教室は、ただの音楽教室にしか過ぎないので、パソコンのlessonやfinaleの授業をcurriculumとして、お金をとってやっている分けではありません。
オーケストラ・室内楽の練習の中の一つとして、楽典の授業の補助として、希望者にやっているに過ぎません。
ですから、ノートパソコンも、先生達の私物です。
幾ら、それが必要性に迫られていると言っても、それを身近に感じている音大生や音楽家達はいないと思います。
音楽の世界は結構、未だにアナログの世界なので、メールさえ打てない音楽家が多いのですよ。
「そんなメールを打つ暇があったら、チャンと練習しないと!!」と、ひたすら練習に明け暮れた人達の集まりなのですからね。
「音符なんて、書くのは手書きで充分よ!」と怒られてしまいます。
でも、実際に私自身が、生徒達に音符の手書きの仕方や浄書の仕方をしなくなった、と言う事は、生徒に音符の書き方を「指導しなくなった」・・・という事よりも、私自身が、作曲をする時にも、子供の時代から、普通にやって来た、五線紙に音符を書く、という事自体を、この10年、・・・20年の間で、全くしなくなってしまったからです。
今は私が作曲をする時にでも、・・・或いは、生徒達に直接や、或いは論文等で五線紙上で、音符のなにがしかを説明する時でも、パソコン上でfinaleに直接入力して、print
outする事が普通になってしまって、五線紙に音符を書く・・という事は、全く、しなくなったからです。
私自身が出版社に楽譜を届けるときに、昔のように、楽譜をカバンに詰めて、持って行くのではなく、finaleで入力した楽譜をフロッピー(そうそう、フロッピー!!!!・・・そういったメディアもありましたよね!!)で持って行くようになって来たからなのです。
超、保守的な音楽大学のcurriculumの中にも、ついに「finaleの授業」が取り入れられるようになって来たのでね。
根性論的には、今でも、音楽を勉強する上での常識を指導するために、アナログ的な楽譜の書き方の必要性は重々に感じています。
だから自分の生徒達だけには、昔のように、必ず音符の書き方、譜面の書き方を指導したいのですが、先代の生徒達や先々代の生徒達と今の生徒達は根本的に性格が違っていて、お稽古事風に、lessonの時だけ、教室に遅れないように駆け付けて来て、lessonが終わると、先生よりも先に教室を出て、サッサと帰ってしまう、(昔の生徒達はレッスンの最後の生徒は、教室の後片付けを手伝って、先生と一緒に教室を出て一緒に帰ったものです。昔はウエットで良かったな〜ぁ!?)サラリーマン的な生徒だけなので、こういった社会常識的な音楽の基本の勉強は、楽典や通常のlessonの中にも入り切らないので、そういった音楽教室としてのcurriculumや、音楽大学のlectureの中で、基本中の基本の勉強を指導する事は無理なのですよね。
[余談だけれど・・・]
Piano専科の生徒に、あまりにも教室のPianoが汚れているので、「ピアノを拭いて」と言ったら、「どうピアノを拭いたら良いですか?」と質問が返って来た。
「ひょっとして、君の家のピアノを一度も拭いた事がないの?」と質問したら、「一度もありません。」と答えが返って来た。
早速、「担当のピアノの先生にお説教を・・」と、思ってその話をしたら、「生徒が学校から走って教室に駆け付けて来て、レッスンが終わったら、塾に間に合わないと、走って塾に行くので、ゆっくりとピアノの拭き方やメンテナンスの指導する時間がないので・・・!」という答えだった。
ヴァイオリンやチェロの楽器の場合には、自分の楽器なので、汚れていたら、即、お説教になって、その場で、メンテナンスの指導をするのだが、ピアノの場合には、教室の楽器だし、家のピアノの状態は分からないので、やはり普段の躾が大切なのだよ。
