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それで、音符の長さが、均等になって、安定したら、2拍目のskipを入れて、同じようになるか、を練習します。



これで、4分音符の長さが、一定になったら、合格です。







themaAのb(3小節目から12小節目迄です。)は、典型的な古典派のピヨピヨ奏法です。

「ピ」はえぐり込むようなイメージで演奏する事!絶対に、accentやclipが付かないように気を付けましょう。
accentは付けないのだけど、accentvibratoで演奏します。
古典派の音楽にはaccentvibratoは必須な技術なので、下のような予備練習をして、accentvibratoが出来るように練習しましよう。


「ヨ」は、↑で示しているように、「抜きbow」です。手首を柔軟にして「抜き」のimageを出します。
腰を感じてえぐりと抜きの素早いchangeを練習してください。
Cembaloやorgelのような、強弱が出来ない楽器では、この「ピヨピヨ奏法」のimageを出すために、accentvibratoの代わりに素早い短いtrill.を使用して表しました。

弦楽orchestraの場合でも、技術的にaccentvibratoが出来ない場合には、このaccentvibratoの代わりのtrillを使用して演奏します。
accentvibratoは秋の発表会の本番までには出来るようになるために、目下猛練習中です・・???・・・かな???
気が向いたら練習します。・・・かな??



violaとcello&Kontrabassは、5度のdroneを、古典的な素朴な民族音楽的な感じ(image)を出すために、senza vibratoで演奏します。
2ndは1stのmelodieの対旋律です。自然なimageで、強弱のコントラストを活かしながら、melodieをよく歌う必要があります。勿論、vibratoは、有りですが、ロマン派のvibratoにならないように、最新の注意が必要です。
次の6小節も全く同じ繰り返しです。



下のpassageは、27小節目からのorchestraの動きです。
28小節目からの、1st violinの動きですが、普通に演奏すると、不思議な事に、古典派の響きにはなりません。
2ndのsyncopationと同様に、音符の頭に軽いaccentをつけて、後の音を余韻のように演奏すると、典型的な古典派のmelodieが浮かび上がります。
何気ない動きなのですが、こういったpassageに対しての、細やかな古典派の奏法としての配慮が、本当の本物と、imitationの分かれ目になるのです。
気にしなければ、何気なく聞き漏らしてしまう所なのですが、・・・・。
くわばら、くわばら・・・!!!



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                        T楽章について

通常、Pageの構成は、T楽章から始めるのが、普通なのですが、このPageのconceptは、あくまで、教室でのオケ練習の時の、生徒達への諸注意を、確認の意味で、まとめているので、今現在のオケ練習の解説をまとめているので、V楽章からPageが始まっているのは、そういった理由によります。

教室で、Dittersdorfのviolinconcertoを勉強した事のある生徒達といえば、すぐにはチョッと思い出せないぐらい人数になります。
一応、教室の常設曲なので・・・・・。

そのたくさんの生徒達の中でも、特に印象的な演奏は、昔々の1991年の7月の発表会で、5歳の女の子が弾いていました。
多分、Dittersdorfのconcertoでは、教室では、最年少の演奏なのかな??

βやVHSの時代の、Es war einmal(昔々)のお話なので、映像は酷いのですが、一応、可愛くって、面白かったので、参考までにYou Tubeにupしておきました。

流石に、10分の1ぐらいの楽器のサイズになると、お姉さん達の大きな楽器で伴奏するのは音量的に難しいので、オケを最小人数の、1stviolin・・2名,2ndviolin・・2名、cello2名、Kontrabass1名の編成にしてあります。
これより少ない人数では、室内楽になってしまうからです。
(音の質が変わってしまいますので・・)
レアーな映像です。
知夏ちゃんの演奏よりも、古いビデオはもう、βの時代になるので、再生出来たとしても、とてもYou Tubeにupしたり、今のテレビでの再生には耐えられません。
解像度が極端に低いので、お化けのようにボケてしまうのですよ・・・!
βでこれだけの解像度が残っていたのは奇跡という他はありません。

