きな音楽が小さくミニマム(minimum)に凝縮された形だからなのだよ。

だから、テンポやrhythmがめまぐるしく変化する。

他の作曲家の作曲している大きな長いMazurkaと全く同じ形式を使用しているのだが、それを極端にミニマムに、8小節とか、16小節の音楽の楽曲構成上の最小の単位で表現している。

まさに、俳句や短歌の世界だよね。

だから当然起承転結が存在して、それぞれがそれぞれの舞曲のrhythmをとっている。

だから小節毎に、本当にめまぐるしく演奏表現を変えていかなければならないのだよ。

 

実際にChopinの子供達にもよく演奏されるMazurka、Op.7 Nr.1.F DurでMazurkaの揺らしを説明しよう。

 

この曲は大きく(とは言っても実にコンパクトに)、A(12小節),A(12小節),B(8小節),A(12小節),C(8小節),A(12小節)と言う実にシンプルな構造で出来ている。

もし、繰り返しをそのまま入れるとしたら、A,A,B,A、B,A,C,A、C,Aとなるが、舞曲の基本的な形式である小rondo形式で書かれている事は、何処から見ても疑問を差し挟む余地がない。

(此処で、あえて「疑問を・・・云々」と書いたのは、私が高校生の時、大学生の時に、使用していた形式論の本には、「Chopinの舞曲は全て複合的な3部形式で作曲されている」 と書かれていた。しかも、40年以上経った今も、まだその楽典の本はしつこく出版されているのだよ。いったい誰が、複合3部形式と言ったのだ?)

 

最初のAの部分の演奏法というか、揺らし方であるが、譜例を見ながら、説明しよう。

譜例:冒頭の1小節目から3小節目まで

この曲は元気よくforteからfortissimo、そして頂点のsforzandoとトリルに至るまで、所謂、accelerandoする。

と言うよりも「揺らし」の用語では「持って行く!」 と言う言い方をする。そして、頂点のsforzando、(トリル)で音楽は突然停止する。

その後3小節目の2拍目から、sostenutoと言うか音符を保持しながら、(ritenutoしながら)diminuendoして、subitoで次の4小節目のscherzandoに入って、テンポアップする。

3小節目の2,3拍目のわづか2拍で前半部のtempoと後半部のscherzandoのtempoのつなぎをする。余程正確にrit.していかないと、scherzandoのtempoに入れない。

 

Chopinはこの前半部のわづか3小節の左手のpartにも色々な配慮をしている。

このpassageの左手のpartを注意してみると、最初の1小節目は3拍子のワルツ風の音型で書かれているが、2小節目、3小節目では、フェミオラのような、2拍子の伴奏になっている。

これは作曲家の常套手段で、3拍子の曲を2拍子で弾かせる事によって、音楽が急き込んだstrettoな感じを表すためである。

 

 

4小節目から12小節目までは、典型的なMazurkaで舞曲らしくscherzandoな楽しいpassageが続く。

全てが短くコンパクトに纏められているChopinのMazurkaにしては、導入部がわづか3小節しかないのにもかかわらず、9小節も続くと言うのは、作曲上は曲の構成上バランスを崩しやすいのだが、Chopinらしく結構な安定性を表現している。そのトリックは、4小節目から始まったscherzandoのpassageがわづか3小節で、次のMotiv、7,8小節を挟んで、次のscherzandoの2小節、収めの11小節から繋ぎの12小節とめまぐるしくその構造が変化しているからである。

纏めて見ると4小節目から、scherzando3小節、収め2小節、scherzando2小節、長目と繋ぎの2小節と実にめまぐるしい。これが3小節の導入部に対して、9小節という長いバランスの崩れた構造が、不自然に聞こえないと言う、Chopinの作曲技術上のトリックである。

前の項で述べたように、12小節目はAの前半部の終わりと、後半のA部へのつなぎのpassageである。

音楽は事実上、2拍目で終わる。当然3小節目と同じように、2拍目で停止して、sostenutoで丁寧にゆっくりと次のAに向かっていく。

私は2拍目の左手を短く切らせて、右手のB♭の音を単独で残すように演奏させる。

13小節目に入ると同時にAのテンポで弾き始めなければならない。

 

Bのpassageであるが、この部分はゆったりとした、優美なワルツ風のpassageである。

鋭いMazurkaのrhythmは影を潜めて、優雅に演奏されなければならない。

28小節目の3連音は、拍の中に入れるというよりも、3連音1個1個の音を丁寧にsostenuto気味に弾かなければならない。


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