しかし、ヴァイオリンをしまう時に、キチンと磨いてしまうのは、何と私達の教室だけだったみたいで、他の教室から来た生徒達は、楽器を彈きっぱなしでそのまましまうのだよ。
そんな事をしたら、楽器が痛むし、弦も切れてしまうのだけどね。
先生が楽器の拭き方やメンテナンスの仕方を教えないのだよね。
私のレッスンでは、レッスンの最後に来る生徒は、千葉の教室ででも、東京の教室でも、Pianoを磨いたり、閉まったりという事を、私と一緒にするのが、常識だった。
しかし、長期間、病気療養のために、指導の現場から離れていて、再び生徒の指導に戻った時には、その習慣はすっかりなくなって、レッスンが終わって生徒が帰った後で、先生がシコシコ後片付けをするようになっていたのだな。
また、下手にPianoを磨かせたり、教室の後片付けをさせるものなら、先生のお手伝いをさせられてしまった、という事になり兼ねない。
そこには、本当の音楽を学ばせるという先生の側の、意識の問題もある。
通常は、最後の生徒は、一番上級の生徒、所謂、その先生の一番弟子のハズである。
一番遅い時間に来る生徒だからだ。
その生徒・・・、つまり一番弟子が、教室の後片付けは元より、自分が弾いたPianoを磨く事すらしないという事なら、弟子としての躾を指導しない、つまり、タダの巷の音楽教室の生徒の指導と同じなのだよ。
お稽古事としての音楽の勉強と、professionalとしての音楽の勉強は基本的に異なる。
音楽を愛する心は、楽器を大切にする心でもあるのだし、師匠の事を尊敬出来ないで音楽を学ぶ事は出来ないはずである。
音楽は技術ではなく、芸術なのだからである。
音楽を学んでいるのに、「音符を書く事を必要としない、・・・ただ間違わないで演奏が出来れば良い」、と考えるのか、音符を正しく書けないで何の音楽家かと考えるのか・・・・
それが、職業としての音楽の勉強と、音楽大学での、女子学生達の教養としての音楽や結婚の為のステータスとしての勉強か?という事の落差なのだよね。
音楽家を目指すのなら、そういった意識を学ばなければならない。
しかし、そういった勉強は、学校のcurriculumの限られた時間の中で、一つの単元として、勉強する事は不可能だ。
音楽に対する意識を学ぶ事は、師匠の背中を見て、つまり、所謂、徒弟制の中でしか勉強出来ない事である。
音楽も所詮は職人の世界なのだからである。
音楽大学のcurriculumの中に入らない、細かい知っておかなければ、プロとして生活が出来ない事柄が大過ぎます。
音楽大学で学べる事は、プロとしての音楽の中のホンの一分でしかありません。
でも、音大生は「習っていないのだから、出来なくて当たり前」と、嘯いています。
でも、実際には、プロとして仕事をしている人達、プロとして活動している人達は、当然そういった事は、皆、出来ます。
「何故、出来るの??」って???
だって、出来て当たり前の世界なのだからですよ。
でも、音楽大学では、そんな事は教えてくれない。
そりゃあ、当たり前でしょう???音楽大学はプロを育てる所ではないのだから・・・!
それでは、そういった音楽のプロの人達は、一体、何処で、そういった基本を学んだのでしょうかね??
「出来ない!」、「分からない!」では、プロの世界ではやって行けませんので、当然、現場で恥をかきながら、覚えて行かなければならないのですが、困った事にプロの世界では、仕事は出来る人にしか、回って来ません。
現場で恥をかきながら学べる世界ではないのですよ。
プロの世界は・・・・・!!
つまり、普通の人達が普通に学べる事はないのですよ。
そこで、鶏が先か、卵が先か・・・の話になってしまうのですよ。
そういう基本をキチンと勉強したから、プロになれた。プロになれたから、そういう基本を勉強出来た!!