You Tubeへのlink

Dittersdorf violinconcerto G T楽章 1991年7月14日千葉県浦安市文会館大ホール 小宮山知夏(5歳)
上手な演奏といえば、年齢を上げればもっと上手な演奏のビデオは幾らでもありますが、この年齢ということを加味すると、この演奏は秀逸でありましょうかね??
半年後の冬の発表会には、V楽章にも挑戦しています。
Dittersdorf violinconcerto G V楽章 1992年2月16日千葉県浦安市文化会館小ホール 小宮山知夏(6歳)
6歳になったばかり・・という事ですが、それでも、それなりに驚異的な年齢です。

参考までにですが、教室のrepertoryとしては、DittersdorfのviolinconcertoはC Durの曲もあります。
これも参考までに、upしておきます。
Dittersdorf violinconcerto C T楽章 1994年2月13日千葉県浦安市文化会館小ホール 武藤朋弥(4年生)

今回の発表会での演奏です。
2014年10月12日の千葉市文化センターアートホールの秋の発表会での演奏風景です。
U楽章soloは太田千夏(中2)V楽章soloは佐山凛(中1)です。


私のmethodeでは、このDittersdorfのconcerto Gは、技術的に、MozartのV番のconcerto Gより、難しい曲に位置しています。
古典派の作曲家達の奏法を理解し、演奏するためには、このDittersdorfのconcertoは、Mozartの4番、5番よりも難しいのです。
という事で、この曲を5歳で演奏出来る事は、それ自体凄いことです。


早期に音楽を勉強することの勘違い
しかし、一般の人達は勿論ですが、それ以上に、多くの指導者や音楽を学ぶ人達が勘違いをしているのは、早期に難しい曲を勉強したとしても、それが音楽の技術習得に関して、有利に働くわけではない・・・という事なのです。

音楽で曲を演奏するということは、算数のようなドリルの課題をこなす・・という意味ではないのです。

一般の人達や、音楽大学の学生達の非常に多くの人達が、勘違いをしていることは、1回、習った曲は、もうそれで、音楽の勉強がクリヤー出来て、その曲の勉強は終わった・・・と思い込んでしまう事です。

それが、日本人の音楽家達の、初歩の教材を軽んじる傾向・・・、曰く、「弾ければ、それ以上勉強する必要はないでしょう。」という日本人特有の奢りや不誠実さの考え方をもたらしてしまいます。
BeyerやBurgmullerやDiabelliの教材を馬鹿にして、その曲の意図をちっとも推し量ろうとしないという日本人の上から目線のstyleを作り出しています。


私達の教室では、課題曲は何度も何度も、feedbackして、練習をし直します。
そのfeedbackのconceptを、象徴した曲がPachelbelのcanonです。
Pachelbelのcanonは、それこそ、教室のthema曲として、violinを習い始めたばかりの、簡易versionから、始まって、何十回、否、何百回と練習し、発表会等で演奏をし、研鑽します。
その1曲だけでも、人の前で自信を持って演奏出来るようになれば、その曲の水準が、その生徒の水準となって、他の曲のlevelも引き上げてくれます。
たった1曲だけでも、その曲の技術が上がれば、先生達もその曲を指導する、指導内容の水準を上げて行くことが出来ます。
指導内容を上げれば、生徒はその曲を、飽きないで勉強を続ける事が出来るし、曲を磨き上げて行く、という意味が理解出来ます。その1曲だけでも、世界のproと同じ水準(level)で演奏出来れば、proのlevelが分かってきます。

という事で、同じ曲を何度も練習し直していく・・という事は、教室のとても大切なmethodeなのです。

それが同じ、Dittersdorfのconcertoであったとしても、
初級の5歳という年齢のDittersdorfの指導
中級の小学高学年から中学生くらいの年齢でのDittersdorfの指導
上級の中学の上級から高校生の、或いは音大生の上級としてのDittersdorfの指導と、その課題の曲は、同じであったとしても、lectureする内容は、全く変わってこなければなりません。