それじゃあ、仕方がないのでね。
という事でピアノやヴァイオリンの演奏を指導する以上に、職業としての一般の常識を子供達に早期に指導するのが、音楽教室を作った大前提の中の一つになります。
職業としての勉強は、師匠のやる事を目で見て覚えていきます。
そう言った勉強の事を、口伝による勉強と言っても良いけれど、実際には口で説明する先生は、殆ど居ないと思いますよ。
何故ならば、料理教室でもお話しているように、「お砂糖を*g、お出汁を+cc」 等と言っても、その味には、絶対に伝わらないからです。
本当は料理教室では、グラムで覚えるのではなく、舌で味を覚えなければならないからですよ。
ヴァイオリンの伴奏を伴奏する先生にlectureする時に、その先生が、私が言っている「auftakt(弱起)の音符の長さ・・・、(本当はタメと言うのですがね。)が、毎回違う!」 「それでは、練習出来ない!」と真っ赤になって、怒りまくっていました。
・・・で、その場で聴講していた、私の中学生の生徒に、「俺の言っている事、毎回、違うかい??」と質問したら、「いや、同じですよ。言っている事、良く分かるけれど・・??」
「何で、(その伴奏の先生が・・・)分からないのか、それが分からない??」・・・・と、不思議そうな顔をしていました。
しかし、実は、私には、その先生が「分からない!」と言っている、その理由が良く分かります。
つまり、先程の、料理教室のように、さじ加減を「グラムで言って!」と言っているのですよ。
その先生は、「そのauftaktの8分音符の長さを決めて・・!」と、言っているのですが、残念ながら、auftaktの長さは決められるものでは、ないのですよ。
auftaktの音の強さが変わると、もう長さも変わってしまう。
つまり、これは、垂直跳びのジャンプと同じなのですよ。
より高く飛ぼうとすると、より深く沈まなければなりません。
そうすると、当然、auftaktの8分音符の長さも、長くなります。
これを音楽では「タメ」と言います。
例えば、エルガーの「愛の挨拶」では、auftaktから次の音迄の「タメ」の音が、一番遠い時は、melodieの中では6度です。
近い方では、その次は4度で、お隣の2度の場合もあります。
当然、一番遠い時には、タメが一番、深く、長くなり、跳ぶ音が近くなるに従って、浅く、あっさりと弾くようになります。
[揺らしの話]参照
当たり前のお話で、これがauftaktの基本であり、セオリーなのですが、日本の音楽社会の場合には、相変わらずauftaktの長さを、「料理教室のさじ加減のグラムとして」教えているのです。
「それは8分音符でしょう!」「何でそんなに長く伸ばすの??!!」 怒りまくっているのが、目に見えるようです。
私も昔々、音楽大学時代に、よく言われたものですからね。「それは16分音符でしょう!!」「もっと正確にrhythmを取って・・・!!」
運良く、auftaktを「タメ」で教えてくれる先生に巡り逢えたとしても、それをtheoryとしてではなく、口伝として、先生が教え込んで経験値として、指導します。
だから、折角、「タメ」を教えて貰っても、生徒は1種類の「タメ」しか出来なくなってしまうのですよ。
その方が、教える方も、習う方も楽なのですが、しかし、それでは生きた伴奏は出来ないよね。
その先生は、「決めてくれないと分からない。」と言っているのですが、それは一人で、何時も全く同じ演奏をするという、条件があった上でのお話ですよね。
相手がいて、どう演奏して来るかで、次のpassageの受け方が、自動的に決まるので、始めから決めてしまっては、演奏出来る事はないと思うのですがね。
日本人の場合には、最初から、そういった自由な習い方をしていないのですよ。
セオリーとして習えば、相手がこう弾いてくれば、こう伴奏する、とか、その都度相手に反応して演奏出来る筈なのですがね。
それがセオリーとしての学び方なのですが、日本人の音楽家の場合には、そういった習い方で、(セオリーとして)音楽を習う事はないのでね。
でも、出来る限りの時間を使って、教室の与えられたcurriculumの中で、出来る限りの音楽の常識は、説明、指導して行くようには心掛けています。
という事で、楽譜の書き方の基礎は、今でもチャンと指導しています。
音符を書く上での最低必要な基本的な常識の書き方や、写譜ペンの使い方等、出来る限り、子供達へ楽典の授業の中や、オケ室内楽の練習の中で指導しています。
音符を書くには、慣れもあります。
私の場合は、文字が大変汚い金釘流の文字なので、失礼を承知で、早い時期から、手紙もmailに移行しました。手紙派の友人達から、パソコンや携帯の文字は心が篭っていない!と文句を言われながらも、、自分の下手な字よりもマシだろうと、自問しています。
それに対して、音符は結構綺麗なのですよ。