5歳の生徒の演奏と、小学5年生の演奏と、中学生の演奏が同じ水準の演奏である分けはないのです。

それ相応に課題が難しくなるのですよ。
という事で、今回の中学生の生徒達の演奏によるU、V楽章は、当然、世界的にも希な、古典派の奏法(Technik)による演奏です。
古典派の奏法というものに対しては、私は40年、50年近く前から研究をしてきました。
しかし、そういった研究はproの演奏家にとっても、非常に難しい課題であって、世界的にも、そういった研究機関の団体のorchestraやensembleが演奏する特殊な分野と理解されています。
私も、当初はそのように考えていて、現在古典派やbaroqueの演奏と思われている演奏styleをそのままに指導してきました。
しかし、CembaloやPianoの演奏でも見られるように、私が音楽大学時代にstandardであったbaroqueというものは、今少しづつではありますが、正しいstyleに直されてきています。先ず、Cembaloが Neupertのような機械アクションから、baroque、古典の時代の自然actionの楽器に変わってきていますし、Pianoも未だまだ、極めて少数派ではありますが、forte-pianoの楽器を所有する人達も増えてきました。
流石に、baroqueviolinやbaroquecelloは、未だ極めて少数派ですが、少しづつ本当の本物を求める人達も増えてきています。

という事で、八千代の対外出演を契機に、私達の教室でも、baroqueの奏法や古典派の弦楽器の奏法を大大的に取り入れて演奏するようにしました。
proが演奏出来ない技術をamateurの、しかも子供達に・・・という、思いはあったのですが、実際に指導してみると、耳が未だ毒されていないだけ、古典派の美しい音に対しても、自然に入るようで、「proが出来ないものを・・」という怖れは、杞憂であったようです。
寧ろ、子供達だから、自然に何も問題なく、古典派の奏法がmaster出来たのかもしれません。

こんにちの一般的なproのorchestraにはない、古式豊かな明るく輝くような古典派の時代の独特の響きが醸し出されれば幸いです。


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指導者のNiveauと教材研究

ある時に、子供を指導している先生が、「生徒が発表会の曲を完璧に演奏出来るようになったので、今から発表会の曲を変えていいですか?」と申し出がありました。
その生徒のlessonを見学させて貰うと、確かに、子供はノンミスで演奏が出来ていました。
しかし、それはミスなく弾けた・・ということに過ぎないのですよ。

勿論、子供には、演奏上(練習して行く上で)のcapacityがあります。
子供のcapacityを無視して、指導内容を難しくしていけば、子供は音楽を嫌いになってしまうでしょう。
発表会を期にやめる生徒の大半が練習がつまらなかった、・・とか、lessonが難しかった・・面白くなかった・・・という理由です。

子供がノンミスで演奏出来るようになれば、余程しっかりとlessonをしないと、そのままなら、緩慢な退行現象を起こしてしい、発表会での思わぬミスにつながってしまうでしょう。
それを危惧した先生からの申し出でした。

しかし、生徒を育てる・・という事は、常に、もう一歩を目指す事です。
私は、「私のlessonは、完璧に演奏出来るようになってから・・・、が私のlessonの始まりなのだけどね??」「あなたの教材研究が足りないという事を暴露しているのじゃないですか??」といって、音楽の情緒表現や、体を使って音を出すstepの第一歩であるモーションの指導の仕方、等々を色々と先生に指導して、一言、「発表会迄に、今言った具体的な指導内容について、全て指導する事が出来ますか??」と、質問しました。答えは勿論、「とても無理です。間に合いません。」という答えでしたよ。
完璧に演奏出来ていたとしても、それは子供のlevelに過ぎないのです。
本当の意味での完璧とは、程遠いものなのです。
私のlessonの第一歩は、うる覚えを無くす事です。
一般には、うる覚えとは覚えていない状態の事を言いますが、うる覚えには完璧に演奏出来ていたとしても、指で演奏していたり、音で覚えていたり、勢いの惰性で演奏したりすることも、うる覚えの状態なのです。
それをベーム先生のように、「Ich erinnere mich ganz genau・・・・」と言えるように覚え直す必要があります。
この覚え方も、性格です。そういった覚え方が身に付くと、それがその人のstandardになるのです。
しかし、曖昧さをのこしたまま、「それでいいんじゃない??」と、lessonしてしまうのは、先生の生徒への不誠実さの表れなのですよ。
それ等の事をちゃんと指導しようとすると、生徒がlessonで、過度のpressureを受けるのではないか?という危惧は全く正しいのですよ。それをstraightにlessonするのなら、そりゃ、良薬は口に苦し・・・で、音楽大学の先生達に師事している子供達でない限り、そういったlessonに耐え得る分けはありません。
そこに私達のmethodeが存在するのです。
普通のlessonを普通にしているように、見えて、実は、子供達が良薬が美味しいお菓子のように錯覚する技術があるのですよ。
それをちゃんと、pointを絞り込んで見ないと分からない。
自分が言った言葉と先生の言った言葉の微妙な違いが見えるようになったら、芦塚メトードのなんたるかが見えてきます。

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体を揺らすという事について
音楽は常に、美しい音と、美しい演奏のstyleを追求して演奏して行かなければなりません。
音楽も商売ともなると、performanceも必要となってくるからです。

しかし、performanceについては、これも多くの日本人が勘違いをしています。
某国立音楽大学のviolinの教授は、生徒が体を揺らす事を極端に忌み嫌って、Bachのような音楽だけではなく、ロマン派の作曲家であるSibeliusの作品等を演奏するときにでも、体を微動だに動かさない事を生徒に要求したそうです。
いったい、どういう音楽が出来あがったのでしょうかね???

しかし、その先生の気持ちは、私には何となく、分かりそうな気がします。
日本人の音大生やproの演奏家が演奏する時に、(特にPianoの演奏家の場合ですが・・・)体を前後左右にくるくると回転させながら演奏する人達をよく見かけます。
自分の音楽に陶酔しているのか、見ている私達も酔ってしまいそうな(この場合には、音楽に酔うのではなく、船酔い・・・という意味ですが)演奏です。
そういった自己陶酔型の体の動かしを見ていると、確かに硬直して演奏した方がましと思えてしまいます。

弓を楽器に乗せるにしても、Pianoで音を出すにしても、指先だけで演奏しても、本当の美しい音は出てきません。
体全体で、その音を出そうとしないと、ちゃんとした音が楽器から出る分けはないのです。
ちゃんとした音を出すための、体の正しい動き・・・・それは、同時にperformanceとしても美しいのです。
しかも、不自然ではない。
なぜならば、体の動きを見ているだけで、その音が見えるからです。
本当に正しい演奏は、そのperformanceも美しいのです。
参考までに:揺らしのお話
八千代での演奏をYou Tubeで見た人の質問に対しての、お返事としてのお話です。
八千代の対外出演の風景Corelli=Geminianiのla folia

正しい美しい音が出せるからperformanceが美しく出来るのか?
正しく美しい音を出すために、正しいperformanceを追求するのか??
それは、卵が先か、鶏が先かのお話で、どうでも良いことです。

心を正す事を、指導する事は難しい。
心とは、形のないものです。
それを正しく指導するということは、至難の業でしょうかね??

しかし、それを型に置き換えると、「心を正す事」は大変な事ではありません。
それが日本古来の考え方であり、そのmethodeが、「座禅」であり、「お花」や「お茶」の考え方なのです。
剣道等も、本来的には、スポーツではなく、武術であって、「型より入って、型より出る」のですよ。
「型に入るは易く、型より出るは難し」なのです。


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古典派の奏法について
上記の知夏ちゃんがDittersdorfのviolinconcertoを演奏していた頃の1990年代の時代は、まだ私は教室のorchestraには、古典派の弦楽器特有の奏法の指導はしていませんでした。

勿論、古典派の奏法の指導・・・という事のみに限定するならば、教室を開設するずっと以前の、私が未だドイツから日本に帰国したばかりの頃で、大学の講師をしていた(1973年辺りからの)時代に、教えていた小学生の子供に、Mozarttouchとして、leggiero奏法を指導していました。
古典派の奏法を、生徒達に指導するという事は、私が子供達を指導する上での当初のconceptであったので、私の主義主張なので、マンツーマン的な個人lessonでは、当然、「古典派の奏法の勉強」は、させていたのですが、教室のorchestraとしての、総合的な奏法としては、採用はしていませんでした。

それから、遠く遠く時代を経過した、40年を経た今現在でも、「古典派の奏法」といったら、「そりゃなんじゃ??」という反応が返ってくるのがオチなのですからね。

それ以前の問題として、日本人の音に対する感覚は、「美しい柔らかな音は弱い音である」という、勘違い・・というか、錯覚があるので、日本の音楽社会の中で、Mozarttouch、所謂、leggierotouchを指導する事は難しいのです。

特に、音楽大学を目指すような生徒の場合には、鍵盤の底を打ち抜くような、無駄な力づくのtouchでないと大学では認められないからね。

音楽大学のPianoの世界では、Pianoのハンマーを折ったとか、鍵盤を折ったとかが、練習を重ねて、指先の力が強くなった、アスリートの勲章のように思っているのですから、forte-piano特有のleggierotouch、Mozarttouchなんていうtouchは、もうこれはPianoの音ではないのですよ。
別世界の話であって、自分達の住んでいる世界に存在する音ではないのですからね。

だから、Mozarttouchで、幾ら美しい音を演奏したとしても、「そのか細い音は何??!!」なんて事を言われかねないのでね。

だからforte-pianoのtouchを指導する事は、音楽大学には行かないという前提で勉強しなければならない・・という程の、それぐらい一般的には知られていない、難しい技術であるという事でもあるのです。

斉藤先生や牧野先生達に、生徒への基本的な指導を任せられるようになって(生徒達をコンクールの全国大会で入賞させる事の出来る指導技術にまでなって・・・(本当に、コンクールの主催者から優秀指導者賞という、ビックリの賞を貰っています。花園教室に飾ってあるよ!)、また、八千代という対外出演という条件で、公開の演奏という意識ならば、orchestraの練習も、古典派の奏法の勉強も有りか??という事で、あくまで対外出演をする子供達だけ・・・、という条件ですが、)私のorchestraの指導も、随分楽になったので、生徒達にbaroqueの奏法や、古典派の奏法の指導をする事にしました。
今の世界中のproのorchestraでも、古典派の奏法をしながら演奏している団体は皆無なので、子供達の演奏ではありますが、非常に高度な水準の演奏になっています。
参考までに: Hoffmeister violaconcerto T楽章  violaのconcertosoloは、未だ、古典派の奏法にはなっていないけれど、orchestraの音色は中々のものです。3,3、2、2、2名づつの12名編成の中学生の弦と、キーボードによる管楽器の14名編成の古典派orchestraです。
orchestraの並び方は、こんにちの並び方とは違いますが、Haydn並びといい、baroque時代から、近代20世紀の初頭迄のorchestraのorthodox(典型的)な並び方です。

こういった話も、40年後、50年後に、やっとstandardになって、追いついて来るお話でしょうけれどね。

教室でも、「生徒達にforte-pianoのtouchを指導したいなぁ〜」、という事で、forte-pianoを探していたのですが、教室で使用しているCembaloのような「復刻したforte-pianoを、ほしいのだが・・??」と、古典楽器センターの佐藤さんにお願いしたら、「forte-pianoが一般に作られるようになるのには、後、20年は掛かるのかな。」と言っていたので、教室に入るのも、それぐらい後になるようです。
本当の意味でのforte-pianoの奏者が育つのはそれ以降、30年ぐらいは待たなければならないのかな???

参考までに:芦塚先生個人所有のバロック・ヴァイオリン
baroquebowの説明を少し追加しておきました。


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